「いっていらっしゃいませ」
「うん、いってくるよ」
最低限の道具を持った弦太郎が診療所を出ていく。おともするのは伊藤俊之介と竹田信一郎。最も信頼のおける弟子2人を連れて、弦太郎は央ノ都医術所へ向かった。
その間、留守番は綾子と露子、そして弟子の3人。もう慣れたもので、それぞれの時間を過ごす。
兄がいないためか患者も来ず、穏やかな日だった。
綾子は、妹とともに薬を作りながら、時折ぼんやりと窓の外を見る。冬の冷たい空気の中で、日差しだけは暖かい。
「綾子さん、いいですか?」
ふと部屋の外から声がかけられた。
「どうぞ」
綾子が答える。襖が開いて、入ってきたのは岩木。綾子をそう呼ぶのは1人だけのため、わかっていた。
「記録を見ていたのですが」
「あぁ、はい」
彼は勉強熱心で、過去に診た患者の記録を見て勉強している。診察の場にいない症例でも頭に入っているのは、そのせいだろう。
「この病にはどういった治療法があるのですか」
「これは……」
そうやって1つずつ教えていく。熱心に聞いてくれる姿は、好感を持てた。
「姉さま」
部屋の外で露子の声がする。
「どうしたのですか?」
綾子が答えると、すっと扉が開いた。その顔は、どこか不満そうで。
「患者様が来ています」
「今行きます」
なんとなく状況はわかった。
「岩木様、申し訳ありませんが」
「大丈夫です」
岩木に謝り、綾子は座敷へ向かう。そこに待っていたのは、
「綾姉様!」
お玉だった。
「こんにちは、お玉さん。今日はどうされましたか?」
「お腹の傷を診てもらおうと思って!」
「もう問題ありませんよ」
露子が警戒するように綾子の袖を握っている。
「疫病が流行ってるから外に出るなってうるさいんです。綾姉様がいれば、疫病なんて怖くないのに!」
「……流行り病は怖いものですよ。医術師にできることは限られています」
「じゃあ綾姉様も外に出るなって言うんですか?」
もちろん外に出ない方が一番いい。しかし、生活のためには外に出るしかない時だってある。
だからこの答えは、医術師としては答えられない、が正解だ。
「姉さまは忙しいんです! お帰りください!」
「お露ちゃんばっかりずるい!」
露子よりもかなり年上のはずのお玉も、譲ろうという気はないらしい。
「静かになさい。ここは診療所ですよ」
綾子が露子を止めると、
「……っなんで……、姉さまは、露の姉さまなのに……!」
姉から拒絶されたと思ったのか、露子が目に涙をためて走り去っていく。
「あぁ、もう……」
露子は兄が帰ってきたら任せればいい。
「綾姉様」
お玉が嬉しそうに声を上げた時、
「先生! 助けてください!」
扉が勢いよく開いた。若い男性が焦った様子で入ってきた。その後ろには、ぐったりとした男性が背負われている。
「寝かせてください」
座敷に寝かせ、すぐに診察を始める。
「こいつ大丈夫ですよね」
「診てみます。落ち着いてお待ちください」
落ち着いて。その言葉は、自分自身に向けたものだった。
目やにに、上下両方の瞼に炎症。体にポツポツと発疹。
「……っ」
「綾姉様、お手伝いしましょうか?」
「ダメ!」
手を伸ばしたお玉を、一言で止める。
「お玉さん、帰ってください」
「え……」
「帰ったらきちんと手を洗って、口を漱いで。いいですね?」
「で、でも……」
「先生……?」
患者の男性を連れて来た男も、不安そうに尋ねる。
ここは住宅地。他にもたくさんの家が並ぶ場所だ。不用意に言っていいものではない。
「この患者様は診療所で預からせていただきます。あなたもお帰りください」
「は、はぁ……」
男性とお玉を追いだし、綾子はすぐに
「露を呼んできてください」
と弟子に指示を出す。1人では動けないから。
「は、はい!」
弟子の1人が走って出て行く。
「綾子さん、教えてください」
いつものように教えを乞う岩木に、
「その暇はありません」
と冷たく返す。残念ながら、いつものように丁寧に教える余裕はなかった。
「我々は医術師です」
「……っ」
その言葉に、ハッとした。そうだ。医術師なのにそう扱われないことの悔しさを、綾子は知っているのに。
「……わかりました」
この知識を伝えることが、綾子の役目。何も知らない一般人よりは手伝ってくれる。
「これは今流行っている疫病の可能性があります」
「え……」
岩木の隣にいた弟子の1人、三井から小さな声が漏れる。
「静かに。不用意に騒ぎを大きくはしたくありません」
「あ……っ」
三井は慌てて口に手を当てた。
「まず患者様を隔離します。岩木様、患者様を奥の座敷に運んでください」
「はい」
岩木に指示を出し、患者を運ばせる。その間に
「お湯を準備してください。できるだけ熱いお湯です」
三井にも指示を出した。
「……姉さま」
少し機嫌の悪い露子が来た。
「露、疫病の患者様が来ました。おそらく麻疹です。薬の作り方はわかりますね?」
「……!」
姉の言葉に、露子はハッと目を見開く。
「信じていますよ」
その言葉で、露子の顔がきゅっと引き締まる。
「作ってきます」
「牧野様、露を手伝ってください」
「は、はい!」
この場で指示を出せるのは綾子だけ。兄が帰ってくるまでの間だけでも、この診療所を守らなければ。
綾子はそのまま患者を隔離した部屋に入る。
布団が敷かれ、その上に寝かされた患者のそばで、岩木は立っていた。
「岩木様、今すぐ出てください。診察室の消毒をした後、水浴びをして着替えて。ここには入らないでください」
「ですが」
「兄上が戻られたら、皆さんにも手伝ってもらいます。今はまだ、患者様は1人ですし、私だけでも大丈夫です。この部屋に出入りするのは私と露子だけにします」
「……わかりました」
医術師として働きたい。その気持ちは、痛いほどわかる。
しかし今は、これが最善策。医術師が倒れては元も子もないのだから。
「姉さま、薬と湯桶をお持ちしました」
襖の外から露子の声がする。
「そこに置いて。露、麻疹の対応はわかりますね?」
「……」
「大丈夫です。一緒に勉強したはずですよ」
「……はい」
まだ不安そうな露子を、襖越しに励ます。
「兄上が戻られるまでの間、外のことは頼みます」
「……っはいっ」
そして、タッタッと遠ざかっていく足音がした。