「お大事になさってください」
診療所から出て患者を見送る。
「ありがとう!」
報酬はもらっているが、この笑顔はお金よりも嬉しいものだ。
「姉さま!」
そこに、弦太郎と露子が帰ってくる。
「おかえりなさいませ、兄上」
「うん、ただいま。患者さんかい?」
「今お帰りになられました」
患者を見送っていたことを伝え、次は妹を見る。
「姉さま、お薬の材料を買ってきました!」
嬉しそうな笑顔。褒めてもらえると思っているらしい。
「薬箱に片付けましょう。露、手伝ってくれますか?」
「はい!」
「先に入っていなさい」
露子が元気に診療所の中へ入っていく。
「兄上、医術所の方はどうですか?」
「貴族への接種が思うように進まないらしくてね。医術院の方々も、予防接種には否定的だ。……父上はそういう意見も受け入れなければと言っていたけれど」
最近の弦太郎は、毎日のように医術所や医術院、そして他の診療所を回っている。予防接種の必要性について直接説明するためだ。しかし、なかなか進んでいないらしい。
「父様のは理想論です。都から流行り病を消せるかもしれないのに」
「仕方がないよ」
皇帝からの命令で、貴族や医術師が終わらなければ薬を次に回せない。ほとんど家から出ず、移動も駕籠や馬ばかりの貴族よりも、毎日たくさんの人と関わりながら働く商人や農民たちは、流行り病にかかる可能性がずっと高いのに。
「団子を買ってきたんだ。患者さんもいないだろう? 休憩にしよう」
「またそんな贅沢を……」
綾子が呆れながらふと視線を逸らした時。遠くから仰々しい駕籠が見えた。
「綾?」
その視線を追って弦太郎も振り返る。
「……貴族か。珍しいね」
都とはいえ、ここは貴族たちが住む区画からは離れている。貴族がこの道を通るなんて珍しいことだった。
揃ってその場にひれ伏す。すると、駕籠は診療所の前で止まった。
「綾子!」
駕籠から聞こえた声に、綾子がハッと顔を上げる。
「お嬢様」
「よかった。やっと会えたわ」
嬉しそうな中村桜子が駕籠から出てくる。
「なぜこちらに……」
「綾子に会いにきたのよ。ねぇ、お土産があるの。少しお話しない?」
「は、はい……」
戸惑いながら、綾子は彼女を診療所内に招き入れる。
「あら、そちらは……」
「兄の弦太郎です」
「あぁ、綾子の兄君ね。話には聞いているわ」
「光栄です」
弦太郎は言葉少なくそう答えただけで、近づこうとはしない。貴族の未婚女性が男性に近づくのは、あまりよしとされていないためだ。
「ごゆっくりされてください」
そして、座敷に綾子と桜子を残して出て行く。
「素敵な方ね」
男性に慣れていない桜子は、なぜかうっとりと頬を緩ませる。
「もったいないお言葉にございます」
綾子が答えると、桜子は
「あぁ、そうだわ。これね」
と何かを取り出す。
「お茶会で出されたお菓子がおいしくて。さっき買ってきたの」
綺麗なふろしきを広げ、木箱の中に入っていたお菓子は、真っ白な花の形をしていた。
「すごい……」
「そうでしょう? 綾子ならきっと気に入ると思ったわ」
「立派なお菓子ですね」
明らかに庶民には手が出せないお菓子だ。
「失礼いたします」
襖の外で露子の声がした。ゆっくりと襖が開き、露子が座っていた。
「お茶をお持ちしました」
珍しくいい子にしている。丁寧に頭を下げ、静かに入ってきて襖を閉めた。
「あら、綾子の妹さん?」
「はい。露子、ご挨拶なさい」
「お初にお目にかかります。妹の露子にございます。姉がお世話になっております」
綾子が教えた通りに挨拶できている。いつもはあんなに甘えん坊なのに、やる時にはちゃんとできるのだ、と驚いた。
「ご丁寧にありがとう。よかったら、お菓子食べる?」
「……!」
それを聞いた瞬間、露子は嬉しそうに目を輝かせた。が、すぐに落ち着き、
「高価なものはいただかないように言われております」
と答える。
「あら、いいじゃない。ねぇ、綾子?」
「……はい。露、ありがたくお受けいたしましょう」
「はいっ」
一気に声が明るくなった。露子は丁寧にお茶を出し、綾子の隣に座る。懐紙に乗せたお菓子を両手で受け取り、うわぁ、と目を輝かせた。
「ありがとうございます!」
菓子楊枝を使って一口食べ、ぱっと顔を輝かせて姉を見る。一応作法には気をつけているが、まだ隠しきれていない。
「よかったですね」
その表情だけで察して、綾子がたしなめる。
「露子はかわいいわね」
その様子に、桜子は笑った。多少の礼儀の崩れは許してくれるだろう。
「そうそう。綾子、あのかんざしのことだけど」
「はい」
綾子がこの前つけていた銀のぼたんのかんざしのことだろう。
「あのかんざし、お母君のものだって言ったわよね?」
「はい。母の形見だと聞いております」
「実は……」
桜子が言い辛そうに、それでもゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ある公爵家の方が、すごく興味を持っていらっしゃったの。何もないと思うけど……」
「公爵家のような方とは関わりがありません。きっと何かの間違いでしょう」
「そう? それならいいのだけれど。念のため注意しておいてね」
公爵家なんて、皇帝と同じく雲の上の存在。当然面識はない。
心配そうな桜子を安心させるため頷いておいたが、それほど気にしてはいなかった。
それから数日後のことだった。
「綾」
医術所から帰ってきた兄が、綾子の部屋に声をかける。すぐに襖を開け、
「おかえりなさいませ、兄上。お早いですね」
と声をかけた。
「話があるんだ。いいかな」
真面目な顔。何かあったのだろうか。
「どうぞ」
綾子は襖を開けて兄を招き入れた。