あちこち見て回っている間に、あっという間に陽が傾いてしまった。
 二人は帝が用意してくれたという旅館にやってきて、ここで一夜を過ごすこととなった。
 古くはあるが、大きく立派な旅館である。

 古い旅館にはしばしばあやかしが住み着いていたりもするのだが、ここもやはり例に漏れず、あやかしの気配をそこかしこから感じた。

(悪いあやかしではなさそう…)

 黒稜もそれが分かっているのだろう。特にあやかしに関して何かを言ってくることはなかった。

 二人では贅沢すぎるくらいに大きな部屋へと通された桜は、ようやく腰を据えることが出来た。慣れぬ土地を歩き回って、さすがにへとへとである。

『夕食まではまだ時間がある。露天風呂にでも入ってきたらどうだ?』
 疲れ果てた桜を見て、黒稜はそう促す。

「いいの、ですか?」
『構わない』

 黒稜よりも先にお湯をいただくことに抵抗のあった桜だが、黒稜の言葉に甘えて先にゆっくりとさせてもらうことにした。

 部屋に備え付けの露天風呂へとやってくると、空気が澄んでいて心地よさを感じた。
 身体を流した桜は、ゆっくりとお湯に身体を浸していく。

(気持ちいい……)

 一日の疲れが取れていくようだった。
 満天の星を見上げ、桜はほうっと息をつく。

(こんなに贅沢なことがあって、いいのかな…)

 陰陽師としての力も失い、聴力も失った。何もできない自分なんかが、こうしてのうのうと生きていてもいいのだろうか。
 それは桜の脳内を何度も占めた考えだった。

(役に立たなくなった私は、家族のために何かできないかと自分なりに頑張ってきた。けれど結局そんなもの、まったく意味をなさなかった…)

 桜がどれだけ頑張っても、北白河家は桜を追い出した。

 けれど黒稜はどうだろうか。
 桜に陰陽師の力がなくとも、気にすることなく普通に接してくれている。

(私、黒稜様のお役に立てているのかしら…)

 初めて会った時よりも、黒稜の雰囲気や空気感が柔らかくなったように思う。
 今日だって、はしゃぐ桜に何も言わず、ただひたすらについて来てくれていた。
 疲れた桜を気遣って、風呂も優先させてくれたのだ。

(何か、私も返せるものがあれば…)

 不器用ながらもなんだかんだ大事にしてくれている黒稜に、桜ができることなどあるのだろうか。
 桜はお湯を掬い上げながら、自身の手を見つめた。

(あの温かな光は、結局なんだったのかしら…?)

 黒稜が怪我をし、回復を祈った時、桜の手が優しい温かな光に包まれた。
 しかしそのことは本当にそれきりで、以来そんな不思議なことは起こっていなかった。

(見間違い、だったのかな…)

 気が動転していたこともある、もしかしらた見間違いだったのかもしれない。

(あ、長湯しすぎたかも……)

 考え事をしていたせいで、大分長い時間湯に浸かってしまった。
 頭が少しぼーっとしてきて、桜は慌てて露天風呂から上がった。