全ての接種を終え、綾子は兄と妹とともに呼ばれた。
「よくやってくれましたね」
公爵夫人が明るい声で礼を述べる。
「貴重な経験をさせていただき、感謝申し上げます」
弦太郎は深々と頭を下げながらそれに答える。
「ふん。たかが医術師が」
その時、冷たい声がした。公爵夫人の隣に座る大男からだとわかる。
「あなた……」
「女子どもの分際で医術などに関わりよって。嫁の貰い手もないな」
公爵だ。厳しく冷たい声に、公爵夫人が弱くたしなめる。
「おそれながら」
兄の反論は期待できない。そこで、綾子が口を開いた。
「女子供でも、医術を極めることはできます。私たちの両親が、それを証明してくれました」
「ろくでもない親なのだろう。このようなじゃじゃ馬が育つのだからな」
ダメだ。相手は大貴族。ここで口喧嘩はできない。兄や妹に迷惑をかけてしまう。
でも。妹には聞かせたくない。女が医術師になってはいけない、家に入って家を守るなんてことは、未来ある妹には知ってほしくなかった。
「父は医術の知識と技術を、母は礼儀作法を教えてくれました。両親のおかげで生きているのだと思います」
「……ふん」
公爵は不機嫌そうに鼻を鳴らし、部屋を出て行った。
「ごめんなさいね。今日はよくやってくれました。また頼むわね」
公爵夫人もそう言い残し、慌てて夫の後を追った。
帰り道は3人で並んで歩く。静かだった。
「旅を思い出しますね」
口を開かない兄に、綾子の方から話しかけてみる。
「綾」
ようやく弦太郎が口を開く。
「……気づいていたね?」
「……」
兄の言いたいことはわかっていた。
「……申し訳ございません」
だから素直に謝った。
「謝ることじゃないよ。綾が悪いわけじゃない」
「でも、黙っていたことは叱るのでしょう?」
「それはね。綾だけ知っているなんて、ずるいじゃないか」
兄から「ずるい」なんて言葉が聞けるとは。
「母上、だろうね」
公爵夫人は母に似ていた。そして、綾子たち兄妹を呼び寄せた理由も、会ってみればわかる。
「どうしますか?」
「どうって?」
綾子の問いに、兄は穏やかに笑ってみせる。
「あちらが気づいているのかいないのか、こちらに知る術はない。何も変わらないだろう?」
「……そうですね」
気づいているのは、母の顔を覚えている、弦太郎と綾子だけ。
少し先で小石を蹴りながら歩く露子は、思いもしないだろう。母が貴族のお姫様で、自分たちも貴族の血を受け継いでいるかもしれない、なんて。
それでいい。露子にまでこんな苦い思いはさせたくない。母はもういないのだから。
「おかえりなさい!」
診療所では弟子たちが明るく出迎えてくれた。
「お疲れでしょう。夕飯できていますよ」
「ありがとうございます、牧野様」
料理の腕が医術の上達に通じているなどといって、みんなで争いながら準備してくれたのだろう。
「着替えてまいります」
綾子はそう告げて部屋に戻った。
その日の夜、縁側に出ていた綾子は、
「岩木様」
近づいてきた人物に目を向ける。
「まだ起きていらっしゃるのですか?」
「綾子さんもでしょう」
確かに、こんな時間まで、というほどの時間でもない。
「眠れないのですか?」
「いえ。ただ少し、星を見たくて」
そう言って、綾子は空を見上げる。
「星と話しているようですね」
「……そうかもしれません」
父と、母と、そして過去に亡くした患者たちと。聞きたいことはある。『医術師として上手くやれていますか?』と。
彼らが認めてくれる医術師になれているのか、医術師に見えているのか。そう聞きたかった。
特に今は、母と話したい。貴族の血を引く母が、なぜあんな田舎にいたのか。苦しい生活をしていたのか。
父は医術師で、母は産婆。不幸ではなかったが、決して裕福ではない暮らしだった。
『綾子、おいで』
目を閉じれば、優しい母の声が聞こえてきそうで。
今日は疲れていると思う。
「もう休みます。岩木様も、お酒はほどほどにして早くお休みください」
「そうします」
綾子はそっと部屋に入った。
「……兄上」
いつの間にか兄が部屋に入っていた。そして、露子は布団で穏やかに寝息を立てている。
「今日は興奮しているみたいだったからね。眠れないかなって薬を持ってきたんだ」
「必要ありません」
綾子はそう答えて布団のそばに座る。妹が冷えないように布団をかけてあげて。あどけない寝顔を見つめた。
「最近よく眠れているみたいだね」
「はい。特別何かあったわけでもないのに」
「眠れるのはいいことだ。じゃあ、早く休みなさい」
「兄上も」
綾子が布団に入るのを見て、兄がゆっくり立ち上がる。
「……ねえ、さ……?」
話し声が聞こえたのだろうか。露子が眠そうに目を擦る。
「大丈夫です。おやすみなさい」
「……ん……んー……」
綾子の方に寝返りをうち、着物の袖をきゅっと握る。そんな妹の頭を撫でて、綾子は隣に横になった。
「おやすみなさいませ、兄上」
「うん、おやすみ」
弦太郎は2人の妹の頭をそれぞれ撫でて、部屋から出て行く。
妹の温もりをそばで感じながら、綾子はそっと目を閉じた。
その日の夢は、家族5人で楽しくおしゃべりする様子だった。