お盆間近の土曜日。
 僕は、もう二度と来ないと勝手に誓っていた中央病院を訪れていた。
 ここは、僕の父の最期を看取り、母が定期健診を受けに来ている病院だ。僕自身はあの事故での打撲が治って以来、この病院には一度も来たことがなかった。僕は嫌な記憶が濃密に詰まったこの病院を毛嫌いしていた。
 けれど、今日はそうもいかなかった。
 久しぶりに訪れた外来で受付をし、案内されるがままにエレベーターに乗って五階を目指した。消毒液の匂いをくぐり、台車を押す名前も知らない看護師さんに会釈をしながら、僕は奥まったところにある病室に向かう。
 なんの因果か、紬未が通院し、治療を受けている病院もここだった。

「ふう……」

 いやに小綺麗なドアの前に立ち、僕はひとつ深呼吸をする。目的の病室はすぐに見つかった。個室なのかネームプレートはひとつしか入れるところがなく、そこには確かに「久空紬未」と名前が書かれていた。
 ひんやりとした冷房の風に背中を押されて、僕は重厚そうなドアの中央をノックする。

「はいはーい」

 返事はすぐにあった。促されるがままに、僕はゆっくりとドアを開けて中に足を踏み入れた。

「……え」

 ここに来るまでに、僕はいろいろな覚悟をしていた。
 肝臓に大病を抱え、余命僅かとなった彼女が入院をしたのだ。それは確実に、病気の悪化を意味する。もしかしたら、得体の知れない管や呼吸器に繋がれて、思わず目を背けたくなるような光景すら想像した。
 いや、いきなりそこまでは行かずとも、もしかしたらひどく弱った彼女の笑顔を目の当たりにして、聞きたくないような現実を突きつけられることを想定していた。僕が絶句する姿を見て、「仕方ないんだよ」と弱々し気に笑う紬未の笑顔を、何度も夢に見たくらいだ。
 そんな数十にも及ぶ脳内シミュレーションをしたにもかかわらず、僕が今ドアを開けて目の当たりにしたのは、そのどれもに当てはまるものではなかった。

「すこーしそこで待っててね……今、すごく大事なところだから……」

 これまでに聞いたことのない慎重な彼女の声。あんなに無邪気で明るくはしゃぎ回っていた時の高らかさは微塵も感じられない。むしろドキドキと心臓の鼓動が高鳴ってしまうような緊張感が、彼女の声には含まれていた。
 ごくりと彼女は喉を鳴らし……最後の一段である頂上に、トランプの山を立てた。

「「あ」」

 その時、僅かにベッドが揺れた。理由は定かではない。しかし確実にベッドが振動して、その揺れが伝わり彼女の眼の前に積み上げられていた建造物は脆くも崩れ去った。トランプタワーは、失敗した。

「ああああーーーー! もう少しだったのにいいいいいーーーーー!」

 咆哮のような叫び声が僕の鼓膜を衝き抜け、咄嗟に僕は後ろ手にドアを閉めた。あんな声を、他の患者さんに聞かせるわけにはいかないと反射的に考えた結果だった。それが功を奏したのか、額に汗を浮かべた看護師さんが慌てて病室に駆け込んでくるといった事態にはならなかった。
 ……いや、そうじゃなくて!

「え、紬未、なにしてんの? 病気が悪化して入院してたんじゃないの? なにベッドの上に立って壮大なトランプタワーを建造してんの? あと声大き過ぎだし、ここは病院なんだからもっと抑えてほしいんだけど」

「質問と注文が多い! どれかひとつにして!」

 僕が勢い余って矢継ぎ早にした質問は、ベッドの上で悔しがる紬未に一蹴された。

「じゃあ一番大事なこと! 紬未、病気は大丈夫なの!?」

「大丈夫! 多分!」

 大丈夫らしかった。それじゃあ一安心、とはなるはずもない。
 紬未から入院したと連絡があってから五日が経過していた。その間、僕は人生で初めてと言っていいほどスマホをいじり倒していた。

『入院って、いつまで?』
『んー今のところ未定! わかったら教えるね!』

 一日目も。

『もしかして、病気が悪化したの?』
『んーまだそうとも言い切れないんだよね。精密検査次第というか』
『じゃあお見舞いに行くよ』
『ごめん、今はまだ無理なの! 土曜日くらいなら大丈夫だと思う!』
『じゃあ土曜日の午後から行くね』

 二日目も。

『来る時さ、お菓子持ってきてよ』
『いいよ、なにがいい?』
『チョコレート系がいいなあ。死ぬまでにお腹いっぱい食べてみたいくらい好きなの』
『死ぬなんて言わないでよ』
『あれー? もしかして心配してくれてるのー? んふふふっ、このこのー』
『心配してるんだから、ふざけないで』
『ひょえーはあーい』

 三日目も。
 四日目も、五日目も。
 僕は普段ほとんど見ることのないメッセージアプリを開いたり閉じたりしていた。
 そうしてようやく面会の許可が彼女から降り、面会可能時間と入院している病院名を教えてもらってお見舞いにきたわけだ。精密検査で使う薬の副作用もあって、連絡がなかった一昨日と昨日の日中はじつにやきもきとしていた。昨日の夜に検査が無事に終わったことを教えられた時は、心の底から安堵した。もちろん、紬未本人には言っていないけれど。

「あ! もしかしてそれがお菓子?」

「そうだけど」

「やったー! ありがと、ソウくん! 病院食って薄味すぎて物足りないんだよねー。ほら、一緒に食べよ!」

 めざとい彼女に見つけられ、僕は手に持っていた紙袋の中からお菓子を取り出す。どうやら肝臓が蝕まれても食べたいほど甘いものに目がないようなので、近所の洋菓子店で作られているチョコレート菓子を買ってきた。そのお店はあまり知られていないわりにはとても美味しく、きっと紬未も気に入るだろうと思ったのだ。
 そして案の定、僕の手から菓子箱を受け取った紬未は、プレゼントをもらった幼子のように目を輝かせて箱を開け、すぐさまそのうちのひとつを口に放り込んだ。

「んーーーーーっ! 美味しいーーーっ! 久しぶりすぎて涙出るううーーー」

 頬に手を当ててじつに恍惚とした表情を浮かべる紬未の目尻には、本当に涙が溜まっていた。「涙が出る」と言って本当に泣いてる人は珍しい。というか、そんなに美味しかったのか。

「久しぶりって言っても五日ぶりくらいだろ? 先週の日曜日はかき氷食べたんだし」

「五日も食べてなかったら充分久しぶりなの! 病気のせいでたくさんは食べられないし! はぁぁぁーー生き返るーーー」

 大げさな、なんて正直思いはしたけれど、紬未が喜んでいるようなのでよしとした。こんなに喜んで食べてくれるなら買ってきたかいがあるものだ。
 けれど、そんな嬉々として元気に振る舞う彼女を見ても、僕の心はいまいち晴れなかった。もちろん原因も、わかっている。

「……それで紬未、体調はどうなの?」

 壁際の丸椅子をベッド脇に移動させて腰掛け、僕は訊いた。紬未は「今日はこれで終わりっ」と本日最後のチョコレートを食べ終えてから僕を見る。

「んーー? 元気だよ、フツーに」

「そんなわけないでしょ。入院までしてるのに」

「いや、ほんとに元気なんだよ。沈黙の臓器って言われるだけあって、怠さとか痛みとかなんにもないの。それが逆に怖いんだけどね」

 紬未はチョコレートが入っていた包み紙を丸めると、窓際のゴミ箱めがけて投げた。包み紙は放物線をえがき、小気味良い音とともに中へ吸い込まれていった。

「私ね、いつも一週間に一回検査してるの。今週の月曜日にも行ったんだけど、結果があんまり良くなかったみたいで。それで少し入院することになったんだー」

「昨日言ってた精密検査のためか」

「そうそうー。来週もべつの検査しないとなんだよねー。あーあ、夏休み丸潰れだーーもうーー」

 紬未は不満げにシーツをたたく。そりゃ紬未のようなアクティブな人にとっては二週間以上も病院で缶詰めなんて地獄でしかないだろう。

「宝物探しもさー、あとちょっとのところまで来てるのに。現地に行けないと探せないじゃない」

「まあ宝物は逃げないし、検査が終わってからまた探しに行けばいいだろ。見つかるまでは、僕も付き合うからさ」

 なるべく深刻に捉えすぎないように軽い調子で言うと、にんまりと紬未は笑う。

「あららー? 珍しいー。やっぱり探してるうちに宝物がなにか気になってきちゃったとか?」

「べつにそういうわけじゃないけど」

「もうー素直じゃないなあーー。本当は気になってるんでしょ?」

「もうそういうことでいいよ」

 いつもならうんざりしているところだが、今日ばかりは違った。紬未が調子良くイジってきて、僕が適当に答える。そんな何気ないやりとりを、少しばかり嬉しく感じていた。
 それから紬未はなにかのスイッチが入ったように、宝物探しのことや一緒に埋めた男の子のことを話していた。なんでも最近、よくその時のことを夢に見るらしい。夢の中で彼女は泣いていて、鼻をすすりあげていると必ずその男の子がやってきて笑わせてくれる場面だそうだ。昔の僕はそんなに男らしいことをしていたのだろうかと不安になるほどに、彼女の思い出にある男の子は美化されていた。
 そして、もうひとつ。どうやら宝物を埋めたのはどこか高いところにある木の根元で、よくある四桁のダイヤルロックで鍵をかけたとのことだった。

「そんなに大きな木じゃないんだけど、葉がたくさん茂っててね。夢の中で私は、その男の子とシャベルで穴を掘ってるの。すぐに近くには鍵のかかった銀色の缶箱があったんだ」

「鍵って、大丈夫なの? 開けられる?」

「んーたぶん大丈夫じゃない? いざとなったら壊せばいいんだし」

「脳筋すぎるよ。あと銀色の缶箱って、あの宝物の地図が入ってたのと同じやつ?」

「んーん、あれとは違うものだよ。にしても、あははっ、よく覚えてるねー! あっちはね、私の好きなクッキーが入ってた缶箱で、家にたくさんあったものなんだ。あの頃は辛いことがあったらすぐ缶箱に入ったクッキーを食べててね、よく食べ過ぎて怒られちゃったんだよね~」

 ケタケタと思い出し笑いをしつつ、紬未は終始楽しそうに子どものころの話もしていた。もっともそこでわかったのは、昔はよく泣いていたけど今はよく笑うようになったことと、昔も今も甘いものには目がないことくらいだった。
 そうして話は脱線に脱線を重ね、病気のことを知らなかった時期の彼女はスーパーマンになることが夢だったという話をしたところで面会終了時刻となった。

「うわあ、もうこんな時間かあ。ねえ、またお見舞いに来てくれるよね? ね?」

「うん、来るよ。そんなに寂しいなら明日も来てあげようか?」

「言ったね!? じゃあ明日も来てよ! あ、午前は親来るから午前に来てね!」

「なんでだよ、午後に来るよ」

 話し相手に飢えていることが丸わかりな紬未の表情を見ると、なるべく相手をしてあげたいと思った。……いや、もしかしたら、僕がただ一緒にいたいだけかもしれない。まあそれでも、さすがに紬未の親と鉢合わせる度胸も勇気もないけれど。
 そんな会話を区切りに、僕は荷物を持って立ち上がった。病室の窓から見える太陽は低く、橙色の淡い光が病室へ降り注いでいた。
 病院は嫌いだけど、なるべく来るようにはしよう。
 僕がそんな決意を固め、病室の出入り口へ向かおうとしたところで、ふいに腕のあたりに違和感があった。

「ねえ、ソウくん」

 紬未だった。紬未が、僕の袖を掴んでいた。

「ありがとね」

 夕陽を背に受けて、彼女は微笑んでいた。いつもの快活とした笑みでもなく、僕をからかうような小悪魔的な笑みでもない。
 本当にただ、小さく口元を綻ばせていた。
 その笑顔を見て、僕は悟った。
 やはり、彼女の病気は悪化しているのだと。
 きっと、大丈夫などではないのだということを。
 僕と紬未が過ごす時間は、決して多くはないのだということを。
 そしてそれは、逆説的に僕の心の奥底にある気持ちを強めてしまった。
 僕はやはり、紬未に生きてほしいと思った。死んでほしくないと思った。可能な限り長く、紬未の満面の笑顔を見ていたいと思った。
 僕はやはり、紬未のことが好きなんだと思った。

「……うん。どういたしまして」

 僕は、それだけ言うのがやっとだった。

 *

 余命僅かな人を好きになってしまった時、どうするのが正解だろうか。
 僕はここ数日、一生考えるはずのないことを必死に考えていた。
 そう、一生考えるはずのないことだった。僕が彼女を、紬未を好きになるだなんてあるわけがない、そのはずだった。

「ソウくん! 今日も来てくれたんだ!」

「え……と、その」

「どうも、はじめまして。紬未の母です。あなたがソウくん? いつも紬未から話に聞いてます。仲良くしてくれて、ありがとうね」

 翌日。予定通り午後に僕が紬未の病室に行くと、いるはずのない紬未の親がいた。紬未の母親は、彼女によく似て人懐っこい笑みを終始浮かべていた。彼女の母親が帰った後に問い質すと、ただ単に引き合わせてみたかったのだと悪戯っぽく笑っていた。僕はまた、彼女に振り回されたのだと自覚して肩をすくめた。
 本当に紬未は、出会った時から変わっていない。
 いつも無邪気な笑顔を振り撒いていて、押しに弱い僕をあっちにこっちにと振り回している。その理由を訊けば楽しみたいからだと純真無垢な笑みを浮かべて語り、僕はその根底にある彼女の考えを知りたいと思って一緒にいることにしたのだ。
 危機感はあった。いつか悲しみに変わる楽しい思い出を作りたくない僕にとって、紬未の性格は天敵そのものだったから。けれどまさか、僕が紬未のことを心から好きになることまでは想像できなかった。
 そしていざ好きだと自覚すると、僕は、どうしたらいいのかわからなかった。

「よーっす、久空。元気してるかー?」

「こんにちは、紬未ちゃん。盲腸で入院なんて、大丈夫だった?」

 紬未の母親と鉢合わされてから数日後。お盆を過ぎたあたりに、僕は紬未のお願いもあって藤田と山下さんを連れ立ってお見舞いに訪れた。紬未と相談した結果、二人には盲腸で入院しているということにしておくことにした。いつかは話さないといけないけれど、やはりギリギリまでは隠しておきたいらしい。

「おーおいでなすったなー、二人とも! 甘々とろとろの惚気話をぜひ聞かせてよー」

「はあっ!?」

「ええっ!? そ、そんなのないよ……!」

 二人が来た時も、紬未は通常運転だった。
 藤田と山下さんは海水浴で想いを伝え合ったあと、夏休みを利用してあちこちにデートに行っているらしい。これまでどことなく疎遠になっていた反動もあるのか、ほぼ毎日会っているのだそうだ。紬未は変わり映えのない退屈な入院生活のストレスを発散するように、矢継ぎ早に藤田や山下さんに質問しまくっていた。山下さんは顔を赤くしてあわあわしており、藤田は「これくらい付き合ってるなら普通だろ!」と同じく顔を真っ赤にして叫んでいた。僕は傍からそんな様子を眺めつつ、藤田たちの顔から湯気が出そうなタイミングで紬未をたしなめていた。
 これがきっと、普通の高校生の恋愛なんだろう。好きだと自覚してから、気持ちを伝えるか悩んで、どうやって伝えるか悩んで、親しい人に相談して、協力をとりつけつつなんとか気持ちを絞り出す。不器用でも、不格好でも、後悔のないように行動した結果、藤田と山下さんは結ばれることができた。理想的な、青春恋愛だ。
 僕の場合は、どうしたらいいんだろう。
 そもそも僕と紬未は、イレギュラーなことが多すぎる。
 まず、気持ちを伝えるべきかどうか。これはわかっている。伝えるべきじゃない。今を楽しく生きるのが紬未の信条だ。もし僕が紬未に好意を抱いているなんて知られたら、紬未は笑ってからかってくれるかもしれないけれど、きっと内心では困らせてしまう。受け入れられるはずもなく、拒絶するという行動を取らせてしまえば、おそらく今までのようにはいられない。気まずくなって、疎遠になって、ある意味で僕が当初望んだような距離ができてしまうだろう。なんて笑えない。
 あとはそう、もし僕が紬未と一緒に宝物を埋めた男の子ならば、そのことを紬未に伝えるかどうか。これは正直わからない。宝物探しを手伝うことになった当初は正直どっちでもよかった。確信もあまりなかったし、そもそも宝物探し自体はどうでもよかったから。
 けれど、最近は違う。紬未と一緒に過ごすようになって、不本意ながらも考え方を変えられて、紬未と過ごした記憶を思い出したいと思えるようになった。そして紬未と、その時のことについて話してみたいと思った。思っていた。
 ただ、僕は紬未との日々を楽しく感じるあまり、彼女の病や余命のことを忘れかけていた。彼女との日々を楽しみすぎていた。そのことを、紬未の入院によってまざまざと突きつけられた。
 紬未との記憶を思い出したとして、果たして僕は今、楽しく紬未と話せるだろうか。病気に苦しむ紬未が前を向くきっかけになった男の子像とはかなりかけ離れている。病気が悪化した今、夢に見るほどに拠り所としているなら、その正体が僕だなんて明かしてどう思うのだろうか。
 まあ、そもそも明かすかどうかは僕が思い出してからだ。自分自身のトラウマも克服していない今、僕は彼女に下手なことを言うべきじゃない。今の僕にできることは、空いた時間を利用して紬未の話し相手になることくらいだ。

「あーあー! 私もデートしたいなあー!」

「だってよ、森川。久空が退院したら、退院祝いにどっか連れてってやったらどうだ?」

「おーいいね~! ソウくん、どこ行こっか?」

「この前海に行ったばかりだけど。それに退院祝いならここの四人で行かないと」

「わ、私たちに気を遣わなくても、大丈夫だよ?」

「そうそう。遠慮せず行ってこいって!」

「うんうん、ソウくん。思う存分、私の退院を祝ってよ」

「なんなの、みんな」

 そんな会話をしてからさらに三度、僕はひとりでお見舞いに行った。
 紬未はそのたびに嬉々として喜んでくれた。
 けれど、紬未の口から「退院」の二文字が出ることは、ついになかった。

 *

 お盆が過ぎ、八月も終わりに近づいていた。
 夏の盛りは終わりへと近づいているのに、空から僕らを見下ろす太陽の光は相変わらず容赦がない。僕は額や背中に汗をにじませながら、後半の補習に参加するべくやや久しぶりとなる教室に足を踏み入れた。

「おーす、森川。おはよさん」

「あれ、藤田。珍しいね、こんな朝早く」

 朝の喧騒に紛れて思いがけない声が聞こえてきて、僕はつい目を丸くした。
 紬未が入院してから、僕はいつもより一本前のバスに乗り、早めの時間に登校するようにしていた。なんとなく、いつもの時間に紬未が待っていた街路樹の前を通ることがはばかられたからだ。そのせいもあって、始業時間ギリギリに来る藤田と鉢合わせすることはなくなっていた。
 しかし、今日の藤田は僕よりも早く学校に着いている。なぜだろうか。
 何気なく尋ねた僕の問いに、藤田は小さく肩をすくめた。

「なーんか早くに目が覚めてな。せっかくだから早めに学校に来て森川と話そうかなって思ってさ」

「僕と?」

 変なやつだ。早く来て僕と話すくらいなら、同じ町内に住んでいるらしい山下さんと一緒にのんびり登校したらいいのに。

「そそ、たまにはいいだろ。最近の森川は久空にとられてばかりだからな」

「べつにとられてるわけじゃないけど。それで、なに? そう言うからには、なにか話したいことがあるんだろ?」

「ああ。ぶっちゃけ訊きたいのは、久空のことだ」

 ピタリと鞄から教科書を取り出す手が止まる。また思いがけない言葉が飛び出してきた。僕はなるべく平静を装って訊き返す。

「紬未が、なに? また退院祝いデートがどうとかって話?」

「いや。久空ってさ、ほんとに盲腸で入院してるのかって話」

「は?」

 予想外の問いに、心臓が嫌な音を立てた。意図せず手に汗が滲み始める。

「久空が入院してそろそろ二週間だ。盲腸ならあとしばらくもすれば退院だろ? なのに、最近の森川はどこか元気がないからな」

「……そうか?」

「あとはこの前のお見舞い行った時、ずっと浮かない顔してたよな。それに心配そうに久空のことをチラチラと見てた」

「……そんなことないと思うけど。というか藤田、僕のこと見過ぎじゃないか。僕じゃなくて山下さんのほう見てればいいのに」

「そんな軽口も余計に怪しいんだが?」

 誤魔化そうにも、藤田は口の端を吊り上げて逃してはくれなかった。その表情は笑っているように見えるのに、目はまったく笑っていない。
 ……けれど。

「……心配はしてるよ。紬未のことは、本気で気になってるから」

 僕はなるべく同じ調子で小さくつぶやいた。僕の言葉に、藤田は驚愕で目を見開く。

「マジで?」

「マジで」

 僕の口から、彼女の病気を言うわけにはいかなかった。そのためなら僕の気持ちだって話してもいい。藤田のことだから山下さんには言っても紬未には言わないだろうし、山下さんも友達とはいえ紬未本人には言わないはずだ。
 僕の決死の逃げの策に、藤田はまんまと引っかかった。

「おおお、ままマジか! いや、もしかしてとは思ってたけど、マジか!?」

「だからそうだって」

 僕がイラつき気味に返事をすると、藤田はここぞとばかりに肩を組んでくる。

「そう恥ずかしがるなって。俺も他人のこと言えんけど、気持ちは痛いほどわかるからさ」

 わかってない。僕の気持ちなんて、わかるはずがない。

「……わかるならそっとしといてくれない? 藤田と違って、僕の気持ちはまだ決まってないんだから」

「おお、わりーわりー」

 藤田はなぜか嬉しそうに謝ると、パッと手を離した。僕は乱れたシャツを整え自席に座る。
 自分から話題に挙げておいて、なんだか無性にイライラとした。捨て身の作戦は文字通り、僕の心を掻き乱した。
 藤田にも言った通り、僕の気持ちはまだ決まってない。
 紬未とどう接すればいいのか、行き場のない僕の気持ちをどうしたらいいのか、紬未のためになにができるのか、わからない。
 そんな迷いをずっと考えていると、ふいに思う。
 もしかしたら、最初に僕が思った通り、距離をとるのがいいんじゃないかと。
 紬未は大人になる前に亡くなってしまう。少なくとも、僕より先に死ぬ確率は圧倒的に高い。もしこれ以上一緒にいて、彼女のことを想う気持ちがさらに強くなろうものなら、紬未が死んでしまった後の悲しみは計り知れない。僕はまた、大切な人が死ぬ悲しみなんて味わいたくない。それなら、紬未との宝物探しをさっさと終わらせるか、下手な芝居でも打って喧嘩して、僕のことを嫌いでもなんでも思ってもらって、それでさよならしたほうがずっといいんじゃないか。
 紬未は僕なんかよりぜんぜん強いし、すぐに新しい楽しみを見つけてくれるだろう。それにこれ以上親しくなると彼女自身、死ぬ直前に苦しい思いをしてしまうかもしれない。悲しくなってしまうかもしれない。そんなものは、なるべく少ないほうがきっといいはずだ。だから、だから。心は痛むけれどお互いのためを思えば、これ以上悲しくなることはきっとない、離れるという決断をしたほうがいい……はずだ。

「……」

 じくじくと胸の中心が痛む。こんなことを考えてみても、僕の心は今一つ決めきれていない。なんともまあ優柔不断で情けないことだろうか。そんな自分に嫌気がさしてきて、さらにひとつため息をつく。
 するとそこへ、なにかが飛んできた。

「いたっ!?」

 額への急な衝撃。もっとも、思わず「痛い」と言ってしまったが、そこまで痛くはない。床へ転がり落ちたそれに目を向ければ、小さく丸めた紙切れだった。

「藤田、なにすんの?」

「なんかよくわかんねーけど、難しく考えすぎだろ、バーカ」

 さすがに怒りを覚えて、投てきした本人、藤田を睨みつけると、呆れたような罵倒が返ってきた。

「眉間にしわ寄りすぎ。さすがの俺もそこまで深刻に考えてはねーわ。お前、マジでなにに悩んでんの?」

「……っ、それは」

「あー言わなくていいよ。どうせ言いたくないんだろうし。ただな、前の森川もそうだったけど、いつもいろいろと考えすぎなんだよ。頭がいいぶん、納得のいく答え出さないと行動できないんだろうけど、そんなんじゃ手遅れになるぞ」

 藤田はゆっくりと近づいてきて、僕の足元に転がった紙切れを拾う。

「なにに悩んで足踏みしてるのか知らねーけど、森川のやりたいように、森川にできることをやりゃーいいんだよ。結果なんてもんは後回しだ」

 ひと息に言い切ると、藤田は丸めた紙切れを教室の出入り口近くにあるゴミ箱めがけて思いっきり放った。いつかのチョコレートの包み紙のように、紙切れは口を開けた穴へと入っていく。

「森川はさ、ほんとはどうしたいんだよ」

 ハッとした。そして無茶苦茶だと思った。
 自分の中で答えを見つける前に、やりたいように行動する? 結果は後回し?
 見切り発車すぎる。危険すぎる。それで失敗したら後悔しか残らないんじゃないのか。

「……僕は」

 なるべく先のことまで考えて、なるべく自分や相手のためになる方法を模索して、多少の犠牲や我慢は承知の上で決断して……それが、ベストなんじゃないのか。

「ほんとのお前がやりたいようにやれよ、森川湊也」

 軽快な音を立てて、僕の背中が叩かれた。と同時に、補習開始の予鈴が鳴る。
 気がつけば、僕は鞄を引っ掴んで教室から飛び出していた。


 僕は今まで、それなりに真面目な人間として過ごしてきた。
 人との関わりを極力少なくしようとしているのだから、せめて勉学くらいは真面目にやっておこうと、そう思った。
 それがどうだ。友達、と呼べるのかわからないクラスメイトに鼓舞され、自分でもなにかわからない感情に急き立てられるように僕は授業が今まさに始まろうとしている学校をあとにしていた。そのまま僕は快晴の空の下を汗だくになりながら小走りに駆け、普段登下校に使うのとはべつのバスに乗った。
 涼しい車内で息を整え、後方にある誰も座っていない二人掛けの席に腰を落ち着ける。どうにか気持ちも落ち着けてみようと何度か深呼吸をしてみるも、胸のあたりに巣食うもやは一切晴れてくれなかった。そうこうしているうちにバスは僕を目的地へと運んでくれた。いくぶんか冷静になった頭で僕は降車ボタンを押し、乗車料金を払ってアスファルトの上に降り立つ。
 ふわりと、消毒液の匂いが香った気がした。
 もちろん気のせいだろう。こんなところまで、匂いが漂っているはずがない。
 僕は、夏空の下にそびえたつ中央病院を見上げた。
 ここまで来たら、あとには引けない。僕は夏の熱気を含んだ風に背中を押されながら、いやに小綺麗な自動ドアをくぐる。リノリウムの床を踏み締め、ここ最近では顔なじみになりかけている受付の看護師さんと挨拶を交わし、僕は彼女のいる病室へと向かった。
 数回きてすっかり慣れてしまったと思っていたのに、心臓はバクバクと早鐘を打っていた。これは何に対する緊張なのか、わからなかった。答えも出そうにない。ゆえに考えても仕方ないので、ここは藤田の言葉を免罪符に行動することにした。

「どうぞー」

 病室のドアを三回ノックをすると、室内からはやけに落ち着いた声が響いてきた。僕はやや驚きつつも、僕の知っている彼女の声には違いなかったので中に入る。
 直後、涼風が僕の顔を撫でた。
 夏の日差しが差し込む病室。白のカーテンが心地よさそうに揺れている。
 そして日差しの先には、紬未がいた。
 紬未はベッドから上半身を起こし、ベッドテーブルの上でなにかを書いていた。開け放たれた窓からまた微かに風が吹いて、彼女の黒い髪がたなびく。
 静かだった。そこだけまるでゆっくりと時間が流れているみたいな、落ち着いた空気が漂っていた。

「……あれ」

 病室へ入ってきた訪ね人がなにも言葉を発さないことを不思議に思ったのか、彼女は手を止めてこちらを見た。自然、僕と目が合う。
 沈黙が下りた。僕らの間にここまでしっかりとした沈黙がおとずれたのは、初めてだった。それは紛れもなく、紬未がなにも言葉を発していないからだった。
 でも、今日ここへ訪ねてきたのは僕だ。べつに紬未に呼ばれたわけではない。だから用事があるはずなのは僕のほうだ。僕はさらにやや間をおいて、ようやく口を開く。

「……やあ」

「え、どうして? 今日から補習じゃないの?」

 僕のこの上なく簡素な挨拶を皮切りに、紬未の思考も再開されたようだった。驚いた顔をして僕を見ている。

「補習だよ。ただなんとなく、サボってきた」

「え、え? なんで?」

「わからん」

 なんとも意味不明な回答だ。我ながらどうかしていると思う。

「わからんて……あははっ、なーにー? もしかして、急に私に会いたくなったとか?」

 紬未はベッドテーブルに広げていた紙やペンをサイドボードの引き出しにしまうと、ポンポンと近くにあった丸椅子をたたいた。促されるままに、僕はその椅子に座る。

「まあ、そんなところかな」

「え」

 続けて発した僕の回答に、さらに彼女は目を丸くした。

「なになに、ほんとにどうしたの? もしかして熱でもある? あ、だから病院に来たとか? 私がナースコールで看護師さん呼んであげようか?」

「そんなナースコールの使い方は聞いたことないし、熱もなく至って健康だから押さなくて大丈夫だよ」

「えええ、じゃあほんとに私に会いたかっただけ?」

 今度はやや頬を赤くしながら、探るように訊いてきた。声も小さく、なんだかいつもの紬未らしくない。

「うん、そう。紬未のことだから、退屈してるんじゃないかなって」

「確かに退屈はしてたし来てくれて嬉しいけど、補習サボってまで来るなんてソウくんらしくないなー」

 僕と同じような感想を、紬未も抱いていたらしい。僕たちはどちらも、今日はらしくないようだ。

「まあ、たまにはいいかなって。それで、急に来たもんだからなにも持ってきてないんだ。なにか買ってこようと思うけど、欲しいものある?」

「あはは、ほんとにソウくんらしくないねー。でも今は間に合ってるから大丈夫だよ。さっきお母さんが来てくれたから」

「そうなんだ。鉢合わせなくてよかったよ」

「今回に至っては本当にねー」

 クスクスと紬未が笑う。

「いやむしろ鉢合わせたほうがよかったかな。そしたら今度は逆に紬未を驚かせられそうだし」

「そんなことしたら私の心臓が飛び上がってあっという間にご臨終だよ。死因は病死じゃなくて恥ずか死になっちゃう」

「なんとも名誉な死に方だな」

「どこが」

 次は僕も小さく笑った。お互いに静かに笑い合って、空気は随分と和やかになっていた。気づけば、僕が入室した時に感じた俗世から離れたかのような空気は跡形もなく霧散していた。そこにはいつもの日常が戻りつつあった。
 もっとも、僕が補習をサボってまで紬未の元へ来たのはいつものようにふざけた歓談をするためではない。いや、ふざけた歓談もしたいけれど、それがメインになってはいけない。本当の目的は、べつにある。

「それで? ソウくんは今日、どうして来てくれたの?」

 今日の病院食はいつにも増して薄味だったという話を終えたところで、そんな僕の心中を察したらしい紬未は居住まいを正して訊いてきた。本当に、彼女には敵わない。
 だから僕は、おもむろに口を開いて言った。

「紬未に、どうしても訊きたいことがあったんだ」

「へえ~。補習をサボってまで訊きたいことなんて緊張しちゃうな~。なになに?」

「紬未は僕に、なにをしてほしい?」

 紬未がそれと見てわかるほどに固まった。それまでニヤニヤとほころんでいた口元が、途端にポカンと開いたままになる。

「なんていうか、これまで紬未と一緒にいて、わかったんだ。紬未といる時間を、僕は楽しんでるって。それから、紬未にはもっと楽しい時間を過ごしてほしいって。だからその、紬未がしてほしいことで、僕にできることならなるべくしてあげたいんだ。それを、言いにきた」

「……補習を、サボってまで?」

「うん。補習をサボってまで」

 僕の言葉に、紬未はなんとも言えない表情をしていた。驚いた表情をしたかと思えば、途端に無表情になった。そしてすぐにシーツに顔を埋めたあと、プルプルと震え出した。やがて起き上がった顔はまた無表情で、さらに困ったように眉をひそめると、今度はゲラゲラとお腹を抱えて笑い出した。

「……笑い過ぎじゃない?」

 一定時間、それはもう一生分と言えるんじゃないかと思えるほどに紬未が笑ったところで、ようやく僕は言葉を挟んだ。

「あははははははっ、だ、だって……いやもう、ほんと、これ、ダメ、ダメだって……あははっ!」

「僕はわりと真面目なんだけど」

「あはははっ、ご、ごめん……、そうだよね、あははっ。だって、もうほんとに、嬉しくて、さ……!」

 さらにもう一息笑ったところでようやく、ほんとにようやく紬未は笑うのをやめた。いや、僕が意識的に真っ直ぐ彼女を見据えると途端に噴き出すので心の中ではまだ笑っているかもしれないけれど。

「でも、そっかあ。なるほど、なるほどねえー。私がソウくんに、してほしいことかあーー」

 かみしめるように、彼女はつぶやく。改めて言葉に出されるととても恥ずかしくて、僕は思わず彼女から視線を逸らした。それだけじゃ足りず、足元の鞄からペットボトルのお茶を取り出して四分の一ほど飲み干した。そこで初めて、喉がカラカラに渇いていたことを知った。
 その間に紬未は答えを出したらしく、「よしっ」とひとつ頷いた。僕はお茶をしまって背筋を正す。

「じゃあ、行こっか!」

 正した背筋は、すぐにゆがんだ。目の前で白い歯を見せて快活に笑う彼女は、勢いよくシーツをめくるとベッドから降りる。

「は? どこに?」

 僕が思わず尋ねると、紬未は何も言わずにいきなり僕の左手を掴んできた。かと思えば、もう一方の手で点滴スタンドを引いて病室の出入り口へと向かう。

「いいから、ついてきて」

 朗らかに、しかしどこか落ち着いた口調で紬未は言った。また彼女らしくない声調に、思った以上に細い手の感触に、僕は黙って頷いた。
 そのまま僕は彼女に手を繋がれたまま、ゆっくりとした足取りでリノリウムの床を歩いていった。初めて彼女と手を繋ぎ、歩いたのは病院の廊下だった。それから紬未は僕が通ったのとはべつの通路から大きく迂回してエレベーターに乗り込むと、慣れた手つきでボタンを押した。
 エレベーターの中は、僕と紬未だけだった。でも、会話はなかった。微かな機械音だけを響かせて、僕らを乗せた鉄の箱は十階建ての中央病院の五階へと行き着いた。

「着いた~!」

 エレベーターを降り、やや人通りが減った廊下からガラス戸を開いて出た先には、快晴の青空が広がっていた。冷房の効いた院内とは正反対の熱気が肌にまとわりついてくる。

「行こっかって、屋上? え、来ていいの?」

「ここは普通に開放されてる屋上庭園だからね、場所という意味なら来ていいよ。でも私がという意味なら、トイレ以外で病室から出るのも禁止されてるからダメ」

「は?」

 あっけらかんと言い放った紬未に、僕は呆然とした。そんな僕の様子を見て、してやったりと紬未は笑う。

「いいじゃん、ソウくんも補習をサボって来てくれたんだし。私もルール破っちゃうもんねー」

「いや、僕のとは比べ物にならないと思うんだけど」

「いいのいいの、すぐ戻るから。どうしてもここで、ソウくんとしたいことをしたらね」

 紬未は僕の手を引いて、屋上の手すりの近くまで移動した。すぐ近くにある落葉樹の木々から、夏らしい蝉の鳴き声が響いてくる。

「それでやりたいことって、なに?」

「うん。私と一緒に、写真を撮ってほしいの」

 なぜだろうか。紬未のお願いに、僕はそこまで驚かなかった。
 言われる準備はしていなかった。けれど、もしかしたら言われるかもしれないなとは思っていた。

「……なんで、写真を?」

「私がソウくんと一緒に撮りたいから」

 それ以上の理由なんてないでしょ、とでも言いたげに、紬未はこてんと首を傾げた。肩口からさらりと落ちた彼女の髪先が、僕の腕をくすぐった。
 僕は小さく肩をすくめて、ポケットからスマホを取り出した。これまで決して起動することのなかったカメラアプリをタップし、インカメに切り替える。

「撮る場所は、ここでいいの?」

「うん。あ、でもいかにも入院患者っぽい点滴は入らないようにしてね!」

「はいはい」

 僕はおもむろにスマホを構えて、画角を調整する。画面に映った自分の顔に、否が応でもバクバクと心臓が嫌な音を立て始めた。

「ドキドキするね」

 そこへ、紬未が僕の近くへ顔を寄せてきた。スマホの画面には、僕と紬未の顔が映り込む。
 甘い匂いがした。触れ合う腕のあたりに神経が集中してしまう。
 ただでさえ早い心臓の音が、さらに早くなっていく。
 でもそのおかげか、恐怖は薄れていった。
 今なら撮れそうな気がした。紬未と一緒なら、乗り越えられる気がした。

「じゃあ、撮るよ?」

「うん! ピースッ!」

 紬未の声に合わせて、僕は撮影ボタンを押した。シャッター音が鳴り、ぎこちない表情の僕の顔と、満面の笑みを浮かべた紬未の顔が切り取られてスマホに保存される。
 撮れた。
 それはもう肩透かしを食らったようにあっけなく、思い出が保存された。

「やった! ありがと! その写真、あとで私のスマホにも送ってね!」

「う、うん。それはもちろん。あ、他の場所でも撮る?」

「ううん! 今日はその一枚で充分!」

 にへら、と紬未は相好を崩す。
 可愛いと思った。だから僕は思わずスマホを構えて、撮影ボタンを押していた。

「あーー! ちょっとーー! なんでいきなり撮るのーーー!」

「あ、ごめん。つい、思わず」

「いま全然準備できてなかったんだけど!」

 笑顔から一転、むくれたように頬を膨らませる紬未。またスマホを構えたくなったけれど、今度は我慢した。

「これはもう罰として、来週の一時退院の時に私と遊んで写真撮るしかないね! それもすっごく可愛く!」

「はいはい……って、一時退院? え、聞いてないんだけど」

「だって今はじめて言ったんだもーん」

 ケラケラと紬未はあけすけに笑った。ころころと表情が変わって、本当に忙しいやつだと思った。
 そしてまた、僕は衝動に駆られる。まるで、ずっと我慢してきた感情が溢れ出すみたいに、写真を撮りたくなってくる。彼女との思い出を画面に収めて、積み重ねていきたくなってくる。
 例え紬未と、近い将来お別れすることになるのだとしても。

「次は宝物探し兼撮影デートだからね!」

「なんだか忙しいな」

「こういう時は充実してて楽しそうって言うんですー!」

 加えて、僕は決心する。
 その撮影デートで、僕は紬未に告白しよう。結果なんて知らない。
 そして僕の中にある宝物を埋めた記憶の断片についても話そう。結果なんて知ったことじゃない。
 まだしっかり思い出せないけれど、僕が紬未のいう男の子と同一人物かはわからないけれど、違ったら違った時だ。その時は、紬未に盛大に笑われよう。そしてそんな大口を開けて笑う紬未を写真に収めて、仕返しをしてやろう。
 真夏の空の下で笑顔を浮かべる紬未を見て、決意を固くする。

「ねっ、ソウくん。少しそのままでいて」

「え?」

 その時だった。
 紬未は流れるような足取りで僕に近づいてきて。
 屋上庭園に咲く花の香りに混じって、僕は唐突に甘い匂いに包まれた。
 驚きのあまり、身体が硬直する。
 それに反比例するように、柔らかな感触が肌伝いに感じられた。

「つぐ、み……?」

「いいから。少しだけ。お願い」

 僕は紬未に、抱きすくめられていた。
 両腕も含めてがっちりと抱き締められていて、身動きがとれない。僕はいつも以上に、なされるがままだった。

「……うん、よしっ。ありがとう!」

 時間にして一分にも満たない僅かな時間だった。
 夏の暑さすら忘れる温もりは、ゆっくりと遠ざかっていく。

「理由は、訊かないほうがいいんだよね?」

 僕が尋ねると、紬未はこくりと小さく頷く。
 それからまた笑顔になって、「そろそろ病室戻ろ!」と僕の手をとった。
 彼女にもきっと、思うところがあるんだろう。
 そんな紬未の気持ちも、限りある未来の中で聞けたらと思う。

「病室戻ったらまた宝物探しについて作戦会議しないとだね!」

「その前に一時退院について聞きたいんだけど」

「えーどうしよっかなあー」

 紬未の笑顔を見て、感じる。
 とめどなく溢れてくる楽しいという感情を、紬未とお別れしたくないという感情を、紬未のことが好きだなという感情を、紬未にはずっとずっと笑っていてほしいという感情を、紬未とこれからも手を繋いでいたいという感情を、紬未に死んでほしくないという感情を、僕は一心に嚙み締めていた。

 *

 補習をサボった日からさらに一度のお見舞いを経て、紬未が一時退院する日がきた。

「午前中は家に一度戻ったりマナちゃんと約束してたりするから、宝物探しは午後から行こうね! 集合場所はそうだな~、『小石のじゅうたんがあるところ』で!」

「はいはい、犀川の河原ね」

「もう、情緒ないなー」

 彼女の言う宝物探し兼撮影デートの約束は、たったの一往復と半分の会話で終わった。その後は彼女の病気のこととか、あとはなんともたわいのない雑談ばかりをしていた。
 紬未いわく、病気については悪化しているわけではないらしい。数値の異常は一時的なもので、三度の精密検査で特に問題は見られなかったとのことだった。当初の予定通り、余命はもうすぐあと一年を切ろうとしているのだと笑っていた。僕は紬未ほど器用には笑えずに、薄く口元をゆがめるだけだった。
 正直、紬未は確実に痩せてきていた。一番自覚したのは紬未と手を繋いだ時。ここまで細かったかと、本当に驚いた。
 でも今にして思えば、海水浴の時や水着選びで着ていた水着はどれも体型を隠せるフリルのついたワンピースタイプのものだった。あの時から……いや、きっと僕の気づかないほど前から、着実に、異常は身体に出ていたのだと思う。
 本当に、紬未には死んでほしくないと思う。
 けれど、それは叶わない願いだ。
 叶わないのなら、今の僕にできることは、今の僕がしたいことは、なるべく紬未と一緒にいて、紬未が楽しいと思える時間を可能な限り増やしていくことだ。
 もっとも、こんな暗くなるような話はものの二十分もしていなかった。一緒にいた時間の多くは、藤田と山下さんの交際状況だとか、一時退院した日は山下さんと買い物に行くのだとか、やっぱり入院生活は暇すぎるだとか、一時的じゃなくて完全に退院できた暁には一度遠出をしてみたいだとか、その時には強制的に僕も連行していくだとか、それはそれとして秋になって入院していたら授業をサボってまたお見舞いに来てくれるかだとか、それはさすがに勘弁してほしいと言ったら秋の高校の文化祭は一緒に回れだとか、どんな出し物が好きだとか、どんな出し物をしたいだとか、出し物といえば月末に花火大会があるから一緒にいきたいだとか、夜に外出許可って出るのかなとか、その時はまた手を繋いでよねだとか、本当に中身のない日常的な話ばかりだった。
 そんな一日を過ごしてから数日後の日曜日、紬未は一時退院した。

『私服最高ーーっ!』

 退院してからの初連絡は、なんとも彼女らしい一言だった。僕が優雅に朝ご飯を食べ終え、コーヒーをたしなんでいるところに来たものだから、思わず吹き出すような文言じゃなくて良かった。

『それは良かった。午前中は山下さんと買い物だよね。楽しんできて』

『あいさー! あ、今日のデート楽しみにしてるからね!』

『宝物探しね。はいはい』

 簡単なやりとりだけを交わしたあと、僕は午前中は夏休みの宿題をして過ごすことにした。紬未と一緒にいる時間が長くなればなるほど、夏休みの宿題の進捗は遅れた。いつもならお盆明けにはほとんど終わっているというのに、未だ三分の一ほどの量を残していた。さすがにそろそろエンジンをかけないと、初めて夏休み最終日に泣きを見る目になりそうだった。
 涼しい冷房が効いた自室で、僕は黙々と勉強をしていた。
 けれど、どこか集中しきれないでいた。
 ざわざわと胸のあたりが落ち着かなかった。
 紬未が「デート」だなんて修飾語もつけずに言うからだ。というかそもそもデートではない。これまでと同じただの宝物探しに、写真撮影が加わっただけだ。……告白は、するつもりだけれど。
 ようやく英語の課題プリントを一枚終わらせると、何の気は無しにスマホを見た。もちろん連絡は来ていない。時間的にも楽しんでいるころだろう。
 そんなことを考えている矢先、タイミングよくスマホが通知を知らせた。紬未からだった。その通知をタップすると、でかでかと紬未の写真が表示された。

『見て見てこの服ー! すっごく可愛いと思わない?』

 カメラ目線でキメキメのⅤサインをする紬未の笑顔に、僕の口元からは思わず笑みがこぼれた。

『可愛いと思うよ。なに、その服を着て来てくれるとか?』

『ざーんねん。ソウくんに見せるとっておきの服はべつですー。写真なんかで見せてあげませーん』

『だと思った』

 またしょうもないやり取りを二、三交わして、僕は夏休みの宿題に戻った。予想以上に進まなかったのは言うまでもない。
 午前十一時三十分を知らせる時報の音楽が鳴り響いたところで、僕は身支度を始めた。クローゼットの中からよく着ている半袖の白のTシャツと黒のスキニーパンツを取り出し、部屋着を脱ぎ捨てる。
 そこで、手が止まった。言わずもがな紬未のせいだ。あんな写真を送ってきたせいで、今の僕の中には果たしてこの服でいいのだろうかという葛藤が生まれていた。

「いや、いいだろ」

 ひとり、僕しかいない部屋で言い聞かせるように吐き捨てると、僕はそのまま取り出した服を着た。立ち鏡の前でくるりと一回りしてみる。変じゃなかった。けれど、なんとなく僕はその上にベージュの半袖ジャケットを羽織った。ショッピングモールに水着を買いに行った帰りに、紬未からおすすめされて買った一着だった。忘れずにタグも切って、僕のお出かけコーデは決まった。

「っと、これも、忘れないようにしないと」

 もうひとつ。僕は机の上に置いて充電しておいたデジカメを手にとる。
 このデジカメは、幼い頃に買ってもらったものだ。そしてあの交通事故をきっかけにダンボールに入れて、クローゼットの奥深くにしまってあったもの。僕は午前中のうちにクローゼットから見つけ出し、久しぶりに充電しておいた。
 けれど、まだ電源をつけられてはいなかった。
 なんとなくまだ、怖さが残っていた。ただ、もしかしたら今日でその怖さも克服できるかもしれないと考え、念のため持っていこうと思ったのだ。もしこのデジカメで今日写真を撮ることができたら、僕はまた一歩、前に進むことができる。紬未と一緒なら、きっとできそうな、そんな気がしていた。

「あ、やばい。もうこんな時間か」

 そうこうしているうちにそろそろ家を出ないといけない時刻になり、僕は財布やらスマホやらもショルダーバックに詰めると急いで家を出た。道中のコンビニでサンドイッチとお茶を買い、最寄りのバス停でバスに乗り込む。息を整え、汗を拭き、今日これから紬未に会うことを想像しているうちに、バスはあっという間に目的地に着いた。時間通りだった。
 バスを降りると、もう飽き飽きとしてきた夏の熱気が僕を出迎えてくれた。今年は本当に雨が少なく、今日も今日とて青く澄み渡った青空が頭上に広がっていた。
 僕は行儀悪くサンドイッチを頬張りながら集合場所……いや、宝物探しの始まりの場所である「小石のじゅうたんがあるところ」を目指した。きっと紬未は昔の思い出を振り返りながら、始まりの場所から終わりの場所へと向かうつもりなのだろう。宝物を隠したのと同じ道順で、同じように心を躍らせながら。
 河川から吹き付ける風に目を細める。
 なんとなく、思う。
 もしかしたら紬未は、一緒に宝物を埋めた男の子が誰か知っているんじゃないかと。
 ずっと気になっていた。
 どうして紬未は、僕を宝物探しに誘ったのか。
 紬未は僕をお気に入りだとかなんだと言っていたけれど、僕のどこに気に入る要素があったのか未だにわからない。そもそも、僕はたまたま彼女が木から落ちたところに居合わせただけで、そこから気に入って宝物探しに誘う意味がわからない。大切な宝物探しに、僕を巻き込む理由がなにか。

「ははっ……」

 僕はまだ、紬未との記憶を思い出せていない。だから本当にそうなのか、確信が持てない。けれど、断片的にある記憶や宝物の地図を見た時の既視感、そして紬未が執拗に僕を宝物探しに誘っていたことも踏まえると、「そう」である可能性はかなり高い。
 そしてもし「そう」なら、僕は最初から彼女の手のひらの上で踊らされていたことになる。僕を無理やりに宝物探しに引き込み、楽しい思い出をたくさん築き、僕に記憶のきっかけとなる楽しさを思い出せてくれたことになる。もしかしたら、最後は僕から言ってくれるのを待ってくれているのかもしれない。
 本当に彼女には、紬未には敵わない。きっと僕は死ぬまで、彼女に敵わないだろうな。
 満面の笑みを浮かべて僕を見る紬未を想像したところで、またスマホが振動した。
 さっきと同じメッセージアプリの通知欄の上に表示された時刻を見れば、もうすぐ話していた集合時間だった。もしかしたら、先に着いたのだろうか。
 また待たせただのなんだのと怒られるなと思いつつ、僕はメッセージアプリの通知をタップした。

『森川くん』

『紬未ちゃんが』

『交通事故にあって』

『いっぱい血を流してて』

『病院に』

『早く』

『早く病院に来て』
 
 すがるような山下さんからのメッセージに、僕は血の気が引いた。
 手に持っていたサンドイッチを取り落とした。
 目の前が真っ暗になりかけたところで、僕は紬未の笑顔を思い出した。
 僕は急いで病院に向かった。
 生まれて初めてタクシーを使った。
 流れゆく景色が、いやに遅く感じた。苛立ちと焦りがどうしようもなく僕の心を支配した。
 舌打ちをされながらも急いでくれた運転手さんに一万円を渡して、お釣りも受け取らずに僕はタクシーから飛び出した。
 その時だった。

「紬未ちゃん、が…………――」

 彼女が今しがた亡くなった電話を、受け取ったのは。