いい加減きちんと話をしなくてはならないと、頭ではわかっていた。どれだけ言い繕ったところで、心変わりは事実。そしてそのことをずっと隠しおおせるほど、彩里は器用ではない。
 胸の中でわだかまる罪悪感ごと全部打ち明けてしまって、早く楽になりたいとは思うのだが、それが身勝手な願望だという自覚もあるから、せめて相手が受け取りやすい時を選んで伝えたい。
 それは確実に、今ではなかった。
 ダイニングテーブルでノートパソコンを広げ、時々スマートフォンのゲーム画面をいじりながら、ペンタブレットを動かしていた彩里のもとへめぐみが顔を出したのは、二十四時を少し回った頃合いだった。
「ちょっと失礼するね……、飲み物だけつくらせてくださいな、っと」
「もちろん。ここはめぐみさんの家なんだから、気を遣う必要なんて……」
「ふたりの家! 気くらい遣って当然。まして彩里ちゃんは原稿中」
 パジャマ姿のめぐみは、キッチンに向かいながら彩里の言葉に訂正を入れる。
「いや、原稿は……進捗だめです……」
「だめ?」
「何度描き直しても、気に入る線にならなくって。推しが恰好よく描けない」
 時々こういう日があるのだ。絶望するしかない。
 めぐみはペンを置いた彩里に近寄ってくると、ふに、とその頬を柔らかく摘まんだ。
「なに言ってるの。公式美形設定、彩里ちゃんの超画力。どうやっても最高オブ最高の推しくんになるに決まってる。理想が高いだけでしょ。見ーせて」
 彩里は、そういうわけでもない、と唸りながら、アップにしていたモニターの画面を、等倍設定に直してめぐみの方へ向ける。
 途端、めぐみはうっ、と呻き声をあげ、両手を心臓に当てた。
「待、って待って待って。待って‼ 液晶が眩しい。すごい麗しいひとがいる。推しくんがいる……っ!」
 何も知らないひとが見たら、心臓発作でも起こしたのか、と心配になる動きだが、慣れている彩里は動じなかった。
「いなきゃ意味ないです。推しカプ布教本なんだから」
「半端なく! 麗しい! 推しくんとカレシが‼」
「恐れ入ります」
「なにこの表情、え、尊い……。無理、液晶割る救い出してあげなきゃ、うぁぁ、天使」
「落ち着いてめぐみさん、今、真夜中。あと、パソコン壊すのはやめてください、買うお金ない」
「だって推しくんが!!!」
 彩里はどう、どうと暴れ馬をなだめるようにめぐみの背中をさする。
 良識のある社会人のはずの彼女が本当にパソコンを破壊するとは思えないが、萌えを極めている時というのは理性が吹き飛んでいる状態でもあるので、勢い余って、という可能性はゼロではなかった。
 防音のしっかりした鉄筋コンクリート造のマンションだからといったって、近所が寝静まっているような時間に大声をあげることだって、普段のめぐみならありえないこと。
 きわめて危ない状態なのだ。なにかに恋をする、ということは。
 推し――要はすごく好きになった、応援したいひとを指す俗語だろう。彩里とめぐみの場合、その対象はいつも、アイドルなどの有名人や身近な人間などではなく、二次元のコンテンツ内のキャラクターだった。
 男性キャラクター同士の対関係(カップリング)に注目して、原作の読み替えを楽しむ読者のことを少し前まで腐女子、と呼んでいた。彩里とめぐみは、それなのだ。
 対象への滾るような愛と思い入れを、ふたりは何年も前から、ファンアートというかたちで発散している。
「……ああ。うるさくしてごめんね。取り乱した。私としたことが……」
「めぐみさんだって、今の今まで、部屋で推しを書いてたんでしょう?」
「叶うなら、自分でつくったごはんより、ひと様のつくった神ごはんをもぐもぐしてたい」
 くすっ、と彩里は笑った。創造主が描き出してくれる原作の足もとには及びもつかないとわかっているが、自分の描くものでめぐみが喜ぶのを見るのは格別に嬉しい。
「存分にしてください、もぐもぐ」
「する。満ちる……」
 めぐみはお祈りのように両手の指を組んで、うっとりと彩里の描いたコマを見ている。
 ヘアバンドで前髪をあげたすっぴん顔が幼くて、まるで恋に恋する乙女のようだと思った。
 朝、洗面所で見かける、都内に本社を持つ大手総合商社の係長として出勤しようとしている彼女とは、表情もしゃべり方もまるで別人だ。スーツ姿の彼女しか知らないひとが今のめぐみを見たら、驚くに違いない。
 三十二歳の若さで責任ある役職につき、海外を含む毎月の出張をこなしながらも、めぐみは二次創作同人誌を頒布する同人活動をやめるつもりはないようだった。
 ただ、昇進が決まってから、作画に時間を取られるまんがをやめ、通勤時間や空き時間を活用して書ける小説を書くようになった。
 同人誌の入稿締め切りが近づいてくると、夕食はそれぞれで簡単に済ませ、別々の場所で各々の作業をする。
 睡眠はいつも足りていないが、萌えは活力だ。良質な萌えは、眠気など吹き飛ばす。
 ……とは言え、時間は有限。だから、そう、なにを話すにしても、全部、原稿が終わってからだ。
 この家で一番優先順位が高いのは締め切りで、次が推しカプに関すること。
 誕生日を祝ったり、記念日を寿いだり、原作の新展開に一喜一憂したり、最高の設定の二次創作を見つけて狂喜乱舞したり、思いついた解釈を満足行くまでしゃべり明かしたり、そういうお祭り騒ぎの周辺に、生活と家事、仕事の話がくっついてきているのが現状だ。
 原稿のない時は一緒に旬のアニメや舞台のBlu-rayを観たり、勧め合って本を読んだり、ベッドで萌え語りをしている。
 配偶者、とはいっても、昔ながらの夫婦像とはかけ離れていて、彩里はめぐみのことを、妻とも、奥さんとも呼んだことはなかった。逆も然りだ。
「めぐみさん。冷蔵庫にスープがあるので、きりのいいところで、どうぞ」
「作ってくれたの? ありがとう。彩里ちゃんも原稿あるのに……。じゃあ、いただいて、寝ようかな」
「……まさか、もう終わったんですか」
「うん」
「入稿まで? 全部?」
「うん。あとは不備がないことを願うばかり」
「すごい。まだ月曜なのに」
 仕事と趣味、二足のわらじ生活は、簡単なことではない。
 休日出勤や出張をこなしながら、確実に新刊の原稿を仕上げるところは、尊敬の一言では足りなかった。
「まだって……。彩里ちゃん。イベントは今週日曜なんだけど」
「言わないで……」
 めぐみと比べると、彩里は自分の至らなさに消え入りたくなる。
 彩里はめぐみよりよほど融通の利くシフト制のアルバイトで、拘束時間も短いのに、一緒に参加するイベント用の原稿が終わっていなかった。
 時間が足りないのではない。仮にそうだとしたら、いくら修羅場中のめぐみの体調が心配だからといって、手のかかる料理をつくったりなどしない。
 実際の栄養素より、彩里の新刊が無事出ることの方が、どれだけめぐみを元気にすることか。
 絵を描き始めてから、めぐみのくれた本気の褒め言葉が、どれだけ彩里の支えになったことだろう。……その、彼女の期待に応えなくてはという重圧が、筆が伸びない理由ではあるのかもしれない。
 めぐみも、それ以上彩里を追い詰めるようなことは言わなかった。
 励まして欲しい時には励ましを、放置されたい時にはそのように。
 一番ありがたい、と思うことをごく自然に彼女は恵んでくれるし、彩里が見よう見まねでかけた思いやりは、満面の笑みと感謝で受け取ってくれる。
 互いの間で不運なすれ違いが発生したことは、結婚してから一度もなかった。
「すごい、具だくさんで専門店のスープみたい」
 めぐみは冷蔵庫から大鍋を出して、IH調理器にかける。
「飴色になるまでタマネギを炒めて、そのあとベーコンを入れて。細かく刻んだニンジン、セロリ、ピーマン、ポロネギ、ズッキーニ、プチトマト、マッシュルームをブイヨンで煮込みました」
「ポロネギとか食べたことない気がする……あっ、待って、待って、わかるかも、これ『真夜中のスープパスタ』じゃない? あの、推しくんが凍えて帰ってきた日に、カレシが作ってくれた」
「当たりです」
「だよね! ああぁ、湯気の描写が最高だった、あの」
「ほんのちょっぴりからいんですよね。それで、赤くなった鼻がスンって」
「わー、そう聞いたら、やっぱりパスタ、茹でるべきかな? 完成形で食べたい! 真夜中だけど、炭水化物だけど、でも、……でもっ」
 乙女心とオタク心のはざまで逡巡しているめぐみは、年下の彩里の目から見ても、とてもかわいかった。
「半束手伝います」
「ほんと⁉ 彩里ちゃん、ありがとう!」
 彩里はキッチンに立ち、めぐみと交代した。
 湯を沸かし、一分少な目にゆで上げたパスタをスープに投入して、軽く煮込んだ後ボウルに盛り付ける。
 熱々のスープパスタにパセリを振りかけると、風味づけに入れたブーケガルニの香気と混ざり合って、食欲をそそった。
 めぐみは宝物でも運ぶような慎重さで、彩里のノートパソコンをダイニングテーブルから避難させ、一緒に雑貨店で買い揃えたランチョンマットと食器セットを向かい合わせに並べ、冷蔵庫の中からデトックスウォーターを出しておいてくれる。
 彩里は湯気の立つスープパスタを、すっかり準備の整ったテーブルに運んで行くだけでよかった。
「いいにおい……美味しそう。彩りもすごくきれいで、元気出る」
「レストランの語源は、もとはと言えば、スープのことなんです。もちろん、当時のフランスでの正確なレシピは残っていませんけど、回復させるもの、っていう意味があって……」
「そうなの? そこまで考えて書かれてたのかな、あのお夜食回も?」
「……と、私が勝手に思ってる……だけなんですけど……」
「え? なんで落ち込んだ? 今の流れで」
「解釈、若干、押しつけがましくなかったかなぁ、と……」
 知っていることを話しただけだと言い訳したかったが、自分がその話を読んだ時の感想と、実際に料理をした時の心情が重なって、うっかり熱のこもった語りになったことを、みっともない、と感じてしまう。
 大切なものほど、つくりはとても繊細で、軽々しく口に出すべきではない――と、彩里は思っていた。
 言葉にすればするほど、それは使い古されたありきたりなものに見えてしまいかねないし、それは、彩里の本意ではない。
「そんなことない! もう。彩里ちゃんはすぐ悪い方に取るんだから」
「…………」
「拗ねないで、彩里ちゃん。ね、冷めないうちに、つくってくれたごはん食べたいなぁ」
 こどもが甘えるように言うめぐみのそれが、真実大人の演技力だとわかっていたが、あたたかい料理をあたたかいうちに食べないのは彩里の哲学に反するため、素直に懐柔されてテーブルについた。
 声を揃えていただきますを言い、スプーンを手に取る。
 掬ったスープを口に運ぶと、ブイヨンの旨味と野菜の自然な甘みが舌の上で調和して、縮こまっていた胃がふわっとほどけた。
 突っ張りたい気持ちも瞬時に溶けてしまい、もしかしたら自分は単に空腹で苛々していただけなのだろうかと、気付いてしまうと今度は恥ずかしさで埋まりたくなった。
「……すみません。ネガティブで、根暗なオタクで」
「知ってて結婚しましたから。ね、今回の原稿、大変?」
「……はい」
「彩里ちゃんなら大丈夫。いつもなんだかんだ言って間に合わせるじゃない」
「今回は本当にどうなるか……」
「彩里ちゃんは完璧主義だからね。ネームは切れてるんでしょ?」
「……そう、ですね」
 めぐみはもともと長くまんがを描いていたので、ネームと呼ばれる絵コンテさえ切れれば、あとは手を動かすだけなのだと知っている。
 そもそも、デジタルソフトを使ってまんがを描く方法を彩里に教えてくれたのは、他でもないめぐみだった。
 時間もある、内容も決まっている、下描きもほとんどできているというのに、線が気に入らないという理由で手を止め、原稿とはなんら関係ないらくがきを始めてしまう不出来な弟子を、内心やきもきしながら見守っているのに違いない。
 彩里には、誰かになにかを伝えたい欲求も、誰かに褒められたい願望も、それほどない。
 お気に入りのキャラクターを自分の手で動かしてみたくて、まんがの描き方を覚えた。
 らくがきに留めず、ある程度ストーリー性のある同人誌をつくるのは、めぐみが喜んでくれるから、という理由が大きい。
 趣味の原稿など、終わらせてしまえば終わるもの。けれど、そもそも、二次創作というのはファン活動。なんのために描くのかと言われればそれは。
 そう、とにかく、愛が乗らなければ、どうしようもない。
 焦燥をスープパスタとともに飲み込んでいると、先に食べ終わっためぐみが、ノートパソコンと一緒に棚に避難させていた「聖典」――ふたりが活動するジャンルの原作本十巻を手に取った。
「この辺りの話、描くの?」
「……うん」
「わぁ、すごい滾る。私ね、ここのあの子たちの会話すごく好きなの。明らかに本心じゃないだろうってこと、敢えて言う、この……」
「『僕は帰るよ』」
 めぐみが開いているページからあたりをつけて、彩里が推しのせりふを暗唱すると、彼女は目を見開いてテーブルを叩いた。
「それー!」
「どこまでが嘘で、本心か」
「ああ……っ」
「この時点で、本心を一生隠し通すつもりだったのか、それとも彼にだけは止めて欲しくて……」
「待って、むり……」
 めぐみは目頭を押さえる。声は完全に涙声だ。彩里も顔にこそ出さない方だが、原作のその箇所に思いを馳せるだけで、ぎゅっと心臓が潰れる心地がした。
「ここ描くの、そりゃ、簡単じゃない。挑戦する彩里ちゃん、えらい」
「単なる自分の読みと解釈なんですけど」
「いいの。それが読みたいの。がんばって描きあげて!」
「はい」
「彩里ちゃんが、どういうふうに描くか、本当に楽しみ」
 めぐみの言葉に、彩里は微笑みつつ頷いた。
 手加減なし、説明不足、勢い任せの会話。他にひとがいる状況なら、もう少し配慮が必要になるけれど、ふたりの間ではそれは必要なかった。互いの思考回路をよく知っているからできることでもあったし、そもそも考え方が近いから叶ったことかもしれない。
 これがテニスや卓球のラリーなら、達人同士の試合のようなエキサイティングな応酬と見る向きもあったかもしれないが、残念ながらことはただの萌え語りで、もちろん誰も称賛などしてくれない(されたくもない)。
 ただ、めぐみと出会えたのが奇跡的なことだ、とは、彩里がいつも思うことだった。
 同じ物語、同じキャラクターを愛するひとたちだからと言って、無条件に話が合う、気が合う、と思うのは乱暴な考え方で、実際は、本当に同じものを見ているのか? と本気で疑問に思うような感想を聞くことも多い。ひとりひとり、目を通して取り込み、脳なり心なりを濾過する過程で、どうやら変質してしまうようなのだ。
 同じものを愛する筈の仲間と理解し合えない方が、そうでないひとと過ごすよりも、裏切られた気持ちが強く、失望してしまう。自分の受け取り方が少数派のそれで、なかなか誰も賛同してくれないものだと知ると、ことに孤独感が深まるばかりだった。
 彩里にとって、「わかり合える」と感じるひとは世界に少なく、それゆえに出会えた時の喜びというのは、筆舌に尽くしがたいものがあった。
 共感し合えずとも、血がつながっていれば家族は家族。体の構造すら違う異性には最初からそんな期待は持たない。つくるのが一番難しいのは同性の友達だ。
 それは、半身とも違う、と彩里は思う。欠けたところを補い合う、本質がまったく同じふたりなら、そもそも会話は続かない。わずかなズレが音楽のように響き合う、その二重奏が、今だけの奇跡みたいに楽しい、美しいと感じてしまったら、おしゃべりは、もう止まらない。
 濃密な時間をくれるそのひとと、ずっと、ずっと、おしゃべりを続けていく、
 そんなふうな日々、そのための結婚、
 そうなんだと、
 彩里は疑わなかったのだが。

     ◇