7月も中旬に入ると、テストや期末レポートの締め切りがいよいよ見えて来た。基本的にはテストは持ち込み可だけど、ときどき持ち込んだらダメなものがあったり、レポートだけの科目があったりする。
そろそろちゃんとやらないと、後で痛い目を見る。レポートに加えてテストもあるんだから、今のうちに終わらせておいたほうがいい。
学校で勉強すると絶対に話がMerakに飛躍するから、という真衣の話に押し切られ、わたしたちは授業が終わったあと、ショッピングモールの新しくできたカフェで勉強することにした。たぶんどこで勉強してもすぐMerakの話をして進まなくなると思うけれど、それは黙っておいた。
「やっばい終わんない」
「やらなきゃ終わんないのよ、真衣」
パソコンを前にして絶望したように頭を抱える真衣をたしなめながら、わたしはキーボードを打つ。片方の画面に出した論文のデータは意味がわからなさすぎてもはや頭が痛い。こんなの、レポートよりも絶対にテストの方が楽じゃん、と心の中で悪態をつく。
パソコンから顔を上げて、息抜きがてらソイラテを一口飲む。真衣はあきらめてスマホをいじっていた。
「ねぇ真衣、スマホばっか見ないでやりなよ」
「ちょっとだけーーぎょえ!」
真衣があげた急な奇声に驚いて、咽せそうになった。周りの視線は何事かとわたしたちに集まる。そりゃそうだ、こんなとろで変な声を出さないで欲しい。
「ちょっと真衣……」
「Merakが、Merakが明後日生配信するって!」
……結局どこでやろうとその話になるんじゃん。
「へぇ、なにやるんだろうね」
「絶対春のツアーの円盤だ、どうしよう、お金ないのに」
春のツアー。
それは、佑が最後に見せたアイドル姿。
……でもきっと、そのパッケージの中にも佑はいない。
結局、コンサートのDVDからは佑はすべて消えた。デビュー前のものも、去年のものも。どこからも佑はいなくなってしまった。
「てことは、どうせ何形態も出るし、翔平にはぜんぶのランキングで1位を獲ってもらいたい! ……うん、夏休みはバイト三昧だ」
「その前に再試にならないようにテスト勉強しようね」
「偉く冷静ね、巴音。なんでそんな他人事でいられるのよ」
「……気のせいだよ」
正直、他人事にしか思えなかった。
佑がいたときは、わたしも真衣と同じようにひとつひとつの情報解禁に一喜一憂して、お金がないからバイトしないとと叫んでいた。でもいまは、そうは思えない。
「あーあ、彼氏ができたらやっぱり冷めるのかなぁ」
「だからちがうって」
「じゃあなによ」
言ってしまう?
Merakには、松永佑というメンバーがいて、凛斗とシンメだったのって。わたしはその人を推してたけど、6月に脱退して引退しちゃった。傷ついてたら、いつのまにか世界から佑まで消えていた。
……なんて、そんなおとぎ話みたいなこと信じてもらえるはずがないよ。
「最近のMerakに、ちょっと着いていけないだけ」
おおよその意味合いは、合っている。だからこれでいい。現にデビューして、一気に露出が増えたMerakについていけなくなって担降りした人たちは一定数いた。
「そっか。……ま、そんなときもあるよね」
「……うん」
気まずさを隠すようにソイラテを飲んだ。もやもやしたものを、氷で冷やされたラテで流し込む。
「あ、あとで本屋さん行かなきゃ。翔平表紙の雑誌フラゲできるかな」
「そのまえに、せめてこのレポートくらい終わらせようよ」
「しょうがない、翔平のために終わらすか!」
真衣がパソコンに向かって作業を始めたのを見て、わたしは遠くに目を遣った。わたしのバイト先と同じチェーン店でも、新しくオープンしたこのお店はどこか小綺麗に見えた。
お店のBGMに混じって、おしゃべりの声が聞こえてくる。学校帰りらしい女子高校生が友達と写真を撮りながら、期間限定のフラペチーノを飲んでいるのが視界に入る。懐かしい光景だった。
大学生になったいま、フラペチーノよりも普通のドリンクばかり飲んでいる。カップを持ち上げてソイラテを飲もうとしたとき、ふとカウンターの上のメニュー表に目を遣った。
ブラックボードに描いてある絵が、とても上手だった。
うちの店舗は立石さんが描いているけれど、ここのお店の人も絵が上手いんだな、と見ていると、レジの中の店員さんがこちらをじっと見ていた。
なんでそんなに見てくるんだろ。気まずくなって目を逸らそうとしたとき、その店員さんはどこか見覚えがある気がした。
「……あ」
「ん? どしたの?」
「佑だ」
「……あ、ほんとだ」
目が合った。どうやら佑は、ずっとわたしのことを見ていたようだった。わたしたち向かってにこりと笑うと、次のお客さんを呼んだ。
「ほんっとにかっこいいよね、佑さん」
「……うん、めちゃくちゃかっこいい」
かっこいいに決まってる。だって、佑だもん。
わたしは佑のかっこよさもちょっとダサいとこも、ぜんぶみんなに見てほしい。そうやって活躍してきて、努力してきたものがいまの佑にある。そんな気がするから。
「ほんとね、かっこいいの」
「おい惚気んな」
「帽子被ってても室内に入ったら絶対脱ぐし、ひとつひとつの些細な言葉遣いだって丁寧だし。でもああ見えて、ちょっと天然というかぽやっとしてるとこもあって、ほんとにめっちゃ良いの」
佑を語るのは止まらなかった。いままでだれにも話せなかったことを、久しぶりに聴いてもらえるのが嬉しい。それがアイドルとしての佑じゃなくても、みんなに佑の良いところを広めたい。
「それでね、優しくて思いやりもあって」
「あー……ねぇ、ちょっと巴音」
「なにより顔もいいの。常にビジュは最高だし、笑顔が素敵でかわいくって!」
「巴音ってば」
「やっぱり佑、大好き……」
本当に、推せる。
噛み締めながら、わたしはパソコンに突っ伏した。
たとえこの世界で誰も佑のことを知らなくたって、1人の男の松永佑の良さは関わった人みんなに伝わる。アイドルとしての格好良さは伝わらなくても、もうそれだけで充分だ。
そう、思っていたときだった。
「……それはどうも、ありがとう」
「ーーえ?」
聞き慣れた声だった。もう何度も聞いてきた声。
突っ伏したパソコンからゆっくりと顔をあげて、そこにいた人影に、わたしは息が止まったような錯覚に陥る。
「……マジ?」
「マジ」
目の前に座る真衣に確認した。真衣は真顔で大きく頷く。
「も……ねぇ、早く言ってよ!」
「言ったよ何回も!」
わたしたちが座っているテーブルのすぐそばに、佑がいた。顔を赤くした佑は、黒いトレーを持って立ちすくんでいる。
あ……ありえない。
いまの、聞かれた!?
うそでしょなんで!
「これ、差し入れ。……じゃあ、課題がんばって」
それだけ言うと、ケーキが載ったトレーをテーブルに置いてそそくさと戻って行ってしまった。心なしかいつもより声が低かったように思える。
「ああ、待って……」
背中に手を伸ばして言い訳を言おうとしたけれど、髪の毛から覗く耳の先端が赤く染まっているのを見て、手を引っ込めた。
こんなの、周りからどう見てもただの惚気のバカップルだ。
「……最っ悪」
わたしはまた、違う意味で突っ伏した。すぐそばにあるレアチーズの甘く酸味のある匂いが、鼻腔をくすぐる。
「自業自得」
真衣はそう言うと、どこからか翔平のアクスタを取り出し、チーズケーキと一緒に写真を撮った。
それから、薄いピンク色をした桃のソースがかかったレアチーズを、早速一口食べた。