都は日中、うだるような暑さに蹂躙される。堯毅は暑さと陽光を避けるべく、夕暮れ時に車を出すことにした。行先は佐伯連之の屋敷である。
佐伯連之の心情を鑑み、佐伯伊之が連之の実子でなかったことは公表されなかった。伊之はあくまで連之の実子として葬儀が行われ、事件は解決をみたものの連之の被った精神的な痛みは大きく、以来寝付いて出仕できずにいた。訪った屋敷は静まり返っており、女房達も主の胸の裡を思ってか、うち沈んだ気配を漂わせている。
「連之殿。私をお怨みでしょうね」
堯毅がそう切り出すと、畳にのべた床の上で連之がようやっと起き上がった。
「何をおっしゃられます! ご慧眼をもって、我が子とばかり思っていた伊之のこと、和田とのこと、文のこと。全てが明らかになったのです。宮さまをお怨みする何がありましょう」
「だとして、伊之殿への親としての想いがなくなるわけではありますまい」
柔らかく、しかし確信をこめて言った堯毅が、連之の背に手をかけ横になるよう促す。軽い咳をして従った連之は、堯毅の顔を見上げた。
友とばかり思っていた男の罪を暴いた親王は、沈痛な、どこか申し訳なさげな表情を浮かべている。

我が子とばかり思っていた子は、我が子を殺した仇の子だった。
素行の悪さに常に悩まされ続け、あれもこれもと求められては工面に苦労を重ねてきた。
それでも。

「……お笑いくだされ。あのような愚かな子でも、我が子でありました」
「人の情とはそういうもの。何を笑うことができましょう」
それを弱さと言い捨てることは簡単だが、家族として接した日々が消えてなくなるわけでも、気持ちがすぐに切り替えられるわけでもない。
労わるように震える連之の背をさすっていた堯毅の傍らに、清心尼が薬湯を入れた椀を持ってやってきた。深々と手をついて平伏する。
「お心を砕いていただき恐懼に堪えませぬ」
「まことに」
我が子を亡くし支えを失ったかに見えた二人だったが、今は互いが互いを支えているようだ。それだけで堯毅にとっては、大いに心安らぐ事実だった。
「連之殿、ご無理をなさらずまずはご養生ください。先日と同じ薬湯をお出しします」
「何から何までありがとうございます、尹宮さま」
連之と清心尼の感謝の言葉を合図に簀子から女房頭の菱野と周防が進み出てきたが、薬材をおさめた長櫃を携えている人物を見て、戸惑った顔をした。それと察した堯毅がああ、と微笑む。
「今日は九条千央は別用を申しつけているので。この者が必要な薬剤を整えてお渡ししますからご安心ください。さあ、宗」
促され、新入りらしい小柄な小坊主が板の間に両手と頭をついた。痩せた頬は痛々しさを感じさせる。周防は千央がいないことを残念そうだったが、菱野は一目で宗に情が湧いたらしく、袖口で口元を覆った。
「まあ、このように幼い身の上で出家とは……さぞかし苦労をされたのでしょうね」
小坊主が何も答えないために首を傾げた菱野に、堯毅が目を伏せる。
「何か辛いことがあったのか、口が利けぬようで。せめてわずかな間でも心穏やかに過ごせるよう引き取ったのですよ」
「なんということでしょう……」
菱野は涙ぐみ、千央の不在で不満げだった周防もさすがに同情的な眼差しになった。身を起こした宗が長櫃を開けて、書き付けに従い薬剤を取り出す。
必要な処方を終え、まもなく堯毅は佐伯の屋敷を後にした。

 堯毅の檳榔毛車が佐伯の屋敷を離れ、大きな通りに出たとわかると、車内で小坊主はあからさまに嘆息した。
「『辛いことがあったのか』ね……」
「あったでしょう、正。いえ、もう宗でしたね」
灯りをともして薬材の在庫を調べ、楽しそうに帳面につけながら応える堯毅を横目で見る。
「おれを殺すって約束だったのに」
一時は危ぶまれた宗の命だったが、堯毅の手腕により、なんとか取り留めることができていた。証言を終えたら予定通り殺されるか、良くて牢行きだと思っていたのに、ご丁寧に毒が抜け、傷が治るまで面倒を見られたかと思うと、髪を剃られて流れるように裳付衣(もつけころも)に白い袴を着せられ、気が付けば新米小坊主の出来上がりである。
検非違使庁の喚問で倒れた時には、まだ息があることを知りながら堯毅が死を告げたため、それを知らない公鷹の悲嘆たるや相当なものだった。自身の屋敷に着いて生きていると明かされたら、今度は嬉し泣きというとんでもない騒ぎだ。
「なにかおかしいですか? お望みどおり、白露荘園は矢田部村の生き残りである『正』はこの世から消えました。私の身の回りを受け持つ小坊主が増えただけです。それに和田清重を必ず流罪にするとは言いましたが、あなたを殺す約束はしていませんね」

ちなみに和田の喚問の翌日に堯毅のいる施薬院を訪った権大納言は、婿を殺され面子を潰された損害と、婿の碌でもない所業が明らかになる前に避けられた幸運を天秤にかけ、随分と考えたようだ。しかし堯毅が「佐伯伊之を殺した雑色は、和田が盛った附子の毒が抜けず死んだ」と告げると、それ以上追及しなかった。

 和田清重は都を騒がせた群盗の頭としての罪、木下為末・岡元真井と共謀しての白露荘園内における矢田部村放火と村民殺害・租の横領、十数年前の佐伯連之の子と乳母の殺害と妻の殺害計画と傷害という数々の罪状を鑑み、佐渡への遠流と決まった。
その護送を検非違使が担うはずだったのだが、都を出てまもなく、権大納言の郎党が現れて後を引き継ぐと伝えてきたという。無論、権大納言の指示とあっては断ることもできず、検非違使は和田清重とその妻子を引き渡したという。
おそらく群盗の中で和田に近い腹心、事情を把握している者のところにも権大納言の郎党が現れていることだろう。
「復讐を望んでいたのなら、彼らの末期を見なくてよかったのですか?」
問われて、宗は考えた。

見たかったかと問われれば、正直思わないでもない。
家族や村の仲間を奪われた報いを受けさせてやりたいと、ずっと思ってきた。
しかし木下為末を殺した時のことを思い返すと、それで気分が晴れる気がしなかった。
彼らの命乞いを、断末魔を聞いたとして――多分何も感じない。ただ死を見て、こんなものかと思って、それで終わるだろう。何の喜びもなく。
彼らに苛まれ、自ら心を閉ざし、そんな人間になってしまったのだ。

「あいつらは、今までの行いに見合った罰を受けるんだろ。ならもう、いいよ」
その答えを聞いて、堯毅が笑みを深める。いつ見ても穏やかな表情を浮かべているが、今回のことにしても和田清重やその腹心、武士団の者たちがどのような末路を辿るか知っていながら、彼はそれを黙認した。
「あんた、『蛍の宮』さまだの慈悲深い宮さまだのって皆に言われてるくせに、案外腹黒じゃないか?」
「こう見えても、陰謀と怨念に満ち狐狸跋扈する御所で、まだ生きているのですからね」
どこか得意げにすら聞こえる応えだったが、一方で陰謀に関わりのなかった和田の妻子をはじめ、武士団の妻子たちは見逃すよう権大納言側に釘をさしたことも宗は知っている。
薬材の帳面を閉じて長櫃に収め、堯毅はすっかり小坊主姿の宗に真顔で話しかけた。
「あなたは己のことをずるくて汚いと言いましたが、それは事の大小はあれど、誰でも同じようなものです。誰もが心弱く、生きることだけで精一杯なのですよ」
「誰でも?」
「ええ。殺されそうになれば怖いのは当たり前です。死にたくないのが普通です。死にたくなければ悪事をしろと言われれば、するのが人情というものでしょう。生きる皆が弱いのです」
宗は唇を噛んだ。

父母や妹を、村のみんなを手にかけた木下為末を殺すことができれば、さぞ――胸がすく、とまではいかないにしても、心の澱は落ちると思っていた。
それなのに。
『有職を殺す』
『有職を殺せ』
そう言った佐伯伊之と木下為末を、本当に咄嗟に殺してしまった。

怖かったのだ。
公鷹を殺したくない。だが自分が殺さなければ、別の誰かが公鷹を手にかけるかもしれない。
そうされたくなくて――殺してやりたい、という想いを、怒りを、恨みをこめた殺害を実行に移すこともできず、焦燥と混乱に浮かされて。
仇をとったという達成感はない。あんな奴らでも、自分の意志で人を殺したという事実に堪えられない。
皆が弱いと言われても、少しも楽な気持ちにはなれない。
水鏡を見ても、公鷹を見ても、心底自分にうんざりする。できることなら、何もかも消し去ってしまいたいと思うほどに。

 口をつぐんで応えない宗を見やり、気を悪くしたふうでもなく、堯毅は己の掌をじっと眺めた。ゆっくりと白い指を握りこみ、微笑んで口を開く。
「私もまた弱いものです。かつて一度は絶望し、何をしても無駄なのだとこの世を見切りました。どこかの道端で、いずれ惨めに朽ちるものだと思っていました。そのくせ、死は恐ろしかった。私には何もないと嘆くばかりで」
「あんた、親王なんだろ? だったら……」
不思議そうな宗の言葉に苦笑を零す。

 他の兄姉たちとは比べられないほどの劣り腹の生まれで、人とは違う色彩と、日々の生活すら困難な病とともに生まれ落ち、不吉だというだけで、五百年前に同じような白髪の帝がいたというだけで執拗に命を狙われて。
日々をただ漫然と過ごしていた。
いつか自分に致命的な刃が落ちてくるまで、ただ息をしているだけ。

あるいは、宗にとっての公鷹のように、公鷹にとっての宗のように、その年で得難いものが得られたらよかったのかもしれない。しかし堯毅にはそんな出会いはなく――溺れるほどに積まれた本が、唐渡りの知識だけが与えられていた。
だから、生きぬくために、それをすべて身につけることにしたのだ。

「私は弱い。例えばあなたがその気になれば、私はたやすく命を奪われるでしょう。誰かが私の椀にまた毒物を入れるだけで、あっけなく息絶えるでしょう」
堯毅の瞳にひと時、どうしようもなく昏い陰がさした。
「人を憎むことも恨むことも怒ることも、人が当然に感じて抱く気持ちです。それが悪いと私は思いません。人を傷つけなければ生きられない場所というものが、この世には確かに存在するのです」
相変わらず穏やかに、僧形の親王は言葉を紡いでいく。
施薬院を訪れる万人に治療を施し、下々の人々に寄り添い、蛍の宮と親しまれているこの親王は、本当にそんなことを思っているのだろうか。宗の知る限り、仏の教えを説く他の僧侶とは言っていることがまるで違う。

――でも。この親王も同じような経験を、絶望を抱いたことがあるのだ。
自分にとってのこの八年のような、のたうち回るばかりの日々を過ごしたことがあるのだ。
でなければ、こんな言葉は出てこない。
そんな宗の考えを裏付けるように、急に白刃のような言葉が突き付けられた。
「だから忘れてはならないのです。そんなあなたや私も、今までに人を傷つけ、時には死に至らしめたということを、死の時まで」
思わず、宗の喉が鳴った。

覚悟をもって手を血に染めたつもりだった。
許して生きることなどできないのだと、思い込もうとしていた。
許すことは、目の前で死んでいった家族や郷人たちに申し開きの余地もない裏切りだと。
だが一方で、自分を追い詰め苦しめた者たちにも家族が、友がいたことを、彼らがその死を悼んでいることもわかっていた――わかっているつもりだった。
それを思うと、人を害したという事実が重く、途轍もなく重くのしかかってくる。

もしかして、という想いが宗に口を開かせた。
「……仏の教えっていうのは、あんたを救ってくれたのか? おれも救ってくれるのか?」
宗のそれこそすがるような問いかけに、堯毅は首を傾げて応えた。
「とんでもない。私自身、まだ救われていませんしね」
それこそとんでもない返答をされて、宗は瞬きした。
「……坊さんの(なり)してんのに?」
「悟ったらそれはもう御仏です。修業が足りないから僧侶なんですよ」
「うそだろ……」
それはそうか、とは思ったが、それを声を大にして言っていいものなのか。がっかりしたやら救いがないやら、複雑な表情になった宗の顔を見て、堯毅が笑う。
「もちろん生きる上での智慧は授けてくれますが、すがったところで誰も救ってくれませんよ。己を救うのは所詮己です。弱いことを恥じるよりも、できることを増やす努力をしたほうがいいと思いませんか?」
「できること?」
「例えば私には医の知識があります。この知識は直接的にも間接的にも、私の命を守る力になるでしょう。例えばあなたには、千央ですら一目おく戦う術、闇に潜む術があります。この上なく直接的な、生きる力になるでしょう」
宗はしばらくの間、ぽかんとして堯毅の言葉を聞いていた。
生きる力。
無理やり身につけさせられた人を殺す術を、そんなふうに考えたことはなかった。
「生きる……?」
「実際にあなたは、公鷹を守ったではありませんか。あなたが努力して、死なずに、泣かずに、苦しまずに済む人が一人でもいれば、それは大きな意味があることではありませんか?」
私は思います。そういう堯毅の声は力強く、揺るぎなかった。
「施薬院の別当となったからには、私は私の医の知識を、一人でも多くの人を救うことに使おうと思いました。望んで就いたわけではありませんが、弾正尹宮となった以上は不条理に挑むことに決めました。もちろん全ての不条理、全ての犠牲を無くすことはできませんが、そんな被害を一人でも、一つでも減らせるのなら、そこには意味があるのです」
だから戦う。

それは誓いだった。
掠め取られる全てを見送らなければならなかった、
そこでただ死ぬことができなかった、
もう二度と敗北しないことを誓った敗残者の。

呆然としている宗を改めて眺めて、己が少し喋りすぎたと悟った堯毅は、袖で口元を隠してふ、と苦笑をこぼした。
「すみませんね。少なくとも私はそう思っているので、あなたにも諦めてほしくないのです」
生きていくうえで、常に苦難はつきまとう。
全ての苦難はいずれ去るといわれても、今、耐えられないほどに苦しいものにとって、そんな言葉が何になろう。その辛さは身をもって知っている。共感できる。
それでも、人は生きるのだ。
戦えなければ時に逃げ、抗えなければ従っても、いずれ乗り越える道を目指して。

 宗は苦しみながら公鷹の家に行った時のことを思い出していた。
あの時、やけつくような喉の感覚や水の中にいるかのような激しい眩暈と吐気に苦しみ、手足に力が入らず、よく覚えていないけれど。この親王がひとつひとつ症状を確認しながら、「同じ、同じ」と呟いていたのは聞いていた。
同じ。この親王は症状を知っていた。毒を盛られたことがあるのだ――あんな、苦しい思いをしたのだ。だから自分を助けてくれた。
『陰謀と怨念に満ち狐狸跋扈する』のは何も御所ばかりではない。この都にいる限り、こんな理想を掲げている限り、この親王は他者から宗は苦しみながら公鷹の家に行った時のことを思い出していた。
あの時、やけつくような喉の感覚や水の中にいるかのような激しい眩暈と吐気に苦しみ、手足に力が入らず、よく覚えていないけれど。この親王がひとつひとつ症状を確認しながら、「同じ、同じ」と呟いていたのは聞いていた。
同じ。つまり、彼は症状を知っていた。毒を盛られたことがあるのだ――あんな、苦しい思いをしたのだ。だから自分を助けてくれた。

『陰謀と怨念に満ち狐狸跋扈する』のは何も御所ばかりではない。この都にいる限り、こんな理想を掲げている限り、この親王は他者から(そね)まれ狙われる。
「……じゃあおれも、おれにできることで借りを返すしかないよな」
「私は私の仕事をしたのですから、借りに思っていただく必要はないのですけど」
「そうはいかねえよ。公鷹と約束したし……他にやりたいこともないし」
その公鷹は、事後処理に追われて多忙を極めている。あの千央とかいう男は気に入らないが、公鷹の期待を裏切りたくないし、悲しませたくもない。
わざわざ自分を助けたのだから、やろうと思ったことぐらいやらせてくれてもいいだろう。
いささか歯切れの悪い物言いの宗を見やり、堯毅は晴れやかに笑った。
「では、共にいきましょうか。ちょっと長い道行きですが」


いずれ人は死ぬ。死んで、ここではないどこかで、この世の行いを糺されるという。
身近な、大切な人々を誰一人守れず、人の生命を奪い罪を犯した自分は、いずれどこかで、何かに裁かれることになるのだろう。

でもせめてこれから、償いになる何かが自分に出来るのなら。
それならば、苦痛に満ちた人生をなお生きる意味はあるのかもしれない。

かすかな――小さな希望を見出して、その一歩は、今、刻まれる。