夜20時過ぎに、ブッとスマホが鳴った。なんだろうと思い課題の手を止めてスマホを手に取る。電源をつけると、佑がシャボン玉を吹く画像の靴の部分が、メールの通知で隠れていた。

『Merakファンクラブ会員の皆様へご報告』

 ドキンと、心臓が跳ねた。
 震える指先でそれをタップし、メール画面へと移行する間に心臓はあり得ないくらい早鐘を打っていた。やっとの思いでメールの中を見ると、『松永佑よりご報告』の文字を見つけた。
 
 その瞬間、さっと音と色が消えていった。それどころか、世界が終わったと思った。

 ……ああ、やっぱり。やっぱり、佑は。

 力が抜けていく。……あれだけ祈り続けたのに、あれだけ願い続けたのに。
 根拠のない噂に惑わされることはないと、自分に言い聞かせ続けたのに。それなのに。
 それなのに、なぜ?

 ファンクラブページに掲載された、報告の内容。信じられない言葉が幾つも並んでいた。
 
 『退所』『グループ脱退』、そして『芸能界引退』。
 スマホの画面に踊るそれらの文字が何度読んでも信じられなくて、意味がわからなくて何度も読み返す。

 でも何度読んだって内容はなにも変わらない。達筆で綺麗に粒がそろった佑の字は揺るぎなく、その事実を伝えていた。

 あれだけ祈り、願い続けた。それでも、そんな願いも祈りもなにひとつ叶わなかった。
 佑が、いなくなる。この世界から、姿を消す。
 わたしはこれから先、佑が元気なのか、どんな髪型か、どんなファッションか、はたまた生きているのかさえわからなくなる。

 お知らせの中身の意味はわからないのに、いなくなることだけはしっかりとわかる。
 呆然としていたけれど、少しずつ視界が滲んで涙が溢れた。
 嫌だ、嫌だ嫌だ。
 どうして? なんで? Merakは5人、1人でもいなくなったら別のものになってしまうのに。

 あの佑が、思い出の中の人間になってしまう。
 やがて時間が経って、そういえばMerakに松永佑がいたね、なんて言われたくない。Merakは最初から4人だったと、新しくファンになった人に思われるなんて嫌だし、あり得ない。

 涙が止まらなかった。なんで? なんでこうなるの?
 そんな言葉ばかりが、頭を覆い尽くす。
 
 だってここに佑はいる。
 
 泣きながら棚をひっくり返した。広がった雑誌の切り抜きにもファンクラブの会報もCDにも、佑がいる。ここにも、ここにもとうわ言のように繰り返す。
 こんなにもここで、楽しそうに笑顔で、活動のことやメンバーのことを話しているのに。

 心に大きな穴が空いてしまったみたいだった。その大きな穴は、何か別のことをして埋められるものではないし、時間の経過で治るものでもないだろう。ただ松永佑というアイドルがいれば簡単に治るのに、それはもう二度と叶うことがない。

 わたしはこの先、どうしたらいいの?
 佑がいない世界でどうやって生きていけばいい?

 こんなことになるなら、佑のことなんか好きにならなければよかった。知らなかったらよかった。

 いつも普通にしているときはかっこいいのに、笑うと途端に可愛らしくなる表情に救われてきた。いろんなことを楽しそうに話すところも、胸キュンセリフが下手なところも。佑のすべてが好きだった。

 デビューが決まったときは号泣した。祝福の気持ちと安堵の気持ち、これからずっと応援できる嬉しさ、この関係が揺るぎないものになった実感。わたしは、誰かのためにこんなに泣くことができるんだと、自分でも感心したくらいだった。
 
 でも、デビューしてから今まで近くにいた彼らが、突然知らない遠い場所へと行ってしまったような気がしてまた泣いた。テレビも雑誌も、見ない日がないくらい急激に増えた露出に、戸惑っていたのだ。

 でもMerakのみんなは、そんなファンの感情を知っていたのか、ファンクラブの動画や配信で幾度となく『自分たちは遠くに行っていないよ』と笑ってくれた。たった一言、冗談っぽく軽く言われるその言葉たちにたくさん救われてきた。

 佑は、わたしが知らない世界を見せてくれた。
 今までなら見向きもしなかったものに興味を持たせてくれた。
 世界はこんなにも広いのだと、教えてくれた。

 ……でも。

 いっそぜんぶ夢であってほしい。
 これは全部悪い夢で、やけにリアルなだけ。目が覚めたら佑はいつも通り笑っている。

 そう思うと、少しだけ気分が落ち着いてきた。
 そうだ。……きっと、そうだ。
 気持ちの整理はつかないまま、気がついたら深夜になっていた。

 ベッドに入り、目を閉じた。

 ――神様。
 存在を信じたことはなかったけれど、厚かましいかもしれないけれど、今だけは信じさせてください。
 これが全部、全部夢でありますように。

 明日目が覚めたら、ワイドショーでは新しい仕事が解禁されていて、それを楽しみにする声と、キスシーンあったら嫌だなとか、でもやっぱり見たいかもとか、そんなくだらない声で溢れていてほしい。それを見て、ああ、やっぱりあれは悪い夢だったんだと笑えれば。
 
 それだけで良い。
 たった、それだけで良いのに。


 *
 

 目が覚めた。
 ずっと泣いていたせいで、まぶたが腫れてうまく目が開かない。なんとか目を開けて、ぼーっとする頭と重たい身体を無理やり起こして、ベッドに座る。視界の隅で、スマホが通知を知らせながらぴかぴか光っていた。

 スマホを手繰り寄せて電源をつける。たくさんの通知で埋もれて、お気に入りの画像の佑は見えない。

 もう十分に泣いたと思ったけれど、まだ涙は枯れてはいなかった。ただ通知で埋もれただけなのに、佑の姿が見えないことに不安になって、気が付いたら涙が滲んでいた。

 カーテンの隙間から、朝日が落ちてくる。果たしてそれは、本当に朝日だろうか。
 
 のっそりと起き上がった。
 部屋はひっくり返したままだった。
 MerakのCD、グッズのアクスタ。本棚に並ぶ雑誌の背表紙には、どれにも『松永佑』の文字がある。
 
 なにも変わっていない。 
 あれは、夢だった。
 ……そうか、夢だったのか。
 ああ、長くて悪い夢だった。佑がいなくなるなんて、そんなことが起こるはずがない。

 言い聞かせにも似た言葉を胸の中で唱えながらスマホを開く。指が震えて、呼吸が荒くなった。心臓はドキドキと波打つ。
 
 お願い。
 あれは、夢。わたしが勝手に作り出してしまった幻想。

 忙しなく打つ心臓をさすりながら、メールを開いた。宛先と、件名がずらりと出る。その中から『ご報告』を見つける。
 ……ダメだった。でも、とタップする。
 
『いつもMerakを応援していただきありがとうございます。
この度、弊社所属のーー』
 
 ――もう最後まで見ていられなかった。
 
 夢じゃなかった!
 夢じゃ、なかった。

 そう思うと、出きったと思った涙がまた溢れ出した。
 
「やだよ……」
 
 なんで、いなくなるの?
 どうして?
 メンバーが嫌いになった?
 アイドルが嫌いになった?
 
 わたしたちが、いけなかった?
 迷惑なファンがいたから?
 もっとCDを買えばよかった? 全部のシングルとアルバムがミリオンにいっていればよかった? あのとき新人賞が獲れていたらよかった?
 雑誌も、グッズだって!
 そうしたら撤回してくれる?
 
 やっぱりやめた、戻って来るって言って。

 とりとめのない思考が、浮かんではパッと消えていく。
 まだ涙は止まらなかった。顔を手で覆ったまま、ベッドに倒れ込んだ。