「痛みはありませんか?」
「……ん」
公爵の答えに、弦太郎はニコリと微笑む。
「もう問題ありません」
弦太郎から道具を受け取り、綾子は丁寧に道具を片付けていく。
「よかった……」
そのそばで、公爵夫人がホッと息を吐く。
「楠本殿」
見守っていた杉田が、そっと歩み寄った。
「経過観察はもう必要ないかと。傷も膿んでいませんし、しっかり閉じています。その他の気になる症状も出ていません」
「そうですか」
本当なら、これくらいは医術院に任せるつもりだった。しかし、杉田の方から、この前代未聞の医術の後は見られないと言われ、弦太郎が経過観察を引き受けた。
「褒美をとらす」
「薬代だけで充分ですよ」
医術師として当たり前のことをしただけだ、と弦太郎が遠慮する。その顔を、公爵が意外そうに見ていた。
「こちらが薬代の一覧です」
綾子が公爵に紙を渡す。公爵はそれを静かに見ていた。
「たくさんの薬を使いましたので、少し高くなっていますが……」
そう言いながら、大貴族にしてはほんのちっぽけなはした金。綾子はもっとふっかけてもいいと訴えたが、父の教えを守ろうと言われれば何も言えなかった。
「明日、準備をしておく。取りに来なさい」
「承知いたしました」
この場で渡してくれてもいいのに。なぜ明日なのだろう、と綾子は不思議に思う。
「よかったら、美味しいお菓子も用意しておくわ。妹さんもいらっしゃるのよね。一緒につれてきたらどうかしら」
露子も、と公爵夫人が付け足す。ますますわからない。
しかし、大貴族のここまでの言葉を断る術を知らない。弦太郎と綾子は静かに引き受けた。
翌日、兄妹は3人そろって再び公爵邸を訪れた。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「よく来たわね」
公爵夫人が嬉しそうに招き入れる。
「さ、お菓子を用意したの。好きなものを食べてちょうだいね」
大量に並べられたお菓子を前に、露子がごくっと唾液を飲む。それを、綾子がたしなめた。
「……驚かせてごめんなさいね」
固まる三兄妹に、公爵夫人が寂しそうに微笑む。
「あなたたちが、孫のように思えて……」
ハッとした。
「公爵夫人」
綾子は即座に呼びかける。
「あぁ、ごめんなさい。何でもないの」
公爵夫人は慌ててそう取り繕い、悲しそうに微笑む。
「……悲しいのですか?」
口を開いたのは、露子だった。
「悲しい時は泣いてもいいって母さまが言っていました。いっぱい泣いたらすっきりするって。……わたしは、姉さまから聞きましたけど」
「露」
綾子がそっと妹を止める。
「無礼な物言いをお許しください。妹はまだ幼いので」
「いいえ。……いいえ、大丈夫よ」
公爵夫人はそう笑い、膝を折って露子に手を伸ばす。
「お露さんというの?」
「露子です」
「いい名前ね」
「母さまが考えてくれたと聞きました。露が生まれた時、朝露が綺麗だったからって」
里の産婆は母だけ。だから、父の指示で弦太郎と綾子も出産を手伝った。一晩中かかって、ようやく産声が聞こえた時。外は明るかった。
『露……』
荒い呼吸の中、母は窓の外を見てそう呟いた。
「母は」
綾子が口を開いた。
「幸せだったと思います。父を愛していました。そして、私たちのことも愛してくれました」
「……そう」
その言葉に、公爵夫人が涙を浮かべる。
「笑顔で、送り出してやればよかった……っ」
この言葉は、きっと聞かなかったことにした方がいい。
「何をしておる」
そこに、公爵が杖をつきながら入ってくる。
「減っておらんな。腹が減っておらんのか」
手つかずの料理たちに、少しだけ不満そう。
「食べてもいいのですか?」
「露」
まっすぐな妹の言葉を、慌てて綾子が止める。
「食べたいなら食べればいい。お前たちのために準備させたものだ」
公爵の答えを聞いて、露子は姉を見る。いい?と確かめる視線だ。
「……お行儀よくなさい」
「はいっ」
綾子の言葉を聞いて、露子は嬉しそうに駆けだした。
「公爵様、ご体調はいかがでしょう」
弦太郎が穏やかに尋ねる。
「……ふん。何ともないわい。手足のひとつくらいは動かなくなると思ったがな」
「刺されたところが良かったのです。場所が悪ければ、歩けなくなる恐れもありました」
もし骨がやられていれば。そのそばの神経をやられていれば。きっと今のように元気に歩くことはできなかったに違いない。
「妹を褒めてやってくださいませ。妹がいなければ、私は手術をできませんでしたから」
「……!」
兄の言葉に、綾子はハッと兄を見る。彼は笑っていた。いつもの優しい笑顔で。
それを聞いた公爵が、杖をトンとつく。そして、綾子の頭に手を伸ばした。
「よくやった」
その手はゴツゴツとしていて、温かった。父のように硬く、そして母のように優しく。両親を思い出させる温もりに、綾子は涙腺が緩む。
「ありがとう、綾子」
公爵夫人が綾子の手を取る。
「あなたは立派な医術師ね」
その言葉が、じわりとにじんだ。
公爵家からの帰り道。
「公爵様が職人を探してくださるそうです。すぐ見つかるといいのですが」
「大丈夫だろう。同じ人じゃなくても、同じように作ってくれる人がいてくれればいいんだ」
公爵の力を使って探してくれるなら、きっと見つかるはず。
職人が見つかり、定期的に作ってくれる約束を取り付けた後。当初の予定通り里に帰るには、都で知り合いを作りすぎた。
「露、離れてはいけませんよ」
離れて歩いていた妹を呼び寄せる。
「兄上」
そして、隣を歩く兄に声をかける。
「私は、医術師を名乗ってもいいのでしょうか」
「え、違うのですか?」
露子が不思議そうに見上げた。そんな妹の頭に、綾子は手を置く。
「いいと思うよ」
弦太郎がそっとつぶやくように言った。
「綾は、教わった医術を信じて、行動に移せた。綾がいたから、公爵様の命を救えたんだ」
弦太郎は綾子の目を見ていた。
「綾は立派な医術師だよ」
何よりも求めていた言葉。
「露にとっては、姉さまはずっと医術師でした!」
「そうだね、露」
「はい!」
兄に同意されて、露子は得意げに口を開く。
「あとはお小言が減れば、いい医術師です!」
「うるさいですよ、露」
これには綾子がコツンと頭を叩いた。
「いたい! 姉さまが叩いた!」
「騒ぐほど強くはしていません」
「ほらほら、道の真ん中だよ」
三兄妹は仲良く歩いた。
その日、いつものように薬を持ってきた弦太郎は、熟睡する妹の寝顔を見て、ふっと笑った。