綾子はそれからも中村邸に通い、熱心に治療を続けた。
中村邸に行かない日は診療所でいつものように過ごす。
診療所で過ごす日が日常で、中村邸に行く日が特別な日、という認識だった。
「綾殿、お手伝いしますよ」
「ありがとうございます、竹田様」
竹田信一郎は、弟子の中でも最年長。それでも上から目線ではなく、真摯に勉強している。
最年長ということで心配だった家事にも積極的だ。手先も器用で、5人の弟子の中では縫合が上手い。
料理も上手で、彼が手伝ってくれる時には助かっている。手慣れた様子で包丁を使う姿に、綾子は気にせず手を動かす。
「手術の時の感覚は、魚や肉を切る時と同じですか?」
「え?」
突然の声に、綾子は振り返る。
「あぁ、いえ。ふと気になりまして」
「あ……」
確かに、まだ手術の実技は教えていない。見学だけなら気になるだろう。
「最初は豚やネズミを使って練習します。でも……人を切る時とは、違います。ほんの少しの誤りも許されない緊張感がありますから」
「……なるほど。それは緊張しますね」
竹田の返事に頷き、初めて医術道具を握った時のことを思いだす。
緊張、なんて生易しいものではない。その時は生きた人ではなかったものの、やっぱり緊張に似た恐怖があった。
「兄さま! 兄さま!」
その時、露子の声がした。綾子はハッと反応して飛び出す。ただごとではない声だった。
玄関に集まった弦太郎と弟子たち。露子を連れて外出していた伊藤の姿もある。
そして、寝かされた患者。
「蜂に襲われていました!」
露子の声が聞こえた瞬間、身体が反応していた。注射器と薬を準備し、
「兄上」
と差し出す。弦太郎はそれが何か問うこともなく、患者に注射した。
しばらくして、患者の苦しそうな顔が緩む。
「……うん、もう大丈夫だね」
弦太郎の言葉に、弟子たちが一斉にホッと息を吐いた。
「蜂毒はなかなか抜けないものなのに……」
「身体の活動を助ける薬を注射するんです。アドレナリンといいます」
「あどれなりん……」
全員が一斉に筆を持つ。
「これは時間との戦いです。できるだけ早く判断して注射することで命を助けられます。今回は露が教えてくれてよかった」
兄の説明を背中で聞きながら、綾子は台所に戻った。
夜遅くになっても、診療所の灯は消えない。遅くまで弟子たちが勉強しているからだ。
質問攻めになる弦太郎は、そのすべてに丁寧に答えている。
「兄上、お先に休ませていただきます」
「うん。おやすみ」
兄に一言告げ、綾子は自室に入る。すると、布団が膨らんでいた。
「露?」
「……ん、んー……」
もうすっかり寝ていたらしい露子が、不機嫌そうに声を上げる。
「部屋で寝なさいと言っているのに……」
今日も妹と一緒に寝ることになるらしい。隣に座って、妹の顔を見る。まだあどけない。この年齢で両親を失っていると思うと、少しだけ甘やかしてしまう。
綾子は枕元に置かれた薬を手に取る。今日はどうしようか。
毎日飲んでいるわけではない。眠れない時に飲んで、それでも眠れなければ注射を使う。
今日は眠れるだろうか。そう思いながら、今日はなんとなく引っかかる。飲まない方がいいのかもしれない。
その時だった。
ドンドン、ドンドン
荒々しく扉を叩く音。緊急の患者だろうか。まだ着物を着ているため、慌てて立ち上がり、そのまま部屋を飛び出す。
「綾子殿はいらっしゃいますか!」
伯爵家の使いだった。
「お嬢様がひどく苦しがっておられて……! 急いで来ていただけませんか!」
おかしい。頓服薬は渡しているはずなのに。
「綾」
兄が荷物を持ってきてくれた。
「行ってまいります、兄上」
「落ち着いて」
「……はい」
ふうっと息を吐く。焦ってはいけない。
それが伝わったのか、兄はふっと微笑んで見送ってくれた。
駕籠に揺られてしばらくすると、伯爵邸に着いた。
「こちらです!」
着物の裾を軽く押さえながら、早足で桜子の部屋を訪ねる。
「医術師をお連れしました」
「綾子!」
使用人が綾子の来訪を告げた瞬間、部屋から桜子が飛び出してきた。
「お嬢様」
綾子はしっかりと彼女を支える。
胸を押さえていない。動悸や呼吸困難はなさそう。ただ、涙を流し続けている。
「お嬢様、手を握りますね」
綾子は落ち着いて、桜子の両手を握る。
「私と一緒に呼吸をしてみましょう。私に合わせてください」
「ハッ、ハッ……ハァ……ッ」
指先が冷たい。それに、呼吸も荒い。まずは落ち着くのが先だと、綾子はゆっくり呼吸してみせる。それを見た桜子も、徐々に呼吸を落ち着かせていく。
「お上手です。ちゃんとできていますよ」
すがるように見つめてくる桜子の目をじっと見つめ、優しく微笑んだ。
それにホッとするように、桜子が頬を緩める。
間もなくその呼吸が落ち着いた頃。
「何があったのか、説明できますか?」
綾子は桜子に聞いた。
「お父様が……」
彼女は、チラリと後ろを見る。桜子の部屋にいたたくさんの人間たち。その中でも目立つ、綺麗な洋服の恰幅のいい男性。彼が、伯爵、桜子の父親か、とわかった。
「お父様が、晩餐に参加しなさいと……」
まだ練習していく段階ではないのに。しかし、仕方がない。こういうこともあると、父の医学書には書いてあった。
「……伯爵様」
だから綾子は、落ち着いて頭を下げた。
「お初にお目にかかります」
「お前が医術師か」
「はい。お嬢様のご病気を診させていただいております」
気にしない。気にしてはいけない。患者のために。
「本当に女の医術師とはな」
ぐっと唇を噛んでこらえる。
「お前が余計なことを吹き込むから、娘は甘えた人間になるのだろう!」
「おそれながら」
綾子はゆっくりと口を開いた。
「伯爵様のそのお身体は、甘えから来るものでしょうか?」
丸く出っ張ったお腹に、伯爵はハッと手を当てる。
「違う!」
「そうです。甘えではありません。加齢に伴い、体の代謝能力が落ちることで脂肪を溜めやすくなってしまう、という体質です」
伯爵相手に喧嘩を売って首が飛べば、兄にも迷惑が掛かってしまう。それだけは避けたいと、なんとかこらえる。
「それと一緒です。お嬢様のご病気は、お嬢様の体質から来るものであり、心の弱さや甘えから来るものではありません」
「綾子……」
桜子がぽつりとこぼす。
「今はお身体を休ませることが大切なのです。もう少し落ち着かれれば、不安から抜け出す練習をいたします。いずれ必ず、社交界に復帰することができます。どうかそれまで、お嬢様を支えていただけませんか」
「……ふんっ」
伯爵は不機嫌そうに鼻を鳴らし、部屋を出て行った。
綾子は頭を下げたままふうっと息を吐き、波立つ心を落ち着かせる。そして、桜子に微笑んだ。
「お嬢様、少し横になりましょう。落ち着きますから」
「あ……え、えぇ……」
桜子は立ち上がり、着物を整えて寝台に横になる。
「綾子、そばにいてちょうだい」
離れようとした綾子の手を握って、そう言った。
「怖くて眠れそうにないの。朝になったら駕籠を出すわ。だから……」
「……かしこまりました」
不安を取り除くのも医術師の仕事。一晩くらいなら大丈夫だろう。
「おそばにおります。どうかゆっくりお休みください」
綾子が微笑むと、桜子はその手を握ったまま、ふっと微笑んだ。
「あなたたちは下がってちょうだい」
「はい」
使用人たちを下がらせると、桜子は綾子の手を離す。
「お父様には、きっと伝わらないでしょう」
「……わかりません。私も、お嬢様のお気持ちを正しく理解できているとは思えませんもの」
「あら、そうなの?」
「はい。大切なのは、お気持ちに寄り添う心にございます。必ずしも理解する必要なんてありません」
綾子のしっかりとした答えに、桜子は意外そうな顔をする。
「私も、……少しだけ、お嬢様のお気持ちがわかる時があります」
「どんな時?」
「夜、眠れない時です」
いつからか。わからない。ある時突然、眠れなくなった。
その時はまだ父がいて、優しく寝かしつけてくれた。それでも眠れないときは、父が眠り薬を作ってくれた。
父が亡くなった今、その役目は兄が引き受けてくれている。家族が理解してくれているから、綾子は深く考えすぎることはないだけだ。
「綾子もそんなことがあるの?」
「はい」
それを聞いて、桜子は安心したように笑う。
「そう。わたしだけじゃないのね」
その笑顔は、幼子のようにあどけなくて。
助けたい。彼女の心を、救いたい。綾子はそう思った。
「ありがとうございました」
「お礼を言うのはこちらよ。一緒にいてくれてありがとう。おかげで安心して眠れたわ」
桜子は屋敷の前まで見送りに出てきてくれた。伯爵家の駕籠を診療所まで出してくれるらしい。
「また何かあれば、お呼びください」
「助かるわ」
綾子がそう告げて駕籠に乗ろうとした時。
離れたところに、見慣れた人物を見つけた。
「……あぁ」
兄に頼まれたのだろうか。
「お嬢様、迎えが来ましたので、駕籠はいりません。お気遣いいただき、ありがとうございます」
「あら、そうなの?わかったわ。気をつけて帰ってね」
貴族の好意を無下にした、なんて怒らないのが桜子のいいところだろう。
綾子は丁寧に頭を下げてから歩き出す。
「お疲れ様です」
塀の影に隠れるように立っていたのは、岩木だった。
「兄上のおつかいですか?」
「いや……」
兄に頼まれたわけではないのか。それなら、どうしてここにいるのだろう。
聞きたいことはあるが、岩木は話すのがあまり得意な方ではないらしい。あまり聞かない方がいいだろう。
「荷物」
「え?」
「……持ちます」
「あ、ありがとうございます」
差し出された両手に、持っていた荷物の1つを預ける。彼らが医術道具を雑に扱わないことは、もうわかっているから。
「私は一人で帰れます。兄上のそばで勉強していた方がよかったのでは?」
「……綾子さんも医術師でしょう」
驚いた。彼は綾子を医術師として認識していたのか。確かに弟子たちの前で医術的な行為はしているが、兄の助手的な位置として認識されていると思っていた。
「まぁ……、そうですね」
医術師であることには違いない。自分ではそう思っていた。
彼はそれ以上何も言わなかった。