「綾」

 しばらくして、兄の声がした。

 「大丈夫か?」

 「はい、兄上。おかえりなさいませ」

 窓のない部屋は、不安を煽る。それでも、気丈に答えた。

 「疫病は麻疹だ。わかっているようだね」

 「結膜炎と発疹が出ていましたから」

 里でも何度か見たことがあった。回数はそれほどないが、それでも知識として入っていた。

 「医術所でワクチンを作ってきた。打てるようになるまで3日はかかる」

 「わかりました」

 3日間、綾子が耐えればいい。日にちがはっきりわかっただけ、まだいいほうだ。

 「兄上、外のことをよろしくお願いします」

 「うん、わかった。すぐに麻疹の抗体がある人を調べるから」

 ワクチンが打てなくても、幼い頃にかかったことがあれば、抗体を持っている可能性がある。それを調べるには、血液を採る必要があるが、ここの医術師たちはそれを厭うことはないだろう。

 他の医術師たちはどうだろうか。たとえば、滝川がまとめる央ノ都医術所の医術師たち。医術師というのにろくな勉強もせずに菌を体内に入れることを嫌う人はいるのだろうか。

 綾子にとってそれは医術そのものを拒否するほど信じられないことだが、そういう人もいると、父は言っていた。

 医術は平等。父が繰り返し口にしていた言葉。尊い身分であっても、卑しい身分であっても、等しく医術を受ける権利がある。

 だから父は、里長(さとおさ)忖度(そんたく)することも、貧しい人々を拒むこともなく、ただ淡々と医術師として働いていた。

 そんな父の背中に憧れて医術師を目指したのだ。

 いろんな医術師がいる。彼らを受け入れることこそ、医術の始まり。そう言い聞かせた。



 部屋の隅で座ったまま、ぼんやり宙を見つめる。

 もう夜になっただろう。夕食は露子が持ってきてくれた。

 露子は幼い頃に父によって予防接種を受けていたため、抗体を持っている。それは兄や綾子も一緒。だから、最低3人は自由に動けるということ。

 他の診療所は、こうはいかないだろう。きっと大変だ。

 「綾子さん」

 その時、襖の外から声がした。

 「岩木様、ですか?」

 声と、その呼び方でわかった。

 「入っても?」

 「え? だ、ダメですよ?」

 「入ります」

 綾子の言葉なんて聞こえていないかのように、襖が開いた。

 綾子はとっさに着物の袖で口元を覆う。

 「出てください。危険です」

 これ以上ここの医術師を減らしてはいけない。これからのことが読めないから。

 しかし、岩木はすたすたと歩み寄ってきて。そして、綾子の手を取った。

 「手が冷えていますね」

 「なにを……?」

 「安心してください。弦太郎殿から、私は抗体があると言われました」

 「……そう、ですか」

 よかった。その言葉に、安心する。

 そして同時に、ちょっとだけ不満だった。もっと早く教えてくれればよかったのに。

 「隣、座っても?」

 「あ、はい」

 綾子が頷くと、彼は静かに隣に座った。

 「流行り病には悪さをする菌がいるというのは、知っていました」

 「はい」

 「ですが、その菌を弱毒化して体内に入れるというのは、知りませんでした」

 「そうですか」

 珍しく饒舌(じょうぜつ)だった。

 「珍しい医術です。腹を切るというのも、未だに信じられません」

 「……そうでしょうね」

 腹を切れば死ぬ。それが当たり前の世界に生きてきて、腹を切ることで助かる命もあるとは、そう簡単には思えないだろう。

 「でも、あなたや、弦太郎殿は、その医術を使って人を救っておられる。この事実に変わりはありません」

 「はい」

 「羨ましいと思います」

 「え?」

 羨ましい。この言葉の意味は、わからなかった。

 「羨ましい、ですか?」

 聞き返していた。

 「はい」

 彼は真っ直ぐな目で頷いた。

 「ここに来る前、自分は腐っていました」

 「くさる?」

 「医術所には裕福な家の者たちがたくさんいて。自分のような卑しい身分から医術師を目指しても、結局彼らにこき使われるだけだろうと思っていました」

 都の医術師界隈はそんなものなのか。患者を優先した医術はできないのだろうか。

 「でも、ここの医術は特殊で、誰も知らない。そして、確かに命を救うことができる。確実に」

 「そうですね」

 医術に絶対はない。しかし、都の医術師たちの知識よりもはるかに大きなものを、父は引き継いでくれた。

 「この医術を身につければ、彼らの上に立てる。そう思っていました」

 「医術を権力争いの道具にしないでください」

 「わかっています」

 ムッとした綾子に、彼は真面目に答える。

 「ここで勉強していて、思いました。人の命を救いたい、と。それは、医術師を目指すきっかけになった気持ちでした」

 久しぶりに感じた感情。それに戸惑ったのだろうか。それとも、懐かしさから受け入れられたのだろうか。

 「あなたのように、命を救える医術師に、なりたい」

 真っ直ぐな言葉だった。思わず顔を上げると、そこには、綾子を見つめる岩木の目があった。

 「兄の方が医術師としては腕もいいはずです」

 そう答えながら、その目は、真っ直ぐに岩木を見つめ返す。逸らせなかった。

 「それでも、自分が目指しているのは、あなたの医術です」

 「……!」

 何が彼にそう言わせているのか。綾子にはわからなかった。

 父から教わった年月は当然兄の方が長い。だから、兄の方が優秀で当たり前。いつか嫁にいく綾子は、兄の手伝いができればいい。そう思ってきた。

 しかし、彼の言葉は、そう言っているようには聞こえなくて。

 「……喋りすぎました」

 彼は口早にそう言った。

 「失礼します」

 「岩木様」

 慌てて立ち上がるその背中に、綾子は慌てて呼びかける。

 「なにか」

 彼が振り返る。しかし、何を言っていいかわからない。なぜ呼び止めたのだろう。

 「い、いえ……」

 綾子は首を振る。

 「おやすみなさい」

 そう告げて、岩木は出て行った。

 耳に残った声は、優しかった。