「はぁ……はぁ……」

 目を開けることも、喋ることもできずに、荒い呼吸だけを繰り返すお玉のそばに、綾子は座る。

 「頑張って」

 点滴をし、熱を下げるために冷水を入れた革袋で要所を冷やし、湯桶を置いて部屋の湿度を上げて。

 できることはやっている。これで回復する人としない人の差はわからない。

 「頑張ってください」

 特効薬というものはなく、ただ現れた症状を落ち着かせる対症療法で精いっぱい。

 そしてそれさえも尽きたこの部屋では、祈ることしかできないのだ。

 「頑張って……」

 「……ね、さま……?」

 綾子の願いが通じるように、小さな声が聞こえた。

 ハッと目を開けると、ゆっくり、わずかに、押し上げられた瞼から見えた、小さな光。

 「お玉さん」

 綾子は、お玉の手を取り、そう呼びかけた。

 「あ……ね、さま……」

 目が見えていないのだろう。目線は合わない。それでも、確かに手は握り返してくれる。

 「ここにいますよ」

 「……よか……っ、た……」

 「私がそばにいます。必ず、必ず助けます。だから頑張ってください」

 医術に絶対はない。それはわかっていても。お玉を元気づけるために、綾子はそう告げた。

 すると、お玉は安心したようにふっと微笑み。

 「……おか……さ……」

 次の瞬間、綾子の手から、お玉の手が滑り落ちた。

 「……お玉さん」

 もう綾子の呼びかけに答えることはない。

 「……っ」

 涙は出なかった。きゅっと口を結び。姿勢を正して、綺麗に頭を下げる。

 「……お疲れ様でございました」

 すっと立ち上がり、兄を呼びに部屋を出る。

 布団の横の畳に、小さなしみが1つ、浮き出ていた。



 「お玉! お玉ぁ!」

 迎えに来た家族に遺体を引き渡す。泣き叫びながら遺体を抱きしめる母親のそばで、父親は静かに頭を下げる。

 「あなたがいてくれて、よかった」

 その言葉は、綾子に向けられていた。

 「娘は安心していけたでしょうから」

 「……力及ばず、申し訳ございません」

 綾子はその場で頭を下げた。

 お玉を連れて家族が出て行くと、綾子は静かに振り返る。

 「う……っ、グス……っ」

 「露、泣き止みなさい」

 鼻をすする妹を、たしなめた。

 「泣いてはいけません」

 「姉さま……っ」

 涙の浮かんだ瞳で見上げる妹に、綾子は厳しい視線を向ける。

 「綾殿、よろしいのでは……? お玉さんとは面識があったわけですし……お露ちゃんはまだ幼いですし……」

 伊藤が露子を庇うが、綾子は首を振った。

 「露は医術師でしょう。医術師は患者様を安心させるのも仕事の内。涙を見せては、患者様が不安になります」

 「……はい……っ」

 露子はぎゅっと唇を噛んで涙をこらえる。

 「さ、患者様は他にもいますよ。仕事の続きです」

 綾子はそう告げて、持ち場へ戻っていった。

 その背中を、弦太郎が心配そうに見つめていた。



 それから数日後。空に浮かぶ白いすじを、綾子は黙って見上げていた。

 青空に、高く、高く昇っていく、白い煙。

 「綾子さん」

 岩木の声に、綾子はゆっくり振り返る。

 「終わりましたね」

 そして、そっと告げた。

 「そうですね」

 岩木が短く答える。

 「8人」

 再び空に目を移す。

 「この診療所で亡くなった方々の数です」

 ずっと、ずっとなくならない煙。

 ひとりひとりの顔、そしてその家族の顔を浮かべる。苦しそうな顔や、悲しそうな顔しか出てこない。

 しかし、その中でたったひとり。笑顔を知る人がいた。

 「泣いてもいいんですよ」

 岩木の声が優しかった。

 「泣きません」

 綾子ははっきり答える。

 「亡くなった患者様のことは、心に刻みます」

 もう二度と同じことを繰り返さないように。そう誓うことが、災害で命を落とした人々への敬意の表れだ。

 「予防接種を広めます」

 「はい」

 「父の話では、予防接種が広がれば、麻疹は怖い病気ではなくなるそうです」

 もっと早くそうしていれば。父が広めていれば。彼女は、生きていたかもしれない。

 医術にたらればないとわかっていても、そう思わずにはいられなかった。

 「麻疹にかかる人がいなくなれば、石碑を建てましょう。ここで命を落とした方を弔うために」

 「いいですね」

 終わった。しかし、終わっていない。時代は巡る。再び同じ事態に陥った時、今のように後悔しないように。人間は、勉強していくのだ。

 「綾」

 縁側から弦太郎が声をかける。

 「岩木さんも」

 弦太郎は笑顔だった。

 「少し休みなさい。しばらくゆっくり休めなかっただろう」

 「必要ありません」

 綾子はそう言って縁側から診療所に入る。

 「必要だよ。疲労は判断力の低下につながる」

 「ちゃんと休みました」

 大人しく言うことを聞かない頑固な妹に、弦太郎は呆れる。そこへ、元気な足音が聞こえた。

 「姉さま! 患者様から温泉の割引券をもらいました!」

 「治療費以外もらってはいけないと言っているでしょう。返してきなさい」

 たくさんの紙を手に嬉しそうな妹を、綾子が叱る。

 「イヤです! 兄さま、いいですよね?」

 「ご厚意だからね。ありがたくいただこうか」

 「ほら!」

 「……兄上、露を甘やかさないでください」

 妹から券を奪おうとする綾子と、その手から逃れる露子が、弦太郎の周りでひょいひょいと動き回る。

 「はいはい。仲良くね」

 弦太郎は妹2人をなだめ、

 「露、それは何枚ある?」

 と尋ねる。

 「みんなの分です!」

 露子が得意気に掲げた。その隙にと綾子が奪う。

 「あっ! 姉さまが取った!」

 「綾、いただきものだよ。大切にね」

 「大切にしないのは露でしょう。私が預かります」

 相変わらずじゃれあう姉妹に、弦太郎は笑った。

 「今からみんなで行こうか」

 「本当ですか!」

 嬉しそうな露子に、

 「では、私と露が残ります。診療所を留守にはできませんから」

 と綾子が告げる。

 「たまにはいいよ。ここ数日、働きっぱなしだったんだ。休息も大切だ。ね?」

 兄の言葉にも一理ある。

 「……わかりました」

 「やったぁ!」

 「準備して参ります」

 露子が嬉しそうに駆けだすそばで、綾子はふと振り返る。そこには、ずっと黙って立っていたらしい岩木が。

 「岩木様も行きますよね」

 「は……ま、まぁ、割引券があるのでしたら」

 「全員分ありますから。皆様も誘いましょう」

 「はい」

 彼も室内に入っていく。

 「帰りはそば屋にでも行こうか」

 「贅沢すぎます」

 「頑張ったご褒美だよ」

 なぜかいい気になっている兄に、綾子は呆れた。