授業が終わってから、真衣とは学校で別れてバイト先のカフェに向かう。異例の早さで明けた梅雨は季節を一歩夏に進ませ、街中はセミの鳴き声で溢れていた。
カフェに入ると、空調の軽くて冷たい空気が全身を包んだ。暑さのせいか、少しあった倦怠感が薄れていくのを感じる。
「おつかれさまです」
「おつかれさまでーす」
お客さんたちの邪魔にならないように、小声でレジ担当の人に挨拶をする。ロッカールームで着替えてフロアに降りると、二つあるレジのうち片方が2人制だった。社員の平井さんと、もうひとりはだれだろう。見慣れない姿だな、新しいバイトの人かなぁと思っていると、平井さんがパッと顔を上げた。
「あら吉岡ちゃん、おつかれ!」
「おつかれさまです」
そう言ったとき、その人も弾かれたように顔を上げた。
顔がはっきりと見えた。
「いっ……!」
佑だった。
「なんで!?」
「……いや、さっき学校で会ったとき、言おうと思ってたんだ」
佑はそう言いながら、気まずいのかわたしから目を逸らしていく。……もしかして、平井さんに変なことでも言われたんじゃ。
「やっぱり? 吉岡ちゃんの彼氏に似てるなぁって思ってたのよ、私」
「いや、ええ……メッセージで連絡くれたらよかったのに」
「あそっか。交換してたね」
その言動に、平井さんが少し怪訝な顔をしたのをわたしは見逃さなかった。そりゃ普通のカップルなら、連絡先を交換していたのを忘れたりしない。
「でも安心して、店は違うんだ。いまは研修でここにいるだけだから」
「あ、そう……」
そう言いながら、わたしは隣のレジの人と交代する。
……なんだかよくわからないけど、そうらしい。
そうか、佑がバイトか。
やりたいことのひとつにバイトと言っていたし、大学生だからおかしな話でもない。
トップアイドルとして活動してきて、デビューしてすぐの露出を考えるとお金がないことはないはずだ。現に佑は、ブランドの靴や時計をつけていることもあった。みんながよく知るハイブランドとかじゃなくて、知る人ぞ知る、みたいなブランドばかりでおしゃれな人だった。
レジの設定をしながらふと思い出す。
ああ、そうだ。以前なにかで、アイドルじゃなかったらやりたかったことのひとつに、カフェの店員だと言っていたっけ。
……いやいや、怖いわ。
冷静になると、なんでも相手のことを知っているのは気持ちが悪い。透明人間になりたいのに、雑誌のインタビューのこと細かく把握してたらさすがに怖すぎる。
……もうやめよう。
いつまでわたしは、佑のことをアイドルで見ているんだろう。もう区切りをつける。ちゃんと普通の人として、佑のことを見よう。
ちらっと隣を盗み見る。佑は平井さんに教わりながら、レジの操作を覚えている。真剣な横顔は、やっぱりかっこいい。
佑のビジュアルのことだ、きっとすぐにイケメンカフェ店員として話題になる。佑目当てで通う人が増えて、もしかしたらSNSに取り上げられて。最悪そこから芸能事務所から声がかかりそう。
……だとしたら、アイドルと大して変わらないじゃん。
まあ、そんなことはそうそうないんだろうけど。
でも、同じバイト先か。
それはそれで楽しいかも。
なんてとりとめのないことを考えていると、お客さんがやって来た。
*
「吉岡ちゃん、閉店作業お願い」
「はーい」
閉店時間になりレジの清算をしていると、ぬっと隣に佑が立った。
「わっ」
「帰り、送るよ」
「え、いいよ。いつもこの時間で慣れてるし」
「いや、送らせて」
頑として譲らなさそうだった。それなら、と思ってお言葉に甘えさせてもらうことにした。
「……ありがとう」
「うん」
それだけ言うと、佑は平井さんの方に言ってしまった。それを言うためだけに来てくれたんだな、と思って少しくすぐったいような気持ちになる。
閉店作業を終えて、ロッカーで着替えてフロアに戻ると、カウンターに寄りかかってスマホを触る佑がいた。
「帰ろっか」
もう外は真っ暗だった。暗闇の中に、白い満月が映えている。夕方より幾分か涼しくなった夜風が、わたしたちの間を通り過ぎていった。
「店員さんって大変だね。覚えることがたくさんあって頭がパンクしそう」
「でも覚えたら楽しいよ。常連さんもたくさんいるし」
「そっか、それは楽しみだな」
「ダンスとこっち、覚えるのどっちが大変?」
ふと思い立って聞いてみた。短い期間でコンサートのリハーサルをしたり、ダンスや歌を覚えたりする。佑は振りを覚えるのが苦手だとはあまり聞いたことがないから、記憶力が悪いわけではないのだろう。
「断然こっち。ダンスはもう色んな動きを身体が覚えてるから」
「へぇ、そうなんだ」
身体が覚えてる、か。
かっこいいな。
「俺、バイトしてみたかったんだ」
「事務所はデビュー前でも禁止なんだっけ」
「そう。だから今しかないなって。それに、普通の大学生はみんなバイトしてるし」
たしかに、大学生になったらとりあえずバイトというところはある。実際わたしの周りもみんなしていて、やっていない方が珍しいくらい。
「巴音はお給料なにに使ってるの?」
「え、聞く?」
「あー、ごめん。プライバシー的な」
「ちがうちがう! ……佑に使ってたの」
「俺?」
自分を指差し、目を丸くする佑を見て苦笑する。
「CDはもちろんだけど、コンサートのチケットとかグッズとか。あとは雑誌」
CDが出るときはグループ単位での表紙が多くなる。個人仕事だといろんなジャンルの雑誌で、ソロ表紙が多くなる。だからそういうのも追っていたら、お金なんていくらあっても足りないくらいだ。わたしと真衣は、いつもお金がないと叫んでいた。
「ありがとう」
「え?」
突然お礼を言われて、わたしは思わず立ち止まる。それに気がついたのか、佑も立ち止まってわたしの方を振り向いた。
アリーナの外周に立つ佑を見上げるみたいに、わたしは佑の顔をじっと見つめる。
「な、なんで?」
「巴音のおかげで、俺はアイドルを続けられていたから」
「……別にそんなの、わたしだけじゃないよ」
この世界にはたくさんのMerakのファンがいて、たくさんのファンたちがCDを買って、雑誌を買って、グッズを買っている。わたしよりもMerakにお金を落としているファンは、山ほどいるはず。わたしだけのおかげじゃない。
……だとしても、そこは素直にありがとうを受け取ればよかったかな、と少し思う。佑のことを、わざと困らせているみたい。
「……うん」
少し気まずくなって、視線を彷徨わせた。すると、民家の塀に貼ってある花火大会のポスターが目に入った。
「あ、花火大会!」
それは毎年恒例の花火大会のものだった。再来週に開催予定で、その時期はちょうど大学もテストが終わるころだ。
「行きたいなあ、花火大会」
「いいね、行こうよ」
「ほんとに?」
「うん。俺も花火見たいからさ」
そう佑は笑った。
「花火大会、何年振りだろ」
「うーん、わたしは小さい頃に行ったきりかも」
「そんなに行かなかったの?」
「別にいっかなーって」
わたしたちはまた歩き出した。夏の夜の匂いが、佑の匂いと混じってあたりにただよう。
佑と花火大会。考えただけでもワクワクする。
……楽しみだな。
そうこうして話しながら歩いているうちに、わたしたちは駅に着いた。
「ここから電車だから、ここで大丈夫」
「そっか。気をつけて帰ってね」
「うん、佑も。送ってくれてありがとうね」
「いいえ。それじゃ、またね」
「またね!」
佑と別れて、改札を通り抜ける。駅に入ってから思いついて振り返ってみたけれど、そこにもう佑はいなかった。街の雑踏のなかに塗れて、背中さえ見えない。
少しだけ、ずきんと胸が痛んだ。
……何傷ついてんだろ。わたしはまた前を向いて、ホームに向かって歩き始める。
当たり前でしょう。冷静なわたしが、そう呟く。
わたしたちの関係は、利害が一致するからであって、お互いに気持ちがあるわけではない。それは幾度となく考えてきたことだ。
佑は普通になりたくて、わたしは佑の本当の人柄を知るため。そこに気持ちは、ファンとしての好き以外はない。
カバンからイヤホンを取り出して耳にはめる。スマホで操作して、Merakの音楽を聴く。適当に再生したプレイリストは佑と凛斗のユニット曲だった。
発着メロディが鳴って、ホームに電車が滑り込んだ。ドアが開いてたくさんの人を吐き出すさまをぼーっと眺める。ひとしきり降り切ったあとに乗り込んで、隅っこを確保した。
なんで佑は、こんな得体の知れない気持ちの悪い提案につきあってくれてるんだろう。いくら恋愛がしてみたかったからとはいえ、オタクと恋人ごっこなんてしてなにが楽しいの?
下心があって近づいてるような、ただのオタクだったらそれでも引き受けたのだろうか。
夜の電車の窓は外の景色をあまり映さず、わたしの顔ばかりを映している。特別かわいいわけでもスタイルがいいわけでもない。ただ、たまたまあのカフェでバイトをしていて、佑のことを覚えていただけ。
本当に、それだけ。
だからこそなのか、わたしは佑のことを知ろうとしながら、その内面に立ち入るのをためらっている。同時に佑は、内面に入られないように防御線を張っている。
なんとなく、それがわかってしまうんだよな。
電車は揺れながら進んでいく。佑と凛斗の綺麗なハモリが、耳の奥で鳴っている。