久空紬未の葬儀は、滞りなく執り行われた。
 まるで映画か小説のように、彼女の葬儀の日だけが雨だった。久しぶりの傘を差し、僕は無感情なまま彼女の家族に挨拶をし、お焼香をあげた。こんなものより、きっとチョコレートをあげたほうが彼女は喜ぶだろうな、なんて場違いなことを思った。
 あの日。僕は山下さんからの電話を受け、何事かを喚き散らしながら真っ白な頭で病院へ飛び込んだ。焦燥のあまり冷静ではいられず、ようやく顔見知りとなった看護師さんに早口でまくし立てた。そうして冷静とは程遠い僕が案内されたのは、山下さんが待つ別室だった。家族以外に、遺体となった彼女に会わせるわけにはいかないらしかった。僕は彼女の死に目にあえなかった。

「もり、かわ……くん……」

 目を真っ赤に腫らした山下さんから、僕は事の次第を涙ながらに説明された。
 紬未と山下さんは昼食を食べたあと、それぞれの行き先へ向かうべくカフェの前でわかれた。山下さんは藤田とのデートに、紬未は僕が待つ犀川の河原へと向かうところだった。
 交差点で信号待ちをしていたところへ、ふいに彼女が歩いていった後方から物凄い衝突音と悲鳴が聞こえたらしい。
 咄嗟に振り返れば、近くの電柱付近についさっき紬未が持っていた紙袋が転がっていた。嫌な予感と悪寒がして慌てて向かってみれば、そこには頭から血を流して倒れている見慣れた服の女性がいた。紬未だった。急いで駆け寄るも意識はなく、頭からは目を覆いたくなるほどの血が流れていた。
 少し距離を置いて見守る野次馬の話によれば、どうやら紬未はスピード違反と信号無視の車から幼い女の子を庇って轢かれたらしかった。紬未に突き飛ばされた女の子はかすり傷だった。
 必死で紬未の名前を呼びかけているところへ救急車が駆けつけて、そのまま付き添いとして一緒に病院まで運ばれたらしい。
 山下さんはずっと泣いていた。でもなぜか、僕は涙が出なかった。何も考えられずに、僕はうずくまって嘆く山下さんのそばにいた。やがてやや遅れてきた藤田に山下さんを預けると、僕はすぐさま病院をあとにした。
 力ない足取りで家に辿り着いて間もなく、藤田からメッセージがあった。山下さんはひとまず落ち着かせたこと。僕の調子は大丈夫かということ。お通夜や葬儀の日程のこと。それだけが簡潔に書かれていた。
 そして昨日、僕はお通夜に行った。泣けなかった。
 さらに今日、僕は葬儀に行った。やっぱり泣けなかった。
 どちらも無感情なままに、僕は彼女の遺影を眺めていた。
 奇しくも、彼女の遺影は僕が先日病院の屋上庭園で撮った写真が使われていた。その時の僕には驚きも怒りも戸惑いも落胆もなかった。ただ無感情に、満面の笑顔で僕を見る、これ以上なく彼女らしい写真だなと思っただけだった。少なくとも棺で眠る死に化粧をされた紬未よりは、魂が宿っている気がした。
 それからは、僕は自室に引きこもった。
 理由は明白で、僕は泣いていないとはいえ少なからず紬未の死にショックを受けていた。外になんか出歩く気にもなれず、補習はすべて休んでひたすらに部屋に閉じこもって夏休みの宿題を進めていた。
 こういう時、勉強はいい。頭の中に他のことを考える余裕をなくす数学や暗記系なんかは特にいい。国語や英語はダメだ。だから僕は、ものの二日で国語と英語を除いた夏休みの宿題を全て終わらせた。夏休み最終日に泣く泣く宿題をやっつける未来は、これでほぼ潰えた。
 じゃあ他になにをするかと思えば、なにもすることはなかった。こんなにも一日は長かったものかと、紬未が死んで三日目にして思った。紬未と一緒にいる時は、あっという間に時間が過ぎ去っていったのに。
 宝物の地図を探している時も、カフェで作戦会議をしている時も、河原でただ水を掛け合っている時も、図書館で勉強している時も、ショッピングモールで買い物をしていた時も、海水浴に行った時も、何気ない登下校の時でも、ぜんぶぜんぶ、紬未と一緒にいた時間はすぐに終わっていた。
 それほどまでに、僕は紬未との時間を楽しんでいた。夢中になっていた。
 それなのに、呆気なく唐突に、その時間は終わりを告げた。
 否応なく、昔のトラウマもよみがえる。あの頃と同じだった。また僕は、大切な人を亡くした。よりにもよって同じ死因で、唐突に。
 けれどもはや、なにも感じない。横たわる父や母の背中を思い出しても、息苦しさや頭痛はない。スマホの中で笑う紬未を見ても、なにも思わない。あるのはただ、ぽっかりと心に空いた喪失感だけ。宿題を終えてしまえばやることはなく、僕は彼女が亡くなってから三日目の一日をほとんど寝て過ごしていた。
 もう、なにもかもがどうでもよくなっていた。
 僕はいったい、なんのために紬未と一緒に過ごしていたのだろうか。
 僕はどうして、紬未と一緒に宝物探しをしていたのだろうか。
 僕はなんで、紬未のことを好きになったんだろうか。
 楽しいは楽しいで、素直に行動した結果がこれだ。いつか悲しみに変わる楽しい思い出なんていらない。その信念に沿って行動していれば、こんな気持ちになることもなかった。ただ隣のクラスの何某さんが交通事故で亡くなったらしいよ、ふーん、気をつけないとな、で終わったはずだった。
 わからないわからないわからない。
 なぜ僕は、紬未に関わってしまったんだろうか。紬未と出会ってしまったんだろうか。
 そもそも僕が紬未と深く関わっていなければ、紬未と出会っていなければ、紬未は事故で死なずに済んだかもしれないのに。
 あるいは一時退院の日に約束をしていなければ、紬未は山下さんとその後も行動をともにしていて、助かった女の子には悪いけれど、事故現場に出くわすこともなかっただろうに。
 結局は、僕のせいなんだろうか。
 ……なんて、今さらそんなことを考えたところで仕方がない。
 どうあがいても、後悔しても、紬未は戻ってこない。いつもみたいに笑って、僕を振り回してくれることもない。もうすべてが、遅すぎるのだ。
 ぐるぐると答えの見えない思考を繰り返しているうちに、いつの間にか紬未が死んでから四日目に突入していた。カーテンの隙間から漏れる日差しが、今日も快晴であることを知らせてくれる。
 寝たのか寝てないのかよくわからない頭で僕が起き上がると、同時にスマホが振動した。目覚ましかなにかかと思って見てみれば、藤田からだった。

『会って話せないか?』

 無理だと送った。どうせ僕を元気づけようとしてくれているのだろう。余計なお世話だ。
 布団を被り直すと、またスマホが振動した。いい加減うるさいと、電源を落とそうと思ってもう一度画面を見た。

『宝物探しの男の子の正体、で話したいことがある』

 そこでようやく、僕は外へ出ざるを得なくなった。
 外はうざいくらいに、晴れ渡っていた。

 *

「ひでー顔してんな」

 指定されたカフェに行き、藤田の向かいの席につくなり彼は開口一番そんな言葉を投げかけてきた。

「そういう藤田はいつも通りみたいだね」

「んなことねーよ。結構きてる」

 僕の軽口に、藤田は苦笑して答える。今朝鏡で見た僕の顔よりは随分とマシに見えるが、どうやらそうではないらしかった。
 そこで、藤田はそっと横目で隣に座る山下さんを見た。
 なるほど。
 山下さんは、それと見てわかるほどにやつれていた。俯き、髪に隠れていてよくはわからないけれど、目元や頬は赤くなっていた。あまり見るものではないと思って、僕はすぐに視線を逸らした。

「……それで? 僕に話したいことって、なに?」

 注文したアイスコーヒーが運ばれてきて、ひと口飲んでから僕は訊いた。

「いきなりだな」

「悪いけど、あんまり無駄話をする体力も気力も余裕もなくてさ」

 もう一度ストローに口をつけ、半分ほどを飲み干す。僕の心は急いていた。

「単刀直入に訊くよ。どうして、宝物探しの男の子について知ってるの?」

 宝物探し自体は、紬未は僕にしか話していないようだった。藤田や山下さんと一緒にいる時はその話はしなかったし、ましてや彼女が急に亡くなった今となっては僕以外知る人はいないはずだ。
 それに宝物探しだけならまだしも、藤田の口から「男の子」の話が出ることは完全に予想外だった。さすがに無視するわけにもいかず、傷の癒えてない僕はこうして今ここにいるわけで。
 僕がさらにアイスコーヒーを飲むと、ようやく藤田は口を開いた。

「さーてね。俺にはわからん」

「…………は?」

 またも予想だにしていなかった言葉を吐かれて、僕は三度瞬きをした。藤田は小さく肩をすくめる。

「俺は、俺たちは、頼まれただけだから。久空に。最後の宝物探しの、仲間としてね」

「なにを、言って……?」

「……グスッ、こ、これ……」

 戸惑う僕の言葉に返事をしたのは、それまでずっと俯いていた山下さんだった。彼女がおずおずと僕に差し出してきたものを見て、僕は息が詰まりそうになった。
 山下さんが差し出してきたのは、例の宝物の地図のコピーだった。

「どうして、これを……?」

「お盆明け、くらいかな。紬未ちゃんに呼ばれて、お見舞いに行ったんだ。そしたらこれを渡されて、頼まれたの。『もし私に何かあったらソウくんにこれを渡して。そして最後まで宝物探しを見届けてあげてほしい』って」

「なにかあったらって、え、え?」

 意味がわからなかった。紬未は交通事故で死んだ。予期なんてできるはずもない。

「詳しくは、私もわからないの。聞いたのは、とても重い病気で入院していることと、幼い頃に埋めた宝物を森川くんと探していることと、今どこまで進んでいるかの進捗だけで」

 そこで山下さんは言葉を区切ると、ちらりと横にいる藤田に目を向けた。

「俺も真奈美と同じだ。お盆明けくらいに、真奈美とはべつに久空に呼ばれた。病気のことも聞いて、マジで驚いた。久空自身も心配だったけど、なによりお前のことが心配だった。久空と一緒にいるようになって、ようやく森川が変わってきてたから。久空が死んだら、森川はどうなるんだよって思わず言っちまった」

 どこか悔しそうに一息で話すと、藤田はひとつ深呼吸をしてから続けた。

「そう言ったら、久空は笑って言ったんだよ。『もし私に何かあって、ソウくんが引きこもっちゃったら、宝物探しの男の子の正体で話がある、って言ってみて。きっと出てきてくれるから』ってな」

「だから、藤田は……」

「ああそうだ。お盆明けの補習で、思わずいらんことを言いそうになったけどな。それと、あとはほとんど真奈美と同じだ。宝物探しのこととか進捗のことしか聞いてない」

「え、え、ええ?」

 頭が混乱していた。情報量が多すぎる。
 紬未は自分になにかあった時のことを考えて、その保険として藤田と山下さんにあとのことを託した?
 藤田には僕を引っ張りだす役目を、山下さんには宝物探しを後押しする役目を?
 どうして、このタイミングで……?

「正直、俺らも唐突すぎてわかってないんだ」

「グスッ……うん、頼まれた矢先にこんなことになって、まるで、紬未ちゃんが……近くに、死ぬことをわかってた……みたいで……ううっ」

 涙ぐみ始める山下さんの頭を、藤田はゆっくりと撫でた。僕もなんとか自分の心を落ち着けようと、残ったアイスコーヒーを飲み干す。けれどそれだけでは足りず、僕は呆然と見慣れた宝物の地図を眺めた。

「あ、れ……?」

 そこで、違和感に気づく。
 宝物の地図の、左上。
 本来なら破り取られていてなくなっていた場所に、なにかべつの文字が書かれていた。

 ――最後の謎解きはね、『宝物は、希望の種にある』だよ。私たちの宝物をよろしくね、ソウくん!

 彼女の、紬未の明るくて無邪気な声が、聞こえた気がした。

「んで、宝物探しの当事者さん? 俺たちは久空から頼まれた役目は果たしたわけだけど、どうする?」

「グスッ、お願い、森川くん……紬未ちゃんのためにも、どうか……」

 落ち着いた山下さんと、見守るような眼をした藤田が、そろって僕のほうを見た。

「……うん、行こう。宝物を見つけに」


 バスに乗り、僕たちが目的の丘陵公園に到着した時にはお昼を随分と過ぎていた。
 一日で最も暑い午後二時をやや過ぎたころに、僕たち三人は汗だくになりながら木製の丸太階段を登っていた。
 ここに来たのは、資料室での手伝いをした後以来だ。あの時は紬未と一緒に来ることを想像し、幼い彼女との記憶を思い出したいと切に願ったものだった。そんなに昔のことではないはずなのに、もう随分と遠くに来てしまったみたいだ。

「ここ、たまに部活で来るんだよな」

「私も。坂をよく走らされるよね」

「へえ、体力トレーニングとか?」

「ああ。まさか、ここが宝物探しの場所だったなんてな」

 眼下に広がる金沢の街並みを後ろに、言葉少なく僕たちはひたすら登り続けた。あちこちに立ち並ぶ樹木からは蝉の声が絶え間なく響いており、夏の気配がより色濃く表れていた。
 そうして木々の隙間を縫い、木漏れ日に目を細めつつ登り切る。
 誰もいない見晴らし台は、白い雲と夏の眩しさを体現する太陽が近くに感じられた。

「ここが?」

「ああ、そのはずだ」

 ゆっくりと、見晴らし台の中央へと歩いていく。
 遥か彼方まで続く空の下。あの街のあちこちで、僕は紬未といろんな思い出をつくってきた。
 それらは、幼い頃に埋めた宝物から始まっていた。
 そうして今、その宝物を掘り起こそうとしている。
 本当は四日前に、紬未と一緒に来るはずだった。

「……最後の謎解きは、『宝物は希望の種にある』らしい。二つ目の謎、『終わりは一〇〇メートルの眺めの後ろ』とも合わせると、きっとこの雑木林のどこかなんだと思う」

「結構広いな」

「うん。もう少し、場所を絞らないとだね」

 丘陵公園というだけあって、見晴らし台の後方には右から左までたくさんの木々が植えられていた。しかも今は季節が夏ということもあり、どこも緑の葉が鬱蒼と生い茂っている。手掛かりを見つけようにも一苦労しそうだった。

「そういえば、紬未はなにかの木の根元って言ってたな」

「木の根元、か。その『希望の種』って言葉をそのまま受け取るなら、『希望の木の根元』ってことか?」

「でもよ、そもそも『希望の木』ってなんだ?」

「さあ」

 藤田と顔を見合わせ、唸る。紬未が残してくれた宝物の地図のコピーを見ても、具体的な場所までは書かれていない。勢い余ってきてしまったけれど、今日中に見つけ出せるのだろうか。
 でもきっと、紬未と一緒に来ても同じように悩んでいただろうな。
 それを思えば、近くに紬未がいるような気がした。そして同じように頭を悩ませて、「もうわかんないっ! もっと簡単に場所書いておいてよーー!」などと叫んでいるのかもしれない。
 一抹の寂しさを覚えながら自嘲気味に笑うと、それまで何事かを調べていた山下さんが「あっ」と声をあげた。

「ね、これ見て。もしかしたら、『希望の木』って樹言葉かも」

「樹言葉?」

「そう。樹木の花言葉みたいなものなんだけど。この丘陵公園にも植えられているみたいなの、その『希望』の言葉を持つ木が」

「名前、わかる?」

「うん、レンギョウっていうみたい」

 僕は急いで雑木林に駆け寄ると、それぞれの木にかかっている札を見て回る。ここの丘陵公園には、それぞれの木の幹や根本に名前やちょっとした説明書きが添えられていた。そこを見れば、どれがレンギョウかわかる、はずだった。

「これ、字が掠れてて読めないな」

 悔しそうに藤田がつぶやく。そうなのだ。多くの雨風にさらされ、腐食が進んでいる説明書きのほとんどは、文字が薄くなっていて何の木かわからなかった。

「どう、したら……」

 途方に暮れる山下さんの声が聞こえる。
 僕の心中にも悔しさが込み上げていた。
 こんな時もし僕が昔のことを思い出せていたら、と思わずにはいられなかった。
 そうしたらきっと、どこに埋めたのかすぐにわかるだろうに。
 トラウマを克服して、写真も抵抗なく撮れるようになっていたら、きっと……。

「あ」

 そこで、はたと思い至った。僕は急いで、肩にかけていたショルダーバッグをあさる。
 果たして、どこまでが偶然で、どこまでが彼女の思い描いた必然だったのか。
 紬未と撮影デートの約束をした日にいれたデジカメが、確かにまだそこにあった。

「……もしかしたら、最後の場所がここに写っているかもしれない」

「お、マジか!?」

「ほんとに?」

 期待に満ちた二人の声が聞こえる。
 でも、僕の手はデジカメを握ったまま動かなかった。
 電源ボタンが、押せなかった。

 ――ねえ、今度の日曜日にでも行こう!

 幼い頃の僕がねだる声。

 ――湊也、忘れ物ない? デジカメ持った?

 まだデザイナーをしていた優しい母の声。

 ――それじゃあ、行くか!

 もう二度と会えない、大好きだった父の声。

 ――次は宝物探し兼撮影デートだからね!

 快活に笑う、紬未の笑顔……。
 次々と、声が、笑顔が、あの事故の光景が、脳裏を過ぎった。
 紬未と一緒なら、と思っていれたデジカメが、やけに重く感じられた。
 そんな紬未は、もういない。彼女のいない四日目の世界で、僕がトラウマを乗り越えるなんて……。

「大丈夫だ、森川!」

「大丈夫だよ、森川くん!」

 その時、唐突に肩を軽く叩かれた。
 急に背中を優しくなでられた。
 見れば、紬未を通して仲良くなった二人が、両隣にいた。

 ――次は宝物探し兼撮影デートだからね!

 再び、彼女の笑顔が蘇る。紬未が近くで、僕を見ているような気がした。
 ……そっか。もうひとりじゃない、か。
 今さら当然のことに気づいて、僕は短く笑う。
 簡単なことだった。だから僕は、そっと電源ボタンを押した。
 懐かしい企業ロゴが画面に写り、デジカメが起動した。
 ゆっくりとボタンを押して保存された写真を見ていく。
 小さいころの僕と、死んでしまった父が、笑顔で映っていた。
 僕と母が映っていた。これは、水族館に行った時のものらしい。イルカショーやら様々な回遊魚の写真もあった。そういえば、母は水族館が好きで、あの頃はよく三人で行っていたんだっけか。
 すっかりと忘れていた思い出を噛み締め、僕はさらにその先へと視線を進めていく。
 心の底から幸せで、楽しかった思い出たち。
 ずっと忌避して、辛く悲しい思い出に変わり果ててしまったと思っていた。
 けれど今は、大丈夫だった。

「「「あ」」」

 百数十枚近くの写真を遡ったところで、僕らはほぼ同時に声を発した。
 そこには、一枚だけ写真があった。
 やや低い木をバックに、二人の子どもが並んで写真に写っていた。石の上かどこかに置いて自動シャッター機能を使ったのだろうその写真は、不自然に傾いていた。
 そして確かに、その木の幹には「レンギョウ」と描かれた札がかかっていた。写真の位置からしてこの木の場所は……

「っ!」

 僕は、一目散に駆け出した。
 近くの茂みのやや奥に隠れるようにして生えていた低木の根元。三日前の雨で柔らかくなっていた土を、必死で手で掘り起こした。藤田も山下さんも一緒に手伝ってくれた。手が泥だけになるのも構わずに、三人で僕らは掘り進めていった。

「あ、あった……!」

 それは、静かに土の中に埋まっていた。ビニール袋で何重にも覆われ、十年近い年月をものともせずにそこにあった。
 僕は震える手でゆっくりとその銀色の缶箱を穴の中から持ち上げた。宝物の地図が入っていたものよりもやや大きく、頑丈な造りをしているようだった。丁寧にビニール袋の結び目をほどいていき、ダイヤルロックに手をかける。

「番号、わかるのか?」

「宝物の地図に、書いてあった。紬未の落書き入りで」

 始まりは、小石のじゅうたんがあるところ。犀川の河原を指す川の横に、「かわらは07! 水かけ楽しかったね!」と水しぶきの絵が描かれていた。
 ダイヤルロックの左から二つを、「0」と「7」に合わせる。
 終わりは、一〇〇メートルの見晴らしの後ろ。高校の近くにある丘陵公園を指す山の横に、「きゅうりょうこうえんは21! 別の場所だったけど、やっぱり楽しかったよ! 最高!」とピースサインが描かれていた。
 ダイヤルロックの右から二つを、「2」と「1」に合わせる。
 カチッと金属音がして、鍵が外れた。
 ハンカチで手を拭いてから、おもむろに蓋をあける。

「…………――――っ」

 思わず、息を呑んだ。
 缶箱の中には、実にいろいろなものが入っていた。
 丸い小さな石が、数個あった。

 ――よしっ、宝探しの出発場所はここな! なんか謎っぽくしようぜ!

 ――謎って、どんなの?

 ――んーそうだなあ。ツグミはここ、どんな場所だと思う?

 ――えと、んーと……小石のじゅうたん、とか?

 ――いいな、それ! やるう、さっすがツグミ!

 そうだ。そうだった。確か僕たちは、一緒に遊んだ時に見つけた物を箱の中に入れていた。
 四つ葉のクローバーの押し花が、二つあった。

 ――やっと見つけた! 四つ葉のクローバー!

 ――やったね!

 ――よし、これを押し花して宝箱に入れとこうぜ。大人になっても幸せでありますように、ってな!

 ――大人に……なれるのかな。

 ――大丈夫だよ、ツグミなら。ほら、約束しようぜ。大人になったら絶対、二人で見つけに来ような!

 一緒に見つけたものはすべて宝物で、楽しい思い出で、またそれを大人になったら思い出そうって、約束していたんだ。
 ほかにもたくさん、たくさんあった。
 それらを手にとるたびに、次々と、陽気な声とか細い笑い声が、空から降ってきた。
 しかも缶箱には、それだけじゃなかった。
 裏紙にされた、彼女の遺書があった。

 ――いい加減やめろ。つか、なんだよその紙?

 ――え、これ? 私の遺書だけど。

 ――そんなもんでたたくな、なでるな。

 ――じゃあ、これの後ろに話し合いの内容メモしていこうよ。それで、わかる? 『小石のじゅうたんがあるところ』がどこか。

 ――待て待て。メモもするな。

 僕が紬未の書いた遺書を見つけて、そこから本格的に宝物探しが始まった。
 二つ折りにされた、夏休みの課題プリントがあった。

 ――ソウくんの教え方すっごく良かったよ! おかげで夏休み明けのテストはぐーんと良い点数がとれそう!

 ――あれだけの勉強でそんな簡単にとれるものでもないと思うけど

 ――もちろん自分で勉強もするよ。でもその時に、ああここソウくんが教えてくれたとこだーって思い出せるの。それだけで、やる気も理解度も段違いなのです。

 朗らかに笑う、紬未の表情が思い出された。好きだった。確かに僕は、彼女のことが好きだった。恋をしていた。

「おい、これって」

「あの時の水着、だね。もう紬未ちゃん、なんてもの入れてるんだろ」

 藤田と山下さんが苦笑する声が聞こえた。
 それに紛れて、また紬未の声が蘇る。

 ――私がこんなにも楽しいのはソウくんが一緒にいてくれるから。ソウくんのおかげなんだよ。

 そんなの、僕のほうこそだ。紬未がいてくれるから、僕は毎日を楽しいと思えるようになった。

 ――宝物探しも勉強も海に来ることも、とっても楽しい思い出になってる。だから、今さらだけどありがとね。

 僕のほうこそ、お礼を言いたかった。紬未にありがとうって、たくさん言いたかった。もっと素直に、なればよかった。

 ――大丈夫。ちゃんと教えるよ。少なくとも、私が死ぬ前には。

 そういえば、約束を違えられたっけ。僕は紬未からまだ、「思い出は希望の種」の意味を教えてもらっていない。教えてよ、紬未。もうわかっているけど、僕は、紬未の口から、その意味を聞きたかった。

 ――次は宝物探し兼撮影デートだからね!

「あ……」

 そうして、僕は見つけた。
 缶箱の一番下に、数枚の便箋があった。
 ひとつ唾を飲んで、開く。
 いつかのように、そこには『遺書』とは書かれていなかった。

『私の大切な友達と、大好きな人へ』

 夏らしい青空と雲の便箋は、紬未の人間性を体現する溌剌(はつらつ)とした文字で、彩られていた。

 *

『はじめに。これを読んでいるのは、私の大切な友達、マナちゃんと藤田くん、そして私が大好きなソウくんの3人だと思ってます。その前提で書いているので、もしそれ以外の人が読んでいたら、そっと元の場所に戻しておいてください。お願いします。

 さてさて、まずはおめでとう! まさか本当に宝物を見つけてくれるなんてね!
 隠した当人のひとりとして、すっごくすっごく嬉しいです!
 そしてこれが読まれているということは、きっと私は余命をまっとうすることなく死んじゃったんでしょう。
 もしそうなら、少しだけ残念だな。
 ごめん、うそ。
 すっごく残念。めちゃくちゃ残念。とにかく残念!
 できる限り長く、楽しい毎日を過ごしていたかったなーーーーー。
 まっ、いつ死んでも同じことを思うだろうから、あんまり意味はないかもしれないけどね。
 はい、そうです。この手紙はね、「私が宣告された余命よりも早くに死んじゃった時用のもの」です。
 きっと、驚いていると思う。
 ひょっとしたら、怒っているかもしれないね。「なに突然死んでるんだ紬未ーーー!」って(笑)
 でもね、人生きっとそんなもんなんだよ。
 余命を宣告されたからって、その余命が尽きるまで生きられる保証はないの。残り僅かな余命は、確実に生きられる命の期間じゃない。
 もしかしたら、突然病気が悪化しちゃうかもしれない。(これが一番可能性が高いと思う)
 もしかしたら、今この瞬間に隕石が私の病室に降ってきちゃうかもしれない。(これが一番可能性が低いと思う)
 もしかしたら、明日階段から落ちちゃうかもしれない。
 もしかしたら、ちょっと外に出かけた時に交通事故に遭っちゃうかもしれない。
 もしかしたら、私がいきなり人生に絶望して、自殺しちゃうかもしれない。
 もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら。
 そんなふうにあげていったら、私たちはいつ死んでもおかしくないの。
 命の価値が平等っていうのは、きっとこのことをいうんだと思う。
 だから私は、この手紙を書こうと思いました。
 私が思いがけず死んじゃった時に、私の周りにいてくれた大切なみんなになにも言えないなんて、悲しすぎるから。
 マナちゃんに藤田くん。私のいきなりのお願いを聞き届けてくれてありがとう。
 二人のおかげで、この手紙を届けることができました。本当に、感謝しかありません。
 そしてソウくんも。
 突然私が死んじゃったのに、最後まで宝物を探してくれてありがとう。見つけてくれて、すっごく嬉しいです。
 でも本当はね、二人で見つけたかったなあ。
 それが、一番の心残りです』

「そんな、そんな、そんな………紬未ちゃん……っ、つぐ、み、ちゃん………っ!」

 すぐ隣で、山下さんが泣き崩れた。藤田は黙ったまま彼女を抱きすくめる。
 衝撃の文言に、僕も言葉を失った。
 息がつまるかと思った。
 紬未は、近くに死ぬことをわかっていたわけじゃなかった。
 紬未は、いつ自分が死んでも後悔しないようにしていただけだった。
 紬未は、誰よりも真摯に死に向き合っていたからこそ、この手紙を残していた。
 僕はゆっくりと、二枚目の便箋に目を落とす。

『ここからは、個別に書いていきます。うまくまとまらないかもしれないけれど、許してね。
 マナちゃんへ。
 ソウくんに宝物の地図を渡してくれてありがとう。
 ソウくんが宝物を見つけるところまで見届けてくれてありがとう。
 きっと私がいきなり死んじゃって、混乱してるよね。そんな中、こんなことを頼んじゃってごめんなさい。マナちゃんにしか頼めなくて、甘えちゃいました。
 マナちゃんは、私の大切な友達です。マナちゃんはいつも臆病で不器用だとか言ってるけれど、私はそんなことないと思ってるよ。マナちゃんはね、とっても優しいの。相手のことをたくさんたくさん考えてるだけ。藤田くんとの関係だってそう。私から見れば二人とも明らかに好き合ってるし、正直じれったかった(笑)
 だからこそ、藤田くんドキドキさせよう海水浴大作戦(私が勝手にそう呼んでた)で恋人同士になったって聞いた時は嬉しかった。本当に心の底から嬉しくて、なにより羨ましかった。私には一生かかっても手に入れられなかった、眩しい幸せだから。
 マナちゃん。どうか楽しい毎日を過ごして、もっと幸せになってね。
 優しいマナちゃんなら、絶対ぜーったい大丈夫だから!
 もし藤田くんに嫌なことをされたら、ソウくんを差し向ければいいと思うよ。ソウくんには私がやれって言ってたって言えば、きっとなんでも協力してくれるだろうから(笑)
 本当に今までありがとう、マナちゃん。
 マナちゃんは、私の一生の友達で、親友です。
 天国から、ずっとずっと見守っています。大好きだーーーっ!!!』

「ぐすっ……うわああああああああああん……っ! 紬未ちゃん、つぐみちゃん……っ、つぐみちゃああああん…………っ!」

 紬未からの手紙を胸に抱いて、山下さんは泣き崩れた。
 繰り返し繰り返し、紬未の名前を呼んでいた。
 藤田はゆっくりと山下さんの背中をさすっていた。
 僕は、なにも言えなかった。

『藤田くんへ。
 ソウくんを部屋から引っ張り出してくれてありがとう。
 きっとソウくんのことだから、かなり面倒な理由とか屁理屈とかつけてたと思う。頑固で臆病なやつだから(笑)
 でもだからこそ、これも藤田くんにしか頼めなかった。他の誰でもない。ソウくんのことを気にかけてくれていた藤田くんだから頼めた。
 本当にありがとう。ずっとソウくんのことを気にかけてくれて、ありがとう。
 そうそう、ついでにもうひとつ。
 どうか、これからもソウくんのことを気にかけてあげてください。
 彼、ああ見えて結構寂しがり屋だから。お願いします。
 それとなにより、マナちゃんのことを大切にしてあげてね。
 マナちゃん、ずっとずーっと藤田くんのことを見てたんだよ。気づいてた?
 気づいてなかったでしょ。バーカバーカ!(笑)
 マナちゃんは優しいから、きっと藤田くんがこれからも無遠慮でバカなことをしても許してくれると思うよ。
 でも絶対に、絶対に絶対にぜーーーったいに甘えすぎたらダメだよ!
 マナちゃんのことを大切にして、楽しく笑わせて、藤田くん自身もたくさん笑って、どうか幸せになってね。
 天国からずっと見守ってるから。
 本当に今までありがとう!
 あ、マナちゃんみたいに大好きなんて書かないからね? 心底残念かもしれないけれど(笑)
 マナちゃんから大好きってたくさん言ってもらってください。あらまー照れちゃってーーこのこのーっ!』

「……ぐっ、あいつ……最後の最後まで、なにやってんだよぉ……っ!」

 藤田は声を押し殺して、繰り返し手紙を読んでいるみたいだった。
 それから山下さんのことを強く抱き締めて、泣いていた。
 それからなぜか、僕の背中をバシバシと叩いてきた。
 その強さは、今まで叩かれたどの強さよりも、強かった。

『そして、ソウくんへ。
 今、ソウくんはなにを思ってるのかな。
 いきなり私が死んじゃって、悲しんでくれてるのかな。
 あるいは、怒ってるのかな。もしかしたら、拗ねてるのかな。へこんでるのかな。さすがにスッキリしてる、なんてことはないよね? もしそうだったら泣いちゃうよ、私。えーん。
 ふふっ、なーんてね。冗談、怒らないで。
 どんな気持ちでもいいの。
 それがきっと、ソウくんの素直な心だから。
 その心のまま、どうか最後まで手紙を読んでください。

 ソウくんとは、本当にいろんなことがあったね。
 初めて会った時のこと、覚えてる?
 なーんて、木から落ちてきた女の子なんて忘れられるわけないよね(笑)自分でも思うもん、アホかって(爆笑)
 それから私がソウくんに難癖つけて、宝物探しに引きずり込もうとしたんだよね。蔵で宝物の地図を探してた時も上から落ちちゃって、あれはさすがにちょっとへこみかけたなあ。私の印象最悪だったらどうしようって(笑)(こらー、今さらだなんて言わない!)
 そしていざ宝物探しに本格的に引きずり込もうかって時に、うっかり落とした遺書を見られちゃうんだもんなあ。あれは焦ったよ。
 もしかしたら、私の本来の目的まで知られちゃったんじゃないかって。
 もう今だから言うね。この手紙が読まれてるってことは、たぶん私は直接言わずに死んじゃったんだろうし。(くそう)
 私の本当の目的はね、ソウくん、君にまた楽しいって笑ってもらうことだったんだ。
 じつは、この宝物を一緒に埋めた男の子っていうのは、ソウくんなの。
 小学校三年生の時に、親戚の家に遊びに来ていたソウくんと偶然出会ったの。その時私は、犀川の河原で泣いてたの。病気の治療が辛くて、いつか死んじゃう未来が怖くて。
 でもソウくんは、そんな泣き虫な私を元気づけてくれた。楽しい遊びをいっぱい教えてくれた。最初は気乗りしなかったんだけど、小さいころのソウくん強引でさ(笑)あちこち連れ回されちゃってる間に、いつの間にか私も楽しんでたんだよね。
 そして最後に、この宝物を埋めたの。一緒に遊んだ思い出をたくさん、埋めたの。
 大人まで生きられないって泣いてた私と、ソウくんは約束してくれた。
 大人になったら一緒に宝物を探しにこようって。
 それまできっと生きられるからって。
 今日たくさん笑えたから、これからもきっと笑える。
 今日笑えたのに、明日笑えないなんてことはない。
 笑っていれば身体は元気になって、大人まで生きられる。
 この思い出は私たちの宝物で、確かな証で、これ以上の楽しい思い出もこれからきっと築いていける。
 だから思い出は、希望の種なんだって。
 私は、この言葉に本当に救われた。この言葉のおかげで、ソウくんのおかげで、私はまた笑えるようになった。
 笑っていたら本当に身体も楽になってきて、あんなに悲しそうだったお父さんもお母さんも笑ってくれるようになった。
 私はソウくんとの再会を夢見て、高校生まで生きてくることができた。
 でも。いざ再会したソウくんは、すべてを忘れてるみたいだった。
 それだけじゃない。ソウくん、あんなに好きだったカメラを見て、すっごく辛そうにしてた。
 ほかにもずっとソウくんは苦しそうで、悲しそうだった。
 ソウくんの親が小学生の時に亡くなったことも知った。(友達から勝手に聞いてしまってごめん。)
 前の私みたいな表情をして苦しんでいるソウくんを、私は放っておけなかった。
 この宝物探しはね、恩返しなんだ。
 私に笑顔を思い出せてくれたソウくんに。
 私に生きる楽しさを教えてくれたソウくんに。
 私に大切な言葉と思い出をくれたソウくんに。
 私ができることを精一杯したいって、そう思ったの。
 だから、公園で話している時にソウくんが笑ってくれて、本当に嬉しかった。心の底から嬉しくて、泣いちゃいそうになった。
 それから宝物探しをして、たまには寄り道とかもして、また私はソウくんとの思い出をたくさん作れた。恩返しのつもりだったのに、ソウくんは私にまたたくさんの楽しさをくれた。思い出をくれた。幸せをたくさんたくさんくれた。
 そしてついさっき、ソウくんは補習をサボって入院している私のところに来てくれた。
 驚いちゃった。あとこの手紙、見られちゃったかと思ったよ。うまくごまかせたと思うけど、内心チョー焦ってたからね(笑)
 しかもソウくんが言ってくれた言葉が、私の耳の奥から離れてくれないの。
「紬未といる時間を、僕は楽しんでる」
「それから、紬未にはもっと楽しい時間を過ごしてほしい」
「だから紬未がしてほしいことで、僕にできることならなるべくしてあげたい」
 夢かと思ったよ。本当に、本当に、本当に嬉しかった。たくさん笑ってたのは、涙を誤魔化すためなんだ。笑ってごめんね。でも本当に、私は幸せだなあって実感したの。これだけでもう、私の人生勝ち組だよね(笑)

 あとね、もうこれも書いちゃう。
 恥ずかしいから、この手紙を読み終わったら忘れてね。
 私は、ソウくんのことが好き。
 大好き! 大好き大好きだーい好き!
 ソウくんがまた写真を撮ってくれて、それだけで幸せだったのにもう我慢できなくて、私はさっきソウくんに抱きついちゃいました。また心臓がバクバクしてきたよ。顔だって熱いよ。次会う時、どんな顔をすればいいかわかんないよ。
 本当にそのくらい、私はソウくんに恋をしてる。
 ソウくんは私に、恋まで教えてくれたの。
 もう私は、本当に幸せ。幸せ幸せ幸せ!
 本当はこれからももっと幸せになりたい。幸せを味わいたい。幸せをソウくんと共有したい。
 今度は二人っきりで海水浴に行きたい。
 二人で花火大会に行きたい。
 二人でお買い物したい。
 二人で水族館に行きたい。
 二人で紅葉狩りをしたい。
 二人で文化祭を見て回りたい。
 二人で雪を見たい。
 二人で温かいミルクティーを飲みたい。
 二人でクリスマスを過ごしたい。
 二人で新しい年を迎えたい。
 本当は二人で、卒業まで過ごしていきたい。ううん、卒業のその先も、ずっとずっと一緒にいたい。
 でも、それは叶わない。(涙やばい。にじんで読めなかったらごめん。)
 もう私は、この世界のどこにもいない。
 でもね、私の大好きなソウくんはこの世界にいる。この世界に生きてる。
 どうか、私との思い出を胸に、この世界を生きていってください。
 私と楽しい思い出をつくれたんだから、これから先の人生でもきっとつくれるはずだよ。
 思い出は、希望の種なんだから。
 もちろん、それをつくれるかはソウくん次第。
 だからどうか、お願い。
 ソウくん、幸せになって。
 恋人や、ほかにも友達をたくさんつくって、もっともっと、幸せになって。
 ソウくんが幸せに生きていてくれたら、私は天国でも笑顔でいられるから。
 そしていつか、ソウくんがおじいちゃんになった時に、私にたくさん思い出を話して聞かせてください。
 その時は私が、お腹を抱えて笑ってあげるから!
 本当にありがとう、ソウくん。
 私の大好きなソウくん。
 さよならなんて、そんな悲しい言葉は書きません。
 ずっとずっと見守って、待ってます。
 ありがとう、ありがとう。
 ありがとうーーーーーーーー!!!!!

 久空紬未より』

「…………」

 前が、見えなかった。
 紬未が死んだと聞いた時も、紬未の葬式に行った時も、紬未との記憶を思い出した時も、涙は出てこなかったのに。
 視界がにじんで、仕方がなかった。
 もうなにもかもが、限界だった。

「あああぁぁ……っ……! ああああああああああああああああああっ…………!」

 僕は泣いた。
 みっともなく泣いた。
 夕陽が照らす丘陵公園の頂上で、僕は恥ずかしげもなく大声で泣きじゃくった。
 ずるいと思った。
 言いたいことをすべて手紙に託して、用意周到に準備まで整えて、しっかりと伝えて、彼女は逝ってしまった。
 死と真剣に向き合った、覚悟の違いだった。
 僕はもう、彼女に伝えることができない。
 紬未に気持ちを伝えることもできない。
 僕がなんとなく宝物の地図に既視感を持っていたことも伝えられない。
 僕も紬未との日々をどれほど楽しいと思っていたかも伝えられない。
 僕も紬未のことを大好きだと思っていたことも、伝えられない。
 泣いた。泣いた。とにかく泣いた。
 紬未の声が、匂いが、笑顔が、鮮明に思い出された。
 もう紬未の声を聞くことはできない。
 もう紬未の匂いを感じることはできない。
 もう紬未の笑顔を間近で見ることはできない。
 どれほど願っても、泣いても、叫んでも、僕は紬未に気持ちを届けることはできない。
 その現実をようやく、ようやく実感して、受け入れて、認めることができて、僕の強がりの仮面は粉々に砕かれた。

 僕たち三人は、声が枯れるまで、身を寄せ合って泣いていた。
 必ずこの悲しみを受け入れて、紬未との思い出を胸に抱いて、また笑って前を向くからと、心の中の彼女に約束をしながら。

 ――思い出は、希望の種なんだよ!

 誰かが言った。
 本当に、その通りだと思った。