1時間が経った。
 ロッカールームに戻って、ごちんとロッカーに頭を打ち付ける。鈍い音がして、おでこはひりひりと痛い。
 なにを言われるのだろうか。色々と考えてみても、結局、なにも思いつかなかった。

「はぁ……」

 会って話してみたい。でも、会いたくない。
 ていうかそもそも、無料で会っていい人じゃない。

 ……待ち合わせに行きたくない。心臓がドキドキしてきて、なんとなくお腹が痛くなってきたような気もする。

『俺のこと、知ってるんですか』

 あの言葉を言ったとき、佑は驚いたような、困惑したような表情を浮かべていた。それはきっと、わたしが佑のことを知っていることが予想外だったからだろう。こんなことが起こるなんて、佑だって思ってもみなかったはずだ。

「でも、考えてもしょうがない、か……」

 エプロンを外して、ロッカーのハンガーにかける。中に貼り付けられた鏡に映るわたしの顔は、ひどい顔をしていた。……そりゃこんな顔で学校に行ったら、真衣もあんな顔をするわけよね。
 
 行くしかない。
 行って、話さないと、わたしが前に進めない。いつまでも引きずっているんじゃ、この先絶対良くないから。

「吉岡ちゃん!」

 意を決して、ロッカールームから出てフロアに降りると、平井さんに呼ばれた。
 
「グッドラック!」
「ありがとうございます……」

 親指を立てて笑顔で、平井さんはわたしにソイラテを渡してくれた。……ありがたいような、ありがたくないような。
 グッドラック、か。
 そんな感じのタイトルのドラマに、佑は出ていた。

「……よし」

 カウンターの前で気合を入れる。うじうじしていたって仕方がない、行くしかないんだ。
 肩を上げて深呼吸し、思いきり吐く。
 ーーいざ、尋常に勝負。

「お、お待たせ……しました」

 震えそうな声をしっかり保って言うと、佑は読んでいた本から顔を上げ、微笑んだ。その仕草があまりにも”松永佑”すぎて、心臓がぎゅっと痛んだ。
 
「バイト、おつかれさまです。どうぞ、座って」
「あ、どうも……」

 向かい側の席に座りながら、ちらっと佑の方を見た。佑は茶色いブックカバーのかけられた文庫本をしまうと、水滴がびっしりついていて、もう氷でだいぶ薄まっていそうなソイラテを一口飲んだ。
 
「あ、飲み物、変えてきましょーー」
「魔法使いなんです」
「ーーはい?」

 流れるように、なんてことないように言われた言葉は、わたしの聞き間違いだろうか。
 
 そう思って顔をじっと見てみる。顔色ひとつ変えず、やっぱりなんてことのないような表情だったから、ああなんだ、わたしの聞き間違いかと安堵する。でも、念のため確認しておくことにした。
 
「いま、なんと」
「俺、魔法使いなんです」

 さっきよりも、ひとつひとつの言葉をはっきりとした口調だった。
 ーー聞き間違い、ではなかった。
 にこりと笑った佑は、またソイラテを飲んだ。

 わたしは状況が全く飲み込めない。
 
「……あの、えと」
 
 魔法使い? それって、魔法を使うというあれ?
 とんがり帽子を被って、杖を持ってて、黒いローブみたいなものを羽織っているあの?
 佑が、魔法使い? それは、アイドルの類義語みたいな扱いではなくて?
 
 頭の中にいくつものクエスチョンマークが浮かんでくる。それに、どうしてそんな、天気の話をするみたいにさらりと告げてくるのだろう。しかも、わたしに。
 
「なんであなただけかからなかったのか、考えてたんですけど」
「ま、まってまってまって!」
「はい?」

 小首をかしげる。
 ……かわいい――じゃない。
 
「どういうことか、全然わからないんですけど」
「……言った通りです。俺は、魔法使いで」
「それは、わかりました。……いやちがう、わかってない、けど! なんでそんなことをわたしに話すのかっていうことで」
「ああ、そういうことか」
 
 魔法使いなんてそんな大切なこと、軽々しく他人に言っていいの? ……って、なんでわたしは、佑が魔法使いってことを受け入れてるの。
 
 ……一度、頭の中を整理したい。

「それはいまから、話します」
 
 少し、佑の声音が落ち着いた。
 大事な話をするように、低く平坦な声になる。
 この話の前に。チャンスだ。

「その前に、飲み物変えさせてください」
「え? いや、大丈夫です」
「わたしが! 変えたいので」

 飲み物を変えることを口実に席を立つ。
 美味しくないものを飲ませたくないという気持ちと、いったん整理をしたいかった。佑の元からカップを取って、眉間を揉みながらカウンターに向かう。
 思っていた話とはだいぶ違う。頭痛がしてくるような心地だった。

「楽しそうね」

 カウンターに向かうと、平井さんは楽しそうにニコニコとしていた。こちらは全く楽しくないというのに。

「別に全然……」
 
 平井さんがカップにソイミルクを注ぎ、抽出したエスプレッソをゆっくりと流し入れるさまをぼんやりと眺めた。
 ……でも、いまの状況は少し楽しいのかもしれない。世界から佑はいなくなった。けれどいま佑は目の前にいる。魔法使いがどうの言っているけど、たしかに佑なのだ。

 だったらどうして、佑の存在をわたししか知らないような世界になってしまったのだろう。
 魔法使いとあの話には、なにが関係しているんだろう。
 
「難しい顔してるよ、大丈夫?」
「……はい。ありがとうございます」
 
 平井さんから新しく淹れたソイラテを受け取って、席に向かう。佑はなにもせず、ただじっとわたしのことを待っていた。
 
「どうぞ」
「お金払います」
「大丈夫です。従業員は飲み放題なので」
「ほんとに?」
 
 お金なんて本当にどうでもよかった。金銭が発生したとしても、もらうつもりは毛頭ない。
 それよりも、わたしは話の続きを聞きたかった。
 どうして、こうなったのか。
 魔法使いとは、どういうことなのか。

「それで、お話の方……」
「あ、はい。……じゃあ、見せた方が早いですよね」
 
 佑は独りごちると、根元にシルバーのリングがはめてある右手の人差し指を立てた。それから、指先を円を描くように振った。
 
 その動きは、見たことがあった。春のツアーでわたしが作ったうちわの『魔法をかけて』に応えてくれたときと、同じ動きだ。

 ……まさか、佑はあのとき本当に魔法をかけていたの?
 と、呑気に思ったその瞬間、周りからすべての音が消え去った。洒落たジャズのBGMも、お客さんのおしゃべりも、食器の音もなにもかも。
 
「はい」
「はい?」
「いま、時間を止めました」
「ーーは?」
 
 見て、と左手首のスマートウォッチを見せてくる。言われた通りにじっと見ていると、微かに違和感を感じた。ーー秒針が、全く動いていない。
 
「うそぉ!」
 
 自分のスマホも出して、ホーム画面に出している時計のウィジェットを見る。やっぱり秒針はちっとも動いていない。
 まさか壊れたんじゃ。念の為アプリを起動してみたけれど、同じだった。
 身体中の血という血が、下に下がっていくような感覚がした。
 
「俺は、たしかにあなたの言う通り、Merakの松永佑です。……でした」
 
 ズキンと胸が痛んだ。
 過去形で、わざわざ言い直した。

「過去形なのは、もうグループを脱退して、芸能界も引退したからです」
「それは、知ってます。……あの、なんでわたししか、あなたのことを知らないんですか? みんな何も知らなくて、ネットからぜんぶ消えてしまって」
「俺はね、ずっと、透明人間になりたかった」
 
 間髪入れず、迷いなく、佑は言い切った。
 わたしの質問に答えるつもりはないらしい。そもそも、聞こえているのかさえ怪しい。
 
「事務所に入ってからずっと、俺は”松永佑”だった。だか
らごく普通の人みたいに、何者でもないただの人間として、ひっそりと生きてみたくなったんです」
 
 そう言うと、佑はソイラテを飲んだ。
 何者かになりたくて必死に努力してきた人が、『何者でもないただの人間』になりたかった。なんて皮肉だろうか。

 佑の顔を見ていられなくて、わたしは目を逸らした。カフェのなかは相変わらず時間が止まっていて、わたしたち以外の人たちは動作を途中で止めている。

 佑は中学生のころに事務所に入って、そこから必死にアイドル活動に取り組んできた。高校3年生のころにメジャーデビューして、それから4年弱、ずっとアイドル界の最前線でやってきた。
 
 だからこそ、そう思うんだろう。
 少し、傷ついた。……いや、少しどころではない。

 お門違いだとはわかってはいる。わかってはいるけれど、佑が”松永佑”でいることに苦痛を感じていたということが、ショックだった。

「みんなが俺のことを知らない理由。それは、俺がさっきのように魔法をかけたから」
「魔法……」
 
 信じられるわけがなかった。でもいま身を持って体験しているのだから、信じるしかなかった。この状況のことも、時間を止めたことも。
 
「じゃあ、引退するって決めたのに、どうして魔法をかけたんですか」
「俺のファンが傷つくから。だったらいっそのこと、”松永佑”という存在自体消した方が、都合が良い」

 この人は、どこまでファン思いなのだろう。
 そう思うと同時に、腹が立った。
 ……そんな配慮いらなかった。
 自分勝手。出そうになった言葉を、唾と一緒に飲み下す。
 
 存在を消されたせいで、もっと傷つく人がいるなんてわからなかったのかな。全員、必ず存在を知らなくなるならそれでもいい。でもわたしみたいに、中途半端に覚えている人が、一番傷つくことになる。
 
「なんであなたにかかってないのか。それは俺にもわからないんです。魔法が効かないなんて、はじめてで」
 
 眉を下げて、困ったように笑う。
 いつもそうだ、無茶振りされたときも、メンバーが意味のわからない行動をしたときも、佑は眉を下げて、みんながひと目見てすぐにわかるくらい、典型的な困った表情をする。

 そんな姿を目の前で見たら、いくら自分勝手な行動をされても、嫌いになんてなれなかった。だってわたしは、長い時間とお金をかけて佑を推してきたから。簡単に嫌いになれないくらい、大好きだから。
 
「……佑、さんは、透明人間になりたいんですか?」
 
 佑は深くうなずく。
 
「普通に生きてみたいって、思ってしまったから」
 
 やっぱり傷ついた。
 佑が”佑”でいることが辛いなんて、聞きたくなかった。
 それでも、”思ってしまった”なんて、どうしてそんな悪いことをするみたいに言うんだろう。
 
「いまは、透明になれてますか」
「あなたに出会うまでは。なにしてもバレないし、こんなものも被らなくてすむ。気楽です」
 
 そう言いながら、佑はバケハを振り回す。
 ……だったら。
 だったらどうして、自分のことを隠すような格好で来たんだろう。念願の透明人間になったのだから、そんな必要ないのに。
 
「あなたは、俺のことが好きですか?」
 
 思いついたように、佑は言った。
 
「はい」
「それは、”松永佑”が好き? それとも、アイドルでもないただの俺?」
「それは……」
 
 もちろんどちらもだと言いかけて、言葉に詰まった。
 ……わたしは、佑のなにを知っているんだろう。
 わたしが知っているのは、表で輝く”松永佑”だ。アイドルでもない松永佑など、1ミリだって知らない。
 
「……まぁ、そういうことですよ」
 
 諦めたような声で、佑はつぶやいた。
 でもやっぱり腹が立つ。だってこっちは、アイドルではない松永佑など知る由もないのだから。

 佑は、ソイラテを飲みながら、時が止まった店内を眺めている。その横顔の表情は、彼がいま何を考えているのか全く読み取れなかった。
 
 わたしもソイラテを飲んだ。こんなに苦かったっけ。そう思ったと同時に、ふいにひとつひらめいた。
 ……そうだ、佑は、普通に生きたいと言った。
 
「……普通に生きたいって、なにをしたいんですか」
「人混みのなかを普通に歩いたり、お祭りとか花火大会に行ってみたり、普通の学生生活を送ったり? 今までしてないから普通がよくわからないけれど」
「しませんか、それ」
「……え?」
 
 口走ってしまってから、もしかしてわたしは、とんでもないことを言ってしまったのだろうか、と後悔した。でも一度言ったことを忘れてくださいとは言えなかった。女に二言はない。
 
「……わたしは、松永佑が好きなのか、あなたという人間が好きなのか見極める。それで、あなたは透明人間になる。わたしと、ごく普通の一般人の生活をするんです」
 
 目的なんてない。ただアイドルの松永佑を知っているわたしと、佑が偶然出会ってしまったせいで起きた間違いだ。
 
 今まで佑からたくさんのものをもらった分、返したい。いつもたくさん与えられてばかりで、わたしは佑になにも返せていない。
 あんな諦めたような顔をしてほしくない。
 アイドルの佑じゃなくて、ただの松永佑を知って、そんな佑も好きだと佑に言ってやりたいだけ。
 
「変なの」と、佑は失笑した。
 
「……気持ち悪い、ですか」
 
 わたしが佑の立場なら、逃げているレベルで気持ちが悪い。でも、佑の表情をおそるおそる見てみると、思いの外すっきりしているように見えた。
 
「……いや?」
「え? ほんとに?」
「はい」

 佑は笑うと、強くうなずいた。

「やりましょう、それ。俺、芸能界以外友達いなくてぼっちだし」

 ……かくして、わたしと松永佑の、奇妙な逢瀬が始まることとなった。