輿(こし)で医術院まで送ってもらい、そこから岩木と歩いて診療所まで帰る。

 その道中、綾子はずっと頭の中から彼女の笑顔が消えなかった。

 明るく、綺麗で。しかし、悲しく、寂し気で。母に似ている。その思いを消せなかった。

 「綾子さん」

 「……え?」

 ふと足を止めた。

 「ずっとぼんやりしていたので」

 「あぁ……大丈夫です。なんでもありません」

 心配してくれたらしい。

 「お疲れでしたら、駕籠を呼びます」

 「大丈夫です」

 医術院から診療所は確かに離れているが、歩けない距離ではない。駕籠屋に払う銭がもったいない。

 「岩木様」

 「はい」

 再び歩き出しながら、綾子は聞いてみる。

 「何か気づいたことはありませんか?」

 「……病の兆候があったのですか?」

 「あ、いいえ。そういうわけでは」

 かなりの高齢だった。病がないことはないだろうが、目立った兆候は見当たらなかった。

 「自分は、綾子さんのように近くで見ていたわけではないので、わかりません」

 「そう、ですよね」

 客観的な意見が聞きたかった。だが、聞いたところでどうなるのだろう。

 「ですが、綾子さんと似ていると思いました」

 「え?」

 その言葉に、思わず彼の顔を見ていた。

 「それから、綾子さんを見る目が、とても優しかったと思います」

 傍から見ていてもそう感じたのか。やっぱり、何かあるらしい。

 「ご親族なのですか?」

 「……そう思われますか?」

 「はい」

 岩木の言葉に迷いはなかった。

 「綾子さんの所作は、公爵家の方々を前にしても全く劣っていなかった。もし綾子さんが公爵令嬢だとしても、誰も疑いません」

 「言葉が過ぎますよ」

 まさか、母は。そう思い浮かんだ言葉は、口にしてもいいのだろうか。

 「もし私が貴族だったら、岩木様はどうなさいますか?」

 「……わかりません。たぶん、何もしないと」

 「なにも、しない?」

 「はい」

 岩木はためらいなく頷いた。

 「もし綾子さんが貴族でも、綾子さんは変わらず医術に携わるし、自分は綾子さんに学びたいと思うと思います。たぶん、今と何も変わらないと」

 確かに。もし貴族であっても、医術を捨てることなんて絶対にない。

 「綾子さんは、根っからの医術師ですから」

 その言葉が嬉しかった。

 「確かに、私は医術師です」

 綾子はふっと笑った。

 「早く帰りましょう。兄上たちが心配しているでしょうから」

 「そうですね」

 不安になることなんてない。今までと何も変わらないのだ。安心して帰途についた。



 「ただいま戻りました」

 「姉さま!」

 玄関の扉を開けた瞬間、そこで待っていたらしい露子が飛び出してくる。

 「どうしたのですか」

 「……んーん」

 姉にしがみつき、すりすりと顔を擦り寄せる。何かあったのだろうか。

 「おかえり、綾」

 兄も出てくる。

 「ただいま戻りました。兄上、露はどうかしたのですか?」

 「綾がいなくて不安だったんじゃないかな」

 「不安になることなど何もないでしょう……」

 わずかに呆れながら、それでも綾子は妹の頭を撫でる。

 「露、夕飯のしたくは終わったのですか?」

 「……今日は俊兄さまと信兄さまがしてくださいました」

 「露はしていないのですか?」

 「……だって……」

 離れようとしない露子を引き離し、膝を折って視線を合わせる。

 「露、仕事をしないのは悪いことですよ」

 「でも」

 「でも、も、だって、もありません」

 ぴしゃりと告げる綾子に、露子は目にいっぱい涙を溜め、

 「姉さまなんて大嫌い!」

 と走り去っていった。

 「綾」

 「兄上も露を甘やかさないでください。だからいつまでも子どものままなんです」

 「いつも頑張ってるんだ。たまにはいいかなと思ってね」

 相変わらず妹に甘い兄に呆れ、綾子は草履を脱ぐ。

 「どうだった?」

 「特別なことは何もありません。とてもお優しい方でした」

 「そう。それならよかった」

 兄は微笑み、

 「じゃあ、露を慰めてこようかな」

 と去っていく。

 「言わなくてよかったのですか?」

 後ろから岩木が声をかけてくる。

 「何をですか?」

 綾子は振り返って笑う。

 「それは……」

 「何もなかった。そうでしょう?」

 特別なことなんて、何もなかった。ただ、医術師としてできることをしただけだ。

 「夕食のしたくをしてきます」

 綾子はそのまま岩木を残して診療所に入っていった。



 その日の夜、綾子は夢を見ていた。

 『綾子』

 病床に伏す母の手を握る、幼い綾子に、母は笑みを向ける。

 『えがお』

 そう言われて、綾子はハッと顔を上げた。

 『大丈夫、大丈夫。綾子は、大丈夫よ』

 「……っ」

 ハッと目を開ける。そこには、いつもと変わらない天井があるだけだった。

 起き上がろうとして、身体の右側に重さを感じる。ふとそちらを見ると、露子が眠っていた。

 「……露」

 いつの間にもぐりこんでいたのだろう。

 それに、いつの間に寝ていたのだろう。枕元の薬には手も付けていないのに。

 気づかなかった。眠っていたことにも、露子が潜り込んできたことにも。

 「……ねぇ……さま……」

 しがみつくように綾子の着物を握る露子の手に、そっと綾子が手を添える。

 そっと口を開いた。

 「……大丈夫」

 優しく、穏やかに。母が言ってくれたように。そう意識したわけではなかったが、声は優しかった。

 (ふすま)から漏れる光が明るい。もう朝になったのだろうか。

 身体が軽い。よく眠っていたらしい。朝まで一度も起きずに眠るなんて、いつぶりだろう。

 「綾」

 襖の外から声をかけられた。

 「入ってもいいかい」

 「どうぞ」

 綾子が答えると、兄が入ってくる。

 「露もいたんだね。仲がいいのはいいことだ」

 「どうでしょう。昨日、大嫌いと言われましたから」

 「いつものことだろう?」

 微笑む兄に、綾子は呆れることもできない。

 「……ん……?」

 その時、露子がわずかに呼吸を乱した。

 「露、起きましたか」

 「……ねぇさ、ま……?」


 もういいか、と綾子が身体を起こす。

 「んー……っ」

 すると、露子が不機嫌そうにしがみついてきた。

 「起きなさい、露」

 「やぁ……っ」

 「露、おいで」

 弦太郎が露子を抱き上げる。

 「綾も着替えておいで。もうみんな朝食を終えているんだ」

 「え……」

 絶句した。そんな時間まで寝ていたのか。

 「すぐに着替えます」

 綾子の答えを聞いて、兄は微笑んで出て行く。すぐに立ち上がり、慌てて身支度をした。

 「あ、おはようございます、綾殿」

 部屋を出ると、伊藤たちが既に働いていた。

 「おはようございます。遅くなってしまい、申し訳ございません」

 「いえいえ。昨日はお疲れだったでしょうから。弦太郎殿も寝かせてあげようと仰っておられましたよ」

 兄を恨みたいと思う。が、兄なりに気遣ってくれたのだろうと、それもできない。

 「……岩木様は?」

 その場に弟子が集まっているのに、1人だけ見当たらなかった。

 「あれ? さっきまでいたんですけどね」

 みんなで薬を作っている場にいないなんて。彼も疲れているのだろうか。休むことは大切だろうということにしておく。

 なにかお腹に入れようと台所へ行く。その途中で、診察室となっている座敷を通りかかった。人影を見つけて足を止める。

 岩木だ。着物の袖を捲り、腕に針を入れようとしていた。

 「岩木様」

 「……!」

 彼はハッと手を止めた。

 「悪い菌にかかりますよ」

 「……」

 わかっている、とでも言うように、彼は手を止めた。

 「練習ですか?」

 「……はい」

 綾子が注射を使うのを見て、注射の練習をしたくなったのだろう、とわかった。

 「少しお待ちください」

 室内に入り、綾子は道具箱を開ける。注射器を取り出し、そして薬のことを書いた巻物を出す。

 「薬の作り方はご存知ですね」

 「はい」

 「これを作ってきてください」

 「……はい」

 彼は黙ってそれに従う。再び座敷に入ってきた彼に、注射器を渡した。

 「私に打ってください」

 「え……」

 「それは注射の練習の時に使う薬です。人体に害はありません」

 戸惑う彼の前で、綾子は冷静に袖をまくり上げる。

 「それから、自分で打つよりも人に打つ練習をする方が有益です。医術師である以上、患者様に打つことの方が圧倒的に多いのですから」

 「……わかりました」

 それに納得したのか、彼は頷き、綾子の前に座る。

 「注射の手順は覚えていますか?」

 「何度も見てます」

 「そうでしたね」

 綾子が微笑むと、彼は真面目な目で注射器を見た。

 「どうしました?」

 「……鍼灸もしたことはありますが、人に針を刺すというのは、緊張します」

 「そうですね。でも、慣れますよ」

 何度も何度もやっていれば、手が覚えてくる。綾子も今となってはほとんど感覚でやっているのだから。

 「あれ? 何をしてるんですか?」

 そこに弟子たちが戻ってくる。

 「注射の練習です」

 「え、私もやりたいです!」

 「我々も!」

 他の弟子たちも勉強熱心だ。

 「順番にお願いします」

 幸い綾子は、注射にそれほど抵抗はない。練習台にされるくらいなら問題ないだろう。

 「綾」

 「あ、姉さま!」

 そこに兄と妹まで入ってくる。

 「みんな集まって何を?」

 「綾殿が注射の練習をさせてくださるそうで」

 「それなら、私の腕も使ってください。男性と女性では注射のしやすさも違いますから」

 弦太郎までそんなことを言いだし、

 「うわぁ……」

 と露子が呆れる。露子は注射が苦手な方だ。

 「露も注射してもらいますか?」

 「イヤです! 姉さまのいじわる!」

 からかう綾子に、露子は唇を尖らせた。

 「ごめんください」

 その時、玄関から声がする。

 「出てきます」

 弟子がひとり出て行く。しばらくして、慌てて戻ってきた。

 「あ、綾殿!」

 「どうされたんですか?」

 綾子は首を傾げた。