「ーーあの」
 
 わたしたちの前にーー佑の前に、見知らぬ女の子が立っていた。全体的に淡い水色のかわいらしい浴衣を着た女の子が、佑の顔を確かめるように見て、そして、信じられないものを見たような顔をした。
 
 ーーまさか。
 
 嫌な予感が脳裏をよぎった。
 その仕草……表情が、少し前の自分と重なったから。
 心臓が、ドクンドクンと波打つ。
 
「た、佑っ」
 
 逃げようと、服の裾を引っ張る。でも佑は動かない。
 
「やっぱり……!」
 
 女の子が目を丸く見開いて、少しずつ潤んでいく。
 ……失敗した。名前、呼ぶんじゃなかった。
 
「め、Merakの……松永佑くん、ですよね……?」
 
 ああ、やっぱり。
 ……この子は、わたしと同じなんだ。
 
 ある日目が覚めたら、大好きな人がいなくなっていた。脱退と引退に胸を痛ませて眠った翌日、自分以外の人の記憶から存在が消えて、ファンクラブのサイトからも持っているDVDからも消えかかる。

 その不安も絶望も痛みも、ぜんぶ知っている。
 ーーでも。
 
「どうして? なんで、誰もあなたのこと知らないのって、全部消えて、それでっ」
「……行こう」
 
 わたしは尚も佑の服を引っ張った。でも、佑は青い顔をしたまま、動かない。
 
「佑!」
 
 腕を強く引っ張ると、よろりと佑は動いた。そのまま腕をつかんだまま、わたしは走り出す。
 
「あ、まって!」
 
 女の子の呼び止める声を無視して、わたしたちは走った。草履のせいで足は痛かったけれど、ここで止まったらまたあの女の子に言われてしまう。それは、この関係も佑のことを考えても避けたかった。
 
 走り続けると、屋台がほとんどないおかげで、人も付近に住んでいる人くらいしかいなかった。ここでなら、と思って足を止める。
 
「はぁ……大丈夫、佑……はぁっ」
 
 手の中のかき氷は、もう溶けて水になっていた。カップからぽた、と水が落ちる。
 
「なんで……俺、ちゃんと……」
「佑……」
 
 うわ言のように、地面の一点を見つめたまま佑は低い声で言う。かける言葉が見当たらなかった。どうにかして、安心させないと。そう思ったとき、ひらめいた。
 
 そうだ、SNS。
 佑の魔法が切れているのだとすれば、きっとSNSに色々書かれるはずだ。それに、ファンクラブのホームページにも。
 
 そう思い、巾着の中からスマホを出してアプリを開く。手が震えてうまく文字が打てないけれど、やっとの思いで検索画面に松永佑の文字を入力する。
 
 サーチボタンを押してみても、ヒットするのは変わらず知らない人のアカウントや、同姓同名の人の情報ばかりだった。
わたしは、安堵の息を吐く。
 
「大丈夫だよ、佑。魔法は、解けてない」
 
 言いながらファンクラブのページも見た。そこにあるのは、佑のいた形跡すらないものだった。これでいいはずなのに、また胸がズキンと痛む。
 
「でも、あの子はなんで、俺のことを知ってたの?」
「それは……」
 
 だいじょうぶだよ。
 そんな言葉しか、かけることができるものを知らない。
 あの女の子は、どうして佑のことを覚えていたのだろうか。
 佑が突然消えた世界に放り出されたのは、わたしだけではないの?
 
 ……もしかしたらあの日、わたしがカフェで名前を口に出したときも、同じように見せなかっただけで心の中ではこうなっていたのかもしれない。
 雑踏から遠く離れた静かな場所で、衣擦れの音がした。佑が地面にしゃがみ込んだ音だった。
 
「透明人間になりたいなんて、無謀な願いだったのかな」
 
 光が消えた目で、佑は独りごちる。わたしに向けられた言葉ではない。すぐにわかった。
 
 少しひんやりとした風が吹いた。上を見てみても、月が冴え渡る晴れた空で、雨の気配はしない。それなのに、湿気を含んだような青臭い匂いがした。
 
「……巴音」
 
 少し低い声がわたしを呼ぶ。
 こんなことにならなかったら、きっと一生佑になんて呼ばれなかった名前。
 
「俺の話、聞いてくれる?」
 
 わたしもしゃがみ込んで、目を合わせてうなずいた。佑は口角だけ上げた笑みを浮かべ、また地面を見つめた。
 
 そのとき、ひゅーという甲高い音がした。それから間も無くして破裂音が響き渡って、色とりどりの光が地面を照らし出した。
 
 花火が上がり始めた。
 近くに人がいるのか、歓声が聞こえてくる。
 赤、緑、オレンジ、紫。
 
 色とりどりの花火の光が、佑の端正な横顔を照らす。それはまるで、ステージの上でスポットライトの光を浴びるみたいに見えた。
 
「俺はね、本当にアイドルになりたかった」
 
 ……知っている。
 今まで集めてきた雑誌でも、コンサートの最後の挨拶でも、どこでだって。佑が自分の言葉で語ることができる場所では、いつもそう言ってきた。
 
 憧憬を抱いて、自分もああなりたいと夢見て、今までやってきたと。
 
「無我夢中だったよ。どちらかというとスムーズな方だったし、下積みのころからちょくちょくお仕事ももらっててさ。……まぁでも、そうなると同じくらいの年齢の子たちとかは、どんどん冷たくなっていった」
 
 花火が上がる。空を見上げると、ハートの形が上がっていた。
 地面に落ちる光はピンク色で、かつての誕生日公演でアリーナ全部がピンク色のペンライトに染まったのを思い出した。
 
「嫌がらせみたいなのもあったけど、そんなことよりも、ついこの間まで仲良くしていたはずの子たちが態度を変えていったほうがしんどかった。どんどん居心地が悪くなって孤立して、やめようかと思ったくらいで」
 
 佑はあまり弱音を吐く方じゃない、とメンバーがよく言っていた。仕事が多くても大変だとも言わないし、それが顔にも出ない。

 だけどわたしたちは、気がつくべきだったんだ。
 弱さを見せない人の、危うさに。
 弱さを見せない。だからいま、こうなった。
 
「そんなときに助けてくれたのがね、凛斗くんだったんだよね」
 
 その名前を出したとき、かすかに佑の表情が変わったような気がした。
 
「Merakができて、あれよあれよのうちに事務所に推されて仕事がたくさんあって、ツアーをして。それで、俺が高校3年の頃、デビューした」
 
 本当に嬉しかった。
 今まで応援してきた子がデビューの夢を掴むことって、こんなにも嬉しいことなんだなと実感した。毎日いろんな情報が解禁されるし、テレビで見ない日がないくらいにいつも何かしらの番組に出ていたから、つまらない毎日がすごく楽しかったのを覚えている。
 
「……でもね、だんだん俺たちは、自分たちの置かれている状況に着いていけなくなったんだ。お仕事がもらえて嬉しい反面、Merakがどんどん遠くなって、自分たちの手に追えなくなって」
 
 それで、と佑は一度言葉を区切った。それから緩慢な動作で立ち上がる。それに倣って立ち上がったわたしの目を見る。
 困ったように、眉尻を下げた。
 
「ファンの子に言う話じゃないんだけど」
 
 ファンの子、か。
 明確に区切られていた。見えない線引きがあった。
 いくら近くにいてやりとりしていても、ああ、わたしはやっぱりたくさんいるファンの子の一人でしかなかったんだな。
 わかっていたはずなのに、改めて言われると、少し傷つく。

「あのときはみんな、倒れながら仕事をしてた」
 
 一際大きな破裂音がした。コンサートの終盤、名前を叫んだ後の銀テが飛び出る特効みたいな音で、肩が跳ねる。わぁ、とみんなが歓声を上げた。
 
「ストレスと多忙からくる不安定さ。過呼吸もよく起こしてた。そんなときもなんとかステージに立って、仕事をして。終わったあと、苦しむ俺の背中を、凛斗くんはなでてくれたんだ」
 
 ……もう聞きたくない。大好きな佑が、こんなに苦しんでいたなんて知りたくない。
 でも、わたしはこれを聞き届けないといけない。
 
「せっかくのオフも、佑くんですよねってみんなに声をかけられ続けて、プライベートがほとんどなくなったんだ。そのとき、デビューなんかしなけりゃよかったって、アイドルを目指さなけりゃよかったって、……思ってしまった」

 泣きそうだった。
 佑が、みんながあれだけ夢見てきたことだったのに。デビューが決まってあんなに嬉しそうにしていたのに。
 佑は少し遠くを見つめた。わたしのことなんて、見ていなかった。
 
「そこからかな、漠然と常に透明人間になりたいって思うようになったのは。デビュー1年、2年と迎えてからどんどん強くなっていく。その話を、俺は凛斗くんだけにした。……凛斗くんは傷ついてたよ」
 
 だからね、と佑はこれ以上ないほど優しく笑う。
 そのときだけは、わたしのことを見ていたのだと思う。
 
「だから俺は、魔法を使った」
 
 ひゅー、どーん。
 花火が上がり続ける。パラパラと音がして、光が降り注ぐ。
 
 ……ああ。
 
 わたしのためじゃなかったんだ。わたしたちのためでもなかったんだ。
 
 わたしたちファンが、佑のいなくなった世界に傷つかないように、最初からいなかったことにしたわけじゃない。
 すべて、凛斗のためだったんだ。
 
 凛斗が傷つかないように。凛斗が……ほかのメンバーが、悲しまないように。
 だから、魔法をかけたんだ。
 
「最低だよ、俺は」
 
 嘲笑するように佑は言った。そして、空を見上げて花火を見ていた。時折顔が光に照らされるけれど、その表情を直視できなかった。
 
 持ったままのかき氷のカップは、水滴でびちょびちょで、地面に落ちて染みを作っている。
 
 最低だよ。
 その声が、リフレインする。
 何度も何度も、寂しそうで苦しそうな声が、リフレインする。
 
 でも、不思議だった。

「佑は……最低じゃ、ないよ」
 
 最低だなんて、少しも思えなかった。

「巴音は、優しいね」

 わたしを見上げた佑はそうやって困ったように笑うと、また視線を地面に遣った。