――同居人のアンテナ感度は、今日はどうだろうか。
「一佳。キスしていい?」
「……だめです」
「えー」
 ――今、したかった。すごくしたかったのに。
 寛子は子どものように唇を尖らせる。
 今一瞬の感情を目に見える結晶にできたら、きっとすごく希少で、面白い、観察しがいのある色かたちをしていただろうに。
「寛子さん、いつもズルするから。言葉にしてください」
「ズル? ごめん、自覚ない」
「すぐ、うやむやにするじゃ、ないですか」
「してるかなぁー。ってか、できてるんだ、うやむや……」
 一佳はなんだかんだ、ごまかされないぞ、という態度を貫いてきたように思うのだが、睨みつけてくるところを見ると、そうではないこともあるらしい。
「……すぐ、ぎゅっとしたり、キスしたり」
「愛情表現でしょ」
「ごまかし、みたいで……」
「それは心外。言葉にすると崩れる。ボディランゲージの方が、正しくて速い」
「ぜんぶ好き、みたいな、ふわっとした言い方も。言葉なら怪しいって思えるのに、何かされながらだと、疑えないじゃないですか」
「いやいや、疑わないでくれ?」
「正確じゃないのに」
「ほぼ正確では?」
「そんなことない。私、欠点がたくさんあります。絶対ぜんぶじゃない。ぜんぶだったらおかしい」
「えー」
「ほら、今も……寛子さんを困らせてる」
 一佳にこんなことを言わせているものの正体こそが、自己肯定感のなさ、ということだろうか。
 完璧主義の方かもしれない。もっと別の何かかもしれない。
 一佳が一佳だから、そういう言葉が出る。
「……困っ……、まあ、そうだけど。でも、嫌いじゃないよ」
「嫌いじゃない……」
「悪い意味で取るな! ……取るんじゃ、ありません。好きだよ。大好き。あいらぶゆー」
 どこかが痛んだ時の、潤んだ声を出す一佳の額に、寛子はキスを落とす代わりに、指先で軽く突く。
「寛子さん。慣用句、みたいに濫用しないで欲しいです」
 ――ああ、そうだ。この子、生理が近い。……言ったら怒られるけど。
 一佳が不安定になるきっかけのひとつ。ホルモンバランス。
「でもさー。一佳。好きってさ……。難しいんだよ。説明が」
「わかります、けど、納得できない限り不安が続くんです。視線とか体温は勘違いできますから。好かれた、という錯覚……」
「これだけ一緒に住んで、聞き飽きそうなくらい、好きだって言ってても?」
「言ってても。慣用句を読み上げるのは誰でもできるし。目をつぶっている時に、不安になることがあります。朝起きたら、寛子さん、いないんじゃないか、とか」
「なんで」
「……私より顔も性格も好みの人がいて、そっちに行っちゃうかも」
「行くわけないでしょ!」
「ものすごく好みの人にいつ出会うか、わかりませんよ……。私よりきれいで、性格の良い子なんて、死ぬほどいる。本当にそう」
 浅く腰かけた恋人のパイプベッドは、まるで古びたボートのように簡単に軋んだ。寛子は薄氷に手をつけるように身を乗り出し、そっと触れ直す。割らないように、撫でるだけ。
 時折、彼女は、危うい。一佳の見た目のまま、薄氷そのもののように、脆く尖ったものに、変わることがある。
「いーちーかー。信じて、欲しいなぁ。私、その場限りの付き合いはできるけど、長く付き合えてる人なんて、全然いないぞ……。よそ見だって、したことないでしょ?」
「私と再会する前のことは?」
「……一度終わった、よね、私たち。一佳もそう思ってたでしょ? 自然消滅。だから、その……」
「責めてないですよ。訊いただけ」
「……何もなかったとは言わないけど。あなたと再会した時点で、全員切れてたよ」
「イケメンばかりでしょう。寛子さんのことだから」
 異性関係だけを疑う一佳に、寛子は何とも言えない気持ちになりながら、平常通りの声で言い返した。
「一佳、私を何だと思ってるの」
「めんくい」
「否定はしない。……あ、自覚はあるんだ、自分がめんくいに食ら
 われるほどの面(めん)だって」
「そういう話になります?」
「なるなる」
「じゃ寛子さんはめんくいじゃない……何の話でしたっけ?」
 薄氷と一佳の境界線は曖昧だ。日常と生理前の境目くらいわかりにくい。その上、お互い不可侵の筈だったゾーンまで、どさくさ紛れに踏み荒らしていく怪獣イチカまで時折顔を出す。
 ―――でも。彼女のそういうところを、欠点とは思わない。
「明日あなたが起きた時も、私はいるよ、ちゃんと」
 寛子の声が、ほつり、と波紋を広げる。
 空気が凍っていない証。
 肌感覚で、何故だかそういうことが、わかる時がある。
 ちゃんと、届いて、沁みる。
 慣用句じゃない、言葉になった。
 ――それは単なる結果論で。最初から、言える確証はないけれど。
「……すみません。不安になって」
「一佳が謝ることじゃないね……。いいよ、いいよ」
「多分、昔、父に家を出て行かれたからです。寛子さんとはまったく違う話なのに、引き摺るつもりもないのに、切り離せないんです……情けない」
「情けなくないよ。多分、私もそうなる」
「……愛されていなかった。母。そして、娘の私も。……『一佳が一番星だ』って、父、幼い私に言いました。多分、慣用句だった」
 言葉で聞きたがる一佳は、自身がまず範を示そうとする。
 誠実だ。
 きっと思い出したくないことなのだろう、と容易に想像できるけれど、寛子には話したいことなのかもしれない。自分が彼女にとって特別なのだと、寛子はあまり、疑うことすらできない。
「それは……お父さんが。あなたのお父さんなのに、これから悪く言うね、ごめん。申し訳ないけど、一番星を、一番大切にできない人だったのかもしれない。そういう人っている」
「色褪せて見えたなら、こちらにも問題があるんだと思う。結婚後に本当に好みの人に出会うことだって、あると思うし。……私の養育費、出してくれたし。義務は――果たしてくれた」
「……うん」
「でも、捨てられないで済む魅力が、私の中にあったなら、とは、時々、考えます。もう父のことはいいんですけど。これから捨てられたくないから。かと言って、自分が変えられるか、っていうと……自信はないけど」
 ――うう。
 抱き締めたい。と、寛子は衝動にかられるけれど、一佳の一番欲しいものは違うのだという。互いの好みと得手不得手の違いが、どうしようもなく、まどろっこしい。寛子は手持ちで一番大きいばんそうこうを使いたいだけなのに。
「長良(ながら)一佳だけにしかないものって、あるのかな……欠点だけじゃなくて」
「あるしかないけど、それこそすっごく説明が難しいよね。見た目はみんな違うけど、言葉にしようとすると、かわいい系、きれい系、かっこいい系……みたいに、要素になっちゃう」
「確かに」
 一佳の悩み自体には、寛子も共感する。寛子も、特に就職が行き詰っていた時には、誰かに何か、あなたにしかできないことがある、と、確固とした答えをもらいたかった。
 でも、自分がしんどい時期を抜け出してしまうと、やや雑になる。
「大丈夫だよ。だって一佳は、一佳じゃないとやだ、と私に思わせているんだよ。他の人じゃ、だめだよ」
「……ですから。それは、なぜ?」