「弦殿!」

 伊藤が医術所に駆け込むと、白い布が床に敷かれ、寝台に寝かされた女性の患者がいた。

 「兄上、お待たせいたしました」

 「虫垂炎(ちゅうすいえん)だ。開腹(かいふく)して切除(せつじょ)する。支度を」

 患者の様子を見たまま、いつもの笑顔もなく、弦太郎が声だけで指示をする。

 「はい」

 綾子はそう返事をして、薬箱を手に取った。

 「姉さま、薬は露が準備いたします。姉さまはお着物を」

 「わかりました。頼みましたよ」

 まだ10歳。しかし、こういう場にはもう慣れている。

 妹に任せ、綾子と弦太郎は、露子が持ってきた荷物の中から白い割烹着を取り出す。

 着物を覆うように上から着て、頭に帽子、そして口と鼻を布で覆った。

 「あ、あの、我々も何か」

 「必要ありません。離れてごらんください」

 伊藤がおずおずと声をかけるが、綾子がばっさりと言い切る。

 「綾殿……」

 「邪魔です。下がってください」

 直球の言葉に、伊藤が慌てて引き下がった時、

 「兄さま、姉さま、支度が整いました」

 露子の声がした。

 弦太郎と綾子は、患者を挟むように両側に立ち、露子は兄の隣に置いた七輪(しちりん)で器具の煮沸(しゃふつ)消毒(しょうどく)をしながら、必要な薬を作る。

 見たことのない医術の現場に、伊藤をはじめとした医術所にいた医術師たちは、驚くことしかできなかった。

 「露」

 弦太郎が差し出した手に、露子が迷わず注射器を渡す。注射器で女性に麻酔薬を注入した。

 「あ、あの、何を……」

 戸惑いながら聞いてきた伊藤に、唯一手が空いていた綾子が答える。

 「……この女性は、虫垂というはらわたの一部に炎症を起こしています。今からお腹を切り開き、炎症部を摘出します」

 「腹を切る!?」

 伊藤がぎょっと驚いた声を出した。それに、綾子は少しムッとしたように返す。

 「それがわたしたちの医術です。信じられないという方は、そこで黙って見ていればいい。信じないという方は、外に出ていればよろしいのです。手術中は出入りなさらないでくださいね。場を清潔に保ちたいので」

 「我々が不潔だと言うのか!」

 伊藤の隣にいた医術師が声を上げる。

 「えぇ、不潔です。あなた方だけではありません。わたしも兄も、この患者も、人間は不潔なのです。詳しいことは後でお話します。手術中は口を開かないでください。唾液が飛べばもっと不潔ですから」

 「……っ!」

 一部の医術師たちの顔が真っ赤に染まる。

 「綾」

 率直すぎる物言いに、さすがに弦太郎が止めに入った。

 「……申し訳ございません」

 綾子が不満そうに謝罪する。

 「妹が無礼をいたしまして申し訳ございません。この医術には、集中力が必要です。物音や話し声は医術の質に関わりますので、この患者を助けるためと思って、しばらくお静かにお願いいたします」

 弦太郎の丁寧な言葉に、憤慨していた医術師たちもぐっと黙り込む。患者の命を救うためと言われて、それに従わない医術師はきっといないだろう。

 「兄上、麻酔が効いたようです」

 「兄さま、どうぞ」

 綾子の言葉の後、露子が小刀を兄に差し出す。

 普段の優しい、温和の表情の弦太郎が、すっと目を閉じた。

 「これより虫垂摘出手術を行う」

 次に目を開けた時、そこにいたのは、厳しい目つきの男だった。まるで何かに憑依されたかのように、人が変わった。

 「はい」

 それに対し、綾子と露子が同時に返事をする。

 白い布で覆われた患者の身体に、そっと小刀の刃が当てられる。すっと一本の筋が入り、そっとお腹が開かれる。

 物音1つない、緊迫した空気に、医術師たちも息を飲んでその場を見守った。

 弦太郎と綾子、そして露子の間に言葉はなく、手を出せば必要な器具を、手を進めていけば次の工程をと、見事な連携で医術を施していく。

 やがて、腹の中から肉片が取り出された。

 それを、布が敷かれた木の盆に載せ、露子が盆を持って一歩下がる。

 「つ、露殿、それは……」

 「お腹の痛みの原因です。あ、まだ近づかないでください。縫合の途中です」

 患者に近づこうとした医術師を、露子が止める。

 「ほ、ほうごう、とは?」

 「お腹の傷を縫い合わせているのです」

 「なんと……」

 都の医術師たちは、最後まで驚きの連続だった。

 「終わりました」

 弦太郎のホッとした声で、綾子も顔を上げた。

 「お疲れ様です、兄さま、姉さま」

 露子が笑顔を見せる横を通り過ぎて、医術師たちが一斉に患者に駆け寄る。

 「待ってください。手術痕に触れるなら、手の消毒を」

 「しょ、しょーどく?」

 「手を出してください」

 綾子が瓶を持って歩み寄る。それぞれ手を出した医術師たちの手に、その瓶の中身をかけた。

 「手を揉みあわせて、それをまんべんなく手に塗ってください。患者に着物の袖が触れたり髪が落ちたりしないように気をつけてください」

 「は、はぁ……」

 彼女の厳しい目に、医術師たちも頷いた。

 「拝見させていただきましたよ」

 「た、滝川先生……!」

 どこからともなく現れた滝川純庵に、一同はもれなく驚いた。

 「いろいろとお聞きしたいことがあるのですが」

 「私にお教えできることなら」

 弦太郎が笑顔で引き受ける。

 「お待ちください」

 それを綾子が止めた。

 血で汚れた割烹着を脱ぎ、露子に預けて、滝川の前に立つ。

 「滝川先生、先日の件でお話がございます」

 「何でしょう」

 首を傾げた滝川の前に、綾子はすっと膝をつく。

 「まず、父の医術をお教えすることはできません」

 「……なぜですか?」

 滝川が優しい声音で尋ねる。

 「この医術は誰にも教えてはならないという父の遺言を、私も妹も、無視することはできないのです。この世に生を受け、ここまで育ててもらった恩を、仇で返すことになってしまいますので」

 綾子も丁寧に答えた。

 「なるほど」

 滝川はそれ以上何も聞かずに受け入れる。

 「そして、滝川先生に1つお願いがございます」

 「お願いとは?」

 「私たちは、近く、都で診療所を開く予定にございます。しかし、都のことは何もわからず。そこで、滝川先生、医術師を何人か紹介してはいただけないでしょうか」

 「医術師を、ですか?」

 滝川の怪訝そうな顔に、綾子は冷静に答える。

 「はい。私たちはまだ都に来て間もなく、素晴らしい弟子をお持ちの医術師を、滝川先生の他には知りません。都のことを教えていただける方をご紹介いただきたいのです。どうかお力添え願いたく」

 膝をついたまま丁寧に頭を下げる綾子を、

 「綾!」

 弦太郎が止めた。

 「やめなさい。滝川先生、申し訳ございません。このお話は」

 「綾殿」

 弦太郎の言葉を遮って、滝川が綾子に声をかける。綾子はゆっくりと顔を上げた。

 「その医術師というのは、どのような者をお望みですか?」

 「わがままは申しません。ただ、あまりにも頭の良い方では困ります。兄や私の医術を目で見て盗まれては、私たちもどうしようもありませんので」

 「……!」

 その言葉で、綾子の言葉の意味を、全員が悟った。

 「先生、その話、私に行かせてください!」

 まず名乗り出たのは、伊藤だった。

 「私も!」

 「自分もお願いします!」

 それを皮切りに、どんどん手が挙がっていく。

 「綾殿、申し訳ないが、その返事は少し待っていただけませんか? よりよい者を厳選したいので」

 「もちろんです。いくらでも」

 これから兄妹でも話し合わなければならない。綾子の隣から、説明を求める視線が投げられているのだから。

 「診療所はどちらで開くおつもりですか?」

 「まだ決めておりません」

 「そうですか。それでは、そちらも私にお任せいただけませんか」

 「そう仰っていただけると、嬉しく思います」

 深々とお辞儀をする綾子を、弦太郎は驚きを隠せずに見つめた。



 「綾、本当にいいのか?」

 帰り道、3人は並んで歩きながら、弦太郎が口を開いた。

 「職人も見つかりそうにありませんし、しばらく都に留まるのでしょう。これ以上宿暮らしをしていては、職人に払う銭を使いきってしまいます。今まで使った分も稼がなくては」

 いつものようにあっさりと言い放つ綾子に、弦太郎は困ったように微笑み、

 「……露は?」

 ともう1人の妹に尋ねる。

 「言ってしまったものを取り消すことはできないでしょう。いたしかたありません」

 露子も顔を向けたままそうつぶやいた。

 素直じゃない妹たちだと、弦太郎は笑った。





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 「楠本殿とお話しました」

 その日、仲間たちとともに医術所に集められた彼は、師匠である滝川の言葉を聞いていた。

 「弟子入りという形で、数人引き受けてくださると」

 「滝川先生! ぜひ私が!」

 まず真っ先に手を挙げたのは、隣にいた男。あの日、目の前で素晴らしい医術を目にした友人だった。

 「希望者を全員、というわけにはいきません。ここの運営が最重要ですからね」

 「……っ」

 それにはぐっと唸る。それはそうだ。

 「私が決めました。名前を呼びます」

 どうせ自分は選ばれない。綺麗な彼女の隣に立つことなんてできないのだ。

 「伊藤(いとう)俊之介(しゅんのすけ)くん」

 「はい!」

 すぐ隣の人物が嬉しそうに立つ。

 「竹田(たけだ)信一郎(しんいちろう)くん」

 「はい」

 かなり年長者からも選ばれるのか。

 「三井(みつい)はじめくん」

 「はいっ」

 真面目な人ばかりが選ばれている。彼をいじめていた人間は一人もいない。

 自分もそっち側に行きたかった。ただ純粋に医術を学べる環境に。

 「牧野(まきの)一真(いっしん)くん」

 最年少まで。そんな年齢でもいいなら。

 「岩木(いわき)淡路(あわじ)くん」

 「……っ」

 心臓が止まるかと思った。

 「岩木くん」

 「あ……、はい」

 ふらふらになりながら立ち上がる。まさか自分が選ばれるなんて。

 これでやっと医術に集中できる。彼はそう思った。