「いらっしゃいませ。ご注文をお伺いします」
「アイスコーヒーの氷少なめで」
「かしこまりました」

 1週間が経った。

 時間が解決すると言うけれど、解決などしていなかった。
 解決どころか、日に日にえぐられる傷は深くなる。

 ふとした瞬間に思い出しては、胸が痛くなる。それでも、なにかに集中して取り組んでいるときは考えなくてすんだから、あえてバイトを詰め込んだ。
 なんとか大学に通って、放課後はバイト。そんな生活をしているうちに、やっと1週間の時間が経ってくれた。

 痛みを思い出しては、またこぼれ出しそうになる涙をこらえるために唇を噛み続ける。震えそうになる声も深呼吸をしてなんとか紛らわせて、バイトのために嘘くさい笑顔を貼り付けた。

 あのことがあって以来、はじめて大学に行ったとき、真衣はひどく神妙な顔をして心配してくれた。でも、ごめん夢だったみたい、すごくリアルで、と言うと「疲れてるんだね」と笑ってくれた。

 本当は、真衣にだって夢だったと言いたくない。佑が今までしてきた活動もすべてが、夢だったような気がしてくるから。

 この世界に存在していないとしても、たしかにわたしのなかでは存在している。ライブのDVDやポスターも、雑誌もCDも、スマホに保存した画像だって、なにひとつ消えてはいない。Merakに、佑はいる。たしかにいた。

 わたしにとってはこの世界のほうが悪夢だ。Merakに松永佑がいなかったことになっているこの世界こそが、一生醒めない最低最悪の悪夢。こうなるんなら、脱退と引退の方がまだマシだったのかもしれないとさえ、思う。
 
「210円のお返しです。あちらに並んでお待ちください」

 どうしてわたしはまだバイトをしているんだろう。佑にもうお金は使えない。だったらこんなに一生懸命にならなくたって。
 
「お次でお待ちのお客さま、どうぞ」

 並んでいたお客さんに向けて、軽く手を挙げる。先頭に並んでいた人が、カウンターにやってくる。
 
 黒色のバケハを目深に被り、銀の細いフチの眼鏡と白色のマスク。しっかりと顔を隠すような格好に、芸能人みたいだなぁと呑気に思った。

 ふいに、どこかで見たことがあるような気がした。
 
 その人が被るバケハは、以前佑がブログで自撮りを載せていた時に被っていたものとよく似ていたし、動きとか歩き方、体格に既視感を覚えた。

 たぶん、この人のことを見たことがある。でもそれが誰かは思い出せない。ただの常連さんなのかもしれない。

「お決まりでしたらお伺いします」 
「アイスのソイラテ、はちみつ多めで」
「かしこまりました。450円になります」

 レジに打ち込みながら、そういえば佑がカフェでよく飲むのはソイラテで、いつもはちみつを多めにしてもらうと言っていたのを思い出した。甘いのが好きなのかなあ、と思ったことを覚えている。

「お支払いはどうされますか?」
「あ、スマホで」
「かしこまりましたーー」

 スキャナーを持って、顔を上げた瞬間だった。そのお客さんと、目が合った。
 心臓が、ドキンと大きく打った。

「ーーえ?」

 周りの音が一気に消えて、誰かに握り潰されたように、胸がぎゅっと痛んだ。

 うそ、でしょ。
 なんで。

「た……た、すくーー?」

 目の前に、佑がいた。

 ……思えば、どうして気が付かなかったのだろう。
 マスクをしている顔なんて色んなところでたくさん見てきた。その銀のフチの眼鏡も黒いバケハも、ファンクラブの動画やブログで見たことがある。

「え……?」

 佑が、目を見開く。そして呆然としたような顔で、わたしのことを見つめている。

「なんで、俺のこと……」

 どれだけわたしが、あなたことを見てきたと思っているの? あなたの顔を、あなたが小さな頃から見てきた。だから、間違えるはずがない。見間違えるはずが、ないのだ。その綺麗な形の目も、彩度の明るい瞳も、凛々しい眉毛だって。

 しばらくの間、わたしたちは唖然としたままお互いを見つめ合っていた。それぞれが、あり得ないことが起こったような顔で。

「なんで……なんで、いなくなったの?」

 喉に何かが詰まったみたいにうまく声は出なかった。それでもやっとのことで絞り出した声は、少し語尾が震えた。
 
 スキャナーを握りしめる手が汗をかく。
 やっぱり目の前にいるのは佑だ。驚いたら眉を上げて目を丸くして見開く。佑はいつだってそうだ。だから、ほとんど確信していた。
 
「覚えて……」

 佑がそう言いかけた。でも、ふと我に返ったように深呼吸すると、もうそれ以上何も言わなかった。決済用の二次元コードが表示されたスマホを、無言で差し出された。

 震える手でそれを読み取って、処理をする。
 決済の音をきっかけに、消えていたはずの音が一気に戻ってきた。
 
「……お待たせしました。あちらに並んでお待ちください」
 
 平静を装って、レジから出てきたレシートを渡そうとするけれど、やっぱり手が震えた。佑はレシートの端っこを持って受け取ると、低く小さな声で「ありがとうございます」と礼を言って、行ってしまった。
 
 幸にしてお客さんは途切れたから、その場にうずくまる。足が震えて、力が入らなかった。
 
 あれは本当に佑だった?
 ……いや、間違えるはずがない。あれは佑だった。

 やりとりを思い出す。ついさっきのことなのに、既に記憶が曖昧だった。それでも目を閉じて、思い浮かべる。
 
 彼はさっき、『覚えて』と言いかけた。
 ……ということは、他のみんなは、真衣は、佑の存在を忘れているだけ?
 
 じゃあどうしてわたしだけが、佑のことを覚えているの?
 どれだけ考えてみても、答えは思いつかない。

 ーーでも。

 わたしは、ゆっくりと立ち上がった。エプロンの皺を伸ばして、無理やり口角を上げる。

 それでも、佑はこの世界にいた。
 アイドルじゃないしMerakでもないようだけれど、松永佑はたしかに存在している。

 その事実に、わたしは少しだけ救われた。