最後のフェイクを、彼は歌い上げた。
半身を折り曲げ、身体の中に残っているすべての力を絞り出すようにして出したフェイクは、今まで聴いてきたもののどれよりも綺麗で、同時に、どこか危うさを感じた。
そのままアウトロが終わると、会場は無音の状態になった。照明は一度全て落ちると、やがてひとりを照らし出す。
「本日はご来場いただき、ありがとうございました」
ステージの真ん中に立つ、グループのセンターである木林翔平が終わりの挨拶を始める。椅子に座って翔平の挨拶を聞くともなく聞きながら、わたしはずっと、双眼鏡で彼を見つめていた。
松永佑。
5人組アイドルグループ、Merakのメンバー。
わたしが世界で一番、好きなひと。
「また皆さんに会えるのを、楽しみにしています。これからも引き続き、よろしくお願いします!」
翔平の最後の締めの言葉が終わると、5人揃って頭を下げた。一度上げても、あたたかい拍手が沸き立ち、そのことに感謝するようにまた頭を下げる。
一番長く頭を下げていたのは佑だった。彼はいつも、5人の中で最後まで頭を下げている。そして、上げた顔はすぐにカメラに抜かれ、メインモニターに映る。
――その頬が、濡れていた。
汗? ――ちがう。
佑は、顔に汗をかかない。どれだけ激しく踊っても、走っても、運動をしても顔には一滴もかかない。
けれど今日は、頬が濡れている。
瞬時に、頭に浮かぶ。
――涙。
「……なんで」
なんで。……オーラスだから?
いいや、佑は今の今までステージで泣いたことなんてなかった。
なにがあったって、どんなことがあったって、佑はステージの上は愚か、滅多に泣くことはない。
それが他のメンバーのファンから、薄情だ、グループへの愛情がない、などと批判されたこともあった。でもそれは、ただの佑のプロ意識でこだわりだ。
そんな佑がいま、泣いている。
どうして。なんで。
頭の中で、佑が泣く理由を探す。けれどなにも思いつかない。
そうこうしているうちに、今回のアルバムのリード曲である楽曲のインストゥルメンタルが流れ始める。5人は顔を見合わせると、くるりと後ろを向く。そしてそのまま、メインステージのLEDへと、歩き始めた。
ああ、待って。
――行かないで。
なぜか、そんな言葉が頭の中に浮かんでいた。
この光景はもう見慣れたはずだ。何度も何度も、ツアーのたびに毎回見てきた。それなのに、どうしてそんなふうに思うのだろう。
予感めいたものが、胸の中に落ちていく。
なぜかはよくわからない。わからないけれど、このまま佑とは、もう二度と会えないんじゃないかという予感。
あなたのその背中は、そんなに小さかったかな。
ツアーTシャツを着た白い背中は、そんなに小さく、いまにも消えそうだったかな。
うちわとペンライトを握る手が震えていく。喉になにかが張り付いてしまったのか、うまく唾を飲み込めなくて吐きそうになる。
行かないで。いなくならないで。
一歩、一歩と佑がLEDに向かって足を踏み出す。
――が、つと、佑がその場に立ち止まった。
息を呑んだ。たぶん、そんなこと誰も予想していなかった。
それは、一緒に歩くメンバーでさえも。
あまりにも意表をつく姿で、観客席がざわつき始めた。他の4人が、そのざわめきか、佑の足音がしないからか、立ち止まったことに気がついて足を止めて振り返る。
佑が、ひどく緩慢な動作で振り返った。
そして、目を細めてアリーナ全体を見渡した。
……名残惜しいように。それでも少し、希望を見るように。
ーーメンバーの凛斗が近づいて、佑の肩を抱いた。
そして彼は、肩を揺らした。
声を押し殺して泣いてた。気がつけば、メンバーのみんなが泣いてる。
デビューツアーのオーラスでも、涙をひとつとして見せてこなかった佑が、メンバーが、泣いていた。初めて見る光景に、周りの人が小声で話し始める。そのざわつきは波紋のように広がり、どよめきを産んだ。
程なくして、そのざわめきは5人の泣き声によって一気に静まり返った。5人がステージの上のLEDの真ん中で、それぞれ肩を抱くように近づいて、わんわんと泣いていた。
わたしたちはすっかり置いてけぼりだった。けれどその5人を見ると、良いことか悪いことかはわからないものの、わたしたちの知らないどこかで何かが起きようとしているのは、すぐに理解できた。
ドームツアーかな。
発表はされてないよね。
でも発表前でこんな泣かないよ、ふつう。
近くの席の人たちがしていた会話が聞こえて来る。
そのなかで、いちばん聞こえたくない声も聞こえてきた。
ーー解散、とか。
心臓が、ドキンと跳ねた。
嫌な予感がした。LEDに向かうあの、佑の背中がよみがえる。
ちがう。……ちがう、そんなはずがない。
そんなことじゃない。きっと、嬉しいお知らせだ。でもまだわたしたちには言えないから、感極まってああやって泣いてるんだ。そうに決まってる。
それしか、ない。
そう、信じたかった。でもどこか冷静な頭では、嬉しいお知らせではないことくらい、薄々感じとっていた。
ねえ佑。
お願い、いなくならないで。
わたしはきっと、佑がいない世界でなんて生きられない。
消えないで。この世界から、いなくならないで。
わたしは、佑がいない世界なんて生きられないよ。
最悪、アイドルなんてやめていい。表だった世界にいなくてもいい。ただ、わたしはあなたが幸せで、生きてさえいてくれればいいの。
……ああ、でもやっぱり無理だ。アイドルでいてほしい。
佑は、わたしたちの前にいてほしい。
だから、いなくならないで。
行かないで。
わたしの前から、消えないで。
5人はまだ、泣いていた。なにか話していたけれど、スタッフさんたちが意図的にマイクを消したのか、わたしたちにはなにも聞こえなかった。
永遠にも似た長い時間、彼らはそうしていた。けれど、思い出したかのように目を合わせて照れたように笑い合うと、そのままLEDのモニターの真ん中に入って行った。泣いて赤くなった目を細めて笑いながら、わたしたちに手を振って、戻っていく。
そんな笑顔を見ても、嫌な予感は拭えなかった。
泣かない彼らが泣いた。その事実は、ファンを大きく揺らがせた。
コンサートが終わって間もなくして、SNSの海には彼らの涙の理由が、メンバーの脱退かMerakの解散だと噂され、まだ発表されていないのに決めつけたような悲観的な声であふれた。
でも、解散ならまた会おうなんて言わないよ。
悲観的な声とそんな反論が、対立していく。
あれだけMerakのことでひとつになっていたSNSは、確実にこのことで壊れていった。メンバーに対する汚い言葉もきつい言葉もたくさんあふれて、見ようとしなくても勝手に視界に入って蹂躙してくるそれらを遮断したくて、SNSのアプリをホーム画面から消した。
願い続けた。祈り続けた。
佑がこの世界から消えませんように。
Merakがあのまま、この先ずっと活動していきますように。彼らが最後までアイドルでありますように。
ふとしたすべての瞬間で、わたしは願い祈り続けた。
……でも、そんな一ファンでしかないわたしの願いや祈りなど、Merakにはなにひとつ届かなかった。
鬱陶しい湿度と雨をもたらす梅雨前線が異例の早さで列島からいなくなり、清々しい様子で梅雨明けを告げるニュースと同日のことだった。
松永佑のグループ脱退と芸能界引退が、Merakのファンクラブ内で発表された。