兄妹の姿は、大きなお屋敷の前にあった。
「大きい……ですね」
「滝川先生が用意してくださった屋敷だよ」
屋敷。その言葉にふさわしい、広い家。診療所と兼ねて、とのことだが、これは広すぎるのではないか。
「長屋で十分でしたのに」
ふるさとの家も、長屋ではなかったが、家族5人がつつましく暮らす小さな家だった。
「ご厚意に甘えよう。診療所でもあるんだ。広いにこしたことはないからね」
「すごい! 露、貴族のお姫様みたいです!」
広々とした部屋で両手を広げてくるくると回る無邪気な妹に、
「貴族のお姫様は、医術師にはなれませんよ」
綾子はその横をすたすたと通り過ぎ、荷物の整理を始める。
それに対し、露子はぷくっと頬を膨らませ、弦太郎はそんな妹の頭を撫でた。
「お薬の製作所はどこにしますか?」
荷解きをしながら露子が言う。
「隣に蔵がありました。そこでいいでしょう」
「また道具をそろえる必要があるね。最低限の家具もあるとはいえ、十分じゃないから」
「医術の道具はともかく、家具は必要ありません。どこにそんなお金があるというのですか」
兄妹の財布を握る綾子は、やっぱり厳しい。
旅に必要な生活具はあるし、滝川はいくつかの家具を用意してくれた。新しく買う必要性は感じない。
その時、ドンドンと、玄関の扉を荒々しく叩く音がした。
「誰でしょう」
まだ診療所として看板も出していない。患者が来ることなんてないのに。
「出てくるよ」
弦太郎が部屋を出て行く。が、露子はともかく、綾子はじっとしている性格ではない。
「露、少し出てきます」
「はーい」
荷解きを妹に任せ、綾子も部屋を出た。
玄関に通じる部屋に行き、少し兄を待ってみる。しかし、戻って来ない。
「兄上、お客様ですか?」
しかたなく玄関に出ていった。
「綾殿、お久しぶりでございます!」
伊藤を先頭にした、見覚えのある男たちだった。
「これは伊藤様、本日はどういったご用件でしょう」
「楠本殿に弟子入りに参りました」
「あぁ……」
滝川と話し合いをしていく中で、兄妹は本名を名乗った。そして、弦太郎に弟子入りするという形で、滝川の弟子の医術師たちを借りることになった。
これは意外にも大人気のようで、技を覚えた者を下がらせて別の人間を送るということも考えたいと言われたのだが、それは綾子が断った。
「兄上、お入りいただいては?」
「そうだな。皆さん、どうぞ中へ。綾、お茶を淹れてくれるか」
「はい」
綾子が玄関から台所へ行く途中で露子に会う。
「お客様ですか?」
「兄上に弟子入りされる医術師の方々です。ご挨拶はあとにして、お茶の準備をしますよ」
それを聞くと、露子はわかりやすく唇を尖らせた。
「ご挨拶は、歓迎の証だって、父さまが仰っていました」
「そうですよ」
「だったら、露はご挨拶しません。歓迎していませんから」
「そのような理屈はいりません」
不満を垂れる妹をぴしゃりと諫め、お茶を準備して、露子と一緒に持っていく。
「失礼いたします」
座敷に入り、それぞれにお茶を出すと、
「露、診療所を手伝ってくれる方たちだよ。ご挨拶できる?」
と弦太郎が聞いてくる。
「できません」
「露」
頑固な妹だ。
「露、こちらに」
拗ねてそっぽを向く露子を、綾子が呼びよせる。露子は姉の隣に座り、しがみつくように姉の着物の袖を握った。
「申し訳ありません。この子はまだ子どもですので」
綾子がそっと妹の頭を撫でながら、伊藤たちに軽く謝罪する。
「いえいえ、とんでもない」
彼らは微笑ましいと笑った。
「弦太郎殿も台所に立たれるのですか?」
夕方になり、ある程度の荷物の整理が終わると、兄妹は3人で台所に立った。それに医術師たちは驚く。
「男女で役割を決めない。それが父の教えですから。綾や露も医術の場に立ちますし、家を回すのも手が空いている人がします」
「父さまの医術を学ぶなら、これが基本ですよ! 皆さんも手伝ってください!」
相変わらず彼らを認めない露子は、冷たく言い放つ。
「露、押し付けてはいけないよ」
「どうしてですか?父さまがいつもそう仰っていました」
弦太郎になだめられた露子は、真っ直ぐな目で尋ねる。
「父上のは、半分冗談みたいなものだから……」
確かに父は、家事に積極的だった。そのせいもあって、弦太郎も家事をすることがある、というだけ。
「露の言う通りです」
綾子が鍋を見ながら静かに呟く。
「しかし、今日は初日です。今日だけはかまいません。座敷でお待ちください」
「姉さまは甘すぎます! いつも口うるさいのに」
「父様の医術を学べるのは家族のみと言ったでしょう。彼らはまだ医術を学んでいません。本格的に勉強を始めるのは明日からですから」
綾子も明日からは彼らに手伝わせる気らしい。この頑固な妹たちを止めることは、弦太郎でも難しい。
「お露ちゃん、教えてくれる?」
なんとなく空気を読んだらしい伊藤が、そばにいた露子の機嫌を取るように話しかける。
一瞬嬉しそうに頬を綻ばせたくせに、
「露はお露じゃありません。露子です」
と顔をそむけた。
「別に露でいいだろう。露子と呼んでいたのは母上だけだよ」
「だめです。露を露と呼んでいいのは、父さまと母さまと、兄さまと姉さまだけです」
変なところにこだわりがあるらしい。これくらいならいいかと、弦太郎も見逃すことにした。
夜遅く。綾子は布団にもぐりこんできた妹を寝かしつけると、そっと布団を出て縁側に出た。
襦袢に着物を羽織っただけという薄着で、じっと空を見上げる。
そんな妹に、弦太郎が歩み寄った。
「綾」
「どうされたのですか?」
綾子は振り返ることなく、ただ兄の声に答える。
「まだ寝ないのか?」
「眠れないので、おまじないを」
夜空をじっと見つめながら答える妹に、弦太郎は
「いくつまで数えられた?」
と聞いた。
「今やっと100を越えました」
綾子の答えに、弦太郎はふっと微笑む。
「なるほど。それで、まだそのおまじないを続ける?」
「……眠れなさそうなのでやめます」
ようやく綾子が視線を逸らした。母に似た瑠璃色の瞳に、兄の姿が映る。
「ちょうどよかった。薬を持ってきたんだ」
「ありがとうございます」
盆を手に持った兄に微笑み、綾子は縁側から室内へ入った。
妹がそばに座ると、弦太郎は盆の上に置いていた注射器を持ち、妹の腕にそっと刺す。
「痛くないか?」
「痛いものですよ、注射は」
薬が体内に入ると、綾子はそっと目を閉じる。
「……ひと月ぶりですね」
常用していた薬がなかったせいで、綾子はこのひと月、ほとんど眠れなかったのだろう。
「旅の途中では使いたくないと言ったのは、綾だろう? しばらくは都に留まることになったんだ。今日はゆっくり休んで」
妹の体を気遣った兄の言葉に、
「そうします。兄上も、おやすみなさいませ」
と綾子が答え、部屋に入っていった。その背中を、弦太郎は黙って見送った。