「どうやって勇気出したの……。教えて……」
 絞り出すような声で問うと、一佳はぽつり、と、言った。
「……関西は、なんか、嫌だったんですよ」
「なんで?」
「さあ。うちは、地元国立大しか、親が許可しないって既定路線だったから。関東の大学に出してもらえる子なんて、男子の数人だけど、関西くらいまでは女の子も出て行ったし。嫉妬、でしょうか。気付いたら、避けていました」
「ふうん……」
「私、就活、地元は全滅したので」
「なんで⁉」
「なんでって……せんぱいなら、わかるでしょう……」
「私が? なんで?」
 人事の経験もないのに、わかる筈がないのだが、一佳は露悪的に、唇の端を歪める。
「私……性格が悪いから」
「そんなことないよ」
「生意気だから」
「そんな……こと……」
「言いたいこと言うし、交渉するから」
「…………」
「だめなんですよ。地方の会社の一般事務職向きじゃないって」
「地元の国立なら、県内でのウケは良さそうだけど……」
「そうですか?」
「……知らないけど」
 県外の私大よりはマシだろう、と思うが、一佳の顔を見るとそんなこともなさそうだった。
「面接してくれた社長に、自分は高卒だし、女の大卒様に来てもらうほどの会社じゃないんで、って当てこすりされたの、一社や二社じゃないです」
「…………」
 それは。
 ――そういう経験は、寛子も、ない、とは言えなかった。
 運が悪い、と。
 世の中には自分のことを、何かの理由で猛烈に、よく知りもしないのに嫌ってくる、そういう人がいて、うまく受け流していくのが処世術みたいに言われているけれど。
 出会いがしらの事故みたいに、まだ、時々、びっくりしてしまう。
 痛くて。
 みんな、すぐに、慣れるのだろうか。
「生意気なオンナ、ですから。それは大学でも、サークルやゼミで先輩たちの顔に書いてありました。教授には心配されて、お説教もされました。だから、企業じゃなくて公務員も考えたんですけど、司書も博物館も、市や県の職員も、もうそれは採用数が少なかった。先輩方を見ていても、なれる気がしませんでしたよね」
「さすが、先を見てるねぇ……」
 それがわかっていなくて大失敗した寛子は、苦虫を噛み潰した顔になった。
 寛子が志望していた教員の採用も、例に漏れず渋かった頃だ。
 団塊の世代が退職して大変だ、と言われながらも、現場は若い世代の臨時採用でしのぎ続けていた。寛子は収入が低く将来の見通しが立たない臨採の生活に一年で音をあげ、塾講師に転職、毎日帰宅が日付変更後になるブラック振りに体を壊して、教育教材を扱う会社に入ったが、そこもきつさの質が変わるだけで、もたなかった。
 教育実習の時の仲間で正規の教諭になれたのは、一人か二人だ。
「私のうちは、綱渡りみたいなものでしたから。真剣ですよ」
「つな、わたり」
「細い細い、一本の綱。タイミングを逃したら、……ガラスの天井どころじゃない、四面をガラスに囲まれて、どこにも行けないまま窒息してしまうのがわかっていました。大学は地元国立、そこに行けない程度の学力なら女の子が大学に行く意味なんてないし、浪人はゆるされない。いとこの男の子は跡取りだから、祖母が学費を出して大阪の私立にやりましたけど、うちには何の支援もなし。留年なんかしたら大学辞めろって言われる、就職しそこなったら早く結婚しろって言われる……目に浮かんでました。親戚に会うたびに、結局大事なのは結婚相手、地元で母さんを助けてやるんだよ、って、……そこが、生まれた環境の限界です」
「……うーん」
「大学新卒の就活が、最初で最後のチャンスでした。リーマンショックもあったし、これだけ就職難だからとりあえず、そうとにかく、何か仕事を見つけるために仕方なく。そう行って出て来て、……それきりです」
 中学生の頃、豪邸と言えるような家に住んでいた一佳は、ある時を境に年賀状に違う住所を書くようになった。マンションの号室で終わるその家に、呼ばれたことはない。苗字は長良のままだったが、何かがあったのだろう、とうっすら思っていた。
「……えらいよ。一佳は、ちゃんと新卒からフルで動いてさ。……私なんて、ぼーっとして……採用試験落っこちて、臨採も塾講師も続けられなくて。一般企業に入ってもだめで。どこに行っても――東京でも、だめなんだろうなあ、と思うよ」
「なんでです」
「甘くないって。私のがんばりが足りない……だけなんだ……きっと」
「誰がそんなこと言うんです?」
「……誰でも。前の職場でも、前の前の職場でも。……そもそも本当に県のトップクラスで優秀なら、教諭も現役一発で決められた筈だし。我慢が足りなくて、体力や能力も……人並み以下で」
 ――一匹狼が、エイが、――聞いてあきれる。
 自嘲の笑みを浮かべてお叱りを待ち受けていると、案の定、一佳は厳しい表情を動かさずに言った。
「うまく行きそうにない会社ばっかりだったんですか?」
「え?」
「今回行ったの。過去に取ってくれなかったところや、うまく行かなかったところはもういいとして。今連絡くれたところや面接に回ったところで。行きたいなと思える会社はあったんですか。一社でも、やっていけそうだって思えませんでしたか?」
「いやぁ……はは、向こうが良いって言ってくれないことにはどうにも」
「それで良いなら、さっきのところに決めてしまえる理屈ですけど」
「…………」
 それができたら――苦労はしない。
 だけど……。
 堂々巡りだった。
「せんぱいも選ぶんですよ」
 思っても見なかった質問に寛子が目を丸めると、一佳は手加減のない眼圧で、寛子を見ていた。
 頭を使う会話をしながら土地勘のない場所を歩き続ける余裕はなく、ちょうど東京駅の中央改札付近、外のベンチに差し掛かったところで、どちらともなく、立ち話をしている。
 時間のことは、片時も心を離れていない。
 落ち着いて、調べて、比較して、一人で考える時間が必要そうだ――と、考えてみれば確かにそうなのだが、気ばかり急いてしまっていたことに寛子は気付いた。
「……時間、大丈夫ですか?」
「……いいや。じゃあ、もう一泊する。カプセルホテル結構空いてたから、行ったら泊まれるでしょ」
「……じゃあ、もう少し良い、ですよね。飲み物買ってきていいですか。ここにいてもらえます?」
「わかった」
「知らない人に話しかけられても、ついて行っちゃだめですよ。せんぱい」
「ばぁか……」
 年下らしからぬことを言い残す元後輩に、寛子は力なく笑う。
 生意気だ、と思っても、もうなんだか強くは出られない。
 一佳の姿が見えなくなってようやく、最後の虚勢がほどけて、ああ、疲れたな、と思う。
 そうして、その底に、ちょっとした高揚があることに気付いた。
 ――気付いてしまったのだった。
 カフェのコーヒーを両手に戻って来た一佳は、空いていたベンチを寛子に示す。
 東京駅前は、忙しなく帰路を急いでいるスーツ姿の人や、赤ら顔の酔っ払い、観光客や外国人たちがいて、まだまだ賑やかだ。
 寛子はコーヒーを一口飲んでから、口を開いた。