また少し、左手が崩れてしまった。
白く、硬く、そして冷たくなってしまった結理恵の左手。ほんの数ヶ月前まで、ふっくらと柔らかく、温かだったのに……。
蝋のように固まり、触れると崩れてしまいそう……いや、実際にまた少し、崩れてしまったのだ。中指の表面が乾燥し、めくれ上がり、そして剥がれてしまった。
「すっかり固まっちゃったね」
病室のベッドの上、自らの左手を見つめながら結理恵がつぶやく。
「大丈夫だよ。きっと元に戻るから」
ボクの言葉が気休めでしかない事は、きっと結理恵にも解っているはずだ。五本の指は、ほぼ白蝋に変わってしまった。入院して、もう三ヶ月になる。しかしこの病院の医師をもってしても、治療法はおろか、原因すら掴めないのだそうだ。進行を止める唯一の方法として、左手首から先の切除が提案されている。でも結理恵は、手術を受け入れる事ができないようだ。指先から始まった白蝋化もすでに手の半分を蝋に変え、いまだ手首に向かって進行している。早く決断しないと、手だけでは済まなくなるのかもしれない。
結理恵はベッドで上体を起こし、左手を見つめたまま動かない。いつものように、手術を受けるかどうか、考えているのだろうか。
ベッドサイドに座るボクは、結理恵の手を両手で優しく包む。包んだ五指からは冷たく硬い蝋の感触が伝わり、掌の中程からは暖かく柔らかな結理恵の感触が伝わってくる。冷たさと暖かさ、硬さと柔らかさのグラデーション。生と死の境界が、そこに在るように感じる。
静まり返った病室で、ボクと結理恵の息の音が混ざり合う。時折ドアの外に響く看護師や患者の声が、とても大きく感じられる。こんな時、どんな言葉をかれば良いのだろうか。いつも答を見つけられずにいる。だからボクはそっと手を握り、結理恵を見つめる事しかできないのだ。
午後から再び雪が降り始め、窓の外には鉛色の空が広がっていた。病室はひんやりとして、空気が張り詰めているように感じられる。指先が冷たい。結理恵の指はもう、この冷気を感じる事はないのだろうか。痛みは無いのだそうだ。白蝋との境界は、痺れて感覚が鈍いらしい。
思い返してみれば三ヶ月前、爪の周りが荒れ始めた頃も、指先が痺れると言っていた。仕事柄いつも手を荒らしていたし、冬になると荒れが酷くなる事も知っているから、あまり気にしていなかった。
指先が柔らかさを失い、感覚が鈍くなった頃に皮膚科で受診した。そしてこの病院を紹介され、そのまま入院することになった。原因不明の白蝋化。医師からは「感染の疑いがなくなるまで、患者に触れないように」と忠告を受けた。しかし、既にもう何度も、結理恵の手を握っている。接触で感染するのなら、充分にその要件を満たしているのではないだろうか。それに、誰も結理恵に触れる事ができないのなら、せめてボクだけでも手を握ってあげたいと思う。
「手術の事……なんだけどさ」
結理恵がゆっくりと口を開く。ボクは両手で、左手を握り直す。
「受けた方がいいよね……やっぱり。ずっと考えてるんだけど、決められなくって。お仕事だって巧くいってたのに、手術しちゃったら、もうお仕事できなくなる訳だし……」
「……」
「ごめん……。そんなこと言われても、困るよね。ごめん」
謝らなければならないのは、ボクの方だ。結理恵は、背中を押して欲しいだけなのだ。手術を受けなければ、さらに状況が悪くなる事は解っているはずだ。このままでは、いずれ左手が駄目になってしまう事まで解っていると思う。だったら今のうちに、進行を食い止める方が良いに決まってる。そんな事は既に、結理恵には解っているはずなんだ。だけど左手を失う事は、そんなに簡単に受け入れられる事ではないのだ。すべてを理解した上で決めかねている結理恵へ、どんな言葉をかければ良いのか、やはり見つける事ができずにいる。
言葉を失い、うつむく結理恵の頬を涙が伝う。伏せた瞳から、次々に涙が零れ落ちる。ベッド横の丸椅子からベッドに座り直し、結理恵に体を寄せる。左手を握ったまま、もう片方の腕で結理恵の肩をそっと抱き寄せる。耳元で、結理恵の嗚咽が響く。ボクは結理恵の耳元で、何度も何度も繰り返す。
「大丈夫。大丈夫だから」
これが、ボクにできる精一杯。情けないけど、決断を下せずにいる恋人を、救う事もできない。救うどころか、苦しみを分かち合う事すらできないのだ。その程度の存在でしかないボクだけど、できるだけ多くの時間を結理恵と一緒に過ごしたいと思う。ボクは、結理恵の支えになっているのだろうか。もしかしたら、支えなんて必要としていないのかもしれない。もしかしたら、逆に負担になっているのかもしれない。考えるほどに、どうすればいいのか解らなくなってしまう。
いつの間にか結理恵は泣きやみ、右腕がボクの背中を抱いている。
「ごめん……泣いたりして」
「ボクこそ、ごめん。何も言ってあげられなくて……」
「なんだか二人で、謝ってばかりだね」
そう、ここへ来てからずっと、互いに謝ってばかりなのだ。結理恵はいつも左手の事を詫びるし、ボクはいつも不安を受け止めてあげられない事を詫びる。左手の白蝋化などという理不尽に対して、ボク達はあまりにも無力だ。どうする事もできず、お互いに謝らずにはいられないのだ。
「カズくん……。受けるよ、手術」
ボクの手の中で、結理恵の左手に緊張が走る。ボクの背中を抱く、右手に力が入る。体全体から、緊張が伝わってくる。
「手術、ちゃんと受けるから。偉いでしょ? 自分で決めたんだよ。ちゃんと自分で決めたんだよ。カズくん、褒めてくれる? 左手失くなっちゃうけど、それでも褒めてくれる? それでもカズくんは、私を好きでいてくれるのかな……。同情されるのだけは嫌だな。左手を失くして可哀想だとか、そんな風に思われるのは、絶対に嫌だ。同情なんかじゃなくて、ちゃんと好きでいてくれるのかな。それだけが心配。手術しなきゃいけないのは解ってたけど、ずっとその事ばかり考えて決められなかった」
そう言うと結理恵は、ボクに向き直して力なく笑った。
結理恵とボクの出会いは、四年前にさかのぼる。
当時二十六歳だったボクは、制作会社でウエブデザインの仕事をしていた。入社三年目にして、プロデユース、デザイン、コーディングに至るまで、すべて一人でこなさなければならない小さな会社だった。
担当していたクライアントの中に、中堅の宝飾店があった。自らの工房を持ち、ジュエリーの企画、製作、そして卸販売を生業とする会社だ。ボクと宝石店の広報担当者、そしてデザイナーを加え、三人でウェブマーケティングのチームを組んだ。その時チームに加わったジュエリーデザイナーが、結理恵だった。
当時二十七歳の結理恵は、デザイナーと言ってもまだ駆け出しで、入社してから七年間、職人の下でジュエリー製作を学んでいた。クラフトをやらないデザイナーも多いが、結理恵はすべての工程を一人でこなせるようになりたいと言っていた。製作工程を深く知るほどに、デザインの発想にも良い影響があるのだそうだ。
宝石は、大きく二つに分けることができる。ダイヤモンドと、それ以外のカラーストーンだ。結理恵は、「日本では、ダイヤモンドばかりが持て囃される」と言って嘆いた。日本ではまだ、資産価値だけでジュエリーの良し悪しを計る人も多い。ダイヤモンドには、厳格なグレーディングが存在する。評価基準に沿って鑑定されているという安心感から、ダイヤにばかり人気が集中するのだ。
逆にカラーストーンは、アクワマリンなど一部の石を除いて評価基準は存在しない。つまりは買い手に、いわゆる「目利き」が必要になるのだ。鉱物学的な分類や特徴、エンハンスメントやトリートメントなどの処理法など、カラーストーンを選ぶために憶えなくてはならない事は多いし、また数えきれない程の種類がある。しかしそれ故に奥深く、魅力ある世界だとも言える。
「カズさん、知ってます? 海外のジュエラーって……例えばブルガリとか、ティファニーとか、ショーメあたりのジュエラーなんですけど、カラーストーンを使ったハイジュエリーを作るんですよね。カラーストーンって言っても、ルビー、サファイアみたいな貴石ばかりじゃなくて、アメシストやトルマリンみたいな半貴石も使うんです。日本でそういう石は、アクセサリーにしちゃうんですよ。それがヨーロッパのジュエラーの手にかかれば、ハイジュエリーになってしまうんですよ。この違いって、やっぱり文化の違いなんでしょうか。日本でもっと、カラーストーンジュエリーの文化が根づいたって良いと思うんですよね」
日本にはカラーストーンジュエリーの文化が無いと嘆く結理恵に、「だったら、ボク達で創ろう」と提案して、ブランドを構築し、マーケティングを練った。ブランドイメージに合わせ、デザイナー達にデザインを依頼し、その内のいくつかは結理恵が担当した。仕上がったデザインの中から一点のリングを選び、試作品の製作が始まった。
二週間後に仕上がった試作ジュエリーを見て、ボクは予想を超える存在感に息を飲んだ。十キャラットを超える大粒モルガナイトの底から湧き上がる、透明感あふれる桜色の煌めき。両脇に添えられたアクワマリンの空色が、優しいコントラストを生み出す。そして周囲を取り巻くダイヤモンドの強い輝きが、モルガナイトの繊細な石色をより一層引き立てている。
モルガナイトの石色は、肌の色との馴染みもよく、大粒ストーンでも違和感がない。サイドのアクワマリンの石色はバランスを考え、あえて淡い色調を選んだのだそうだ。モルガナイトとアクワマリンは、どちらもベリルという鉱物だ。含有する元素の違いで、発色が異なる。同じ宝石同士、色調さえ気をつければ相性が悪いはずがない。
ダイヤモンドジュエリーとは、また別世界の美しさがそこに在った。しかし逆に、日本でカラーストーンジュエリーが受け入れられない理由は、この豪華さに在るのではないかと感じた。華やかで鮮烈な存在感感があるからこそ、逆に敬遠されているのではないだろうか。つまり、どう着こなせば良いのか解らないのだ。
海外セレブリティー達の着こなしは、もちろん参考になるのかもしれない。ジュエラーの広告塔として、大粒カラーストーンジュエリーを身に纏ってレッドカーペットに立つハリウッド女優も多い。しかし顔立ちや体格、肌の色だって違うのだから、そのまま流用などできるものではない。カラーストーンには、服や肌の色との相性だってある。
着こなしが解らないことが普及の妨げになっているのなら、その部分を解決してやればいい。ウェブでのプロモーションは、着こなしの提案に重点を置くことにした。服との相性だけでなく、ジュエリーを着けるシーンの提案を、積極的に行うようにした。
場の雰囲気と衣装に溶け込めば、カラーストーンジュエリーの美しさと豪華さだけがが際立つ。その存在感は、周囲の羨望の眼差しを集める。熱い眼差しを送る者にとって、「欲しい」と感じる瞬間だ。この瞬間をできるだけ多く創りださなくてはならない。
ウエブプロモーションと並行して、富裕層向けのイベントとのタイアップを行った。例えば、百人規模のパーティーのスポンサーとなり、カラーストーンジュエリーを纏った女性スタッフを多数、参加者として送り込んだ。そして興味を持った人達を、ウエブサイトへ誘導した。
ウエブとリアル、相乗効果でボク達のカラーストーンジュエリーは、徐々に浸透していった。一年が経つ頃には、積極的にキャンペーンを行わなくても、売上が生まれるようになった。
リピート購入も多かったが、大半はクチコミや紹介によって発生する購入だ。富裕層へのアプローチは、クチコミ促進に絞り、客層を拡大するキャンペーンに取り掛かった。オピニオンリーダーとなる芸能人や著名人をピックアップし、ボク達のスタッフがジュエリーを含め衣装の全てをコーディネイトした。メディアへの露出を重ねるにたびに、売上が大きく積み重なった。
ボク達のプロジェクトは、大きな成功を収めた。
今日もまた、結理恵が泣いている。
ベッドの上に座り、うつむいて肩を震わせている。長い髪にさえぎられて表情を伺う事ができないが、窓からの風が髪を揺らした時、隙間から頬を伝う涙が光った。病室に差し込む柔らかな陽の光の中、結理恵は泣き続けている。
春一番にはまだ早いというのに、今日はやけに風が暖かい。明日にはまた、寒さが戻ってくるはずだ。病室の窓からは、ソメイヨシノの老木が見える。二ヶ月もたてば、この大木も桜色に染まるだろう。満開の桜を見て、悲しみに沈む気持ちも和らいでくれれば良いと思う。
一ヶ月前、結理恵は左手の手術を受けた。白蝋化の進行を食い止めるため、手首から先の切除を行った。
結理恵にとって左手を失うという事は、ジュエリー職人としての生き方を失うという事だ。手術前に、「クラフトは無理でも、デザインで生きていけるもん。まだ右手があるんだし」なんて言っていたけど、十年以上修行を積んだ職人の道をあきらめるのだから、簡単には受け入れられるような事ではないのだと思う。
手術の後、包帯で巻かれた手首を、かつて左手が在った場所を、結理恵は何も言わずに見つめていた。寂しそうに表情が曇っていたけど、それでも泣く事はなかった。泣けば気持ちが折れてしまう……そんな風に思って耐えていたんじゃないか思う。何日もかけて、少しづつ失くした左手の事を受け入れていった。
「早く仕事に戻りたいな。ちゃんとデザイン、できるかな……」
「焦らなくたって。ゆっくりで良いんじゃないの?」
「オーダーのデザイン、テルミさんがやってるんでしょ? いいなぁ、早く私も復帰して、たくさんデザインしたい」
「最近お客さんが増えてきてるから、復帰する頃は忙しいかもよ?」
「忙しい方がいいわ。ここに居ると暇だから、余計なことばかり考えちゃうのよね。本当、早く仕事に戻りたい……」
手術後の経過が良かった事もあり、結理恵は何度も仕事への復帰を口にするようになった。右手の白蝋化に気づいたのは、こんな風に元気を取り戻した矢先の事だった。今まで異常の無かった右手にも、白蝋化の兆候が見える。そして左手の包帯の下で白蝋化が再発している事が判った時には、結理恵はひどく取り乱した。悲鳴をあげながら枕を掴んで、壁に投げつけた。そして「どうしてなの!」と叫びながら、握りしめた右の拳を何度もベッドに打ち付けた。こんな結理恵を見るのは初めてだったから驚いてしまい、ただただ狼狽える事しかできなかった。
今日もまた、結理恵が泣いている。
少しだけ蝋に変わった、右手の指先を見つめて泣き続けている。今はまだ、手荒れの様にも見える。だけどボク達は知っている。左手を見てきたボク達は、これが白蝋化なのだと知っている。左手は、進行を食い止めるために切除された。右手もまた、切除しなければならないのだろうか。今ならまだ、指の切除だけで済むのかもしれない。いや、左手の白蝋化は、再発したのだ。包帯の下の皮膚は、再び白蝋に変わりつつある。もしかすると指を切除しても、進行は止まらないのかもしれない。
医師たちはきっと、「再発の可能性がありますが、どうしますか」と問いかけてくるだろう。結理恵は、どんな決断を下すだろうか。「できる限りの事はしたいんです。切って下さい」と言うだろうか。それとも、「もうこれ以上、切らないで下さい」と言うだろうか。
泣き続ける結理恵の肩を抱き、そっと声をかける。
「大丈夫。大丈夫だから」
ポンポンと肩を叩きながら、何度も何度も繰り返す。我ながら、こんな状況で「何が大丈夫なんだ」と思うけど、もしかすると結理恵だって同じように思っているのかもしれないけど、他にかけるべき言葉が見つからない。
「なんで右手まで、蝋になっちゃうんだろう」
力なく結理恵が問いかける。
「なんで左手切ったのに、また再発するんだろう」
言葉が見つからないボクは、優しく肩を抱いて応える。
「切っても切っても、きっとまた再発するよね。蝋になるの、止まらないのかな。手だけじゃなくて、腕全体が蝋になっちゃうのかな。もしかして、脚も蝋になったりするのかな。もしかして、全身が蝋になって死んじゃうのかな……。いやだな、死にたくない。死ぬの嫌だな。なんで私が死ななくちゃいけないの? なんで私なの? カズくん、死にたくないよ。死にたくない。やりたい事、まだまだ沢山あるのに。カズくんと結婚したいし、カズくんの子供だって欲しいし、仕事だって新しいブランド立ち上げたばっかりだし。まだデザインだってしたいし、ジュエリーだって造りたい。後どれ位の時間、生きていられるのかな……いや、死ぬ前提になってるけど、治ったりしないのかな。無理かな、治るの。せめて蝋になるの、止まったりしないのかな。死ぬのだけは嫌だな。カズくん、死にたくないよ……」
あふれ出す悲痛な叫びに何も応えられず、ただただ肩を抱いて共に涙を流す事しかできなかった。
一年前、プロジェクトの開始から三年が経った頃、ボクは制作会社を退職した。そしてウエブマーケターとして、結理恵の居る宝飾店に迎えられた。
当初三名でスタートしたプロジェクトも今ではスタッフが二十人を超え、安定した成果を上げ続けている。
移籍後の最初の仕事として、ボクはオーダーメイドジュエリーの新ブランド立上げに着手し、チーフデザイナーとして結理恵を推薦した。社で一番若いデザイナーをメインに据える大胆な推薦だったが、新しい感性の必要性を認めて承認された。
この頃のボクは結理恵の存在を、一人の女性として意識し始めていた。結理恵の部屋に招かれたのは、気持ちが惹かれている事に気付き始めた頃だった。チーフデザイナーに決まったお祝いにと夕食に誘ったのだけれど、「私の部屋に招待しますから、一緒にお祝いしてください」と、逆に誘われてしまった。
土曜の夜、ワイン片手に結理恵の部屋を訪ねると、今までに見たことのない笑顔で出迎えてくれた。
「狭いけど、ゆっくりしてください。すぐにお料理できますから」
結理恵は一歳だけ歳上だけど、なぜかボクには敬語で話す。
1LDKの部屋は木目を活かした家具で統一され、シンプルにまとめられていた。部屋の中央にはローテーブルが置かれ、すでに食器が用意されている。部屋の奥の机にはスリ板がセットされ、沢山のヤスリやヤットコなど、彫金の道具が整然と並べられていた。
ベッドを背にローテーブルの前に座った。すぐに、ガーリックとオリーブオイルの香と共に、パスタの皿が運ばれてきた。
「今日はイタリアンというか、パスタにしました。ごめんなさい、簡単な料理で。手の込んだ料理は、失敗が怖かったから」
「簡単だなんて、とんでもない。すごく美味しそうだ」
「春を意識して、春キャベツとベーコンのパスタです。サラダは、菜の花と生ハムを手製のドレッシングで和えました」
結理恵のチーフデザイナー就任を祝って乾杯し、フォークにパスタを巻きつけて口へと運ぶ。料理の出来ははなかなかのもので、キャベツやベーコンの持ち味が十分に引き出されているし、何よりも味のバランスが良かった。サラダのドレッシングだって粒マスタードが利かせてあり、菜の花のほろ苦さを巧く包み込んで引き立てていた。
「職人気質なのかしら。料理でもジュエリーでも、変にこだわっちゃうんですよね」
「仕事でも、妥協しないもんね」
「今回チーフデザイナーに起用してもらって、すごく嬉しいんです。会社に推してくれたんでしょ? ありがとう。感謝しています」
面と向かって礼を言われると、思った以上に恥ずかしい。「礼を言われるような事ではない」と真面目に返そうか、それとも「どんどん感謝してくれ」と冗談にして返そうか決めかねていると、結理恵が唐突に笑い出した。
「やっぱり会社と、雰囲気違いますよね。うふふ……ごめんなさい、笑ったりして。ふふ……」
「そ、そんなに違うかな。雰囲気……」
「ほら、狼狽えちゃって。会社じゃそんな姿、絶対に見せないですよね」
「そんなつもりは無いんだけど……。会社では、どんな感じに見えてるの?」
「いつも無言で、難しい顔してパソコンを睨んでるじゃないですか。クールと言うか、悪く言っちゃえば冷たい印象ですよ。それが今日は……ふふ……」
「今日は?」
「今日は何だか、可愛いですよ。可愛いなんて言うと、怒られそうだけど……。クールに振舞ってるけど、本当はもっと優しくて、可愛い人なんだろうなって思ってました」
そう言うと、照れくさそうに俯いた。長い髪がさえぎり表情が見えないけど、隙間からのぞく頬が紅潮しているのが判る。
「クールなのも良いけど、私の前ではもっと、力を抜いてくれると嬉しいな……なんて。何を言いたいのか、もう解ってるでしょうけど……これから先、二人で同じ時間を過ごして行くことができたら嬉しい……なんて思ってます」
結理恵は、頬だけじゃなく耳まで真っ赤になっていた。
好きになってくれて嬉しい事、ボクも結理恵の事が気になっていた事、そしてその感情を押し殺していた事を伝えた。彼女は何度も頷きながら、ボクの話を聴いていた。
「これって、両想い……ですよね?」
「まだ少し、自分の気持に自信がないけどね」
「大丈夫ですよ。きっと私のこと、好きになります」
「え? 言い切るの?」
「気持ちが同じ方向を向いていれば、大丈夫です。私たち、きっと巧くいきます」
結理恵の表情は、自信に満ちていた。あんなにも不安を抱きながら、告白を始めたというのに。
「そろそろ、片づけますね」
結理恵は、空になった食器をキッチンへと運び、洗い物を始めた。水が流れる音、スポンジが食器をこする音、食器と食器が重なりあう音……手慣れたリズムに心地よさを感じていると、不意にすべての音が止まった。
「今夜は、泊まっていきますよね?」
少しの沈黙の後「そうするよ」と答えると、再び水の音が流れ、食器がリズムを刻み始めた。
◇
シャワーを勧められ、着替えがない事に気付く。下着で寝れば良いかと思っているところに、新品のパジャマと下着を手渡された。泊まっていくことを想定して、用意しておいたのだそうだ。
ボクがシャワーを浴び、次に結理恵がシャワーを浴びて、二人してパジャマ姿で向きあうと、照れくさくて会話が続かなくなってしまった。そんな時に「ベッド一つしかないんですけど……」なんて言うものだから、思わず「ボク、床で寝るから」と答えてしまい後悔した。「一緒に寝ればいいじゃないですか」と言って口を尖らせる結理恵の表情が可愛くて、思わず「嫌だよ。恥ずかしいもん」と本音混じりに答えてしまい、もう一度後悔した。
結理恵がベッドへ滑り込んで、「可愛いこと言ってないで、早く来てください」とシーツを叩くけど、そんな風に言われると余計に誘いに乗る事ができなくなってしまう。何とかベッドに潜り込んだのだけれど、その後も照れ隠しにふざけてしまうボクを結理恵はきちんと受け止めてくれて、じゃれ合いながら少しづつ距離を縮めていった。やがて二人の距離がゼロになって唇を重ねた後、「やっとたどり着きました」と言って結理恵が笑った。
「いつも沢山の鎧を着てるから。でもやっとたどり着きました、本当の貴方まで」
何度も唇を重ね舌を絡ませながらパジャマのボタンを外し、愛撫を重ねながら全てを脱がせていった。肌と肌を合わせぴったりと隙間なく抱き合うと、二人の間でじっとりと汗が絡みあう感触や、上気した熱がじんわりと伝わってくる。指先でそっと体のラインをなぞると、指の動きに合わせて熱く切なげな吐息が漏れ、大きく躰が波打つ。荒い吐息に合わせ上下に揺れる乳房も、背筋を滑る指先に反応して艶かしく動く腰つきも、薄闇の中ではどこか作り物のように感じられて現実感を失ってしまう。
二人とも既に準備が整っていて、もう痛いくらいに固くなってしまい、もう太ももまで濡れてしまい、早く交わりたいのに核心を避けてしつこく愛撫を続けるものだからもう切なくて切なくて仕方がない様子で、体中を舐めたり舐められたりしている間もずっと爪を立てて懇願し続けるのだけれどそれでも聞き入れずに焦らしていると、堪えきれないほどに切なくなってしまったようで「お願い……早く!」と大きな声をあげるものだから、その叫びに応えるように腰骨同士が当たるまで一気に奥まで挿し入れた瞬間に、結理恵は悲鳴にも似た大きな喘ぎ声をあげて一気に達してしまった。彼女の余韻が引いてしまう前に、ゆっくりと前後に動き出すと両脚がボクの腰に絡みつき、背中に爪を立てていたはずの両手も腰に絡みつき、下半身同士を擦り付けるような艶かしい蠢きに誘われるがままに抗いもせず合わせていると、ゴム一枚を隔てているにも関わらずあっという間にボクまで達してしまった。
ベッドへと倒れ込み、荒々しい呼吸が幾分か落ち着いた頃、結理恵の首下へ左腕を差し入れ腕枕をすると、彼女は両方の手でボクの左手をそっと包んだ。
「好きなんです、手を繋ぐの。安心する……」
そう言って、指先でボクの掌や指の間をくすぐる。
「私の指先、硬いでしょ?」
手首から肘のあたりへと結理恵の指先が滑り、そして手首へと帰り再び掌が繋ぎ合わされる。
「ジュエリーを作る時にね、金やプラチナの部品を左の指先でつまんで固定するの。小さな金属を強くつまみ続けるから、だんだんと皮膚が硬くなるんです。右の指だって、ヤスリが当たる所が硬くなっちゃうし……ほら、ギターを弾く人も、弦を押さえる指が硬くなるんでしょ? きっとそれと一緒です」
結理恵の指先に触れると、ゴツゴツとした感触が伝わってくる。皮膚が硬く、そして分厚く変化している。何年もの間、ジュエリーを作り続けた職人の指だ。
「ちょっと不恰好だけど、私の自慢なんです。この指で素敵なジュエリーを、たくさん作るの……」
そう言うと結理恵は右手を自らの眼前にかざし、お気に入りの指輪を愛でるかのように眺めた。
白蝋化の再発から二ヶ月が過ぎ、両腕の肘までが白蝋に変わってしまった。そして危惧していたとおり両脚にも発症し、膝までが白蝋と化した。
再発が判った時には取り乱し、涙に暮れていた結理恵も、今では状況を受け入れて落ち着いている……いや、諦めに支配されてしまっていると表現した方が、正しいのかもしれない。
両手両足の自由が効かなくなってしまった結理恵は、一日の大半をベッドの上で過ごす。何かと不自由が多いため、ボクは病室にノートPCを持ち込み、仕事をこなしつつ彼女に付き添うようになっていた。
窓の外のソメイヨシノは桜色に染まり、すでに満開の頃を越えて散り始めている。暖かな風が吹き込むたびに、この病室にも桜色の花びらが舞い込んでくる。結理恵が死への願望を口にしたのは、そんな麗らかな春の日の事だった。
「桜は、散り際が美しいのよね……」
窓の外、はらりはらりと舞い落ちる花弁を目で追いながら、結理恵が呟く。続けて何事かを言い出そうとしているのだけれど、何度も言い淀み、絞り出すようにして「死にたい」と呟いた。
どう応えて良いか解らず、結理恵の右手に両手を添える。そこにはかつての温もりは無く、崩れ落ちてしまいそうな危うさだけが在った。
長い沈黙の後、結理恵が静かに語り始める。
「こんな姿のまま、生きていたくないよ。それに生きてたって、死ぬのを待つだけでしょ」
たとえどんな状態であっても、たとえ全身が白蝋になってしまったとしても、ボクは結理恵に生きていてほしいと思う。でもそれは、ボクの身勝手で利己的な願いでしかないのかもしれない。そう思うとかけるべき言葉が見つからず、力なく結理恵を見つめることしかできなくなってしまう。
「それに、生きてる意味が、解らなくなってきたの。生きる意味もなく、死ぬのを待つだけなんて、辛すぎるよ……。どうせ死ぬのなら、もう死んでしまいたい。一刻も早く、この世界から消えて無くなりたい……最近、そんな風に考えちゃうんだ」
生きる意志を失った結理恵に対して「死なないでくれ」と懇願する事は、身勝手なだけでなく、とても残酷な事なのかもしれない。でもやっぱり、それでもやっぱり嫌だ。生きる意味を見失ったまま、結理恵がこの世界から居なくなってしまうなんて絶対に嫌だ。
この理不尽に突きつけられた絶望の中、どんな希望を与えてあげられるのだろうか。生きる意味……生きる希望……ボクは何をしてあげられるのだろう。
「カズくん、もしかしてさ……生きる理由を見つけてあげたいとか、そんな風に考えてる?」
図星を指され、息を呑む。
「もしそうだとしたら、それはとても痴がましい事だよ。ワタシが生きる理由はきっと、ワタシが見い出すしかないんだよ。与えてもらうような物じゃ、ないんだよ……」
「それでも……それでもさ……」
結理恵の言う事が正しすぎて、言葉に詰まる。
自分が生きる意味は、自分が見い出すものだ。正しい。確かに正しい。でも与える事ができなくたって、手伝いくらいならできるんじゃないだろうか。一緒に探すことだって、できるんじゃないだろうか。
「結理恵、ブランドを立ち上げた時、試作したジュエリーを憶えてる?」
「モルガナイトのリング?」
「あのジュエリーが、出発点だったよね。結理恵のジュエリーを、ボクのマーケティングでたくさんの人たちに紹介してきた……。デザインもクラフトも、結理恵の才能と技術だ。でも結理恵が作るジュエリーの可能性を膨らませるのは、ボクの仕事だ。結理恵の技術と、ボクのマーケティング、どちらが欠けてもブランドの成功はなかったよね? 二人の力を合わせて、ここまでブランドを大きくしてきたじゃないか。今の状況だって、二人の力を合わせればきっと……」
結理恵は窓の外を見遣り、思案に暮れている。
やがてボクに視線を戻し、小さな溜息をついて少しだけ笑った。
「カズくんは頭が良いのに、相変わらず例え話が下手だね」
「へ、下手かな……」
「つまり、もっと頼ってくれって事なのかな?」
「そうだよ」
「既にたくさん頼ってるから、これ以上は頼りたくないと思ってるんだけどね……」
結理恵が大きく息を吸い込み、長い時間をかけて溜息を吐き出す。
「……カズくんに……もっと頼っても良いのかな?」
そう言った結理恵の瞳には、不安の色が見て取れる。
「ワタシね、ずっとカズくんに申し訳ないって思ってたんだ。こんな体になって迷惑ばかりかけてるし、せっかく軌道に乗ったお仕事だって参加できなくなったし……だから、あまりカズくんに頼っちゃダメだって、自分に言い聞かせてたの。そうしないと、どんどん我儘になってしまいそうで怖かったの」
「病気なんだから、仕方ないよ、我儘で良いんだよ」
「嫌なの、病気に甘えるの。だから最近はね、できるだけカズくんに迷惑かけないようにして消えて無くなりたいって、ずっとそんな事ばかり考えてたの」
再び大きく息を吸い込み、深いため息をつく。
「でも、頼って良いって言ってくれるのなら、頼ってほしいと望んでくれるのなら、ひとつだけお願いがあるの」
「なに? 聞かせて」
「ずっと考えてたけど、言い出せなかった事……」
「うん」
「こんな体になっちゃったから、もうあり得ないと思って諦めてた事……」
言おうか言うまいか、結理恵はいまだに悩んでいる様子だ。
やがて長い思案の末、やっとその願いを聞かせてくれた。
「カズくんの子供が欲しい……」
子供が欲しいと、結理恵が言った。
いつかは子を持つだろうと漠然と思っていたのだけれど、実際に請われると何だか他人事のように聞こえてしまい、現実感を持って受け入れる事が難しい。でもボクは、結理恵の願いを叶えたいと思う。それは同時に、ボクの願いでもあるはずなのだから。
病室前の廊下に立ち、看護師の退室を待つ。結理恵が体を拭きたいと言い出し、いつもの様にボクが拭くと申し出たけど、今日は嫌だと言って看護師を呼んで体を拭いてもらっている。その間ボクは病室の外に追い出され、廊下で暇を持て余す羽目になった。
日は既に西に傾き、視界の全てを赤く染め上げていく。夕日の眩しさが更に現実感を奪っていくように感じられ日陰を探してみたのだけれど、彷徨っている間に日は沈んでしまい、西の空が昼と夜とのグラデーションに染まった。
病室の扉が開き、看護師が「結理恵さん、今日はご機嫌ね」と微笑んで、ナースステーションへと帰る。病室に戻ると、結理恵が満ち足りた表情で窓の外を眺めていた。窓の外、ソメイヨシノの大木が春風にあおられ、黄昏の空に見事な桜吹雪を披露している。遠方には山々の峰が連なり、丸く大きな月が昇り始めていた。
唐突に「今すぐここで、結婚式を挙げたい」なんて言い出すものだから、ドレスも指輪もないしどうしようかと困っていると、誓いの言葉だけで充分だよと結理恵が笑う。結理恵はベッドに横たわったまま、ボクはベッドサイドに跪いて二人きりの式を挙げる。誓いの言葉を交わして、軽く唇を重ねた。
結理恵の表情は終始穏やかで、死にたいと言ってた結理恵とはまるで別人のようだ。「旦那さん、ちょっと肩を抱いてくれませんかね」とか、「旦那さん、ちょっと頭をなででくれませんかね」などと、冗談めかした小さな我儘を重ねて上機嫌だ。「旦那さん、いよいよ結婚初夜ですが、今のお気持ちは」などとオヤジ臭い台詞を投げかけられた時には思わず吹き出してしまい、顔を見合わせて二人で笑った。
結理恵から抱き上げてほしいとせがまれたのだけれど、白蝋に変わってしまった手脚が崩れるといけないから断った。それでも強く抱き合いたいのだと懇願され、仕方なく抱き上げる。しかし結理恵の躰は予想よりもはるかに軽く、結果、勢いよく抱き上げる事になってしまい、毛布に引っかかった左脚の膝から下が崩れ去ってしまった。呆然としているボクに、気にしないでと言いながら躰をこわばらせた。
ベッドに腰を下ろし、結理恵を膝の上へ座らせる。左脚のことを詫びると、本当に気にしないでと囁いた。そして目をつぶり一時の思案の後、右手を右膝に打ち付けて自ら右の手脚を砕いてしまった。破砕の衝撃で結理恵の破片は四方へ飛び、音を立てて床へと散った。先程まで自らの手脚であった破片を見遣り、少しだけ憂いを含んだ表情を見せたけど、これでバランスが良くなったと言いながら笑顔を作りボクにしがみついた。
結理恵の小さな躰を抱きしめて、ボクは泣いた。カズくんが泣いてどうするのよと笑われたけど、それでも涙が止まらなかった。在って当然と思っていたものが、呆気なく崩れ去ってしまう理不尽に泣いた。そして自ら手足を砕くに至った結理恵の心情を思って泣いた。ボクのせいで……ボクのために……ごめん、本当にごめん。泣きながら、何度も何度も詫びた。結理恵はその間、大丈夫だよと囁きながら、背中に回した二の腕で、優しく背中をさすってくれた。
月光が落とす影が幾分か短くなり、ボク達は再び穏やかな時を過ごした。周囲が寝静まり、不意に会話が途切れた静寂の中、結理恵がボクを見つめる。
「どうしたの?」
何事かを言い淀み、不安を宿した瞳が潤む。
「こんな躰にね……なっちゃった訳だけど……その……」
すがるような目でボクを見つめ、やがて瞳を伏せ躊躇いながら言葉を続ける。
「だ……抱いて……いただけるんでしょうか……ね」
すっかり短くなってしまった結理恵の手脚。手術で切除した左手、ボクが壊してしまった左脚、自らが打ち砕いた右脚と右腕……。痛々しいと感じるべきなのだろうか。ボクはむしろ、美しいと思う。同情でも、哀れみでもなく、純粋に美しいと。
「結理恵は、今でも綺麗だよ……」
開け放った窓から春風が、一魁の花弁を運び込む。風が巡るたびに渦を作り、部屋中に桜吹雪が舞う。
結理恵をベッドに寝かせ、一枚、また一枚と着衣を脱がせていく。月光に照らし出された躰は、まるで自らが発光しているかのように白く妖艶で、半分が失われてしまった四肢にもまた艶かしさを感じる。一糸まとわぬ姿となった結理恵を抱き上げ、軽く唇を重ねる。膝の上に座らせ、羞恥に身を捩《よじ》る結理恵の首筋に舌を這わせた。
月明かりに照らされ、桜舞い散る幻想の中で、結理恵を抱いた。
舐め合い、貪りあい、一頻り乱れた後に、彼女の内へと精を放つ。抜き去ろうとすると離れたくないと請われ、繋がり合ったまま背中を抱く。二人の呼吸が落ち着くまで、彼女を抱きかかえ、髪を、背を、そして太腿を撫でる。
躰を撫で、手脚がまた少し崩れている事に気付いた。このまま白蝋化は止まることなく、結理恵を蝕み続けるのだろうか。その事を考えると、胸の奥が痛いほど苦しくなる。そして子が欲しいという願いを、叶える事が出来るのだろうか。白蝋化の進行速度を考えると、不安だけが胸をよぎる。
「どうか……した?」
結理恵が見つめていた。
「何でもないよ」
腕が崩れてしまったのなら、ボクが結理恵の腕になればいい。脚が崩れてしまったのなら、ボクが結理恵の足になればいい。この先どうなってしまうのかなんて解らないけど、今は二人の時間を大切に過ごそう。
外を見たいとせがまれ、結理恵をかかえて窓際に立つ。
十六夜の月はすでに高く、雲ひとつ無い天から寂光を放つ。桜の老木がそよぎ、春風が巡るたびに花吹雪が舞い踊る。月光に照らされた花弁は光輝を帯び、桜色の煌めきで宙を埋め尽くしていく。
しばし二人して、煌めきの乱舞に見惚れていた。
(了)