「露」

 露は部屋の隅で膝を抱え、小さく丸くなってしまった。

 「露、落ち着いたかい?」

 「……申し訳ありません、兄さま、姉さま」

 「かまいません。私も露と同じ意見でございます」

 綾子の声が冷たい。弦太郎もそれを感じ取る。

 「父様の医学書をお見せしたことは、我慢いたします。読めなかったのですから」

 綾子は露の真っ赤に泣き腫らした目を冷やしてあげようと、濡れた手ぬぐいを持ってくる。

 「しかし、それを都の医術師に教えるとなれば、話は別でございます。父様がなぜ内密にと仰ったのかわかりませんが、何か理由があるはずです」

 「それはよくわかっている。でも、それを知る術はもうないだろう?」

 弦太郎が妹たちを説得しようと試みるが、

 「理由など必要ありません。あるのは。父様がないしょと仰った事実のみでございます」

 「知りたいと思わないのか?」

 「思いませんね」

 頑なになった綾子には通じない。

 「綾、露」

 弦太郎は妹たちを呼んだ。

 「父上の真意は、今の私たちにはわからない。それなら私は、この医術で、できるだけ多くの人の命を救いたいと思う。もしこの医術をどこで学んだのかと聞かれても、私は父から学んだと答えるし、父がどこで学んだのかは知らないと言えばいい。……事実、知らないのだから」

 「……何を、言われているのですか?」

 綾子が真意を探るように聞いてくる。

 「父上がないしょにしたかったのは、この医術ではなく、この医術の出所だと思うんだ。医術を内密にしたかったのなら、私たちには教えてくださらなかったはずだろう?」

 「それでは、医学書に書かれていたことの説明ができません」

 「父上のお考えなど、私たちが考えても無駄。そう言ったのは綾だろう?」

 確かに、自分たちが知っているのは医術の知識だけ。父のことなんて、ほとんど知らなかった。

 綾子はもう反論できなくなった。

 「姉さま、言い負かされてはいけません!」

 露子が目の上の布を投げ捨てた。

 「兄さまは、お口がお上手です。露には、難しいことはわかりません。でも、父さまが仰っていたことはわかります。ないしょ、と」

 「それでは露は、救える命は持てる知識と技の全てを使って救いなさい、という母上の教えは裏切るのか?」

 これには、露子もうっと小さくうめいた。

 「……そのお言葉は、露は母さまから聞いていません」

 それでも、なんとか反論する。

 「母上の代わりに、綾が何度も教えただろう?」

 「それでは、そのお言葉は母さまのお言葉ではなく、姉さまのお言葉です。露は父さまの方が好きです」

 「そんなことを言うと、綾が悲しむよ」

 苦笑する弦太郎に、露子は当然だと言い張る。父が亡くなってから、何かある度に姉に甘えているのに。

 「兄上、それくらいに」

 綾子が静かに止めた。

 「何も急ぐ必要はないのでしょう。露子も、頭を冷やせば考えが変わるかもしれませんし」

 「……そうだな。この話は、一度終わったことにしよう」

 綾子の意図を感じ取り、弦太郎は穏やかに頷いて受け入れた。



 「露」

 塞ぎこんだ小さな背中に、綾子が声をかける。

 弦太郎は外出中。この部屋には、姉妹だけになっていた。

 「露、こちらを見なさい」

 母を思わせる強い口調に、露子は渋々振り向く。

 「なぜ兄上が医術所に行かれることに反対するのですか?」

 「……父さまのお気持ちに反することになってしまいます」

 幼い人生の中で、偉大な父から教わったことを忠実に守る妹。その気持ちが、綾子もわからないわけではない。

 「わたしは、父様の跡を継ぎ、主になった兄上に反論することも父様の意に反していると思いますが」

 しかし綾子は、父だけでなく母の言葉も聞き、兄からの言葉も無視できない。

 「それは……。でも、姉さまも反論していたではありませんか」

 「そうですね。ですが、兄上の言葉を聞いて納得しました」

 「兄さまの……?」

 露子はそっと姉を見上げた。

 「父様が、なぜ医学書に内密とまで書かれたような医術を、私に教えてくださったのか。兄上の仰る通り、父様が本当にその医術をないしょにしたければ、私がいくらせがんでも教えてくださらなかったと思うのです」

 それを聞いた露子は、少しうつむき、

 「……父さまは、露にも、簡単なものを教えてくださいました」

 と呟いた。

 「ですから父様は、内密にと仰いながら、心のどこかでは、もっと広めたい、救える命を増やしたいと、お考えだったのではないかと」

 その言葉を聞いて、露子はいくらか納得したように、深く息をもらす。

 「しかし姉さま、露にも女の意地があります。一度口にしたことを取り消すなんて、できません」

 女の意地なんて言葉、いったいどこで覚えてくるのだろう。まだ幼いのに、と呆れながら。

 「つまらない見栄など捨てればいいものを」

 とぼやく。

 「わかりました。兄上には私から伝えておきます。兄上が何をなさっても、もう意見はないのですね?」

 「……ないと言えばウソになります。露には、やっぱり父さまの言葉が全てです。その父さまの言いつけを破るなんて……。父さまがお空でお怒りになっていたら……」

 危険なことをしない限り、父は子どもたちを叱らなかった。露子なんて、その記憶はほとんどないはずだ。それなのに、父から叱られることに怯えているらしい。

 「それなら心配いりませんよ。私に考えがあります」

 「姉さまに? なんですか?」

 「それは」

 綾子がそれに答えようとした時。廊下で荒々しい足音がした。

 直後、勢いよく襖が開く。

 「失礼します!」

 「……っ」

 綾子がさっと身構えて妹を庇う。

 「あ、あなたは……」

 入ってきたのは、あの伊藤という医術師だった。

 「綾殿! 急いで医術所までお越しください!」

 「お、落ち着いてください。まずはわけをお話に」

 「あ、あぁ……これは失礼」

 伊藤が肩を揺らすほど荒い呼吸を何度か繰り返し、露子が持ってきた水を飲み干す。

 「医術所に腹の痛みを訴える患者が来たのですが、あいにく滝川先生が不在にしておられて、今医術所にいる医術師では原因がわからないのです。それで、弦殿なら、と」

 「あいにく兄は留守にしております。いつ戻るかも」

 「あ、弦殿とは先ほどこちらに向かっている途中でお会いしました。それで、先に医術所に向かわれたのですが、綾殿と露殿に道具箱と薬箱を持ってくるように伝えてほしいと」

 「あぁ……。わかりました。すぐに参ります」

 なんとなく状況がわかった。

 綾子に目立つことをするなと叱っておきながら、兄だって自由にしているではないか、と少々不満はある。

 しかし今は、患者がいるその容態もわからない。急ぐにこしたことはないのだろう。

 「私が案内いたします。お荷物をお持ちいたしましょう」

 すぐ近くの道具箱に手を伸ばす伊藤に、綾子はハッとした。

 「触らないで!」

 「……っ!」

 思わず伊藤が手を止める。

 「……申し訳ございません。そちらは私たちの大切な商売道具。扱いが難しいものも入っておりますので……」

 慌てて釈明する。

 「あ、あぁ……これは申し訳ない」

 伊藤も驚きとともにそう謝罪した。

 「いいえ。こちらこそ、声を荒げてしまって申し訳ございません。伊藤様、こちらの薬箱をお持ちいただけますか?」

 「は、はい! もちろん!」

 「露、小さい道具箱を持ちなさい。参りますよ」

 「はい、姉さま」

 露子も荷物を持ち、急いで宿を出た。