どこか呆然としたまま、ひたすらにコンサートのDVDを見続けていた。SNSも友達からの連絡も見ずに、ただずっと、三角座りのままぴかぴか光るテレビを見続けた。
 
 何本目かわからなくなったDVDが終わった。
 ふと、思う。
 
 ……あのツアー、パッケージ化されるのかな。
 わたしが佑を見た、最後のツアー。
 
 最後。
 さいご。
 
 暗くなった画面に、自分の顔が映った。
 
「……ひっどい顔」
 
 ひどい顔すぎて、笑えてきた。
 のっそりと立ち上がる。
 
 シャワーを浴びた。
 シャンプーの泡立ちは少し悪くて、肌もざらついていた。
 そろそろどうにかしないといけない。
 熱いシャワーを浴びると、ほんの少しだけ冷静になった。
 
 大学も行かず、友達からのメッセージも見ずに、このままでいいはずがない。そんなことはとうにわかっていた。でも、そう思うのと同時に、やっぱり無理だ、という気持ちが湧き上がる。
 
 心に空いた大きな喪失感はまだ埋まらない。この先一生、埋まるとも思えない。
 きっとこれから先、4人になったMerakを見るたびに、わたしは喪失感に苛まれるのだろう。

「……ばかみたい」

 閉め切ったカーテンの中、薄暗い部屋の中に独り言は落ちる。
 たった1人の人間だ。偶像でしかない、ただのアイドルだ。
 それなのに、ここまでのめり込めるなんて。
 松永佑という存在は、これほどまでにわたしのなかで大きな存在だったとは。失って気がつくと言うけれど、まさにそうだった。

 でも、バイトや大学のことで落ち込んだときも、佑の笑顔を見たら元気になれた。笑いたくなくてもいつの間にか笑ってしまって、不思議と明日もがんばろうと前向きになれた。

 手の甲で涙を拭って、鼻水をすすりながらメッセージアプリを起動した。親友で、一緒にMerakのデビューコンにも行った桂木真衣(かつらぎ まい)からは、何件もメッセージが届いていた。

『大丈夫? 体調悪い?』
 
 そんな内容が、昨日も今日の朝も来ていた。そこでやっと、今の時間が昼前だと気がつく。

「……わかってるくせに」

 久しぶりにまともに出そうとした声は、掠れて音にならなかった。喉が乾燥してひりついて、咳払いを何度しても不快感は消えてはくれない。
  
 返信する気にはならなかった。今にもスマホを放り投げてまた痛みに浸りそうになったけれど、いまの状況をどうにかしたくて、すがるような気持ちで真衣に返信する。

『ごめん。佑のこと、信じられなくて』

 そう一言送ると、待ち侘びていたのかすぐに返事が来た。

『佑? だれ?』


「ーーえ?」

『彼氏? いつのまにできたの!?』


「なに……言ってるの……?」


 佑だよ、あの松永佑。

 そう返そうとした。でもいちいち打つのももどかしくて、わたしは電話をかけた。ワンコールで真衣は出てくれた。

『ねえ巴音(はのん)、体調ーー』
「どういうこと? なに言ってるの、佑だよ? Merakにいるーー」
『ちょっとちょっと、巴音こそなに言ってるの』
「はーー?」

 心臓が早鐘を打ち始めた。嫌な予感が脳裏をよぎる。こういうときの勘はよく当たるのだと、この一件で痛感した。スマホを持つ手が震えてきて、身体の内側が熱くなっていく。

『ねぇ、ほんとに大丈夫?』

 続く言葉は、わたしを絶望に突き落とした。

『Merakに佑なんてメンバー、いないじゃん!』

 頭を殴られたような衝撃だった。真衣の言葉が信じられなくて、何度も頭の中で反芻する。
 Merakに佑がいない? 真衣は、なにを言っているの?

「……う、そ……冗談、言わないでよ」
『言ってないよ! ……何があったの? 夢でも見てた?』

 夢? それなら、どれだけよかったか。
 繰り返し繰り返し、そう願って来た。

 でもあれは夢なんかじゃなくて現実で、わたしのことをえぐるように傷つけた。その傷跡はまだ新しく、すぐに大出血を起こしてしまいそうなほど、深いものなのに。

『とにかく、今日は大学、来る?』
「……ごめん、休む」

 それだけ言って、わたしは電話を切った。
 呆然としたまま、手から力が抜けてスマホが床に落ちる。

 佑が、いない?
 引退したから?

 ……もともと、この世界にいない?
 
 ……いや、もしかしたら真衣に何かあって、忘れてるだけかもしれない。
 うん、そうに決まってる。
 大丈夫、佑はいる。だって見たじゃん、一緒に佑のダンス見て湧いたじゃんーー。
 
 そう思って、わたしはファンクラブのサイトにアクセスした。胸が痛いほど、心臓が打っていた。デビュー発表かもしれないと期待したとき以来の大きな拍動は、ファンクラブサイトをロードする時間もうるさく刻んでいた。

 やっとの思いで表示された画面を見る。
 トップのアー写は、4人だった。
 
「仕事はや……」

 ……やっぱり、佑は。
 そう思ったのも束の間、微かな違和感を覚えた。トップに出ているアー写の衣装が、佑が脱退を報告するより前のものだったからだ。

「これ……」

 スクロールして、更新情報のページを探す。この間は、ここに『松永佑よりお知らせ』と書かれていて、押したらあの文章が載っていた。

 信じられなくて何度も開いたページ。見落とすはずがない。
 けれど、更新情報にはファンクラブ会員限定動画が配信された旨のお知らせだけで、それ以外は何も載っていなかった。

 あの日から何度だって見にきたそこに、佑からのお知らせは載っていなかった。簡潔に『グループ脱退』と『芸能界引退』と書かれたあの画面は、ない。

「なんで……?」

 まさか消された? もう佑は一般人だから?
 ……でも、アー写の衣装がちがう。
 
 検索ウィンドウに、松永佑と打ち込む。
 でも検索結果は全く知らない同姓同名のSNSのアカウントや、姓名判断しか出てこなくて、Merakの松永佑に関するものはなにも出てこなかった。

 どうして?
 どこに行ったの? 佑。
 
「……どこ行ったの、佑」

 脱退して引退なら、その内容が書かれたネットニュースの記事がたくさん出てくるはずだ。WEBメディアのインタビューや、今まで出演してきたドラマや映画のホームページだって。
 
 何度リロードしたって、ページを移動しても、それらはなにひとつとして出てこない。
 あの日ぶりにSNSを見た。SNSの検索もしたけど、同じだった。
 狂ったように呟いていた同担のフォロワーの内容もプロフィール欄も、全部が別のメンバーの名前になっていた。

「え、この人、佑推しだったのに……」

 この人も、あの人も。
 みんな佑から、他のメンバーになってる。
 
 おかしい。
 
 本当に、佑はこの世にはいない?
 ……じゃあ今までわたしが見てきて応援してきた彼は、いったい誰だったの?

 ……ちがう。佑だ。わたしがいままで、下積みのころから応援し続けてきたのは、紛れもなくMerakの松永佑だ。

「なにが、起きてるの?」
 
 背筋がぞっとした。
 痕跡はおろか、何もない。
 この世界に松永佑がいたという事実が、消えている。

 ベッドからよろよろと降りる。目の前が暗くなってめまいが襲ってきたけれど、床に座り込む。ばら撒けたままにしてあった、アイドル誌や雑誌の切り抜きのファイルを探す。

「……っあぁ」

 そこには、ちゃんといてくれた。
『はじめまして! 僕たちがMerakです』の特集ページには、4人と肩を組んで満面の笑みを浮かべた佑がいる。まだ幼くて垢抜けていない、佑。他のファイルの、ドラマに出たときの記事には、全身黒でかっこよくキメた佑がいて。

 他にも、CDのジャケットにも歴代のコンサートグッズのうちわにも、アクリルスタンドにも、佑はいる。

 どうして、わたししか知らないの?
 どうしてみんなの記憶から、佑がいなくなっているの?

 どこに行ったの?
 どうしてこの世界で、佑がたくさん努力して叶えてきた夢まで消えてしまっているの?
 
 わたしの部屋にも記憶にも、松永佑の姿は刻み込まれている。この前の春のツアーだって、わたしの『魔法かけて』のうちわを見つけてくれて、からかうように応えてくれたよね。

「……いなくならないでよ」

 乾いたはずの涙は再び溢れ出す。決壊したダムのように、泣こうとも思っていないのに勝手に流れて止まらない。

 声をあげて泣いた。
 泣きながら、こんなに佑のことで泣けるなんて、それだけわたしにとっては大切で、本気で好きだったんだなと思う。いつか時間が経ったとき、冷めて、好きだともなんとも思わなくなる日が来て、別のグループの別の人を好きになるかもしれないと不安になったこともあった。

 でも、そんなことこの先あるはずがないと思えた。
 わたしは本当に、心の底から、松永佑のことが好きだから。