「ただいま戻りました」

 「姉さま!」

 診療所に戻った瞬間、露子が飛び出してきた。

 「何事ですか」

 露子は慌てて姉に飛びつき、ぎゅっと抱きしめて見上げる。

 「……よかった」

 その目には涙が溜まっていた。

 少し遅れて、弦太郎と残っていた弟子たちも出てくる。

 「おかえり、綾」

 弦太郎は心配そうに、しかし次には笑顔になり、綾子を迎えた。

 「予防接種の普及を指示していただけるそうです」

 「おぉ……!」

 弟子たちの中から歓声があがる。

 「まずは医術師、そして貴族から予防接種を行うことになります」

 「……うん」

 兄の顔が、喜びに綻ぶ。

 「よくやったね」

 これで、これからこの病気で亡くなる人を減らせる。きっと兄も同じ気持ちなのだろう。

 「皇帝陛下が、この国の医術師を信じると仰っていました」

 次に綾子の口から出た言葉に、全員がしんと静まり返る。

 「私は、皇帝陛下のそのお言葉に、お気持ちに、応えたいと思います」

 「……そうだね」

 弦太郎が静かに息を吐く。

 「それが、僕たちにできることだ」

 「はい」

 綾子の真っ直ぐな返事に弦太郎は微笑み、その頭に手を添える。

 「お守りが役に立ったみたいでよかった」

 「え?」

 そして、綾子の頭にささったかんざしを抜く。

 「母上が大切にしていたものでね。今までは、僕が持っていたんだけど」

 「え、ずるいです!」

 露子が思わず声を出す。

 「綾子に託してよかった」

 このかんざしは、兄が、母との思い出とともに思いを妹に託したものだったのか。

 「あげるよ、綾。僕にはもう必要ない」

 弦太郎が差し出したかんざしを、綾子は両手で受け取る。

 「ずるい! 露もほしいです!」

 妹から伸びてくる手から避け、そのかんざしを優しく包み込んだ。

 「露ももう少し大きくなったらね」

 不満そうな露子を、弦太郎がなだめた。



 その日の夜、綾子は縁側で夜空を見上げていた。手にはあのかんざし。銀色が、月明かりにキラキラ輝く。

 母の形見だと言っていた。綾子も知らなかった。きっと早い段階で兄は母からこれを譲り受けていたのだろう。

 銀なんて、いったいいくらするのだろう。母はどこでこれを手に入れたのだろう。田舎でこんなものを売る店は、そんなにないはずだ。

 その時、そばの障子が開く。

 「あにう」

 兄が入ってきたのかと振り返ると

 「岩木様……」

 そこに立っていたのは岩木だった。

 「まだ休まれないのですか?」

 「それは綾子さんも同じでは?」

 岩木はそう答えて、綾子の隣に座る。

 「……お酒の匂いがします。酔ってますか?」

 「少しだけ」

 「少しだけでこんな匂いはしません。……ほどほどにしないと、身体を壊しますよ」

 綾子の注意に、彼は酔っているのはふっと鼻で笑った。

 「何をしているんですか?」

 「星を数えるおまじないがあるんです」

 綾子はそれに答えて空を見上げる。輝く星々は、相変わらず空高くにあって。手が届きそうにない。

 「死んだ人は星になって、空から見ていてくれる。父からそう教わりました」

 「……疫病で亡くなった人も?」

 「はい。きっと」

 空を見上げる理由がまた増えた。語りかける人が、また増えただけ。

 「眠れない時は星を数えなさい、と言われました。それからずっと、眠れない時はこうやってます」

 空に手を伸ばし、指で星をなぞりながら、ひとつ、ふたつ、と数える。

 「それで眠くなりますか?」

 「……眠くなる前に、父か兄が眠り薬を持ってきます」

 思えば、星を数えて眠れたことなんて、それこそ数えるほどしかなかった気がする。ただ父と兄を待つための時間。そんな感じがした。

 「ハハハッ」

 小さな声が聞こえた。その声は、笑っていた。

 珍しい。不愛想な彼が笑うなんて。

 「……おもしろい話はしていませんが」

 「そうですか」

 彼はくくくっと喉を鳴らしながら笑う。

 「貴女は、医術の腕は確かで、否のない人だと思っていました」

 「……私も人間です。できないこともあります」

 「確かに」

 否定されなかったことに、なんとなく釈然としない感じを覚えながら、

 「随分酔っていらっしゃるようですね」

 と言ってみる。拗ねたような声になってしまった。

 「酔ってないと、夜に好いた女の部屋を訪ねるなんてこと、できませんよ」

 岩木が綾子を見た。その瞳に映る自分を見つめるように、じっと見つめ返す。

 「情けないですか?」

 「……いえ」

 どう答えればいいのだろう。こういう話は初めてだ。

 「では、俺を見てくれますか?」

 「え……」

 嘘や冗談ではない。それは、目を見ればわかる。ただ、答え方がわからない。

 「冗談です。おやすみなさい」

 彼は視線をそらして立ち上がる。

 「……おやすみなさいませ」

 綾子はそう答えるだけで精一杯だった。

 岩木が去った後、綾子は手元に視線を落とす。

 「母様」

 手の中のかんざしに語りかける。

 「今のは、どういうことでしょうか……」

 母がいたら、真っ先に相談したのに。

 初めて月の便りを受け取った時のような、居心地の悪さ。あの時は、どうしたのだったか。

 確か、父に相談したはず。病気かもしれないと不安だったから。父は黙って頭を撫でてくれた。今思い返せば、恥ずかしい出来事。

 この年になって、さすがにこの症状が病気ではないことは、もうわかっている。父代わりの兄に相談するまでもない。

 「……どうしたらいいの」

 かんざしを抱いた胸は、ドクンドクンと強く脈打っていた。