9月にも入ると、平日昼間のお客さんはぐんと減った。夏休みが終わりほとんどの人が日常に戻り始める中、まだまだ夏休みの続くわたしは、今日も働いていた。
「いらっしゃいませ」
自動ドアが開いて、入ってきたお客さんは佑だった。初めて会ったときと同じ、黒いバケハを目深に被っている。
昨日の夜、『明日会える?』という連絡がいきなり来た。突然だと思ったけれど、あの話だと察してすぐに返事をしたからそのために来てくれたのだろう。
他のレジが空いていたけれど、佑は迷わずわたしのレジに並ぶ。
「今日、18時から大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ待ってるね」
佑はいつもと同じソイラテを注文した。
「はい、吉岡ちゃん」
時間通りにバイトを上がって、着替えてからフロアに降りる。いつものようにカウンターで、平井さんがソイラテを作ってくれていた。
「え、なんでわかるんですか」
「だって彼氏さん待ってるんだもん、立石くんと絶対そうだよねーって話してたのよ」
「ああ……」
カウンターから、佑が座っている席を眺める。はじめて話しかけてきたときと、同じ場所。まるであのときを辿るようだった。
「今日もおつかれさま。また今度ね」
「ありがとうございます」
……彼氏さん、か。
たぶんそれも、今日で終わりなんだろうな。
なんとなく、佑の格好から察した。わたしは佑が決めたことを応援する。するけれど、やっぱり少しは寂しい。
「お待たせ」
佑は本から顔を上げると、微笑んだ。
「バイトおつかれ」
「ありがとう」
向かい側に座る。佑は本をカバンにしまった。
そして、落ち着かない様子で少し視線を彷徨わせた。
わたしはカップを持ち上げ、ソイラテを飲む。今日は少し、苦く感じる。テーブルに置くと、カップにあたって氷が揺れる音がした。
「決めたんだ」
苦いのはよく混ざっていないのかもしれない。ストローでかき混ぜながら、硬い声を発した佑を目だけで見る。
「……戻ることにする」
どこに、なんて言わなくてもわかる。
その決断を、すると思っていた。どちらでもいいと、アイドルじゃなくてもいいと思ってはいたけれど、それが正しいと、わたしも思っているから。
わたしはカップを置いて居住まいを正し、佑の目を見つめる。
「あそこが、……あそこしか、俺の居場所はないんだと思う」
「……うん。いいと思う」
安堵の気持ちと、またアイドルの佑を見ることができるという、これからが楽しみな気持ち。
それから、寂しい気持ち。
色んな感情が、しゃぼん玉のように浮かんでは消えていく。
「今までありがとう、巴音」
「こちらこそ、変な提案にノッてくれてありがとう」
「ううん。巴音の提案がなかったら、俺はいつかの未来で後悔してた」
「そうかな」
「そうだよ。誰にも相談できないまま、あのとき戻ればよかったって思い続けたまま、死んだかもしれない」
「大袈裟な」
「大袈裟じゃない」
笑って、ソイラテを飲んだ。今度はなんでか、少ししょっぱい。
「巴音」
正面に見える顔が、少し傷ついたような顔をした。そしてその顔が近づいてくる。佑の匂いがした。伸びてくる右手には、シルバーのリングがついていて、きらりと光る。
その右手は、わたしの頬に優しく触れた。そして、親指で壊れ物を触るような手つきでそっと拭った。
慣れていない動作に、可笑しさが込み上げてくると同時に、安心した。佑は本当に、女の子慣れしていない。
「へたくそ」
「……泣かないで」
「泣いてないよ」
泣いていない。と思っていた。
でも、鼻水が垂れてきそうになって慌ててすすって気がつく。
……なんで泣いてるの?
わたしは嬉しいはずなのに。だって、あれだけ見たかったアイドルの佑がまた見れるんだよ。
今度は雑誌にもCDにもライブDVDにもちゃんといるし、曲だって佑がいないことはないし、佑の歌割りが消えることもない。
なにも悲しいことなんて、ないはずなのに。
「……これ」
佑はカバンから、封筒を取り出した。
「なに、これ」
「開けてみて」
分厚くて少し重みのあるその封筒を開けてみると、写真がたくさん入っていた。ひまわり畑のもの、夜の花火のもの。それから、一緒に行ったお祭りの、風景。
「いつのまに……」
「記念に、持ってて」
「いいの?」
「捨てちゃだめだよ。ずっと持ってて」
捨てるわけがない。こんな大切なもの、捨てるわけがないじゃない。
今度こそ涙が止まらなかった。
寂しい。
……わたしの隣から、いなくならないで。
勝手だと思った。意味がわからなかった。
佑があの世界から消えた時もそう思って泣いた。でもいまは、この世界に留まってほしいと思って泣いている。
そんな自分が醜く思えて嫌になりそうだった。結局、欲望のままに生きている。優等生でタレントに嫌われないオタクでいようなんて、最初から不可能だった。
自分でもわからないくらい泣いた。これだけ泣いたのは、佑が突然消えてしまった以来だった。
行かないで。戻らないで。
あんな遠い場所に行かないで。
言ったら困らせるのはわかっていた。言ったところで、佑が揺らがないのもぜんぶ。
でも、涙は止まってはくれない。
佑はただ、泣き止むまで待ってくれると思う。でももうそんな優しさには甘えられない。
「魔法を解く」
佑は静かにそう言った。
それは、魔法使いが透明人間になりたくてかけた魔法。
「それから、また魔法をかける」
そして今度の魔法は、佑がアイドルに戻るための魔法。
「最後に、思い出作りにどこか行こう。まだ制服デートしてないし」
「それはだめっ」
気が付いたら、咄嗟に口にしていた。
「だめだよ、佑はこれからアイドルに戻るんだから。特別な女の子も、いちゃだめだよ」
それでもまだ、優等生でいようとしている。本当はただ自分の欲望のままになるように願っているのに。
たくさんいる一般の、ただの佑のファンになんて戻りたくないのに。佑のことが、大好きなのに。
「写真も、消そう」
今の時代、どこから漏れるかわからない。もし佑がスマホを落としたら。もしわたしがスマホを落としたら。そうなったとき、あの写真があればわたしが佑の未来を邪魔してしまう。
わたしの存在は、佑の記憶以外では痕跡をすべて消すべきなんだ。
「……わかった」
スマホを見せ合う。佑はわたしが写った写真は全て完全に消した。わたしも佑の写真は全部消す。
「連絡先も」
「トークの内容も」
『佑』。
翔平が描いたアイコン。
それをタップしたら、ホーム画面が出てくる。
ブロックが選択できる画面が表示される。
なかなか押せなかった。押さないといけないと頭ではわかっているのに、実行に移せない。
深呼吸をする。今までの思い出が、走馬灯のようによみがえってくる。
カフェで凛斗のファンがアクスタと写真を撮っているのを見た佑が、何のためかと聞いてきて、見せたいものを凛斗に見せるためと言ったら、じゃあ巴音は見せたいものを俺に直接送ってきてよってはじめた、色んな写真の送り合いっこ。
消したくない。消せない。あの思い出が全部なくなるなんて。
これを押せば、もうわたしはただのファン。
特別な存在には戻れない。
それでも、残しておけばいつか佑の迷惑になるかもしれない。そう思うと、やっぱり消すべきだと思った。
優等生でいたい。佑に嫌われたくないから。
……震えて冷たくなる指先で、画面をタップする。
『佑さんをブロックしました』
そのポップアップが表示されて、わたしはスマホをテーブルに置いた。佑も、同じ画面を見せてくる。
「今までありがとう。……好きだったよ、巴音」
好きだった。
その言葉が、さらに涙を流させた。
好きだった。嘘か本当かわからない。これはただのファンサービスかもしれない。
でも、嬉しかった。
「わたしも、すきだった」
そう言って気がつく。
ああ、わたしは佑のことを本当に好きだったんだ。
アイドルとして、推しへの好きの感情だけじゃない。知らないうちに、松永佑すべてを好きになっていた。
そしてわたしたちは、ほんの短い間だけ、両思いだった。
……本当に恋人だったんだ。
佑だけが笑顔だった。
その笑顔は、わたしが今まで見たことがない笑顔だった。
本当の佑は、そうやって笑うんだな。
そしてゆっくりと目を閉じると、佑はあのとき時間を止める魔法を見せてくれたように、右手の指を2、3度振った。
家に帰ってから、封筒の中から一枚だけ写真を取り出す。
それは、わたしと佑のツーショット写真だ。顔を寄せ合って、佑は相変わらず完璧なビジュで、わたしは照れと眩しさで頬が赤くて、変な顔をしていた。
部屋で一枚だけ飾る分には許されるだろう。そう言い聞かせて、お祭りでもらったスーパーボールを載せている小さなお皿の隣に、写真立てに入れて飾った。
これから佑は、みんなのものになる。
みんなが佑を知ってる世界になる。
ほんの少し前の普通の世界に戻るだけなのに、寂しかった。もらった写真を見ると、また涙が出てきた。
この数ヶ月で、わたしは泣いてばかりだ。
また、行かないでと思っている。
あれだけ見たかった世界に戻るというのに、また同じことを思って、願って。
……どうか。
どうか今度は、佑が傷つきませんように。
楽しく幸せに、アイドルとして活動できますように。
そして、佑の夢が、叶いますように。
涙は止まらない。
好き。
……大好き。