「そういうのをうまく使えるのも、その子の力だし、先生だって教え子のために尽力しようって、まあ、優しさだよね。だから、悪いって言うつもりはないけど、でもなんかねえ、カルチャーショックだった。大事なのは成績じゃないんだ! って」
「むー……」
「私、中高私立だったじゃない。その時から、ちょっと、しくじったかもって、棘が抜けないんだよね。汀野(みぎわの)は、その年、教員募集なかったし。……実は、ほら、一佳と再会した同窓会。あの時もね、ちょっと、そういう期待をしなかったでもない。何もかもうまくいかなくなってて、でも、最後に、蜘蛛の糸? 的に、救いの手が差し伸べられるんじゃないかって」
 もちろん、そんなに都合のいいことは、起こらなかった。
 世の中、甘くない。
「就職大変だったのは私だけじゃないのに、でも自分だけは、って思ってたんだよね。……遅いし、ばかだよねぇ」
「……なるほど。就活だったんですね。珍しいと思った。せんぱい、旧交をあたためたいタイプじゃないのに、なんで来たんだろうってふしぎでした」
「それを言うなら、一佳だって」
「私は、単に、初めてお付き合いした人に会ってみたかったので。ダメ元で」
 そんなことを言ってのける一佳を見ながら、
 ――無駄じゃなかった。
 と、寛子は思う。
 やみくもに動いても、なにも掴めないことが多かったが、確かにあの時、救いの糸は垂らされたのだ。
 引き上げられた先が、まさか、東京での女二人暮らしとは思いもしなかったが。
 それもまたよし。
 思春期のまま、傷つきやすいままの二人が、なんの生産性もなく、日々笑い転げながら支え合っている。
 幼く、ささやかなしあわせだけれど、誰にもめいわくをかけていないし、以前より息がしやすくなったぶん、すれ違うだけの他人にも優しくなった気がする。
「一佳に再会できたことには、感謝してるよ。でも、『就活』の方は、お話にならなかったね。同窓会で、科学部顧問だった立田先生と話したけど、『汀野にコネで入ろうと思ったら、理事長の血縁周りじゃないと』だって……」
「えっ、あの学校、そういう感じなんですか?」
「立田先生はふんわりぼかしてたけど、多分、国語科の佐原先生、理事長と苗字同じじゃん? あと、苗字は違うけど、国際科の内藤先生も……らしい」
「生々しい……! 自分が通った学び舎の内情は……ちょっと……」
「ね」
「でも、そう言われてみたら、納得感ありますけど。あの先生たち、生徒の評判、あんまりよくなかったですし」
「そうそう。逆に、生徒指導もしてた体育の会川先生は、理事長の方針に逆らった所為で左遷されて、今は大学の屋内プールの監視員だって」
「なんか……。すごいですね。先生って、学生の当時からしてみたら、絶対的な存在じゃないですか。青春の理想、みたいなの、熱く語ったりするし。でも、そうやって勤め人として見たら、ただの社会人……」
「生徒には見せまいとしたんだろうけど、振り返ると、色々考えちゃうね。……高校までに教わってきた理想論じゃ、社会、通用しないや。出る直前に、全然違うルールが出て来てさ。やっぱり生物にとって大事なのは、適応能力なのか……」
「無理。この濃度、もう無理。ここがせんぱいの水槽の中なら、ギブしたいくらい」
「どこでも生きられるめだかエリート、かっこいいって言ってたのにね。一佳」
「思ってたけど、選ばれしめだかにはなれなかったですから」
 彼女ばかりではない。
 あの頃の寛子も、自分は「そちら側」だと疑わなかった。
「夢」というのは、無限の可能性で。
「自己責任」というのは、どこまでも一人でいける翼の名前だと信じていた。
 背伸びして苦しいのさえ、成長痛だと。
「ゆとり」とは無縁だと思っていたけれど――
 挫折した。
「不況の波に流され、不適合めだか、大都会に新天地を得る……か。その話で思い出したんだけど、ちょっと前、面白い記事を見てね。なんでも、好適環境水っていうのが出たんだって」
「なんですか、それ?」
「淡水でもなく、海水でもない水。塩分濃度が、海の四分の一だったかな。成分を調整した飼育水の中では、淡水魚も海水魚も、同じように泳ぎ回れるんだって。その研究でわかったのが、そもそも、海の魚だって海水の浸透圧調整がしんどかった、ってこと」
「まじですか……。言ってよ。言えないですけど」
「海より薄い濃度の飼育水の中だと、ストレスが減って、海より大きく成長するんだって。……もう、昔の私の研究は、発想から間違ってた、ってショックを受けたね。厳しい環境に適応できるものしか生きられない、って、自然界ならそうなんだけど、科学は自然に背を向けて、弱い者がらく~に生きられるように進化して来たんじゃないか、って」
「めだかエリート、アイデンティティ崩壊の危機……!」
「や、そりゃ、施設を離れたら、飼育水のさかなは淡水でも海水でも生きられなくなるかもしれないんだから、何が生存競争的に最良の道、とは言えないんだけどね。でも衝撃だった。エリートになれなくても、ぬるま湯で生きればいいんじゃんって」
「難しい問題ですけどね……。まあ、はい、私も、その好適? ……ぬるま湯がいいです。そうじゃないと、寒いの、ほんと無理」
 こたつに入ったまま、体を両手で抱えるようにして、震えてみせる一佳の向こうに、中学生だった彼女が見えた気がした。
 ぴん、と伸ばした背、罅(ひび)の入った瞳、張り詰めた雰囲気の。
 あの頃の自分たちが今の自分たちを見たら、どういう気持ちになるだろう。
 ――だけど、もういい。
 もういいんだ、と、怒涛の一年弱を乗り越えて、寛子は思う。
 めだかは、海になんて出なくていい。
 海は、苦しいさかなの涙で、塩辛いのかもしれない。
 だとしたら、この先、濃度は増していくばかりだから。
「……一佳も、私も、変わったね。あんなに、強がっていたのに」
「強かったですよ。虚勢を張れるくらいには」
「世界に歯向かえるほどには、強くなかった」
 はっきり言い切ると、一佳は肩をすくめて、柔らかく、ふんわりと笑った。その目尻に、愛おしい皺が刻まれる。
「世界強すぎ。……だから、今寛子さんと一緒にいることが、ここまで生きてこられたことが、嬉しい」
「今年、生き抜いて来れただけで、上出来。えらい。二人とも超がんばった」
 寛子は、掌で一佳の頭を撫でる。
 彼女はもう、弱くしないで、と、噛み付いてはこなかった。
 そっと前のめりになり、寛子に体をもたせかける。
「ここにいて、いいですか? 私」
 いて、いけない理由など、何もなかった。
「いつまででも、いて。一緒にいて欲しい。……ここが、一佳にとって、息のしやすい場所なら」


 呼吸する場所を、自分で選ぶのだ。
 ――生きて、いくために。