『桜』
「は、はいっ!」
黒稜に名前を呼ばれたのは、これが初めてだった。
『昨日、自分がしたことを憶えているか?』
「私が、したこと、ですか…?」
桜は昨晩のことを思い出す。
黒稜のことが心配で気が動転していたが、自分の手に何か温かな光が宿り、その光が黒稜の傷口を塞いでくれた。そのように桜には見えた。
『確認するまでもないと思うが、治癒の術など使えるわけではないな?』
「はい、使えません…」
そんなもの習ったことも、ましてや聴いたこともない。
あやかしを退治することに特化した陰陽師に、治癒の術など使えるはずもなかった。
『そうか…』
桜の返答を聴いた黒稜は、顎に手を当て、何か思案しているようだった。
『もともと私は傷の治りが早いのだが、それどころか完全に治癒させたのは、桜、お前の力なのだろう』
「私の、力…?」
そんなもの、自分が持っているわけがない。
桜は黒稜の言葉に首を捻るばかりだった。
しかし俯く桜の顎をくいっと上に上げた黒稜は、見たこともないくらいに優しい表情をしていた。
『ありがとう、桜』
初めて見る黒稜の表情に、桜の胸が不規則な鼓動を刻み始める。
「い、いえ、私は、なにも…」
ただ黒稜の傷が良くなるよう、痛みがなくなるよう、ただただ祈っていただけにすぎない。
そんなただの祈りが、天に通じたとでもいうのだろうか。
ともあれ、黒稜が良くなったことに、桜はようやく安堵の息を漏らしたのだった。