「楠本殿」

 滝川が歩み寄ってくる。

 「滝川先生」

 弦太郎がそれに答えて微笑みを向ける。

 「楽しんでいますかな」

 「はい、それはもう。皇帝陛下のおはからいで、このような貴重な経験をさせていただいているので」

 ひとつきになるだろうか。宮殿から医術院を通して招待状が届けられた。

 疫病の功労者である医術師たちを集めて、皇帝が(うたげ)を開いてくれるという。それも、他国の文化である立食式という珍しい形式での宴会だった。

 当然一医術師である者たちに断る術なんてない。大勢の医術師たちが、強制参加させられている。

 綾子たちの診療所も漏れず、今日は診療所を空けて全員で来ていた。この会には露子も招待されていたから。

 「姉さま」

 露子が嬉しそうに近づいてくる。伊藤たちと一緒に食事を取りに行っていたが、お菓子ばかりを持って戻ってきた。

 「露、ご飯はどうしたのですか。全部おやつですよ」

 「どれを食べてもいいって俊兄さまが言いました」

 「……もう。今日だけですからね」

 「やった!」

 「落とさないように食べなさい」

 立って食べるなんて行儀が悪いが、ここはそれが常識らしい。貴族の常識なんて知らないから合わせておく。

 「綾も取ってきていいんだよ」

 「大丈夫です」

 綾子の手には、他国から輸入したという赤いお酒が。これがいい酸味と甘みがあっておいしい。

 「俊兄さま、これ食べたら、また取りに行ってもいいんですか?」

 「いくらでも食べていいんだよ」

 「わぁ……!」

 「露、はしたないですよ」

 医術院や医術所、そして都の診療所から、たくさんの医術師たちが集まっている。滝川や杉田の紹介で、弦太郎はいろんな人に挨拶して回っている。忙しそうだ。

 「伊藤様、露子の面倒を任せてしまって申し訳ございません」

 「いやいや、大丈夫ですよ。弦太郎殿や綾殿はお忙しいでしょうから」

 伊藤だって医術師だ。子どもの相手よりも、他の医術師と交流したいに違いない。

 「私が見ていますから、伊藤様も自由になさってください」

 「やだ。露は俊兄さまがいいです」

 「露」

 再びにらみ合う姉妹に、

 「まぁまぁ」

 と伊藤が間に入る。

 「お露ちゃんはいい子ですし、さっきも知り合いに話しかけられた時に、そばで待っていてくれたんです。だから、大丈夫ですよ」

 露子ひとりで歩き回ることはないのか。そうやって周りを見る力はつけさせている。医術にも不可欠だからだ。

 「そういうことなら……。すみませんが、よろしくお願いいたします」

 「はい、お任せください」

 「露、いい子にしなさいね」

 「はいっ」

 伊藤にはよく懐いているせいか、露子は嬉しそうに返事をした。

 「俊兄さま、これおいしいです!」

 「よかったね、お露ちゃん」

 露子のそばから離れず、兄の方を見てみる。また違う医術師が来ている。まるで有名人だ。

 自分もそこに行きたかった。そんな思いが出てくる。兄の隣で、医術師の1人として紹介されたかった。そんな、子どものような主張。

 しかし、ここは医術師たちだけではない。多くの貴族も集まる場。思うようにいかないのは仕方がない。

 「中村伯爵様がいらっしゃいました!」

 号令が聞こえ、襖から入ってくる人々。その中に桜子の姿を見つけた。挨拶に行った方がいいのだろうか。それとも、彼女の交友関係の方が優先か。

 少し迷っていると、桜子がきょろきょろと周りを見て、綾子を見つけた瞬間嬉しそうに駆け寄ってきた。

 「綾子!」

 「お久しぶりです、お嬢様」

 露子から離れ、彼女に挨拶をする。

 「よかった。今日は綾子に会えると思って、楽しみにしていたの」

 「光栄です」

 「綾子がいるから、今日の宴は安心ね」

 おどけてみせる桜子に、綾子は微笑む。顔色もいいし、体調もよさそうだ。

 「体調はどうですか?」

 「大丈夫よ。ねぇ、綾子。お友達にあなたのことを紹介したいの。いいかしら?」

 「は、はい……」

 こうして綾子も連れまわされることが決まった。



 「それでね、綾子は、本当に腕のいい医術師なのよ」

 何度目だろう。綾子は笑顔を貼り付ける。いい加減表情筋がつりそうだ。

 「医術師なんてすごいですわね」

 「本当。私、絶対にできませんわ」

 そして令嬢たちは、桜子に同調しながら、なんとなく綾子を貶す。桜子は気づいていないのだろうか。

 「私は幼い頃から父に医術を教わっていましたので。皆さまの刺繍と同じ感覚ですわ」

 「まぁ……っ」

 ニコリと微笑んでみせれば、彼女たちはわずかに眉を寄せる。なんてばからしい世界だ。

 「大変だ!」

 そこへ、襖が勢いよく開いた。

 「公爵様が刺された!」

 ざわっとどよめく会場。医術師たちが慌てて出て行く。この場に医術師が集まっていてよかった。

 「お嬢様、申し訳ございません。私も医術師ですので」

 「そうよね。頑張って!」

 桜子に励まされ、綾子もその場を後にした。

 庭園の先に人だかりを見つけ、綾子はその中に入っていく。見つけたのは、倒れこむ月見里公爵と、その背中に刺さった懐刀だった。

 「これは……」

 「……うん」

 多くの医術師が状況を見て判断していく。刺された場所が悪い。心臓、肺、肋骨が入り組む場所だ。どこまで達しているかによって、対応が違う。

 多くの医術師が頭を抱えていた。