「窒息の時は、まずハイムリッヒ法を試します。みぞおちの辺りを斜め上に押し上げることで、喉を詰まらせている原因を吐き出す方法です」
弦太郎の講義を、弟子たちが真面目な顔で聞いている。
ひとりは筆を走らせ、ひとりは真っ直ぐに弦太郎を見つめて。誰もが一言一句もらすまいとその声に耳を澄ませる。
「それでも吐き出せない時に使うのが、気管切開術という手術です。喉の血管、神経、甲状腺などの器官を全て傷つけずに喉に刃を入れ、切込みを入れます」
そこまで説明したところで、綾子は襖を開けた。
「兄上、縫合が終わりました」
「あぁ、うん」
弦太郎がすぐに部屋に入ってきて、横になる老婆の喉元を見る。
「綺麗にできているね。さすがだ」
縫合は綾子の特技だ。何度となく練習してきた。
「それから、こちら。ご家族に渡す飲み込みやすい食べ物の一覧です」
「絵は露が描いたのですよ!」
綾子を手伝っていた露子が、得意げに言う。
「うん、いいね。このまま渡してよさそうだ」
弦太郎の答えに、露子は満足そうに笑った。
「そちら、見せていただいても?」
伊藤が興味津々にできあがった本を見る。
「患者様にお渡しするものなので、汚さないでください」
「もちろんです」
弦太郎の手から受け取ったそれを、弟子たちが一斉に覗き込む。
「よくできていますな」
「経過観察が必要な患者様や、家での過ごし方に特別な配慮が必要な方には、こうして説明書を作ってお渡ししておくんです。お渡しする人によって絵を多くしたり文字を多くしたりと変えています」
これも父から教わったことだと、弦太郎が丁寧に教える。弟子たちは熱心に聞き入っていた。
「本当にありがとうございました。もう無理かと……」
意識が戻った患者と、迎えに来た家族が、弦太郎に頭を下げる。
「回復が早かったのは、おイネさんご自身の力ですよ。私はそれを手助けしただけです」
「おふくろが……」
首に包帯を巻いた老婆が、ニコリ微笑む。
「源次さん」
綾子が一冊の本を手に歩み寄る。
「年を取ると喉の筋肉が衰えて、食べ物を飲み込むのに疲れてしまいます。飲み込みやすいものをまとめたので、よかったらこちらを」
「あ、ありがとうございます」
「ここに書いていますが、お米は柔らかく炊いたものを、おかずは一口で食べられるように小さく切ったり、あんかけのようにとろみをつけたりしてください」
文字だけでなく、口頭でも。簡単にではあるが、伝えることに意味がある。
「おイネさん、食事の時は焦らないで。よく噛んで、意識して飲み込むようにしてください」
「ありがとねぇ」
ニコニコと笑顔で帰っていく親子に、綾子はホッと安堵の笑みを漏らす。
「ふふ」
それを見て、露子が笑った。
「なんですか、露子」
それに気づき、綾子がムッとすると、
「なんでもありません」
と露子はとぼけてみせた。
「はっきり言いなさい」
「姉さまも人の子だと思っただけです」
「どういう意味ですか」
さっそく始まる姉妹喧嘩に、
「こら、2人とも」
と弦太郎が仲裁に入る。
「姉さま、こわぁい」
「何も言ってないでしょう」
「あははっ」
露子がきゃっきゃっと楽しそうに家の中へ入っていく。その背中に呆れる綾子に、
「いいじゃないか」
と弦太郎がなだめた。
「む、難しいですね……ほうごうとは……」
「慣れですよ」
今日は縫合の練習をしていた。弟子たちに混ざって、露子も針を持つ。
こちらは見慣れているのか、するすると進めていた。綾子が裁縫を教えていたおかげか。
「お露ちゃんはさすがだね。やっぱり針は女性の方が……」
「手術と縫合は2つで1つですから。その理論だと、手術をするのも女性ということになりますよ」
裁縫の針と縫合の針は違う。それに、母は刺繍を趣味としていたが、縫合は苦手だった。
苦戦する弟子たちに、弦太郎は微笑んでいた。
「う、うわ……からまった……っ!」
「落ち着いてください」
弟子の1人、一真に、綾子が手を添える。
「手術中は焦りが一番の敵です。どんな時でも、落ち着いて。冷静に対応しなくてはいけません」
「は、はい……」
滝川から預かった弟子の中では、一番若い。おそらく弦太郎とそう変わらないはず。
それでも、誰よりも熱心に取り組んでいた。
「……」
黙々と針を進める男。岩木だったか。手際がいい。それに綺麗だ。
綾子が静かに見ていると、
「兄さま、できました」
「おぉ……」
露子が手を挙げたことで、小さな歓声が沸き起こった。
そんな時、
「ごめんください」
玄関から声がした。
「はい」
弦太郎がさっと出て行く。弟子たちも不思議そうにその後をついていった。
「滝川先生!」
玄関に現れた男性に、全員が驚く。
「お呼びいただければ参りましたのに」
弦太郎がそう言いながら、彼を招き入れる。
「いやいや、今日はお客様をお連れしましてね」
「お客様ですか?」
患者、という言い方をしなかった。そのことに、弦太郎も綾子も違和感を覚える。
「どうぞ」
滝川が振り返り、そう呼びかけたことで、入ってきた女性。綺麗な着物から、ただの平民ではないと悟った。
「この方は、中村伯爵家の使いの方です」
「……!」
伯爵位。貴族だ。慌てて全員がその場に座り、頭を下げる。
「このようなところに、高貴なお方がどのようなご用件で……」
「……ここに腕のいい医術師がいるというのは事実ですか?」
静かで、それでいて凛と響く声。
「ここは、ただの診療所でございます。腕がいいというのなら、滝川先生の方が……」
「この者は病状を聞いてわからないと言いました」
滝川も知らない病気。そんなものを、弦太郎たちに診断できるのだろうか。
「お話をお聞きしましょう。おあがりください」
しかし、弦太郎は断れない。丁寧にそう告げ、彼女を室内へ招き入れた。