「綾子」

 その日、綾子の姿は中村邸にあった。

 「わがままを受け入れてくださいまして、ありがとうございます」

 「いいえ。私も、綾子から説明を聞きたいと思っていたの」

 貴族たちの医術を担当するのは、主に医術院の医術師たち。だから、本来は杉田たちの担当だ。

 しかし、中村桜子だけは、綾子にやらせてほしいと頼んだ。彼女の病気は、予防接種の時にも注意が必要だったから。

 対処を教えて頼むこともできたのだが、麻疹が流行している時、中村邸には行けなかった。だから久しぶりの体調確認のためでもある。

 「まず、使う道具は、これです」

 「注射器ね」

 「はい」

 これは見慣れているのか、桜子はためらわずに受け入れる。

 「これに弱らせた菌という病の種を入れ、腕に注射して体内に入れます」

 「……病の種を入れるなんておそろしいわ。大丈夫なの?」

 その言葉には、わずかに不安そうな表情を見せた。

 「これ自体は問題ありません。お嬢様のご病気は、注射に対して不安を覚える場合もあるので、注意しておきたいと思ったまでにございます」

 「そう。綾子がそう言うなら大丈夫ね」

 絶大な信頼をおいてもらえるのはありがたい。

 「疫病をあらかじめ防ぐ効果がありますが、身体に針を刺すので痛いですし、熱が出たり刺した部分が赤く腫れたりします。あくまで任意ですので、拒むこともできます」

 「それくらいなら大丈夫。私、身体は丈夫なのよ。……って、病にかかった後ですもの。説得力ないかしら」

 「……そのようなことはございません」

 おどけたように肩をすくめる桜子に、綾子はふっと笑った。

 「綾子がそこまで言うなら、きっと大切なものなのでしょう? 私は大丈夫よ。打ってちょうだい」

 「ありがとうございます」

 桜子の了承を得て、綾子は注射の準備をする。

 「緊張するわね。痛くしないでちょうだいね」

 「注射は痛いものですよ」

 「まぁ……」

 ふふっと笑う桜子の表情を見て、大丈夫だと信じ、

 「チクっとします」

 針を腕に当てた。血管にそって寝かせ、ゆっくりと針を入れる。

 「……っ」

 桜子の息がきゅっと詰まるのを感じた。血管に入る感触を確認してから、

 「一度息を吐いてください。動かずに」

 「え、えぇ……」

 緊張状態はよくないと、そう告げる。桜子は言われた通りに息を吐く。

 「これから薬を入れます」

 「えぇ。わかったわ」

 注射したところと、桜子の表情。両方を見ながらゆっくり薬液を入れていく。

 「……ぅっ」

 桜子の表情が痛みに歪む。しかし、手を止めることはなかった。

 「はい、終わりました」

 針を抜くと、桜子は詰まっていた息をはぁっと吐いた。

 「……ふふ。思ったより痛くなかったわ」

 嘘だ。あんなにつらそうだったのに。

 「これなら、お友達にもおすすめできるわね」

 「すすめていただけるのですか?」

 綾子は注射器をそばに置いて問う。

 「大切なものなのでしょう? 少しも痛くなかったって言っておくわ」

 「ありがとうございます」

 貴族の間では、まだ不信感を訴える者が少なくない。医術院に任せているとはいえ、貴族が予防接種を受けなければ、流行り病の危機にさらされる人々の元に薬は行きわたらないのに。

 そんな貴族たちの中で生きる桜子の言葉ひとつで、何か変わるかもしれない。今はそんな小さな希望にさえもすがる時期だ。

 「ねぇ、綾子。今日はかんざしをしているのね」

 「あ、はい。母の形見です」

 「見せてもらってもいいかしら」

 そう言われ、綾子は髪からかんざしを抜いて、桜子に渡した。

 「……繊細な細工だわ。きっと腕のいい職人が作ったのね」

 「高価な銀で作られているので使うか迷ったのですが、格式の高い場にはふさわしいかと」

 今日はただの往診の一環だが、貴族の家に出入りするのだからと選んだ。お守りの意味もあるのだから。

 「その通りよ。いったいどこでこれを……」

 「母のものを、最近まで兄が保管してくれていました。母がどこで求めたのかまではわかりません」

 「それもそうね。綾子のお母君は亡くなられているのだったかしら」

 「はい。10年前に」

 そう答えて、ハッとした。そうか、もう10年が経ったのか、と。

 「大切にしないとね。牡丹の花のかんざしなんて珍しいのだから」

 桜子は丁寧に返してくれた。

 「そうそう。綾子のおかげで社交界に参加できるようになったから、この前もお茶会に行ってきたのよ」

 明るい話題に変わり、綾子は話し相手になった。



 「姉さま、お夕飯ができました」

 露子が呼びにきた。

 「今日は淡路兄さまが手伝ってくださったのですよ」

 「よかったですね」

 包丁や火の扱いには慣れている。それにそばには弟子たちの誰かがついていてくれる。だから、料理を露子に任せることも多かった。

 「兄さま!」

 通りかかった部屋の襖を、露子が勢いよく開ける。

 「露、返事を待ってから開けなさい」

 まず妹に注意をし、

 「兄上、失礼いたします」

 綾子も兄の部屋を覗く。

 「もうそんな時間か」

 読書をしていた弦太郎が穏やかに笑った。

 「……また父様の医学書を?」

 兄の表情を見て、綾子は察した。少しだけ影の差した笑顔の時は、難しいことを考えている時だ。

 「全てを教わったわけではないからね。いつでも対処できるように、しっかり覚えておこうと」

 もう全部覚えているはずなのに。それでも兄が憂いる何かがあるのだろう。

 「兄さま、今日は兄さまが好きな魚の煮付けですよ。俊兄さまがお魚屋さんからお礼にいただいたそうです」

 「それは嬉しいね」

 露子なりに兄を元気づけようと明るく甘える。それを察して、弦太郎は露子の頭を撫でた。

 綾子は、そっと医学書に目を落とす。開かれていたのは、内臓を取り出す手術の項目。確かに難しい手術だ。父がしていた記憶もほとんどない。

 こんなことが、本当に可能なのだろか。そんな不安も、なくはなかった。しかし、頭を振ってそんな考えを払う。

 信じること。医術を。患者の力を。神を。そして、父を。それが、この医術には不可欠なのだから。