それを見ていると、二学年も下の、しかも気に入りの子を泣かせてしまった罪悪感で、寛子も滅入って来るのだった。
 ――こんなことで、気まずくなって、終わり……?
 寛子がこれだけ関心を寄せられる、希少な存在なのに。
 好き嫌いで裁けば、一瞬で、切れてしまう関係。
 今まではそれで、別に困らなかった。だが。
「……ごめん。長良ちゃん。言い過ぎたかも」
「……いえ……」
 寛子は謝ることにした。
 悪いことをした、と心から思ったわけではなかったが、それでも、一緒にいる時間の中で、これだけ居心地の悪い空間を作った責任の、少なくとも半分は自分にある。
「はっきり言い過ぎるんだよね。私。きつかったかな」
「いえ……今日、私もなんか、グラグラしてて。その、精神的に。……めんどくさい、って、おっしゃる通りだと……思います。でも、……すみません、これ、止まらなくって」
 震える声の合間に、ぐず、と、鼻が鳴る。
 寛子は準備室に行き、ボックスティッシュを取ってきた。それを彼女の前に置いて、できるだけ柔らかく告げる。
「……ちょっと、冷却期間、置こ。お互い。落ち着いてから話そう。……いい?」
 彼女はティッシュで鼻を嚙みながら、二度頷く。
 それを確認してから、寛子はその場を離れた。
 窓際にひとつだけある扉からベランダに出て、汲み置きの水を入れたバケツを取り込む。
 太陽光を浴び、砂埃舞うグラウンドでボールを追っているユニフォーム姿の男子たちを見下ろしながら、吹奏楽部のパート練習に耳を傾けていると、先ほどまでの気持ちの閉塞感が吹き飛んだ。
 生物実験室に戻ると、自分のかばんから出した食べかけの菓子のパッケージを、まだ泣いている彼女のそばに積み上げる。
「今日は水替えしなきゃだから。これでも食べてて」
 声に、彼女は再び、二度大きく頷いた。
 寛子は取り入れたバケツの元へ戻ると、ヒーターで中の水をあたため、人工海水の素を計り入れる。
 水槽のめだかを、作ったばかりの水溶液に移すと、汚れた水槽を洗い場へ持って行き、スポンジでごしごしと擦った。
 制服を汚さないように水仕事をするのはなかなか大変だ。
 集中して洗い、水溶液ごとめだかを水槽に戻す頃には、それなりに時間が経過していた。
 西日の差し込む中で、彼女は姿勢良く座っている。もう目元は拭っていない。どこか虚脱したようにぼうっとしていたが、寛子が近付くと、わずかに笑ってみせた。
「すみません。せんぱい。ご迷惑、おかけしました」
「こちらこそ。落ち着いた?」
「はい。……泣くと、疲れる」
 目元と鼻が赤い。使ったティッシュ何枚かが、拳に握り込まれている。菓子には手がつけられていないようだった。
「なんか、食べなよ、」
 勧めつつ、寛子もクッキーに手を伸ばそうとした。その時だ。
 空気の読めていない、今のこの場には乱暴すぎる音を立てて、生物実験室の戸が開いたのは。
「しつれーしまぁす」
 話の途中なのか、大きな声の後ろでげらげらと笑い声までする。
 姿を見ずとも寛子にはわかった。科学部の二年生トリオだ。
 彼らは、繊細に織り上げられた仲直りの雰囲気を粉砕した罪に気付かないまま、部屋の中まで入って来、寛子と彼女に気付いた。
「お、え……? っとぉ」
「アッ……すんまそん」
 漂う「取り込み中」の緊張感を感じ取ったのか、彼らの先輩である寛子に睨まれてまずいと思ったのかはわからないが、彼らは口を閉ざし、お互いの顔をなんとなく見合っている。
 やがて一番のお調子者が、他のふたりを先導するように、
「しつれーしましたぁ」
と言って、出て行った。がらがらぴしゃり。戸が閉まる。
 彼女は窺うように、寛子を見上げた。
「……あ、同じ部活の? ……ですよね。すみません。部外者は、出て行きます、ので……」
 見えない糸に操られるように立ち上がり、彼らの後を追おうとする彼女を、寛子は慌てて追いかけ、手首を握った。
 骨のつくる窪みにどきり、とする。
 けれど、その動揺は面に出さないようにして。
「出て行かなくていい」
「でも……」
「いい。あいつらより、あなたの方が、大事」
 口が滑った。行き過ぎた言葉だっただろうか。どう考えてみてもそうだ。だが幸い、今の彼女は細かい言葉のニュアンスを吟味できるほど万全の状態ではないようだった。
 細かくまばたきして、逡巡した後、寛子に問う。
「……でも、あの人たちも何か用事があったのでは?」
 寛子は首を捻った。
「いや~……科学部としちゃ、夏休み明けに大きめのレポート提出して、研究がひと段落している時期なんだよね。あの子たちも、多分コーヒー飲みに来ただけ……あっ!」
 素で忘れていたので、声が裏返りそうになった。しまった。
「まっず。そうだ、先生の出張のおみやげが、準備室にあるんだ。それを取りに来たんだな。あいつら。悪いことしたな……」
 寛子はかしかしと頭を掻いた。
 流石にフォローが必要のようだ。
「長良ちゃん、ごめん。ちょっと三階行って、渡してくるわ」
 ばたばたと準備室に入り、みやげもののひよこの銘菓とコーヒーを三セット用意していると、おずおずと彼女が入室してきた。
「私、届けてきましょうか」
「えっ?」
「おみやげ。後輩さんたちに」
 早く片付けてしまおう、と手を動かしていた寛子は吹き出しそうになってしまった。あの子たちも、彼女にとっては、先輩だ。
「いい、いい。あれでビビリだから、知らない女の子来たらキョドっちゃう。さっと渡して来るから、待ってて。いい? 帰らないで待っててね」
 以前、劇薬に反応していた彼女を、準備室に残していくわけにはいかない。その手に寛子たちの分の菓子を押し付けて、一緒に部屋を出、鍵をかける。
 寛子が化学室にいる後輩の元へ行って戻ってくると、彼女は定位置に座っておとなしく待っていた。目の前に、二匹のひよこを鎮座させているのが、何だかとてもかわいらしい。
「お待たせ! 渡してきたよ。私たちも、食べよ」
 彼女の向かいに腰かけながら、早速銘菓に手を伸ばす。
「いえ、私は……」
「あれ、嫌い?」
「科学部の人たちへのおみやげでしょう?」
「いや、長良ちゃんの分もあるから」
「……何故?」
 彼女はまた、ぴり、と警戒をめぐらせる。寛子はわざと大雑把に菓子の包装を向いて、あぐ、と頭からかじりついた。
「いや、顧問が……いつも来ている子にも、あげていいって」
「私のこと、見えてないのかと」
「いや、ああいう人、立田先生。生徒に干渉しないの。でも見てる」
 立田教諭が放課後、準備室に出入りする時はある。彼女がいる時にも、何度か部屋の端を素通りしていたが、忙しそうな歩調と周りに目もくれない態度から、認知されていないものと彼女は思ったのだろう。
「……何か言ってました? 私のこと?」
「いや? 別に。ビーカーの数でコーヒー飲んでることも薄々察しているだろうけど、何も」
「……そのうち入部するものと思っているのかな……」
「そんな考えてないと思うよ、箱買いだし。食べたらいいと思う。泣くとお腹すかない?」
 寛子が何度か促すと、彼女はまるでみかんの皮をむくように、ていねいに包装をはがした。まだ、少し逡巡している。