「綾姉様~!」
元気な声が聞こえてくる。その瞬間、玄関がガラリと開いた。
「綾姉様!」
「……こんにちは、お玉さん」
綾子が静かに答える。
「ねぇ、お腹の傷、見てください!」
「横になってください」
少し前に腫瘍を摘出した少女。術後の経過を見るため、少しの間診療所で寝泊まりしてもらった。その期間に、綾子は懐かれたらしい。
「はい、大丈夫です。もう傷も治っているので、毎日いらっしゃらなくて大丈夫ですよ」
「お姉様に会いに来てもいいですか?」
「……仕事中ですので」
そばのたらいで軽く手を洗いながら答える。
「かまいません! お姉様の弟子にしてください!」
「……弟子でしたら、どうぞ兄の方に」
「お姉様がいいんです!」
この前からこればかりだ。女の子だからと、兄が遠慮して処置を綾子に任せたばかりに。
「姉さま!」
そこに、勢いよく障子が開く。
「露、はしたないですよ。それに、診察中です。静かになさい」
露子が飛び込んできて、姉にしがみついた。彼女は、玉に対して警戒心を示す。
「姉さまは、露の姉さまです!」
「わたしのお姉様になってもいいんじゃない?」
「ダメです!」
「……静かにしなさい」
綾子が妹を引き離し、玉を見据える。
「私は今のところ弟子を取る気はありません」
しっかりとした目つきに、玉は諦める、
「じゃあ、お姉様の妹にしてくださいな」
はずはなく、笑顔を崩さない。
「絶対ダメです!」
これには露子が口を挟んだ。
「露、兄上のお手伝いにいっていらっしゃい」
「え……」
「あとで私も参ります」
「……はぁい」
露子がしゅんとうなだれて出て行く。
「お姉様……!」
邪魔者を追い払ってくれたと、玉は目を輝かせた。
「診察は終わりました。どうぞお帰りください」
「また明日きます!」
そう言って玉は出て行った。
「……もう来なくていいのに」
経過も問題ない。これ以上診察を続ける意味はないのに。
しかし、医術師たるもの、患者を拒むことはできない。また明日も、彼女に時間を取られるのだろう。
片付けをして、再び診察室に向かう。
「はい、お大事になさってください」
兄が患者を見送ったところだった。
「綾、大丈夫だった?」
「問題ありません。傷も閉じていますし、化膿もしておりませんでした」
「それならもう大丈夫だね」
この会話も、ここ数日で何度目か。兄ももう経過を見る必要はないと思っているらしい。
「綾殿、縫合を教えていただけますか?」
「はい」
弟子に声をかけられ、綾子は静かに頷いた。
「綾子も弟子を取ったらいいのに。兄君にはいるのでしょう?」
伯爵邸に往診に来ていた綾子に、桜子が声をかける。
「兄は医術師ですので」
「綾子もそうでしょう?」
「それは……」
医術師なのか、そうでないのか。医術師としての矜持は持っていながら、どこかそれを後ろめたく思っている自分がいる。
桜子の前では、兄がいないため医術師でいられる。しかし、診療所ではどうだろう。
弟子たちに教えるのは兄の役目、と、綾子は一歩引いて見ていることが多い。
「綾子」
「はい」
桜子が、綾子の手を握った。
「もしあなたが困っているのなら、教えてちょうだいね」
「……そのようなお言葉は」
「いいの。私、あなたには感謝しているのよ」
桜子にも気に入られているらしい。
「あ、そうだわ。綾子にお願いがあったの」
「なんでしょう」
「そろそろ、社交界に復帰したいのだけれど」
貴族の女性にとっては仕事のようなもの。これ以上は休めないのだろうか。そう判断した綾子は、
「……薬をお渡ししておきます。どうか無理はなさらず。可能であれば、逃げる場所を作っておかれてください」
と答えておく。
「わかったわ」
こういう時、医術師にできることは少ない。
「あーぁ。綾子も連れていけたらいいのに」
「……どうかご容赦を」
貴族への対応を心得ているとはいえ、そんな虎の巣の中に入るようなことはしたくない。
「ご不安ですか?」
「少しはね。でも、薬があれば大丈夫とも思ってるわ。綾子の薬はよく効くもの」
薬に頼りすぎるのも、本当はあまりよくないのだが。
今の綾子にできるのは、上手くいきますようにと祈るだけだ。
「綾子、知ってる?」
「何をですか?」
こんな世間話のようなものでも、綾子は付き合っていた。こんな話から病の経過を伺えるし、何より貴族の話し相手を断れる身分でもない。
「疫病が流行っているらしいわ」
「疫病……。どんな?」
「さぁ。呪いかもしれないって言われてるけど。皇帝陛下が呪詛除けを命じたって」
こんな時、綾子の頭によぎるのは、呪い、ではなく疫病の方。呪いと病は別物だ。
「怖いわね。綾子も気をつけて」
「はい。お嬢様も、どうかお気をつけください」
疫病。どうにもその言葉が引っかかっていた。
「疫病か……」
夜、綾子は兄に相談した。
「……うん、わかった。明日、滝川先生に会いに行ってくるよ」
「わかりました。お気をつけて」
滝川がまとめている央ノ都医術所には、都中のいろんな情報が入っているはず。それも病となれば、相談されているはずだ。
「睡眠不足は免疫を落とす。綾も早く寝なさい。薬はいる?」
「自分で作れますと何度申し上げればよろしいのですか」
「妹を甘やかしたいだけだよ」
弦太郎がニコリと微笑んだ時、
「姉さまぁ……」
障子が小さく開いた。
「露」
寝間着姿のまま、眠そうに目を擦る妹。
「いらっしゃい」
「んー……」
甘えてくる妹を抱きしめる。
「怖い夢を見たのですか?」
綾子の問いに、半分寝ながら、
「……とう、さま……」
とつぶやく。その言葉に、綾子と弦太郎はそっと眉尻を下げた。
元気にふるまいながら、こうして父の影を探す妹を見るのは、やっぱり辛かった。