「……寛子(ひろこ)さん」
「うん?」
「寛子さんは、私の、どこが好きなんですか?」
眠る前。薄闇の向こうにいる筈の、同棲中の彼女に目を凝らす。
今の家では、洋間にシングルベッドを二つ、左右の壁に沿わせ、間を通路にしていた。
どちらかが自宅で療養生活を送らなくてはならなくなった時のことを考えると、敷布団の方が良かった気もするが、金銭的に少し余裕ができた暁に意気揚々とベッドを買った時には、世の中がこんなことになるなんて思ってもいなかったのだから、仕方ない。
もしもの時は、元気な方がリビングでこたつ寝するしかなかった。
乗らない車も買えないし、テントを置く庭もない。
都心通勤圏内の狭い借アパートでできる家庭内での感染症対策なんて限界がある。
それでも、日本国内でワクチン接種が始まって、最初の冬。
ニュースを見る限り、新規感染者の数は随分抑えられているように見える。
人の往来が増える年末年始を越えた後も、オミクロン株とやらがこれ以上広がらず、重症者や死者が出なくなってくれれば、言うことはないのだけれど……。
「寛子さん」
促すような一佳(いちか)の声、その濃淡を、寛子は確かめる。
今日の声は、そこまで芯がない。水に滲んだ絵の具のように淡く、そのまま空気に溶け入りそうだ。
「……ぜんぶに決まってるでしょ?」
寛子は、一佳以上に、薄く、返す。
あくまでも、寝る前のほんのたわむれ。横になった拍子に、ちょっと心の中身がこぼれただけ、の体裁を取って。
寛子が何気なく言ったつもりの言葉が、一佳には、時々、違う重さで届く。
受け止め過ぎて、必要以上に傷ついたり、質問をした自分を恥じて、攻撃的になったり――考え過ぎだと思うのだけれど。
眠りに入る前は、特に、その傾向があった。
……そう。自己肯定感というもの。
その存在や、扱い方、高過ぎることや低過ぎることの弊害まで、このところ、よくSNSの話題になる。
寛子の自己肯定感が、水準に比べてどのくらいかはわからないが、どちらかと言うと、低い人の特徴は、一佳に当てはまることの方が多いかもしれない。一佳にも、自覚があるようだ。
「そうじゃなくて」
不服そうな一佳の声に、寛子は愛おしさを覚える。
――だいぶ、甘えることを覚えたね。
今すぐ彼女のベッドにダイブしたくなるが、いきなりそれをやると、野良猫が毛を逆立てるように威嚇される。
予想は容易だった。
これまで、寛子は何度もやったから。
愛情や幸福感を人に伝えたい時、寛子はよく体を使う。
セックス、まではしなくてもいい。好きな人とするのは気持ちがいいけれど、服越し、素肌、内臓――深部に近付くにつれ、神経が昂って快楽が増すかわりに、気をつけなくてはならないことも増えていく。
自分の深部だって、見たり触ったりするのは、一種、覚悟が必要なことだ。自分以外の――となれば尚更、こわい。
こんなことまで他人にゆるしてもらえるのか、という感動もあるが、それはそれだけ、壊れやすい場所に招かれた、という、責任と表裏だ。正直、重い。
人は簡単に壊れる。壊せる。体でも、心でも。壊れ方のバリエーションを知れば知るほど、恐ろしくなる。子どもの頃のような無謀はもうできない。
――だけどスキンシップくらいなら。
相手が厭がる場所を知っているなら、少し気安く臨める。
『人とハグしたら、ストレス値が下がるらしいよ』
――思えば、最初の誘い文句から、そうだった。
しかし、思えば一佳は、よく唇を噛んで耐えるような顔をする。
あまりストレスから解放されているようには見えない。
今更だが。
「……そんな、考え込むような話です? 寛子さん」
「いや。ぜんぶ、としか。一佳の性格も、顔も好き」
「顔……。学生の時から、言ってましたよね」
「初めて会った時の一佳の顔、記憶してる。あまりないことだから、よっぽど好みで、じーっと見たのかなって、私。顔の話、厭?」
「厭というほどでは……美人じゃないですけど。好みって言うの、寛子さんくらい」
「すっごく好き」
「はいはい、どうも」
「大好き」
ひらがなにしてたった四文字。よっつの音。何度言ったところで、金銭的にも、体力的にも、痛手はない。良心を育てていない人なら、嘘でも言える。記録に残らないから、送った実感も、届いた実感も、チャットアプリのやり取りより希薄で。
――気持ちは込めているつもりなのに。
「そっち行っていい? 一佳」
「ええ……? いや、ここは流しましょうよ。明日の仕事……」
「行きたい」
地続きに寝ていた頃に比べると、やはり距離を感じる。寛子は、薄闇の通路をぱたぱたと蹴散らし、一佳のベッドに辿り着いた。
当て勘で手を伸ばすと、ふにっと頬に指先が触れる。
自分の腰に当ててあたためた右手で、一佳の頬を包み込んだ。
一佳の方に、まだはっきり厭がる様子はない。
夏より、冬は、そういう意味では一緒に居やすい。
寒いとヒトは体調を崩す。他人の体温は、体温保持の役に立つ。
――短絡的だけど。生物だから仕方ない。
感覚は、赤子でも持っている。
物心つく前から、寛子は人に触れるのが好きだった。嫌いな親戚には寄り付きもしなかったが、従兄弟や仲の良い友達に何も考えずにまとわりついていた。
体はセンサーだ。自分が好かれているのか、嫌われているのか、あれこれ気を揉まなくても、相手に触れてしまえば大体わかる。
その手っ取り早さは、不器用な幼子のコミュニケーションには、特にうってつけだった。
けれど、世の中には、ルールというものがある、という。
時や場所を選ばず、先生や大好きなお友達にまとわりついてはいけません。好き嫌いをせず、皆で仲良くしなければいけません。多少厭なことをされても、お友達なのだから許してあげましょう。大人の言うことに逆らってはいけません。良い子でいなくてはだめですよ。どうしてって? ……どうしても。
寛子にとって、納得のいくものもあったし、反発したいものもあった。
正直、今もある。
異論を差し挟まず、従え。と言われると、特にもやもやする。
寛子は、なんにしても、そのものの正体というものを知っておきたい欲が強い。
ルールも、理屈も、常識という名の共通認識も、嘘も、クッション言葉も、建前も、この世から消えてしまえ! と思っているわけでは、もちろんないのだが。
核にあるものの正体をきちんと理解して初めて、それを覆うものの必要性だって、身に染みてわかる筈だ、と、思うわけで。
――やっぱり、この世に学問があって良かった。人類は、まだ、大丈夫。
脈絡が、あるのかないのか。どこへ向けてかわからない感謝とポジティブ精神が突然湧いてきて、自分はやはり自己肯定感とやらが相当高いようだ、と寛子はしみじみ感じた。
――一佳に、分けてあげられたらいいのにね。要るかどうかは置いといて。
「私が持ってる余分なものは、全部この子にあげたい」という温度を持った感情が、一佳との接触面から流れ出していくようだ。
ヒトの体に備わった五感、そしてまだ名付けられていないプラスアルファの感覚は、常に、今も、情報収集と発信をしている筈で。
――同居人のアンテナ感度は、今日はどうだろうか。
「一佳。キスしていい?」
「……だめです」
「えー」
――今、したかった。すごくしたかったのに。
寛子は子どものように唇を尖らせる。
今一瞬の感情を目に見える結晶にできたら、きっとすごく希少で、面白い、観察しがいのある色かたちをしていただろうに。
「寛子さん、いつもズルするから。言葉にしてください」
「ズル? ごめん、自覚ない」
「すぐ、うやむやにするじゃ、ないですか」
「してるかなぁー。ってか、できてるんだ、うやむや……」
一佳はなんだかんだ、ごまかされないぞ、という態度を貫いてきたように思うのだが、睨みつけてくるところを見ると、そうではないこともあるらしい。
「……すぐ、ぎゅっとしたり、キスしたり」
「愛情表現でしょ」
「ごまかし、みたいで……」
「それは心外。言葉にすると崩れる。ボディランゲージの方が、正しくて速い」
「ぜんぶ好き、みたいな、ふわっとした言い方も。言葉なら怪しいって思えるのに、何かされながらだと、疑えないじゃないですか」
「いやいや、疑わないでくれ?」
「正確じゃないのに」
「ほぼ正確では?」
「そんなことない。私、欠点がたくさんあります。絶対ぜんぶじゃない。ぜんぶだったらおかしい」
「えー」
「ほら、今も……寛子さんを困らせてる」
一佳にこんなことを言わせているものの正体こそが、自己肯定感のなさ、ということだろうか。
完璧主義の方かもしれない。もっと別の何かかもしれない。
一佳が一佳だから、そういう言葉が出る。
「……困っ……、まあ、そうだけど。でも、嫌いじゃないよ」
「嫌いじゃない……」
「悪い意味で取るな! ……取るんじゃ、ありません。好きだよ。大好き。あいらぶゆー」
どこかが痛んだ時の、潤んだ声を出す一佳の額に、寛子はキスを落とす代わりに、指先で軽く突く。
「寛子さん。慣用句、みたいに濫用しないで欲しいです」
――ああ、そうだ。この子、生理が近い。……言ったら怒られるけど。
一佳が不安定になるきっかけのひとつ。ホルモンバランス。
「でもさー。一佳。好きってさ……。難しいんだよ。説明が」
「わかります、けど、納得できない限り不安が続くんです。視線とか体温は勘違いできますから。好かれた、という錯覚……」
「これだけ一緒に住んで、聞き飽きそうなくらい、好きだって言ってても?」
「言ってても。慣用句を読み上げるのは誰でもできるし。目をつぶっている時に、不安になることがあります。朝起きたら、寛子さん、いないんじゃないか、とか」
「なんで」
「……私より顔も性格も好みの人がいて、そっちに行っちゃうかも」
「行くわけないでしょ!」
「ものすごく好みの人にいつ出会うか、わかりませんよ……。私よりきれいで、性格の良い子なんて、死ぬほどいる。本当にそう」
浅く腰かけた恋人のパイプベッドは、まるで古びたボートのように簡単に軋んだ。寛子は薄氷に手をつけるように身を乗り出し、そっと触れ直す。割らないように、撫でるだけ。
時折、彼女は、危うい。一佳の見た目のまま、薄氷そのもののように、脆く尖ったものに、変わることがある。
「いーちーかー。信じて、欲しいなぁ。私、その場限りの付き合いはできるけど、長く付き合えてる人なんて、全然いないぞ……。よそ見だって、したことないでしょ?」
「私と再会する前のことは?」
「……一度終わった、よね、私たち。一佳もそう思ってたでしょ? 自然消滅。だから、その……」
「責めてないですよ。訊いただけ」
「……何もなかったとは言わないけど。あなたと再会した時点で、全員切れてたよ」
「イケメンばかりでしょう。寛子さんのことだから」
異性関係だけを疑う一佳に、寛子は何とも言えない気持ちになりながら、平常通りの声で言い返した。
「一佳、私を何だと思ってるの」
「めんくい」
「否定はしない。……あ、自覚はあるんだ、自分がめんくいに食ら
われるほどの面(めん)だって」
「そういう話になります?」
「なるなる」
「じゃ寛子さんはめんくいじゃない……何の話でしたっけ?」
薄氷と一佳の境界線は曖昧だ。日常と生理前の境目くらいわかりにくい。その上、お互い不可侵の筈だったゾーンまで、どさくさ紛れに踏み荒らしていく怪獣イチカまで時折顔を出す。
―――でも。彼女のそういうところを、欠点とは思わない。
「明日あなたが起きた時も、私はいるよ、ちゃんと」
寛子の声が、ほつり、と波紋を広げる。
空気が凍っていない証。
肌感覚で、何故だかそういうことが、わかる時がある。
ちゃんと、届いて、沁みる。
慣用句じゃない、言葉になった。
――それは単なる結果論で。最初から、言える確証はないけれど。
「……すみません。不安になって」
「一佳が謝ることじゃないね……。いいよ、いいよ」
「多分、昔、父に家を出て行かれたからです。寛子さんとはまったく違う話なのに、引き摺るつもりもないのに、切り離せないんです……情けない」
「情けなくないよ。多分、私もそうなる」
「……愛されていなかった。母。そして、娘の私も。……『一佳が一番星だ』って、父、幼い私に言いました。多分、慣用句だった」
言葉で聞きたがる一佳は、自身がまず範を示そうとする。
誠実だ。
きっと思い出したくないことなのだろう、と容易に想像できるけれど、寛子には話したいことなのかもしれない。自分が彼女にとって特別なのだと、寛子はあまり、疑うことすらできない。
「それは……お父さんが。あなたのお父さんなのに、これから悪く言うね、ごめん。申し訳ないけど、一番星を、一番大切にできない人だったのかもしれない。そういう人っている」
「色褪せて見えたなら、こちらにも問題があるんだと思う。結婚後に本当に好みの人に出会うことだって、あると思うし。……私の養育費、出してくれたし。義務は――果たしてくれた」
「……うん」
「でも、捨てられないで済む魅力が、私の中にあったなら、とは、時々、考えます。もう父のことはいいんですけど。これから捨てられたくないから。かと言って、自分が変えられるか、っていうと……自信はないけど」
――うう。
抱き締めたい。と、寛子は衝動にかられるけれど、一佳の一番欲しいものは違うのだという。互いの好みと得手不得手の違いが、どうしようもなく、まどろっこしい。寛子は手持ちで一番大きいばんそうこうを使いたいだけなのに。
「長良(ながら)一佳だけにしかないものって、あるのかな……欠点だけじゃなくて」
「あるしかないけど、それこそすっごく説明が難しいよね。見た目はみんな違うけど、言葉にしようとすると、かわいい系、きれい系、かっこいい系……みたいに、要素になっちゃう」
「確かに」
一佳の悩み自体には、寛子も共感する。寛子も、特に就職が行き詰っていた時には、誰かに何か、あなたにしかできないことがある、と、確固とした答えをもらいたかった。
でも、自分がしんどい時期を抜け出してしまうと、やや雑になる。
「大丈夫だよ。だって一佳は、一佳じゃないとやだ、と私に思わせているんだよ。他の人じゃ、だめだよ」
「……ですから。それは、なぜ?」
「それは……。これまでの積み重ねもあるでしょ?」
「過ごした年月を重石にできるというなら、親子や長年連れ添った夫婦は……」
「……そうだね。ごめん。積み重ねて知り過ぎたからこそ、離れたくなることもあるのかもしれない」
――人の苦しみや悩みに、言えることなんて限られてる。
と、寛子はいつもすぐ、匙を投げてしまう。
勝算は、いつもない。
寛子は何のプロフェッショナルでもない。特別な能力も経験もない。自分の人生だけを、直感と突貫工事でどうにかこなしてきた。
つれづれなるままに。存分に。負けてさまよう。
実験なんて、失敗しているうちが楽しいのだ。そんなことを口に出したら、当時の指導役には怒られただろうけれど。
文理に分ければ寛子は理系だったし、理系学問は概ね好きだったが、だからと言って、そういう人間がみんな研究者の才能を持っているとは限らない、と寛子は思っている。理科が好きだから、という理由で学部を選んだ大学の同級生の中には、寛子を含め、物事を論理立てて考えることは実は苦手という人も、大勢いた。
そこまで考えて、ふと思い出したことがある。
「DNAの配列まで見れば、まず間違いなくオリジナルだね」
「素養がないと、どこを見たらいいかわかりません」
「気軽な検査キットがあるんだよ、今。確か」
「そうなんですか?」
「ゼミの元同級生の……あ、女の子ね! SNSにアップしてた。誕生日プレゼントに友達からもらった、って」
「残してるじゃないですか、昔からの付き合い」
「生きてるか確認するだけ。コメントはしないよ。……唾液をどこかに送ったら、肌質とか薄毛のリスクとか、病気の発症リスクとか、そういうものを解析してくれるんだって」
「へえ、小さい頃想像してた二十一世紀みたい……」
話し始めた側なのに、いつの間にか寛子は背中にひやりとしたものを感じている。
――しくじった。
何ヶ月か前に、寛子はある記事をインターネットで読んだ。
メダカの性指向や配偶行動を決定づけているのは、たったひとつの遺伝子変異によるものだと、東京大学の研究者が明らかにしたという、小さな記事だ。
ヒトの場合はより複雑なメカニズムが想定されている――と記事で補足されていたけれど、同性愛者を故障やバグと決めつけたい人たちは、優生学を伝家の宝刀のように使ってくる。遺伝子関係のトピックスは反証が難しいことをよくわかっているのだ。相手の主観的な決めつけをはねのけたい側は、常にすべての正解を知っていなければならない――なんて、とんでもない無理ゲーなのに。
「……まあ、検査にどこまで根拠があるのかっていうのが怪しいから、自分でやるとしたら占いレベルだよね、うん」
さっさとその話題を引き上げようとしたが、一佳の琴線のどこかに引っかかってしまったようだった。
「いくらくらいなんだろ」
「気になる?」
「……まあ、少し。才能とか、寿命とか。あらかじめ、ある程度は決まっているとわかったら、楽になるんでしょうか。知らなきゃよかったってなるんでしょうか……」
「内容によるんじゃない? 望むことかどうか」
「運命の人……とか」
「一佳、好き? そういう話」
「……あんまり……。ある時から、恋愛小説とか、女の人の書いたエッセイとか、楽しく読めなくなってしまいました。私には関係ない世界だなって」
「ふうん」
「……性別女性で検査申し込んで……女の人が運命の相手だって……結果に出ること、あるのかな。ないでしょう? きっと」
「知らないけど。あるんじゃない?」
「寛子さんはあっていい人だけど、キット作ってる会社の人は、どうかな。ダメ、って考える人、多いから。同性間は恋じゃないって」
「恋なんて、何を満たしたら恋なのか、そもそもふわっとしてるのに」
「疑似恋愛って言葉、昔ありませんでした?」
「全然覚えてない」
「教材だったか、『保健だより』みたいなプリントだったか。教室で、見た記憶。周りにはクラスメイトがいて……」
「ほう」
「同性間の憧れとか恋愛感情は、正しい男女恋愛に辿りつく前の、怯えを乗り越えるための練習、やさしい実験台、みたいなニュアンスの読み物。読んですごく腹が立ったし、胸がざわざわして。当時、放課後、生物実験室で寛子さんと会う間も、しばらく考えちゃってた。この気持ちは、疑似? 正しくない贋物? って。せんぱいは二年前に読んでる筈、とか。……本当に覚えてないですか?」
「ない……読んだか怪しい……あ、溜め息つかないで」
「そういう人でしたよね……。私はずっと……どこかに刺さり続けてます。恋をしてカップルになるのは必ず男女の組み合わせ、最後はみんな必ずそう、って、雑な断言も厭だったし……。あと、生殖しない女性が生きているのは、無駄で、罪っていう」
「当時の都知事の『ババア発言』ね。担任のー……あー顔は出てくるけど名前が思い出せない……先生がブチ切れてたな。『あんたたちが政治家にキレないと大人になった時もこんな社会のままだよ!』って。でも、どこにキレていいのかわかんなかったんだよね。都民税払う予定、あの頃全然なかったし」
「淡々というか、時々冷え冷えとしてましたしね、せんぱい」
「感情的になったら負けって空気とか、あと、キレる十七歳になりたくないという怖さがね……。歳が近かったから、少年Aと。酷い少年犯罪がいくつも起こって……女子高生ブームなんて言われて。ガングロに、ヤマンバに……言葉も酷いね、今思い出すと」
「そうですね」
「一佳はルーズソックスすら厭な顔してた。頑なだったよね。あ、疑似恋愛は覚えてないけど、本能、って言葉は目についたかも。男と女が惹かれ合うのは本能。ビビビッとくるのが本能」
「九十年代J-POPsの空気ですね……」
「居酒屋とかで聞くと、懐かしさもこみ上げるんだけどね。残念ながら未来の令和はあんまりうぉーうぉーうぉーじゃないぞ……って心の中で学生の自分に語り掛けてしまう」
「あの頃の未来には立ってないですよね。全然」
「本能って言葉、私、ちょっと納得いってなくてさ。ヒトの標準装備なら、石器時代からそうだったのかなって、つい考えちゃうんだけど……石器時代にわけあって少子高齢化の村があったとして、だよ。将来、誰が労働して村を支えてくれるんだって皆が不安になった時、若い男女が仲良くなっていたら、周りはラッキーって思うと思うんだよ」
「外来語もう入ってきてるんですか、その村」
「混ぜっ返すのうまくなったね、一佳。……村の長老とか、二人の親は、二人に、それは恋だよ、結ばれる運命だよ、この村で子ども作りなよ、ってけしかけると思うんだよね。築き上げた集団の維持のため。それが、集団生活する生物の工夫、って言うなら、まだわかる。種を残すのが本能、っていうのは、個人的にはわからない。環境が悪い時に、子を産むことで、面倒を見る親の生存率まで下がることがある。ヒトみたいに、幼体が一人前になるのに時間がかかる種だと、特にそう。親が死ねば子も苦労する。多産すれば、残る確率は単純に高まるけど、それもできない」
「はぁ……」
「男女で一組になって欲しい、は集団の願い、ご都合であって、個人は必ずしもそうできてない。じゃなきゃ、私たちが惹かれ合うってことは起こらないでしょ? ……世間に厭そうな空気を醸されながら、わざわざもう一度くっつく理由がない」
「何かの間違い、もしくは練習台だって」
「ということにしたいよね。集団は。不都合な属性は世界に存在しない、って言い切るのも、これだけ世界中がつながってたら無理がある。だって同性と一緒にいる方が幸せな人は、どこにでもいる。見せたくないなら、社会を閉じるしかない。その上で、皆にとって邪魔なものを削ぎ落として、生殖と社会維持の機械になれ、って命令するしかないんじゃないかな」
「……でも、人は、機械じゃない」
一佳の声が、薄闇の向こうで引き締まる。
テレパシーとまでは言えないかもしれないけれど。
一緒に暮らしていて、今、同じものを、本当は見えないものなのに一緒に見ている気がする、と思う瞬間は、時々あって、今がその時だった。
錯覚ではない、と信じたい。
「そう。意思がある。……でもね。私は、アンドロイドみたいになれたら、いいんじゃない、と思うこともあったよ。時々」
「そうなんですか?」
訝るような一佳の声に、心ごと一塊になった錯覚はすぐ溶けて。
すぐ、距離ができる。
お互い違う人間だと思い知って。
隙間風が身に染みる。
――それも、必要だ。
「シンプルでいたいなって。自分や人の複雑さを、変、って思ってしまう日もあって」
「…………」
「今も思うことはある。けどさ。……そりゃもちろん、もう最先端の研究にはついていけないんだけど。ちょっと気になることを検索したら、人の研究成果はいつでも目に入るわけ。そういう人って、研究者も、趣味の人も、どっちでもない人も、誰かにとっては取るに足りないかもしれないことを、ずっと、調べて、時にはごはんの味がわからなくなるくらい、検証し続けているわけでしょ。今、まだ目に見えない世界のことまで。……そういうの見ると、自分一人が変なやつなんて、全然、思えないよね。むしろ私なんて、全然シンプル」
言い方が難しいな、と寛子は思う。
言葉や論理的思考の扱いは、やはり得意ではないようで。
語弊があるかもしれない。だけど。
寛子はきっと、まだ実験を続けている。メダカではなく、自分の体で。自分自身と、その恋愛感情なるものを、環境と言う水に晒し続けて、どうなるか。
状況分析。仮説。調査。観察。測定。実験。考察。検証。
異性と恋をして生殖する、それが幸せと感じる人にとって、時に軽視されがちな主題。謬説。少ない先行研究。
今、はっきり正体がわからないものの実態を少しでも知りたくて。
データを収集して。測定結果と個人の経験則を仕分ける方法に悩んで。人の話を聞いて。助言を求めて。
「……変な人のおかげで、便利になったこと、いっぱいあるし。何の結果も残せなかった人のおかげで、どんなことだって興味持っていいんだ、自分だけじゃないんだ、って勇気もらえるし。……学問してる人のおかげで? どんな時も、追い詰められないで済んでる。そういうのを最初に始めて、続けているのは、ヒトだけだし。だから、絶望しない。……研究者にならなかったし、なれなかったし、学んだことや学歴は全然お給料に反映されないけどさ。それでも、学問というものの端っこを齧って、良かったよ。みたいなことを、さっき話しながら考えた。……うーん、これ、強がりかな?」
やっぱり、いちいち口にするのは厭だな、と寛子は思った。頭で考えている間は、優れた考えのような予感がするのに、外に出すとなんだかダサい。そんなことばかりだ。
だからかもしれない。キレるのは厭だ、と今も思うのは。
説教してくる人より自分の方が無知なのかもしれない、といつも思うから、年上の言うことはとりあえず否定せず、自説をむやみに開陳することなく、――でも諦めて捨てることもせず、できるだけ色々な人のケースを目に留めようとアンテナを張ってきた。
経験と集合知、検証を積み重ねて、得た自信もそれなりに。
疑似恋愛、なんかじゃない。異性愛と比べて、自分たちは何かが足りない、弱い、なんて、卑屈になる必要は、やっぱり、ない。
少子化はご都合が悪くて攻撃してくる、それは、相手も生物だから。そして自分も一佳も生物で。意思を尊重されるべき一個人。
敵同士ではない。だからと言って、一方的に評価され、見下されることを当たり前だと、諦めなくていい。
「……一佳のどこが好きか。いつも考えてるよ。だけど、最終の結論はまだ出ない」
「…………」
「今日も好きか、昨日よりも気持ちが減っていないか、どうしても代わりがきかないものなのか。他の人にときめきを感じることはないか。多分、集団の意向通りでOKな人より、高い頻度で考えてる。自分をはかり続けてる。……一佳もそうじゃない?」
少しの沈黙の後、どうかな、と自信なさそうな声が返ってくる。
だから。自分たちは、もっと、自信を持っていい、筈だ。
この子だ、と感じた筈の女の子を、愛し、自分なりにいつくしみ続けている。お互いに。この、生きづらい世界で。
この個人的な追究を、世の中に展開する日は来ないのだろう。
何故なら、完成したと言える日、それは。
「できる限りの幸せを、ここで――作って、あなたに渡して、私ももらって。生殖しないまま、本当に満足したって顔で、いつか一佳に看取ってもらう」
そうしたら。
「そうしたら、きっと、運命の人でしょ? 私たち」
――運命にしようよ。
それはきっと、遺伝子検査より心弾む未来予知だから。
寛子はこのまま幸せな夢を見れそうな、すっきりした気分だったけれど、一佳は、残念ながら不満そうな声だった。
「厭です」
「何で」
「……満足した顔なんて見ません。絶対、私より先に死なないで」
――まったく、この子は。
寛子は笑って、一佳の額をぴん、とはじいた。
「何言ってるの。そっちが年下でしょ」
小さな町だった。
沿岸は堤防に囲まれているから、間近に行かないと、海面を見ることはできない。
だが、わずかな雨でも泥色に濁る川の、水深もそうだが、そこから漂う潮の香りの濃度が様変わりすることによって、凪の海の存在を常に近くに感じる。
他のどことも違った、べたり、とした甘い空気が漂う――
そこが、寛子(ひろこ)が六年間通学し、青春を過ごした場所。
水際(みぎわ)町。
朝八時を過ぎると、小さな電停から学校までの川沿いの道は、私
立汀野(みぎわの)大学附属の中等部・高等部の制服で埋め尽くされる。
時折、私服の人も混ざるが、顔を見るとどこかで見覚えがあって、なんとなく事務局や汀野大学の関係者かなと思っていた。
生徒たちと時々大人が、一方向へゆっくり歩いていく様子は、空から見下ろした時、蟻の列のようにも見えるだろう。
線路わきの道も、橋も、車道沿いの歩道も、ぎりぎり二人並べる幅しかないが、皆、追い抜くことも考えず、漫然と歩を進めている。
かと思えば、途中、知った顔を見つけて駆け寄る者があったり、じゃれ合って流れを止めたり。
我が道を行く導線が発生するのも、蟻に似ている。
――もし、ラッシュの東京や梅田でそれやったら、ぶつかりおじさんが飛んでくるからね?
駅のベンチに座り、遠ざかる列を眺めていた寛子は、そんなことを思ってから気づいた。
――あ。これは、夢だ。
自分もどうやら中等部の制服を着ているが、中学生の頃の寛子は、ぶつかりおじさんの存在なんて知りもしなかった筈だ。
痴漢すら都市伝説だと思っていたが、その代わり、人のいない公園や駅で卑猥な声をかけられたり、路上駐車の車に連れ込まれそうになったことはある。
どこにでも暴力はあるが、場所によって出方が違うのだろう。
そういうことがわかるようになったのは、環境が異なる場所でそれぞれ過ごしたからだ。
寛子は、自分が行くまで、都会というものを知らなかった。
――夢だし。行かなくていっか。学校。
夢だから、だろう。朝の腰痛も倦怠感もなく、実在感に乏しいほど軽い体に、すっきりした脳。
ぴかぴかの自分。全能感とはこのことだろうか。
だからこそ余分に、まったりどこまでも続きそうな「普段」のノルマ消化なんて、もったいない気がしてしまう。
翼があるのに、足に錘(おもり)がついている、と言えばわかりやすいだ
ろうか。
どこにだって行ける筈なのに、どこにも行けない。
そんな厭世観が雲のように、心の晴天を覆っていく。
「若いって、こーんなだっけ……」
もっと無条件でからっとした感じだった気もしたが、記憶というものは自分に都合良く改変されてしまうものかもしれない。
太ももにのせた学生鞄の上に頬杖をついて、遠ざかる学生服の群れを眺めていると、後ろから肩を小突かれた。
「おい、尾瀬だろ。遅刻すっぞ」
早口で投げつけるような物言いに驚いて、振り返ると、懐かしいにおいに包まれた。
けむたい、九十年代から運ばれてきたにおい。かつてはどこでも漂っていた、苦くて、喉の奥がイガイガする存在感。
――スモークハラスメント、なんて言葉は、なかった時代の。
「……立田先生こそ」
理科教師で、生物部顧問。
放課後、残り香を生徒に指摘されるたび、「マールボロ(これ)が一番、
眠気に効くんだよぉ」と呟いていた。
――そういえば、朝は駅裏の喫煙所で一服するのが日課だったっけ。
「いや、わたしはね、サボってる生徒に、登校するよう指導をしているだけで……」
「先生、後頭部すごい寝ぐせ」
「あー。かわいくねー」
「私、先生に『かわいくねー』って言われるの好きです」
「何だそれ」
立田はにやっと笑って、どっかりと寛子の横に座り、足を組む。
当時のトレンドを逆行するような太眉にすっぴん。銀縁眼鏡に、刈り上げのようなショートヘア。着ているものは、原色の変な英語入りトレーナーとスラックス。
愛煙家で、雑な言葉遣いで、子ども嫌いを公言していて。
学生の時の寛子は、「これも大人だ、中学教師だ」と思っていたが、今、令和の感性で見れば、相当、変わった人だ。
変な大人と教師が、平成の初めにはまだたくさんいた。
立田はたぶん、その中でも結構な個性だった。
「学校、行かんの?」
「行きますよ。立田先生に指導かけられたんで」
「わたしを言い訳にするなよ」
「言い訳にしようとしてるのどっちですか」
「……長えんだもん。教頭の朝の話」
「不良教師」
「いいんだよ。大人だから」
「へえー。私も早く大人になりたいです」
これはリップサーヴィスだ。大人になっても、別に、どうということはない、と、もう寛子は知っている。
「ふぅん。大人はいいぞぉ」
――彼女はサービスをするような大人だった、だろうか。
寛子には久しぶりに立田と話ができて嬉しい気持ちもあったが、夢なので当然、虚像だ。
できるだけ本人から苦情が出ないような会話をしたいところだろうが、彼女は、本当は、どんな人だっただろうか。
記録に使ったのが十代の学生のレンズだから、あまりあてにならない。
不必要に子どもに干渉しない、彼女の涼しい自己完結っぷりが、当時の自分を惹きつけたのだと寛子は思っている。
寛子は、トップが自分の認めた相手でなければ、部活動とはいえ、集団に属することはなかっただろう。
……やはり、こんなことは言わないかもしれない。当時の立田なら、だが。
学校主催の周年同窓会で、立田と話した時の影響が強いのかもしれない、と思った。三十歳が目前となっていた寛子と同じだけ、教師も歳を重ねていた。
別に、無敵ではなかったのだと直感した。いつでも一人でいる姿が、学生時代は眩しかったのに、その時はそう見えなかった。見る方の目が変わったのか、本人が変わったのか。
――何歳の時のその人が、一番、その人の芯の部分に近いと言えるのだろう。
月日とともに脱ぎ捨てていけるだけなら、身軽でいいけれど。
そればかりでもない気がする。
「めだか、どう?」
「生きてますよ。ちょっと動きが鈍いですけど」
多分。実験の最初期はそんな感じだった筈、と、欠けらの記憶で答える。
「しばらく濃度調整がめんどうかもわからんが、生き物相手だ。半端に投げるなよ」
面倒だから入るつもりがなかった部活動、それも、得体が知れない集まりだと思っていた科学部に、寛子は、中学二年で入部した。
ある日の朝、橋の上から川を見下ろしていたところを、遅い出勤の立田に見つかったのだ。
通学路のわきの川が、引き潮で浅くなっていた時間だった。
歩きながら、なんの気なしに川を見下ろすと、一面、テラテラと動く異様なものが広がっていて、寛子は思わず足を止めてしまった。
異様なものの正体は、ボラの口だった。
腹で水底を掻くようにしても、頭がのぞくほどの水深、狭まった川幅の残りでひしめきあうボラが、酸素が足りないというように、口をぱくぱく開閉していたのだ。
――キモッ。
生理的にそんな言葉でやり過ごそうとしたのだけれど、なぜか目が離せなかった。
ただ、呼吸しようとしているだけ。
その一生懸命さと、光景の異様さに、素通りはできなくて。けれど、自分が何に足止めされているのか、本当にはわからない。
同級生に見られたら「変な子」の仲間入りだ。
そうなったとしても、それなりにうまく躱して、見くびらせない方法は生来なんとなく知っていたので、興味の方を優先した。
――そんな狭苦しいところにとどまらなくても。すぐそばに広い海があるじゃない。気付いた魚から、移れば、いいのに……。
通じないのは承知で、念を飛ばしていたら、背後から立田に声をかけられた。
水面下の世界に気を取られていた瞬間だったから、うまく逃げられなかったのも、ある。
気付けば、科学部に入部する方向で話が進んでいた。
「実験やって、がっつり特選か内閣総理大臣賞取ってけ、秀才」
「はは。それ取ったら、なんか、いいことあります?」
「いや。賞金は出ないけど。……うーん?」
「…………」
「あ、地位と名誉が手に入るかも」
――そう、こういういい加減さはある人だった。
立田の声音と表情が嘘々しくて、寛子は懐かしい気持ちになってしまう。
地位と、名誉――
多少は大学受験で賞の加点があったかもわからないけれど、センター試験で基準点をクリアできたから、なくても問題はなかった。
朝礼で賞状を受け取った日は、なんとなく同級生から腫れ物に触る的な対応を受け、自ら笑いに変えて、それだけだ。
今となっては、もはや懐かしいおじさんの名前入り賞状が残るだけ。それも、実家の物置のどこかに、埃をかぶって。
「尾瀬が入部して、良かった。せっかく頭がいいんだ。キミたちが、日本を良くしてくれな」
「……はぁ、それは……。できますかねぇ……」
「好奇心は人類の宝だ。行ける、進化の先まで、どこまでも」
「……どこまでも……」
どこだろう。
水際町ではない、都会へ? それとも外国?
確かに、寛子は大学で関西へ、転職で関東へ、移動はした。
けれど、好奇心の赴くまま、才能で人生の舵を取ってこられた、というような、見栄えの良いものではまったくない。
その時々の必要に駆られてであって、流れに翻弄されっぱなし、先の見通しなどまるでなかった。
地道に科学雑誌を読みこんだ、その知識など今となっては、共有する相手も容易に見つからず、使いどころなく、不良債権と化している。好奇心のコンパスは空回りを続けて、右往左往するばかりだ。
――それでも?
「結果的に研究者になろうが、なるまいが、そんなこたぁどうでもいい」
「…………」
「夢を持つ、ってことが一番大事なことだ」
「夢、」
そう、そのセリフは、立田に実際に言われたものだ。
ひねくれた、扱いづらい秀才、だった寛子に、鼻で笑われることを恐れず、臆面なく言ってのけたのは、立田だけだった。
――では、先生は、なりたいものになりましたか?
――その一番目が、教師でしたか?
――それとも当時はそれしか選択肢がなかった、方の、生存戦略の夢ですか?
寛子は、さすがに分別がついてからは問えない問いを封じ込めて、恩師をじっと見つめる。
スタイリッシュで現実的な、今の子どもたちには、この人が語る雑な未来予想図は、もう通用しないだろう、と思いながら。
凡庸な令和の大人の目で見つめれば、ショートに混ざる白髪、トレーナーにできた毛玉、笑顔を長く忘れた表情筋、そういう見てはいけないものが見えてしまって。
成功者、目標――の絵面が、いつの間にか、なんだかすごく、変わってしまった。
実験を始めたあの頃。
あれは日本がミレニアムに沸く、少し前のこと。
めだかは環境省のレッドリスト入りをしていた、と、後に何かで読んだ。寛子があんな実験をした影響も、ないとは言えないだろう。
人間の都合で、居場所が狭まっていく生き物たち。
そして人も。
気候変動の影響で、令和になってから、水際町近隣もたびたび、水害の警戒地域に入る。
こんな未来になるなんて、あの頃は、まるで思わなかった。
あの頃は。
最近、帰宅すると、毛布のかたまりに擬態した同居人が、ソファの上に丸まっていることがある。
「ただいまぁ。……一佳(いちか)?」
「…………」
「あ、そこにいたのか。ただいま、一佳」
寛子(ひろこ)が声をかけると、丸く盛り上がった毛布から一佳が少しだけ顔を出した。
今まで寝ていた顔でもない。
が、なんだか表情に精彩がない。
職場を出た時に送ったメッセージに既読の表示がつかなかったから、念のため、物音を立てないように帰宅したのだが。
こういう日が、この頃、時々ある。
「……あの、おかえりなさい。……すみません。寛子さん。ごはん、まだ作れてない……」
「ううん、謝る必要なし。こんな暑さじゃ無理! 身体、どう? しんどい?」
寛子は一佳を観察しながら、手を洗い、うがいをする。アルコール液で消毒した手で、毛布の盛り上がりをぽん、と触る。
寛子だって元気ではない。
十九時半。
今日も都内の気温は、日陰で三十六度超え。体感だといかほどか、昼休憩も、アスファルトが湯気を立てそうな暴力的な熱波に心が折れて、行き先を一番近いコンビニに変えた。
日が落ちてからの帰宅でも、駅舎を出ようとした瞬間から、空気そのものが熱くて、あっという間にサウナのように蒸し上がる。
帰宅したら、何はなくても水分補給。
スポーツドリンクを出すついでにさりげなく冷蔵庫チェック。
――今日中に食べてしまわないといけないものはなさそうだ。
「飲むね。っていうか一佳も飲んどくか、スポドリ」
「……んん……」
「飲もう飲もう、猛暑だから」
「欲しいと、あんまり、思わないんですけど……」
一佳はそう言いながらも、もそもそと上体を起こし、寛子が差し出したグラスを手に取ってくれる。
蒼白めの顔が痛々しい。
スポーツドリンクを飲んだ後、一佳は再び横になった。
「すみません……なんか、怠(だる)くて。あ、熱は、平熱です。咳も、関節痛も、味覚障害もなし」
「良かった」
「症状はないんです。ただソファから動けなくて……」
感染を避ける生活が始まってから、体温計での検温は、それまでよりずっと身近なものになった。
体調が悪い、の意味合いが、それまでとは変わって。
自分が不調を抱えてつらいだけではなく、自分と同居する家族、同じ職場の同僚など、周囲の人の生活すべてに影響を及ぼすものになった。
なので、見極めと申告はできるだけ早く。
何をおいても、まず、コロナの心配。
新型コロナウイルス。その位置づけが、令和五月からインフルエンザなどと同じ「五類感染症」に移行した。
国の感染対策上、節目の時だ。
感染対策は個人の判断にゆだねられ、まだ感染症状が出たことはない寛子と一佳も、相談をして方針を決めた。
――でも、かかったのがコロナじゃなければそれでオールクリア、という話でも、もちろん、ない。
「……今、『正体不明の体調不良』って、すごく多いよね、あちこちで聞く。……まあ昔から、内科系は、風邪っぽいけど様子見、って診断が多かった気がするけどね。今、体調崩してる人、単純に多くない?」
「ああ……うちの会社の上司も、オンラインミーティング前に、ヘルペスが痛いって……そこに帯状疱疹経験者もいて」
「久々の飲み会で、アルコールに弱くなったって言ってた人もいたし。三年半くらいで生活習慣や環境がかなり変わって、疲れやストレスの蓄積も出てきやすいし、戻りの反動もあるかな……」
「……アレルギーも……」
「あれ、一佳なんか持ってた?」
「いえ。……でも、出方はアレルギーみたい。メンタル方面……」
「え」
「いや、この話、長くなるから、今はいい。寛子さん、おなかすいてるでしょ」
「そんなでもない。話そうよ。それとも、食べながらが話しやすい? 一佳、おなかすいた?」
寛子は一佳の足元に座る。
同居人の話より大事な三大欲求などない。
「食欲……あるような……ないような……」
「軽く済ますか。冷凍庫の買い置きか、コンビニの麺類か、テイクアウトで牛丼か……お寿司とか」
「回らないお寿司。給料日前に、豪勢ですね」
寛子はふっと笑って聞き流す。お祝いでもない日に二人の間でお寿司と言えば、チェーン店の、ほぼ二貫で百十円のお寿司と決まっていて、それが一佳なりのジョークだとわかっているから。
「そのうち、『回るお寿司』が死語になるかも」
「確かに」
寿司大手チェーン店で、多様な寿司がレーンをくるくる回っている光景を見ることは、昨今ほとんどない。タッチパネルで注文した皿が、奥からスッと流れてきて、目の前で止まる。
ファミリーレストランでも、タッチパネル注文、ロボット配膳が増えていた。コロナ禍を経て、大きな変化と言える。
「寛子さん。あの。今日、母からメッセージが、入ってて」
「すごく突然。なんて?」
一佳から、リアルタイムで家族の話を聞くことはほとんどない。
長い付き合いなので、寛子の方から訊くことも、必要に迫られない限りはなかった。
「転んで、足にひびが……って」
「わお、大丈夫かな⁉」
「大丈夫だそうです。ぴんぴんしてるって。そもそもケガしたのは一週間前で、カレシに病院の送り迎えしてもらったんだって。……じゃあなんで連絡してきたのか、今頃」
「心細いのかな」
「暇なんでしょう」
「…………」
「普通の親子の、ハートフルな触れ合いみたいなの、我が家に期待してもだめですよ」
「まあ、お互いに、もう大人だしね」
「ええ。お大事に、とは伝えたけど、それ以上は……。なんでしょうね、一言二言交わしただけで、この消耗。今更、罵詈雑言を浴びることもないんですけど、延々噛み合わない、というか。もやもやが後を引いて、もやもやする自分に余計考え込んじゃって」
「うん」
「……別に、今のカレシが誰でも、母の自由です。法律はわからないけど、私の口出しすることじゃない……けど、あんまり知りたくないのに、わざわざ言うってどんな気持ちなんだろう? って、もやもやして、動く気力が……」
「なくなっちゃうわけだ」
「生きるエネルギーを延々吸われ続ける……昔から。でも毒親とか、親ガチャ失敗とは、私は言いたくなくて。あ、やだな」
「何が」
「愚痴言っちゃいました」
「愚痴悪くないよ。吐き出しちゃえ」
「寛子さんの気分まで暗くなるんじゃ……」
「ならない、ならない。見て? この明るさ。てか、めちゃくちゃ顔テカってるでしょ。汗で化粧全部流れるんだけど?」
笑いを取りに行ったついでに、顔の近くでギャルピースをしてみせると、懐かしさか、呆れか、一佳がなんとも言えない顔で目じりを下げて微笑む。
「……ふふっ」
「共感能力が足りないのかも。昔は、暗い人にやきもきすることがあったけど。心がギャルでしたから。明るさこそ正義、と」
「根性ありましたよね、寛子さん、あんな地方の片隅で、ギャルを名乗るなんて」
「名乗った覚えはないよ。地髪が茶色くて、ちょっとスカート短くして、ルーズソックスとか、何度かはいてみただけでしょ。あと、禁止されてたコンビニに寄るとか? それも必要があった時だけだし。渋谷のコギャルに鼻で笑われるレベルだよね」
「あの地方の同調圧力の中でそれができてたのが、別の意味ですごいです」
「一佳だって同調してなかったじゃん」
「私は……ただ『みんなと同じ』ができなかっただけです」
「……そんな……こと……」
「…………」
「………………」
「よし、注文おっけー! いつもの人気十二種! ……で良かった?」
「聞くタイミング、今ですか?」
「ごめんごめん」
「一番気に入っているやつなので、良いですけど。どうせ訊くならもう少し早めに」
「はい」
スマホアプリでさくさく注文完了。便利な世の中だ。
某出前配達サービスも、アプリだけは入れてみたのだが、夜間、玄関先まで知らない人を呼ぶのは抵抗があるし、店舗まで歩いても十分もかからない。
「……なんか偉そうに、すみません。結局こうなるなら、もっと早く見切りつけて、お願いしていれば良かった。そうしたら、寛子さん、会社帰りにお店寄れたのに……」
「いやいや、そもそも、夕食当番、最近は一佳に甘えすぎだ。こっちが、ごめん!」
「いえいえ、移動時間がないぶん、余裕がありますから。……その筈なんですが」
寛子の職場も、一佳の転職先の職場も、在宅勤務が可能だったので、しばらく夕食当番は曜日を決めてうまくいっていたのだ。
しかし、「五類」移行後から、寛子の部署では少しずつ、出勤しなければ片付かない用事が増えてきて、出社の比率が高くなった。
家事負担が、在宅の一佳にかたよってきているのだ。
疫病にともなう消毒や掃除も、名前のない家事も、細かいことを気にする一佳の方に負担がかかってしまっているのを、寛子も知っていて、調整がうまくいっていなかった。
寛子はそもそも適度な手抜きをよしとするタイプなので、そこに家事がある、ということにすら気付かないことが多い。
一人暮らしならそれでいいのだろうが、共同生活は、暮らす相手のことを自分以上によく知る努力をしないと、見えないところで、相手に苦労をかけてしまうかもしれない。
一佳には、不全のすべてを背負って自分を責めてしまう完璧主義と、責任感の強すぎるところがあるのかな、と、寛子は長い付き合いの中で思っている。
「……私、ほんと、自分がいやになります。親とのことだって、もうこんなに物理的にも離れたのに、自分も大人になったのに、まだ割り切れなくて。悩み事の質が、思春期から変わっていない……四十が見えてきているのに、大人になれない」
「よしよし。一佳は何も悪くないし、よく頑張ってるよ。昔からね」
「もうほんっと……寛子さんと出会ったの、十二……? から成長が見えないって」
「してるよ。成長してる」
「嘘でしょう? いい年して、身内のどうでもいい言葉で傷ついて、自分じゃどうにもできないニュース見て、さらに落ち込んで。情けない……いつまで経っても、この世界に順応できない」
「そんなの無理でしょ!」
「声おっき」
「おっきい声出た」
テレビから感染者数の速報が消え、観光地やお祭り・外食情報が溢れ、平常化していく世の中に触れても、一佳の心と体は、まだ、安心や解放感の方へは向いていかない。
情報過多の世の中だ。何が正しい、とこの時点でわかることは少ない。が、疫病が根絶された、治療法が確立された、というわかりやすい解決はまだ得られていないし、ニュースを見れば、戦争にクーデター、気候変動に地震、食料危機。過去の災害の傷と復興の遅れ。痛ましい犯罪事件に事故。搾取と暴力――いち情報として流れていくばかりの人の死。
生活するために店に立ち寄れば、必需品の値上げに物価高。物価の優等生・卵の価格ですら戻らないまま。
ここは、彼女が安心して、晴れ晴れ、明るく過ごせる環境では、ない。
「考えてしまう一佳が好きだよ。昔から。あなた自身はつらいだろうけど。考えるたびにすり減るだろうけど、成長してないなんてことはありえない。してる」
「だけど、私みたいに、自分一人でいっぱいいっぱいな人間に、世界は変えられないし、だったら考えても仕方ない。楽しいことでごまかしたり……日々、工夫してご機嫌にやっていく……べきでしょう?」
「そうかもしれない。そうしている人は多いし、私も……そうしてしまう、つい。みんなそうやって、自分を守っているんじゃないかな。でも、私は一佳の過ごし方の方が好き」
「…………」
「いちいち傷ついてあたりまえだって、本当は思っているんだと思う。傷ついて歩みを止める方がまともなんだって。自分が変なの、どこかでわかってる。でも元気で働かなきゃ、最悪の事態が怖い」
「寛子さんは、昔から、自分の手に負えるものとそうじゃないものを見分けて。大人でした」
「親も小器用だからなぁ。勝手に学んだのかもしれない」
「私も、寛子さんと暮らせて、勉強になるなぁと思ってます。そういう考え方もできるんだとか。逃げ方とか」
「そうなの? ……でもあんまり真似できてないよね。良かった。私に似てこなくて」
本気のトーンで寛子が言うと、一佳はくしゃっと顔を崩して、体を揺らして笑った。
「なんなんですか、その言いよう!」
「えー? だって、普通にいやでしょ?」
寛子もソファに背中を預けて、くしゃりと笑う。
――自分とは全然違う、他人のこの子と過ごすのが、このうえなく幸福だ。
だから、何もかもゆるく受け流してでも、寛子は守りたい。この生活を。
「なるほど。寛子さんは、私が私らしく、絶望に耐えてるのがお好みなんだと」
「勝手に追い込まれる一佳が愛おしいという話で、敢えて崖から突き落としはしないよ。むしろ私といる時くらい、まったりまどろめ、って思ってる。ご自愛、ご自愛」
「……バランスをとる……?」
「そうそう。できる範囲でね」
「……ほっ」
一佳が、腹筋の力だけでむくりと体を起こす。と思うと、きびきびした動きで台所へ向かった。体が重そうにはもう見えない。
「残り野菜でお味噌汁……と、小松菜のおひたしくらいは作りたい、です、せめて」
「え、いいよ無理しないで……」
「ビタミンとミネラルがどれだけ大事かわかってます?」
「あ、はい、お任せするわ……」
健康診断でいくつか要検査項目が出た寛子に、否はない。
――一人だったら、それでも好きに生きて、何が悪いと開き直れるけれど。
でも、縁あっての二人暮らし。
相手の分まで長く、元気でいなくては。彼女の悲しむ顔は見たくないし、元気でいないと、きっと思いやりだって贅沢品になってしまうから。
身軽ではない。だけどそれは、寛子には悪くない重みだ。
「じゃ私はお寿司受け取ってくる。ついでに朝食のパンも」
「あっそうだ。切らしてた。何から何まで、すみません!」
「謝ること、なんにもないって」
二人の人間。不完全が二つ。
日常は、スムーズに流れて行かない、がデフォルト。
多少のずれや失敗は、リカバリー前提でいけばいい。
テイクアウトのお寿司とあったかいお味噌汁、それと一佳ご推奨のビタミンとミネラルをとって、少しまったりしたら、疲れの取れる熱いシャワーを浴びて、歯磨きして、しっかりクーラーのきいた部屋で早めに寝てしまおう。
とは言え。二十二時過ぎは、さすがに眠くない。
それでもこんな時間に、きちんと寝支度まで済ませてパジャマでごろごろするだけでも、ご自愛感は出るものだ。
「寛子さん」
「うん?」
「寛子さんは、一目惚れを信じますか?」
シングルベッドの向こう側から、ほつりと響く声。
本日も、検証日和だ。
「あると思うね」
「……即答……」
自信満々に言い切ってしまう寛子と対照的に、一佳は納得しかねる様子だった。
「ん? 一佳ちゃんは、いつ私を好きになってくれたのかな?」
「茶化さないでください」
「ケチ」
寛子の方だって、たまには甘い囁きを受けてみたいのだが、一佳のガードはなかなか固い。
「……私の方は、生物実験室で会ううちに少しずつ、ですよ。でも、寛子さんは、初対面の時から私の顔が好きだって、以前」
「顔は……うん」
「あ、すみません、思い上がりでしたか」
「いや好きだよ。とても好き。でも造作に焦がれるっていうより、持って行かれた……って感じだったんだよね。歩く佇まい、とか、オーラの重さとか。あ、悪い意味じゃないからね!」
「……重いですよ、私は、どうせ」
「うーん。大丈夫か? とは思ったよね、守りが必要な学校って場所であんな雰囲気出して、って。その瞬間、『好き!』ってお花畑が咲き乱れる恋にはならなかったけど。気になって、話してみたいとは思った。つまり、知りたいと」
「……はい」
「それで……話すようになって。見るよね、とりあえず、知り合ったら、興味持ったらその人を。その状態を好きというかどうかはわからないけど、私はまずその状態になることが少ないから。そうなった人とは全員付き合ってるんじゃないかな。つまりその時点で『好き』に寄って行ってるとは言えると思う」
「本当に、せんぱいは、人に興味がなかったですよね」
「あの頃、謎に省エネ入ってたから。……正直に言えば他にも、少ないけど観察対象、候補はいた。大学にも。社会に出てから知り合った人にも。……でも、結局、選ばれなかったり、選ばなかったり、でもそういう人を思い出す時、『一目惚れ』って言葉は当たらないんだよね。何かなければ、ほぼ存在も思い出さないし。だから持論ですが、うまくいかなかった恋について、私は『一目惚れ』とは呼ばない。結果オーライの時だけ使う」
「うわぁ……」
「ペーパーテストのヤマかけに近いものがあるね。基本、得意だと思っているけど、外れた時のことはすぐに忘れるとも言える」
「それ、完全に、性格ですよ……私はカン外した時の『やっば……』ってなった時の記憶しか残ってません」
「ほんっと、一佳ってば、損な生き方……」
オーライにならなかったものも。合図を出して距離を縮めたり、一緒に過ごして一挙手一投足にいちいち心の中で反応したり。ヤマの当たり外れを確かめるまでの、駆け引きも予感も高揚も、どれも、いわゆる恋らしかったと思う。
と、言うと、純愛の、夢が壊れる、と外野に叩かれるだろうか。
『恋バナ』は、どこかで聞いたことがあるくらいポピュラーなお約束しか求められない。
ストレートな恋情に、わかりやすい泥沼。
不透明な人間が絡む時点で、純度百パーセントの寄り道なし、なんて恋、至難だろうにと寛子は思う。
ポピュラーで鉄板で、間違いない。
間違いなく、労せず、正しい相槌が打ちたいあまりに?
見込みを外したものは、not for me、そう呟いて忘れてしまえばいいのに。
「私は、今でも覚えている、あなたの姿があるよ。一佳」
「……え。何ですか」
「昔だけど、すぐ思い出せる。一佳がバスケしてる姿」
「……バスケ? って、あのバスケ? 中学入って間もなく部活やめましたけど……」
とっくに縁は切れたものの話をする時の、記憶を手繰り寄せるようなスピードで、一佳が応じた。
確かに一佳はバスケットボールを続けなかった。
同級生との関係がうまくいかずに部活動をやめ、その後、インカレッジや社会人サークルのようなものに入った話も聞かない。
「そう、部活動してる一佳には会えなかったけど。毎年、クラス対抗の球技イベントがあったでしょう。クラスマッチだっけ?」
「……ああ! ありました。よく覚えてますね。せんぱい、体育会系イベント、全サボリだったタイプでしょう?」
「いやいや」
「バレーは手が痛くなるとか、ソフトボールは日焼けするとか」
「……確かに言いそう、若かりし私」
「寛子さんから、そう聞いた気がします。出なくて済むよう、逃げ回るんだって。何年生の時か、ジャンケンに負けて、卓球で、一瞬で負けて終わりにしたんじゃなかったですか?」
「! そうだわ。いつだか卓球やった記憶がある、同じくらい、やる気のない子とダブルス組んで……。よく覚えてんね、一佳」
「自分の記憶の方は曖昧なんです。寛子さんに、話したのかな、私……? そんな筈はないんだけど……」
「見に行ったんだよ。わざわざ中等部の体育館まで。ということは、私が高等部、あなたが中二か中三の時、かな」
「……バスケの選手に入ったのは中三ですね。……ああ、あんまり思い出すべきじゃない、って本能が告げてる。パンドラの箱」
「ほんと? やめようか」
「いや、さすがに時効の筈……。っていうか、初耳なので、最後まで聞きたいです。見てたんですか? どこで?」
「フツーに二階の観覧席……あれ、見るの禁止されてた?」
「私が中三の時は、寛子さん高二でしょ。お互い勉強やらなきゃで、そんな話、していなかったんじゃないですか?」
「そっか。難しい時期だね、進路のこととかね……」
「せんぱいもお化粧して、どんどん大人っぽくなっていくし……興味関心とかもちょっとずつズレてきて」
話を続けるうちに、どんどん思い出していく。
一佳の目に映る寛子も、寛子の知らない寛子だが、一佳の目に映っていないだろう一佳を寛子も知っている。
――あの頃、私達、距離ができたんだよね。距離って言うと、語弊があるか。
私立汀野(みぎわの)大学附属は、中等部では二年と三年、高等部では一年と二年のはざまで、進路に沿ったクラス分けが行われる。
中等部三年になって、一佳は、関係が悪化したままの元女子バスケットボール部員たちとクラスが別れた。
寛子の予想でしかないけれど、新しいクラスで、彼女はようやく落ち着けたのだと思う。
体感的に、自分にかかる重さが減った。
もちろん、寛子にとって一佳は大事なかわいい交際相手なのは変わらなかったけれど、彼女の世界が広がり、自分以外にふらりと立ち寄れる居場所ができたんじゃないかな、というのは、なんとなく、感情の圧だとか、視線の熱、感情の容量などで伺い知ることができた。
一佳から向けられる重みを受け止めるのは不快ではなかった。
それでも、軽くなって初めて、肩の力が抜けたところがある。
――私があの子の、世界のすべて。……じゃ、ない。
たったひとつ、と、いくつかのうちの何割、は全然違う。
青春の時間も情熱も限りのあるものだから、その配分は、一佳任せにしよう、と決めていた。寛子の方も暇というわけではないから、重みの減ったぶんは、勉学他で埋めるので構わない。
「……クラスマッチ、かぁ……」