「ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
伯爵邸から帰った綾子を、弟子が迎える。
その日も岩木が送り迎えをしてくれていた。綾子について回る意味は、未だにわからないまま。しかし、彼と2人きりという場に不思議と嫌悪感はなく、ただ自然なこととして受け入れていた。
「診察中です」
その言葉に頷き、診察のための座敷を避けて部屋へ。軽く着替えて、また部屋を出た。
「兄上」
座敷に戻ると、ちょうど患者がいないところだった。
「おかえり、綾。中村伯爵のお嬢様はどうだった?」
「順調です。ゆっくり進めていますから」
急いではいけない。焦ってもいけない。父の医学書の通りに治療している。
少しずつだが発作が起こりそうな場所を克服していて、彼女にも笑顔が戻っている。
そのことが、綾子には嬉しかった。
「よかった。じゃあ手伝ってくれるかな」
「はい」
綾子は自然と日常に戻った。
「ふぅ……」
そっと空を見上げる。すぐ後ろでは、妹の穏やかな寝息が聞こえている。今日はなんだか気が立っているらしい。なかなか寝付けなかった。
「綾?」
部屋から月明かりが漏れていたせいか、弦太郎がそっと襖を開ける。
「またおまじないか?」
「……まぁ」
母に教えてもらったおまじないは、なかなか効かない。
「薬を作ってこようか」
「自分で作れますので」
「いいから。横になっておいで」
兄はそう言って襖を閉める。綾子は、再び空を見上げた。
『綾』
耳の奥に響くのは、懐かしい父の声。
『お母さんはな、星になったんだ』
母の死を悲しむ綾子に、父はそう言って慰めてくれた。あの時の父の優しく力強い温もりが、今も身体を包み込む。
それからかもしれない。眠れない時、星空を見上げるようになった。
星を数えながら、母にそっと語りかけるような時間が、好きだった。
しかし、医術師として働く今、睡眠不足は大敵だ。判断力が鈍ってしまう。
しっかり眠った方がいいことはわかっている。
「母様」
星に向かってそっと語りかける。この声が、母に届いていると信じて。
「私は、上手くやれていますか?」
少しだけ、不安がにじむ。患者の命をつなぐ仕事というのは、やっぱり不安の方が大きいものだ。
父に確かめたかった。母に褒められたかった。そんな幼い子どものような願い。
ぐっとこらえ、振り返る。そばには妹が寝ている。自分よりもずっと幼い。母の顔を知らず、この年で父を失ってしまった妹が。
姉として、妹を支えていくことを、両親は望んでいるだろう。
「入るよ」
そこに、兄が戻ってきた。
「まだ起きていたのか? 横になっているように言ったはずだよ」
「兄上、私は患者ではありません」
「いいから」
妹の隣に寝かされ、兄は注射器をかまえる。
この真っ直ぐな目が好きだ。真っ直ぐで力強くて、それでいて優しい、安心できる眼差し。
「眠れるまでそばにいてあげよう」
「兄上も早く休んでください」
「心配なんだ。たまにはいいじゃないか」
綾子以上に医術師として立派に働いている兄にこそ、休息は必要なのに。
それでも、兄がそばにいてくれることで、こんなにも安心する。
「んー……」
すぐ隣で、妹が寝返りを打って近づいてくる。その頭をそっと撫で、綾子は目を閉じた。
「おやすみ」
兄の優しい声が闇の中に響いた。
「綾、今の患者さんの記録を残しておいて」
「はい」
最後の患者の診察を終え、綾子は道具を片付けながら返事をする。
「楠本殿、今の方は……」
さっそく弟子たちに囲まれる兄を横目に、
「露、片付けは任せてもいいですか?」
と妹に声をかけた。
「はいっ」
元気な妹の返事を聞き、綾子は隣の部屋に入る。
診療所の訪れる全ての患者について、記録を残す。それもまた、父の医術の教えだった。
その患者が再び訪れた時、過去の記録を見て病気を見つけることもできるから、と。
そうでなくても、経過的に見ていく患者もいる。そのため、この記録の有用性は理解していた。
「手伝います」
「岩木様」
そんな綾子の隣に、岩木がすっと座る。
「教えてください」
「あ、はい」
確かに、今まで行っていた医術を言語化するのは、医術師として必要なことだ。
「では、最初から書き出していきます」
そうして岩木に教えながら書き出し始めた時、
「先生! たすけてください!」
その時、玄関から声がした。ハッと立ち上がり、玄関に行く。既に弦太郎が出ていた。
「うちの娘が!」
10代の少女。連れて来たのはその父親か。
「横にしてください。診察します」
兄は冷静にそう告げる。症状が何1つわからない。わかるのは、お腹を痛がっていることくらいか。
「急に腹が痛いって言い出して!」
「少し触りますね」
嫌な予感がする。それは、漠然として、何とも言えないもの。
「姉さま……」
露子がすり寄ってきた。
「腹痛、それもこの痛がり方だと……。虫垂炎というやつですか?」
「いや、尿管結石の可能性も」
弟子たちの間でも意見が割れる。
徐々に、ではなく、急に、というのが引っかかる。虫垂炎も尿路結石も、じわじわと日を経て痛みが強くなっていくものだ。
その中で、弦太郎は冷静に病名を割り出す。
「お父さん、落ち着いてください」
ようやくわかったらしい。
「娘さんのお腹の痛みは、内臓がねじれているところからきているようです」
「ね、ねじ……!?」
兄の言葉で、パッといくつかの病名を浮かべる。
「露、手術の用意を」
「はい!」
露子に指示を出し、綾子も準備のためその場を去ろうとした時
「腹を切って助かるものか!」
患者の父親の荒々しい声が響いた。
露子もハッと振り返って足を止める。
「露、行きなさい」
止まっている暇などない。妹を先に行かせて、綾子はゆっくり息を吐く。
「お気持ちはわかります。しかし、そうしないと治せないのです」
「お父さん、落ち着いてください。この先生は、お腹を切って病気を治すことができます!」
弦太郎も、弟子たちも、一生懸命説得する。
「あんた、うちの娘を殺す気か!」
それでも父親の怒りは収まらない。
「静かにしてください」
その中で、綾子の静かな声はよく響いた。
「あなたの娘さんは今も苦しんでいるんですよ」
「は……?」
「助けたいという気持ちは、私たちも同じです。娘さんを助けるために、最善を尽くします。……私たちを、信じてください」
「……っ」
ただ事実を述べただけだった。兄が助けると言っているのだ。助からない病気ではない。
勢いをなくした父親に、
「娘さんを信じて、待っていてください」
と弦太郎が声をかけた。
「綾子さん」
再び準備のために離れようとした綾子に、岩木が声をかける。
「手伝えることはありますか」
「……はい。手伝ってください」
人手は必要だ。綾子はそう頷いた。