カランと、氷が溶けてぶつかり合う音がした。
 カフェの店内には西日が差し込み始め、あたたかい色に照らしていく。青とピンクのクリームソーダは、トッピングのバニラアイスが溶けて白っぽいパステルカラーに色を変えていた。

 アスレチックでMerakを見てからというものの、佑の口数は少なくなった。時折どこか遠い目をして、窓の外を眺めている。遠くに見えるひまわりを見ているのかと思ったけれど、それはおそらくちがう。

 佑は、過去の記憶を見ているようだった。
 あのメンバーたちと共に切磋琢磨しあい、支え合い、乗り越えてきた日々のことを。

 ストローで混ぜながらクリームソーダを飲む。駄菓子みたいなチープな甘さと少し抜けた炭酸の味に、遠くでストローの紙の味が混ざり合う。もう紙のストローは長時間水分にさらされたせいで、ふにゃっとしていた。

 何を話せばいいのだろう。
 様子を伺いながら、することもないからクリームソーダを飲むしかない。でも佑の方はあまり減っておらず、アイスばかりが溶けていく。

 楽しかったね。
 綺麗だったね。

 そんな感想は、メンバーを見た瞬間から消えていた。楽しかったし綺麗だったのだけれど、それを上回る衝撃のせいで、なにを言ってもだめな気がした。

 佑はじっと耐えている。考えている。思い出している。
 それがわかったから、不要な口は出したくなかった。

 クリームソーダを飲む。そのまま飲んでいると、ズズ、と音がした。もう全部飲み切ってしまった。

 どうしよう、やることがない。
 佑と同じように外を見るか。でもそれも。
 じゃあスマホをいじる? いや、それは良くない。

 あれこれと迷っていると、佑がグラスを持ち上げてクリームソーダを飲み始めた。みるみるうちに減っていき、グラスは空になる。

「……行こっか」

 佑は微笑んでそう言った。
 そうして、わたしたちはカフェから出た。


 まだまだ夏とはいえ暦上は秋だからか、日が落ちるのが盛夏よりも早くなっていた。ゆっくりと時間をかけて夏は終わろうとしている。ツクツクボウシの鳴き声を聞くともなく聞きながら、車へと戻る。車内は熱い空気がこもっていた。
 
 エアコンを効かせる間、やっぱりわたしたちは一言も話さなかった。佑が話そうとしないなら、無理して話さない。いろいろと思うところもあっただろうから。

「……ひまわり、綺麗だったね」
 
 それでも、口火を切ったのは佑だった。ごうごうと唸るエアコンはやっと冷たい空気を吐き出し始めた。
 
「みんなが見に行くわけだね」
「うん」
 
 だいぶ冷えてきて、エアコンを少し弱めると車は動き出した。ウインカーの音を聞きながら、外を眺める。山の稜線の空は黄色を含んだ色に変わり始め、1日が終わりを告げようとしている。時間が経つのは早すぎて、あっという間だった。
 
「これからどうする?」

 わたしが問いかけると、佑は顎に手をやって「んー」と唸る。信号が赤になり、緩やかに車は止まる。
 
「あ、海行かない?」
「海?」
「そう。それで、花火しよう」
「わ、いいね!」

 花火大会は色々ありすぎて、花火を楽しむどころじゃなくなってしまった。打ち上げではないけれど、手持ちでも十分楽しめる。手持ち花火も久しぶりにやる。

 今年の夏は、なんだかんだ最近では一番楽しい夏かもしれない。

 

 海に着いたときには、太陽はすっかり沈んでいた。途中ホームセンターで必要なものを買い揃えて、急遽始める小さな花火大会。
 
「よーし」
 
 ろうそくに火をつけて、花火の先端を近づけると着火して、火が出てきた。色んな色の火薬が飛び出して、辺りに煙が広がる。
 
「わっ! きれい!」
「おおー」
 
 夕闇の中に、花火のカラフルな光はよく映えた。風に運ばれてくる火薬の匂いが鼻につくけれど、それもなんだか懐かしい。
 
「佑もやりなよ」
「俺線香花火がいいな」
「あ、これじゃない?」
「じゃあ巴音も。勝負しよう」
 
 せーの、と一緒のタイミングでろうそくに火をつける。ほとんど同時についた火を、ふたりで眺める。
 
 線香花火って、こんなに綺麗なものだったっけ。
 小さな頃は何も考えずにやっていたけれど、大人になったいま、夏って自分達が思っているよりも綺麗なものでたくさん溢れていることを知った。

 暑いばかりで宿題も多くて、夏はあまり得意ではなかった。けれど、年齢を重ねれば重ねるほど、綺麗なものがたくさんある夏を好きになっていく。

 花火は少しずつ短くなる。やがてわたしの線香花火が、ぷつんと糸を切ったように消えた。
 
「あーあ、負けちゃった」
「やった、俺の勝ちー」
 
 隣でしゃがむ佑の顔を見る。にこにこと楽しそうに笑っていて、さっきあったことなんて嘘のようだった。
 
 楽しいなら、まあいっか。
 そう思って、花火を続けた。
 
 色んな花火が詰まったパックは、ものの30分くらいで全てなくなった。佑がする最後の1本を眺めながら、今日の1日を思い出す。
 
 はじめて見た佑の運転姿。
 車内で聴いたMerakの最新シングルの中に、佑がいなくなっていたこと。
 綺麗で生命力があふれるひまわりのこと。
 そして、Merakのメンバーのことを見つめていた佑の姿。

 佑の隣は、居心地が良い。
 お互いにほとんど内面について触れることはないし、知ろうともしない距離感のせいかもしれない。今までずっと大好きな人だったからかもしれない。

 でも、本当にこのままでいいの?
 佑は本当に、今のままでいいと思っているのかな。

 やがてMerakだった時のことを忘れて、自分がアイドルだったことが遠い過去になって。そのときのことを知る人がいなくなって。でも反対に、どんどんMerakは大きくなって。
 
 それでも佑は、本当に後悔しないだろうか。
 脱退じゃなくて、忘れられていくことを。今まで一緒に夢を追ってきたメンバーが誰一人自分のことを知らない。それでいいのだろうか。
 
 メンバーのことを傷つかないように守ったとしても、自分は傷だらけでいいのかな。
 
「終わっちゃった」
 
 佑の声に、我にかえる。
 見ると、手元の花火は燃え尽きていた。
 
「……そうだね」
「なんか、夏が終わったみたい」
 
 ゴミをそばに置いておいて、わたしたちは座って海を眺めた。ざわざわと波の音がする。真っ暗闇の海をじっと見つめていると、呑まれそうになって少し怖い。
 
 潮の匂いに混ざって佑の匂いがする。
 佑はいま、ここにいる。
 匂いも知らないくらい遠くじゃなくて、すぐそこに。
 
「……ねぇ」

 ーーひと区切りつけるべきかもしれない。
 わたしたちの関係を終わらせるなら、このタイミングが良い。
 
「ん?」
 
 息を吸った。そうでもしないと、声が震えそうだった。
 
「……前に、聞いたよね。アイドルとしての佑が好きなのか、人間として好きなのかって。あれね、あのときはうまく答えられなかったけど、いまなら答えられる」
 
 この2ヶ月間の間。たった2ヶ月のほんの短い期間だったけれど、わたしは佑についてたくさん知った。
 
「佑が好き」
 
 今まではただ、アイドルとして好きだった。
 推しとして。手の届かない憧れの人として。応援したくなる、人として。
 でも、いまは違う。

 わたしは佑のすべてが好きだ。
 ただの大学生の、普通の男の子の松永佑も。

「佑のぜんぶが好きだよ」

 ちらりと、佑を見た。さっきと同じ姿勢のままで、どんな反応をしているのかまでは、怖くて見ることができなかった。

「……佑はこの生活、どうだった?」
「どうって、それは」
「わたしにはすこし、苦しそうに見えた」
 
 気のせいならいい。時折見せる切なそうな表情が、わたしの見間違いと思い込みならそれでいい。
 ちがうよ、俺は楽しんでたんだと、胸を張って思っているならそれでいい。この選択に後悔はないと言い切れるなら、それでいい。
 
 でも、公園でMerakを見たときにつぶやいた言葉が、頭から離れない。
 
『なんで、あそこに俺はいないんだろう』
 
「わたしには、佑の苦しみはわからない。わかろうとしたってできない。……花火大会の話を聞いたあとですら、佑がアイドルをしているのをまた見たいと思ってしまうの」
 
 この言葉はきっと負担になる。それでも、言うしかなかった。これを直接佑に伝えれらるファンは、わたししかいないから。
 波の音が聞こえる。遠くからは、車のタイヤがアスファルトをこする音が聞こえてくる。

「楽しかった。楽しかったよ。……でも」

 佑の方を向く。ウェーブのかかった柔らかそうな髪の毛が、潮風に揺れて踊っている。
 
「……やっぱり俺、無理だ」

 それは、どっちの意味なんだろう。
 佑の目は、暗闇の海をじっと見ていた。
 
「今まで一緒にやってきたメンバーが、誰も俺のことを覚えていないことが辛い。ショックだった。もしかしたらなんて思ったけれど、そんなことはなかった。……なんで俺だけ、こっち側にいるのかって思ったよ」
 
 言葉の端々から滲み出る感情は、怒りなのか、哀しみなのか、はたまた後悔なのか。佑は前髪を乱暴にかき上げると、膝を抱えた。
 
「透明人間になんて、もうどれだけ願ってもなれやしないんだね。本当は俺も、今でも、あそこにいたいって思ってしまうんだから」
「……うん」

 ステージの上の佑はいつも輝いていた。
 舞台やドラマ、たくさん仕事をしてきたけれど、やっぱり佑がキラキラ輝くのはコンサートのステージの上だった。

 そこに至るまでにたくさんの苦労も苦しみも痛みも抱えてきたのだろう。それに嫌になって、透明人間になる道を選んだ。
 でも佑がいるべき場所は、ここじゃない。
 
 たった1人の意味のわからない女の気持ち悪い提案にのって、わたしの隣に座ることが佑のやるべきことじゃない。

 佑がいるべき場所は、Merakだ。5人組の中の末っ子で、Vの字の一番後ろで、シンメは凛斗。
 それが、佑の居場所だ。

 ーーでも。
 
「わたしは、佑が決めたのを応援する」
 
 わたしは、どっちの佑も好きだ。 
 アイドルの松永佑も、ごく普通の透明人間の、ただの大学生の松永佑も。
 どっちも好きだと、心の底から言える。そう胸を張って言える。

 だからどっちでもいい。
 どっちの選択をしてもいい。

 もうアイドルでがんばらなくてもいい。佑が幸せで、辛くない選択をしてほしい。

「どちらを選ぶにしても、わたしは佑の味方だから」

 ーーああ、でも。
 でも本当は、行かないでほしいと願っている。
 このままここにいてくれれば、このままわたしの隣にいてくれれば。

 いつからこんなに、わたしはわがままになったのだろう。