「……いいですね、科学部。色々と特典があって」
「でしょう。入ってもいいよ? 高校とは棟が違うし、気楽で拘束が少ないし」
 彼女は重い溜息をつく。
「特典目当てってわけにはいきません。あーあ、帰宅部の部室がないの、何ででしょう……同じ学費を払っているのに」
「いや、帰宅しろよ」
「帰宅、したくない時に、人目に触れずに、時間潰せる場所が欲しいです。教室はうるさい人がいたり、図書室だって……」
「…………」
「……居場所があるの、良いですね」
 彼女は時々、静電気を宿す。それが内側の熱や涙や周囲の摩擦とまずいタイミングでぶつかると、いずれとんでもない化学反応を起こしそうで見ていられない。そんな危うさがあるのだった。
「居場所なんて……あるなしじゃなくて、今自分がいる、ここ、でいいんじゃないの? 難しく考えなくてもさ。『ここにいていけない理由なんかない』ってさ。最初はメンチ切ってきたじゃん」
「……そんな喧嘩腰じゃないし……似てないです。まじめに聞いてください」
 出会った時に言われたことを、声音を誇張して混ぜ返すと、彼女はあきれた顔をして唇を曲げる。
 仕方のないせんぱいだ、と顔に書いてあるようだ。
「いやぁ、私ってば生まれながらの不まじめで」
「せんぱいみたいな人には、わかんないです。そこにいてもいい、ってちゃんと認められないと、息もできない、苦しさ」
「……そんなものかな」
「そんなものです」
 できる限り、こまめに放散させてあげられたらいいのかもしれない。まともに受け止めたらこちらが怪我をしてしまいそうだから、吸い取ったり、いなしたり、受け流したり。工夫をして。
 ――うまくそれができるかは、わからないけど。


 時々、彼女の精神をグラグラさせるもの。その原因を寛子が知ったのは、それから何週間か後の休憩時間だった。
 肌寒い日だったのでカーディガンを着ようと思ってロッカー室に入ったところ、声が飛び込んできたのだ。
「長良ぁ。お前、いい加減にしろよぉ」
「目障りなんだよ。やる気あんの?」
 入り口からは死角になっていてわからないが、奥の方で、女子集団がひとりの子を問い詰めているようだった。
 ――名前からして、もしかして……。
 と思う前に、知っている硬質な声が、集団の声を弾いた。
「やる気? ない。出るわけない。あんたたちなんかと」
 寛子は、これほどまでに完璧な『火に油を注ぐ発言』を聞いたことがなかった。軽蔑的な声音と言い、遠慮のない物言いと言い、人を煽るのにこれほど効果的なものは、知らない。
 ――事情も経緯も知らないけど、あなたが悪い、長良ちゃん。これは完全に、敵しか作らない行動!
 それはかつて幼少の寛子が軽蔑した「大人」と似た思考回路だったが、咄嗟にそこまでは思い至らない。
 一拍遅れて、ロッカー室は蜂の巣をひっくり返したような大騒ぎになる。感情的な罵詈雑言がぶつかり合って聞き取れない。
 寛子は思わず、渦中の方へ足を向けていた。
 ロッカーの影から、やがて、見えてくる。一年生が十人弱、長身の彼女を囲んでいた。皆、幼い顔立ちだが、気は強そうだ。
 寛子は歩みを止めず、すたすたと、輪に近付いて行った。
 一年生たちは、寛子に気付くと、一様に戸惑いを浮かべる。
 怒りのせいか、自分たちで世界が完結していたようで、外から介入があるとは思ってもみなかったのだろう。
 周囲が虚を突かれているのをいいことに、寛子は輪の中にいる彼女を、ちょいちょい、と手招き、明るい声を押し出した。
「長良ちゃーん! ちょうど良かった。ルーズリーフ、貸してくれない? さっきなくなっちゃったんだよね~」
「え……」
「早く! 休憩時間終わっちゃう」
 声に押されて輪から外れかけた彼女の、腕をするりと取って、来た方へ引き返す。
「今、話し合いの最中……」
「しっ」
 彼女は不服そうだったが、無理やり黙らせた。
 これはもう話し合いの空気ではない。
 このまま頭に血が上った少女たちの攻撃を大人の目が届かない場所で受け続けるより、一度逃げた方がいいと思ったのだ。
 それに、彼女に敵が多いのであれば、親しい上級生がいるらしい、と示しておくことも、それほど悪手ではない筈だった。
 汀野大学附属は、名門とは言えないが、受験を潜り抜けないと入れない私立の一貫校だ。将来についてはまじめに考えている学生が多い。在学中に問題を起こして処分を受けたい子などいない筈だ。
 寛子は下級生に顔が利くタイプではなかったが、それでも、ないよりはましだろう。そう、思ったのだが。
「今度は不良の先輩に取り入っちゃって!」
「はー、もう、いいよ、あんな子、無視無視」
 寛子の予想よりは気骨のある一年生で、黙って寛子たちを見送ることはせず、捨て台詞のようなものを背中にぶつけてきた。
 彼女が、ぎしっと腕を突っ張らせる。
 寛子は言わせるままにしておいた。別に、不良ではないのだけれど、そういう見方には慣れている。
 それよりも、彼女の態度の方が気にかかった。
 ロッカー室の外に出たところで、彼女は、
「もう、いいでしょう」
 そう言って、寛子の手を振りほどき、一人で階段を上って行ってしまう。同級生にされたことよりも、寛子が介入してきたことの方が不快だったのではないか、と思わせる、孤高の背中だった。
 感謝されたい、とは思わなかったが、彼女の立場が更に悪くなるようなことに加担してしまったのかなぁ、と思えば、罪の意識で、寛子は彼女の後をそれ以上追えなくなってしまうのだった。


「部の同級生と、うまく行ってないんです」
 もしかしたら、二度と彼女は生物実験室に来ないのかもしれない、と思っていたから、その日の放課後すぐ現れて、しかも寛子の定位置まで来て、開口一番そう言ったのには、寛子も度肝を抜かれてしまった。
「……何、いきなり。目がコワイよ、長良ちゃん」
「変なところ見られたし、説明義務があるかと思いまして」
 長身の彼女に至近距離で見据えられると、圧を感じてしまう。
 ――泣いたり、すごんだり、わからない子だな。わかるけど。
 きっとわかる気がする、という予感はあるけれど、時々、外れる。
 だから、話が聞きたいと言うのは、確かだった。
「長良ちゃん、何部なの?」
「バスケ部です。今日ロッカー室で一緒にいた子たちも、そう。でも、もう部活辞めるつもりで、ずっと休んでいるんですけど。何が気に食わないのか、あれこれ文句つけて来て」
「そっか……」
「なかなか退部できないので、科学部には、入れません」
「そんなしつこく勧誘してないだろっ。失礼な」
 それから彼女は、事情をかいつまんで説明した。小学生の頃からミニバスを続けていて、その延長で中学でも女子バスケットボール部に入ったこと。長身で経験者の彼女を、二年生と三年生が目に見えてチヤホヤし、他の新入生の反感を買ったこと。「話し合い」をすればするほど断絶が深まり、今ではクラスの女子にまで嫌われていること。