小さな町だった。
 沿岸は堤防に囲まれているから、間近に行かないと、海面を見ることはできない。
 だが、わずかな雨でも泥色に濁る川の、水深もそうだが、そこから漂う潮の香りの濃度が様変わりすることによって、凪の海の存在を常に近くに感じる。
 他のどことも違った、べたり、とした甘い空気が漂う――
 そこが、寛子(ひろこ)が六年間通学し、青春を過ごした場所。
 水際(みぎわ)町。
 朝八時を過ぎると、小さな電停から学校までの川沿いの道は、私
 立汀野(みぎわの)大学附属の中等部・高等部の制服で埋め尽くされる。
 時折、私服の人も混ざるが、顔を見るとどこかで見覚えがあって、なんとなく事務局や汀野大学の関係者かなと思っていた。
 生徒たちと時々大人が、一方向へゆっくり歩いていく様子は、空から見下ろした時、蟻の列のようにも見えるだろう。
 線路わきの道も、橋も、車道沿いの歩道も、ぎりぎり二人並べる幅しかないが、皆、追い抜くことも考えず、漫然と歩を進めている。
 かと思えば、途中、知った顔を見つけて駆け寄る者があったり、じゃれ合って流れを止めたり。
 我が道を行く導線が発生するのも、蟻に似ている。
 ――もし、ラッシュの東京や梅田でそれやったら、ぶつかりおじさんが飛んでくるからね?
 駅のベンチに座り、遠ざかる列を眺めていた寛子は、そんなことを思ってから気づいた。
 ――あ。これは、夢だ。
 自分もどうやら中等部の制服を着ているが、中学生の頃の寛子は、ぶつかりおじさんの存在なんて知りもしなかった筈だ。
 痴漢すら都市伝説だと思っていたが、その代わり、人のいない公園や駅で卑猥な声をかけられたり、路上駐車の車に連れ込まれそうになったことはある。
 どこにでも暴力はあるが、場所によって出方が違うのだろう。
 そういうことがわかるようになったのは、環境が異なる場所でそれぞれ過ごしたからだ。
 寛子は、自分が行くまで、都会というものを知らなかった。
 ――夢だし。行かなくていっか。学校。
 夢だから、だろう。朝の腰痛も倦怠感もなく、実在感に乏しいほど軽い体に、すっきりした脳。
 ぴかぴかの自分。全能感とはこのことだろうか。
 だからこそ余分に、まったりどこまでも続きそうな「普段」のノルマ消化なんて、もったいない気がしてしまう。
 翼があるのに、足に錘(おもり)がついている、と言えばわかりやすいだ
 ろうか。
 どこにだって行ける筈なのに、どこにも行けない。
 そんな厭世観が雲のように、心の晴天を覆っていく。
「若いって、こーんなだっけ……」
 もっと無条件でからっとした感じだった気もしたが、記憶というものは自分に都合良く改変されてしまうものかもしれない。
 太ももにのせた学生鞄の上に頬杖をついて、遠ざかる学生服の群れを眺めていると、後ろから肩を小突かれた。
「おい、尾瀬だろ。遅刻すっぞ」
 早口で投げつけるような物言いに驚いて、振り返ると、懐かしいにおいに包まれた。
 けむたい、九十年代から運ばれてきたにおい。かつてはどこでも漂っていた、苦くて、喉の奥がイガイガする存在感。
 ――スモークハラスメント、なんて言葉は、なかった時代の。
「……立田先生こそ」
 理科教師で、生物部顧問。
 放課後、残り香を生徒に指摘されるたび、「マールボロ(これ)が一番、
 眠気に効くんだよぉ」と呟いていた。
 ――そういえば、朝は駅裏の喫煙所で一服するのが日課だったっけ。
「いや、わたしはね、サボってる生徒に、登校するよう指導をしているだけで……」
「先生、後頭部すごい寝ぐせ」
「あー。かわいくねー」
「私、先生に『かわいくねー』って言われるの好きです」
「何だそれ」
 立田はにやっと笑って、どっかりと寛子の横に座り、足を組む。
 当時のトレンドを逆行するような太眉にすっぴん。銀縁眼鏡に、刈り上げのようなショートヘア。着ているものは、原色の変な英語入りトレーナーとスラックス。
 愛煙家で、雑な言葉遣いで、子ども嫌いを公言していて。
 学生の時の寛子は、「これも大人だ、中学教師だ」と思っていたが、今、令和の感性で見れば、相当、変わった人だ。
 変な大人と教師が、平成の初めにはまだたくさんいた。
 立田はたぶん、その中でも結構な個性だった。
「学校、行かんの?」
「行きますよ。立田先生に指導かけられたんで」
「わたしを言い訳にするなよ」
「言い訳にしようとしてるのどっちですか」
「……長えんだもん。教頭の朝の話」
「不良教師」
「いいんだよ。大人だから」
「へえー。私も早く大人になりたいです」
 これはリップサーヴィスだ。大人になっても、別に、どうということはない、と、もう寛子は知っている。
「ふぅん。大人はいいぞぉ」
 ――彼女はサービスをするような大人だった、だろうか。
 寛子には久しぶりに立田と話ができて嬉しい気持ちもあったが、夢なので当然、虚像だ。
 できるだけ本人から苦情が出ないような会話をしたいところだろうが、彼女は、本当は、どんな人だっただろうか。
 記録に使ったのが十代の学生のレンズだから、あまりあてにならない。
 不必要に子どもに干渉しない、彼女の涼しい自己完結っぷりが、当時の自分を惹きつけたのだと寛子は思っている。
 寛子は、トップが自分の認めた相手でなければ、部活動とはいえ、集団に属することはなかっただろう。
 ……やはり、こんなことは言わないかもしれない。当時の立田なら、だが。
 学校主催の周年同窓会で、立田と話した時の影響が強いのかもしれない、と思った。三十歳が目前となっていた寛子と同じだけ、教師も歳を重ねていた。
 別に、無敵ではなかったのだと直感した。いつでも一人でいる姿が、学生時代は眩しかったのに、その時はそう見えなかった。見る方の目が変わったのか、本人が変わったのか。
 ――何歳の時のその人が、一番、その人の芯の部分に近いと言えるのだろう。
 月日とともに脱ぎ捨てていけるだけなら、身軽でいいけれど。
 そればかりでもない気がする。
「めだか、どう?」
「生きてますよ。ちょっと動きが鈍いですけど」
 多分。実験の最初期はそんな感じだった筈、と、欠けらの記憶で答える。
「しばらく濃度調整がめんどうかもわからんが、生き物相手だ。半端に投げるなよ」
 面倒だから入るつもりがなかった部活動、それも、得体が知れない集まりだと思っていた科学部に、寛子は、中学二年で入部した。
 ある日の朝、橋の上から川を見下ろしていたところを、遅い出勤の立田に見つかったのだ。
 通学路のわきの川が、引き潮で浅くなっていた時間だった。
 歩きながら、なんの気なしに川を見下ろすと、一面、テラテラと動く異様なものが広がっていて、寛子は思わず足を止めてしまった。
 異様なものの正体は、ボラの口だった。
 腹で水底を掻くようにしても、頭がのぞくほどの水深、狭まった川幅の残りでひしめきあうボラが、酸素が足りないというように、口をぱくぱく開閉していたのだ。
 ――キモッ。
 生理的にそんな言葉でやり過ごそうとしたのだけれど、なぜか目が離せなかった。
 ただ、呼吸しようとしているだけ。