授業合間の空きコマで、わたしと真衣は学内のコンビニでカフェラテを買って、オープンスペースで課題を片付けることにした。
座りながら、改めてキャンパスをぐるりと見渡す。市内有数の大学で、施設の綺麗さからオープンキャンパスには毎年大勢の高校生たちが集まる。
……ここで佑も過ごしていた。
入学して2年。
ほとんど毎日通っていたけれど、彼の姿を見たことは一度もなかった。真衣からも話が出たことがないから、佑の言う通り、ほとんど来ていなかったのだろう。というより、来ることができなかった、という言い方の方が正しいか。
彼はこのキャンパスで、授業を受けたことはあるのだろうか。
デビューしてから、今までの露出が嘘のように色んな番組に出ていた。メンバーが出ていない番組なんて見ないくらいに、一気にスターダムを駆け上がり、誰もが知るアイドルへと成長した。
でもその弊害に、スケジュールは常にパンパンで、入学したもののなかなか通学はできなかったのかもしれない。
「聞いてる?」
「へ?」
そんなことを考えていると、真衣は強めの語調でそう言った。
「昨日の動画。翔平のビジュがエグすぎてさ、やばかった」
「……へー、そりゃ大変」
大事な話かと思ったら。
わたしは適当に相槌を打ちながら、トートバッグの中からパソコンを取り出す。
真衣が言う、昨日の動画。それは週に一度、必ず更新されるファンクラブ動画のこと。
バラエティ系の企画をしたり、メンバーのお誕生日をお祝いしたり、ドライブしに行ったり。佑がいたときは公開される時間に合わせて絶対見ていたけれど、今となっては全然見ていない。
見慣れたはずの位置に、佑がいないからだ。
4人になった動画を見ると、佑が”そっち”にいないことを痛感する。あの場所には佑がいたはずだ、佑ならこうだったかもしれない。なんでこの場所に佑はいないんだろう。相変わらず、そんなことばかり考えてしまう。
「はぁ、早く会いたいなぁ」
真衣はスマホの画面に映る翔平を撫で回す。
「また来年だねぇ」
「来年までとか長いなぁ。歌番組の番協、応募してみようかな」
いいなぁ、真衣は。
楽しそうにMerak関連のSNSを見ている姿を見て、羨ましくなる。真衣はアイドルとして活動している翔平に、会おうと思えば会うことができる。
不幸ぶるつもりはない。訳ありで色々あるけど、わたしは佑の隣に立つ資格を手に入れた。
それでも、それとこれは別だから羨ましいのは羨ましい。
もうわたしがいくら願っても見ることができない、アイドルの姿を見られるんだから。
パソコンの電源をつける。パスワードを入力してから、起動を待つ。今月末に締切が迫る期末レポートをやろうと集まったのに、この時間が始まってからだいぶ経った。
「ねえ、もう15分経ったよ」
「やばい、やらなきゃ」
真衣も慌ててパソコンを出す。起動を待つ間、またスマホを触る。
「会いたよー翔平!」
「うるさーい」
白紙の画面に、とりあえず学籍番号と名前を打ち込みながら考える。
佑がいない、Merak。
佑の歌割りは誰が歌うんだろう。佑が踊るあの場所は、空白のまま?
木林翔平、沖和哉、新堂凛斗、土井晴太。
頭の中に、佑以外のメンバーを思い浮かべる。
俳優としても活動する和哉と、モデルのようなスタイルを持つ晴太。なんでもバランス良くこなすセンターの翔平、最年長で面倒見も良くダンスが上手い凛斗。
そして、歌もうまくて演技もできて、表情管理も完璧なMerakのエース、佑。
その5人でMerakだった。
Merakというグループ名は、セルビア語から来ている。『日常の小さな喜びから幸せを感じること』。彼らはいつも、毎日喜びを届けられる存在になり、たくさんの人を幸せにしたいと言っていた。
佑と特に仲が良かったメンバーは、凛斗だった。佑とはシンメだから、”りんたす”と呼ばれて、よく一緒に雑誌の取材を受けていた。
松永佑。
口の中で、その名前を転がす。
……わたしは、佑のどこを好きになったんだっけ。パソコンの一向に増えない白紙のフォーマットを見つめながら、考える。
明確に、佑のどこが好きなのか言えない。顔? 歌? ダンス? ……なにがきっかけだったのかもわからない。
気がついたら、好きになっていた。
「……あれ」
真衣が、ふと神妙な面持ちで戸惑ったような声を出した。
「どうしたの?」
「……巴音ってさ、Merak、誰推しだったっけ」
どきん、と心臓が跳ねた。
「わかるの。分かるんだけど、分からないっていうか」
真衣は困ったように額に手をやった。思い出せそうで、たぶん思い出せないのだ。
これが、佑の”魔法”の力。他人に効果があるさまを、はじめて見た。
少しだけ、ぞっとした。
でも、そう思ってはいけない。
……怖い。けど、怖くない。
怖いと、思ってはいけない。
「……えっとね」と、パソコンから顔を上げた瞬間だった。
ーー佑がいた。
真衣が座っているその後ろの方で、佑が立ちすくんでいた。
ばっちりと、逸らしようがないほどに目が合う。
「……佑」
「ーー巴音」
驚いたように目を丸くして固まった佑の表情は、徐々に溶けて口角が上がっていく。
「はじめてだね、学校で会うの」
佑は少し照れたようにそう笑った。
今回は、なにも被っていなかった。
大学だからかもしれないけれど、黒いバケハもメガネもマスクもなく、白いロゴTシャツに黒いパンツとシンプルな格好をしていた。
それでも、ベルトが差し色の黄色になっていておしゃれに見えた。シンプルな格好でもアイドルなだけあって、スタイルと顔がいいから一際輝いて見える。
「あ。あのさ巴音、俺ーー」
「ねぇ、誰その人!」
佑が何か言おうとしていたのを、真衣がガッツリ遮った。
……そうだった。いくらいまはMerakじゃなかったとしても、この人は普通の人にはなかなか見ないくらいのイケメンなんだった。
「ちょっと真衣……」
「えっ、ちょっ、彼氏? めっちゃくちゃイケメンじゃん! いつの間に!?」
……そりゃイケメンに決まってる。だっていま目の前にいるのは、松永佑だから。
翔平と同じMerakだし、なんなら春のツアーだっていた、わたしに確定ファンサくれたもん。ーーなんて、口が裂けても言えるわけがない。
「……うん、そう」
その一言を言うのが、とてつもなく恥ずかしかった。
言って良いんだよね、と佑に目で確認すると、佑は小さくうなずいた。
「わたしの、彼氏」
心臓がどきどきしていた。あり得ない。こんな言葉が、わたしの口から出てくることがあるなんて。その言葉の対象が、佑だなんて。
「4年の松永佑です。巴音のお友だち?」
「そうです、桂木真衣です! よろしくお願いしますー!」
佑は王子様のような優雅で綺麗な笑顔で「よろしくね」と言った。その笑顔は、親の顔より見てきたいつもの笑顔だった。そんな笑顔を向けられたら、好きにならない人なんていない。
「……じゃあごめん、邪魔しても悪いから、俺もう行くね」
「あ、うん。またね」
手をひらひら振ると、佑は踵を返して行ってしまった。
その後ろ姿が、いつしかのように消えてしまいそうな儚さを微塵も感じさせないことに気がついた。
……やっぱり佑は、いまの生活の方がいいのだろう。
何者でもない、ただの透明人間であるいまの生活を楽しんでいる。
「はぁ……ねぇ、なんで彼氏できたこと教えてくれなかったの!」
「ほんとごめん、言うタイミング逃してて」
出会わなかったら、言わなかったと思う。
変なことだから。たとえ事情を知らなくても、あまり言いふらせるような内容ではない。
「アイドルみたいだね」
「……ね」
あのね、真衣。
あのひとは、Merakなの。でも、脱退して芸能界まで引退してしまったんだ。だからみんなから魔法で記憶を消したんだって。
春のツアーでも見たんだよ。翔平と同じ、ストーンがたっくさん付いたキラキラの衣装を着て、幸せを振り撒いてくれてたんだよ。でもあれが、アイドルの最後になっちゃったんだ。
そんな言葉たちが、喉の奥まで出かかった。
すべて洗いざらい話してしまいたかった。こんな秘密を、ある種の辛さを、わたしひとりではとてもじゃないが抱えていられない。
……でも、言えない。
こんなことを信じてもらえるわけがない。
言ってしまえば、すべてが終わってしまいそうで。
本当に佑が、消えてしまいそうで。
「にしてもさ、本当にかっこいいよね。スタイルもいいし。どこで捕まえたのよ」
「んー……、バイト先?」
あながち間違ってはいない。出会ったのはバイト先のカフェだ。……色々あったけれど。
出会ったのもあのことも、全部つい最近のことなのに、話の内容が濃すぎてもう随分と前のような気がしてくる。
「へぇー、さすがカフェバイトはちがうね。いいなぁ」
でも本当は、ホンモノのカップルじゃない。わたしたちの間に愛情なんていう感情はない。わたしが佑に”好き”のベクトルを向けてはいるけれど、それは全く意味が違う。
佑は佑で、わたしに1ミリも想いなんてないだろう。
逆にあっては困る。
それでいい。そうじゃないと、この関係は成立しない。
そんなことを考えていると、チャイムが鳴った。
「もう!? ……課題終わんなかったぁ」
「あーあ、バイト終わってやるかぁ」
そう言いながら、はたと思い出す。そういえば佑はさっきわたしになにかを言いかけていた。
なにを言おうとしていたんだろう。
スマホを開く。一番上にある最新のトークルームは佑だ。連絡先も知っているし、聞いてみる?
でも、そんなに大したことではないかもしれない。どうしても伝えたかったら、きっと佑の方から連絡をくれるだろう。