「姉さま……」
輿から降りた露子が、不安そうにすり寄ってくる。
「大丈夫ですよ」
一応二度目の綾子が、妹を励ます。
「行こうか」
弦太郎が妹たちに笑顔を向け、一歩踏み出した。
数日前。診療所に届いたのは、公爵家からの招待状だった。綾子と兄、そして妹の3人で公爵家に来るように、と。
といっても、内容は予防接種の依頼。公爵家が呼んだ人々に注射をしてほしいらしい。
医術院を通してこなかったことに違和感を覚えたが、医術師は患者を断ることはできない。
弦太郎の判断で念のため医術院に話を通すと、杉田をはじめ数人の医術師が同行することになった。公爵家には医術院から話をしてくれるらしい。
3人だけで行くよりはその方がいいと、弦太郎はそれを受け入れた。
そして、ようやくその日。医術院の一行は先に公爵家に着くということで、一足遅れて到着した。
公爵家の綺麗に手入れが行き届いた庭を抜け、侍女に案内されて応接間に入る。
「楠本殿」
「遅くなりまして申し訳ございません」
そこで待っていた医術院の医術師たちと合流した。
「お忙しいところ、申し訳ございません」
「いや。月見里公爵家が声をかけた他の貴族家の方々もいらっしゃるそうです。お2人だけでは大変でしたでしょうから」
「そうなんですか……。本当に助かります」
2人だけでも平気だと言えればいいのに。兄には言えないだろう。
「露子、準備をしますよ」
「はい」
緊張している妹を気遣い、落ち着くようにいつもの日常を作ってあげる。
道具箱を開くと、
「ほぉ……」
「いや、すごいですな」
他の医術師たちが集まってきた。
「注射器だけでもこの数が……」
「普段は診療所に置いていますが、どれくらい接種するかわかりませんでしたので、用意できるだけの注射器を持ってきました」
ずらりと並んだ注射器は、確かに壮観だ。それも、注射器を見慣れていない者ならなおさら。
「薬はその場で入れるのですよね。同じ注射器を使っては?」
「菌というのは、人の体にもいます。特に血液にはたくさんの菌がついています。同じ針を使うことで、人から人へ、血液中の悪い菌をうつしてしまう可能性があります」
予防接種には否定的と聞いていたが、不思議とそんな印象は受けない。全員が予防接種を否定していたというわけではないのか。
「露、任せます」
「あ、はい」
露子に任せ、綾子はその場を離れる。そして、杉田と話す兄の元へ向かった。
「兄上、これだけの人数がいれば、私は助手に回れます。露はここに残しましょうか」
「んー、私としては、綾に先頭にいてほしいんだけど」
「ここにいる者たちは、楠本殿の医術に関心を寄せている者たちにございます。よければ、綾子殿も含めて、楠本殿の医術を見せてやってくれませんか」
頑固そうな杉田がここまで言うのか。
「かしこまりました」
綾子は静かに引き受けた。
「綾、落ち着いてね」
「私は大丈夫です。露に言ってあげてください」
「そうだね。杉田先生、少し外します」
弦太郎が杉田には頭を下げて去っていく。残された綾子は、杉田を見た。
「医術院の方々は、予防接種には否定的だと聞いていました」
「まぁ、そういう者もいます」
杉田はためらわずに告げる。
「ここにはいないのですか?」
「楠本殿が招待されているのに、楠本殿をたてられない者など、この場にふさわしくありませんから」
なるほど、と思った。彼なりの信条で動いていたらしい。
「杉田先生は、予防接種を受け入れてくださっているのですか?」
「効果はあると思っています」
効果を信じてくれているなら、予防接種の必要性も理解してくれている。
「ただ、古きを重んじる者はどこに行ってもいます。古くから伝わる医術など、その最たる例でしょう」
「古くから伝わる医術ほど偉いと?」
「あくまでそういう考えの者もいるということです」
綾子たちにとって、父から教わる医術が当たり前だった。
しかし、この国で、央ノ都で、医術師を目指して勉強した者たちにとって、自分たちが学んだものが嘘であってはいけない。そういう思いもあるのだろう。
「よりよい医術を追い求める者こそ、医術師としてふさわしいと思います」
杉田ははっきりとそう言った。つまり、ここにいる医術師たちに未来を託したいということだ。
「綾子殿のように、医術師としての矜持を持ち、しっかりと行動にうつせる者に、大成してほしいものです」
たくさんの弟子を抱える杉田ならではの言葉に、綾子はふっと笑う。
「ご苦労なさると思いますよ」
やがて、一行は呼ばれた。
大広間にはたくさんの貴族たちが集まっていた。
「予防接種についてご説明いたします」
まず説明をするのは弦太郎。そばに杉田がいてくれるため、不信感をあらわにする貴族はいない。
効果や必要性の説明が終われば、順に接種が始まる。
「女の医術師もいますので、気になる方はこちらへお並びください」
医術院の医術師たちが丁寧に誘導してくれるおかげで、集まっていた貴族のご婦人たちを中心に、綾子の前に列ができる。
「露」
「はい、姉さま」
差し出した手に、注射器がのせられる。
几帳で囲われた場所に、男性は入らない。貴族女性への配慮がよくできていると思った。
「腕はいいの?」
貴族女性であってもあからさまにそう聞いてくる人はいたが、
「前線で治療にあたった経験はございます」
毅然とした態度でそう告げれば、問題はない。初めてのことに不安を覚えるのは、当たり前なのだから。
「少し痛みます」
説明はもう済ませている。あとは淡々と腕に注射していくだけ。
「子どもにも打った方がいいと聞いたのだけれど」
「はい、大丈夫ですよ」
次の女性はかわいらしい女の子を連れてきた。
「ただ痛みがあります。暴れると危険ですので、少し押さえさせていただきます」
「えぇ、わかったわ」
了承を取り、露子に指示を出す。
「わあああぁぁぁ……っ」
注射を終えて当然のように泣く子どもに、
「大丈夫なの? この子、普段はあんまり泣かないのよ」
と母親は不安そう。
「突然のことに驚いているだけなので。ご不安であれば、お部屋で少しお待ちください。何かあればすぐに対応いたします。半刻ほど待っても何も起きなければ、お帰りいただいて大丈夫です」
几帳から出す時に、
「少し待たれるそうです。よく見ていてください」
と外の医術師に言い渡す。これで十分だ。