プロローグ
☆杏依菜 幼かった私はまだ、何もできなかった
未来なんて、想像できない。
あのときの私は、どちらかというと、キラキラを追い求めていたし、普通の子よりも、もしかしたら、日常に非日常な、不思議がたくさんあるかもって思っていた。
初恋が叶う確率は8%しかないらしい。
確かに初恋を愛でるには、お互いに相当な努力が必要だろうし、そもそも、自分の初恋相手も、自分のことを恋愛対象として、見てくれないかぎり、初恋は片思いのままで、相手が振り向いてくれなければ、初恋は一瞬、ときめいた思い出で終わってしまうんだと思う。
だけど、私の初恋は違った。
私の初恋は、11歳の春で、11歳の春、私は君と出会い、君のことを知った。
隣に座る君は、冷静そのもので、そんな君って本当に頼りになりそうって、言うのが私史上最高に、ときめいた瞬間だった。ただ、君と古いソファに座り、待っている時間は、緊張で苦痛だった。朝の職員室はざわざわとしていて、コーヒーの匂いが部屋いっぱいにひろがっていた。
すべてが慣れない新しい日常のなかで、君は私のなかで確かに非日常だった。
それは、不思議だと思ったし、
「よく頑張ってきたんだと思うよ。力抜いてやろう」って顔を赤らめている彼から、そう言われたのが、私の胸のなかで未だに残り続けている。
本当にそうだと、思う。
私は、今、本当に自分でもそう思う。
だけど、もう少しだけ、Void(ボイド)を抜けた月明かりの下で、手を繋ぎながら、他愛もない思い出をインスタントカメラに収めるようなこと、したかったなって、私は目を瞑り、できるだけ、頬に力を入れ、笑みを意識的に作る努力をしながら、そう思った。
☆夏織 幼かった僕はまだ、何もできなかった
未来なんて、想像できない。
11歳の春、僕は君と出会い、君のことを知った、あの夕日でオレンジになった、住宅街の中の小さな公園のベンチに、君の隣に座っていたあの頃は、想像できなかった。
20歳になった今、9年を振り返りながら、僕はようやっと、君のことを整理したいと思ったんだ。
今、こうして、夜のスタバでMacBookに思いを打ち込んでいるのは、不思議な気持ちだ。
きっと、君との恋や、君との思い出を、こうやって文章にしようとなんて思っていなかったのに、大学の六限で眠っていた僕は、君――。杏依菜(あいな)の夢を見た所為で、急に書きたい気持ちになったんだ。
夢で見た君は、3年前の姿。つまり高校2年生のときに見た青いワンピース姿で、五分袖からは、細くて白い腕が出ていた。もともと、色白だけど、そのときは太陽の所為か、余計に白く見えた。
その夢の中では、誰もいない、初夏のラベンダー畑で、ふたりきりでベンチに座って、ただ、坂の斜面に広がる紫を眺めていた。
いつもと同じように、僕は左、杏依菜は右に座っていた。
「ねえ、今日は新月だけど、Voidタイム長いんだって」
「あれだっけ、願い事するときに、無効になるんだっけ?」
「そう、その時間が今日、長いんだって。明け方から、夕方まで。たぶん、あと二時間くらいで終わるけどね」
星占いで、新月に願い事をすると叶うらしいってことを小学校のときに杏依菜から教えてもらった。
――Void。
高校生になった今なら、その単語の意味はわかる。
無効にするって意味だ。
つまり、新月に願い事をしても、無効になる時間、Voidタイムに願っても叶えづらくなるらしい。僕は今でも、占いをあまり信じようとしないタイプの人間だけど、願掛けで叶うなら、いいかなって思うから、杏依菜の言う、この占いのことは信じている。
「今日はなに願うの?」
「決まってるじゃん」
「なにを?」
「本当は離れたくなんかないよ」
「まだ、決まったことじゃないじゃん」
「ううん、もう、決まってるみたいなものだよ。こういうこと、私はわかるの」
「やめてくれよ」
「違うの。夏織(かおる)くんにも、覚悟してほしいの」
あのときと同じように、少しだけ冷たい風がふわっと吹いた。そして、そのかぜに合わせて紫が揺れ、穏やかな波のような線ができてきた。
そして、僕はまだ、覚悟なんて、できてなんかいないのに、あたかもそれを覚悟したように、気持ちを作り、杏依菜をじっと見つめた。
そうすると、杏依菜はさっきまで真剣そうだった硬い表情を緩め、満足そうに微笑んでくれた。
「だから、私のこと、忘れないでね」
こういうのって、ありがちな夢なんだと思う。
そして、よくありがちなように、いつも、ここで目が覚める。
いつも見る夢の出来事は本当に3年前にあったことだ。ただ、夢の中のラベンダー畑は、僕と杏依菜のふたりきりで、無機質な世界だけど、あのときは当たり前のように多くの観光客がいた。
夢では静かな世界だけど、現実はいろんな人の楽しい声で少しだけガヤガヤしていた。
その一部分だけなら、まだ、大人に近づききれていない、ふたりの青いままスノードームの中に保存された素敵な思い出なんだと思う。ただ、そんな杏依菜との思い出をようやく整理する気になったのは、18歳を超えて、20歳になったからかもしれない。
別に誰に当てて書くわけじゃないけど、ただ僕は遠くなりつつある、君との青い思い出を忘れないうちに保存したいと思っているだけだ。
今日は新月で、ついさっき、Voidタイムが終わったらしい。
これから書くことは、僕にとって、二度と忘れられない君のことを自分用にまとめる。
1章
1 杏依菜
転校初日は、私にとって、ストレスだった。
そもそも、緊張に弱いのに、なんでこんなことしなくちゃいけないんだろう。仕方ない、お父さんの転勤についてきたんだから、こうなるのは、引っ越しが終わってから、わかりきってたことじゃん。
地図が苦手な私は、学校と、国分寺駅と、自宅の位置関係が頭のなかで、あべこべで、二日連続、学校に行く練習をして、ようやく、この街の雰囲気がなんとなくわかるようになった。
私には、少し田舎くらいがちょうどいいのかもしれない。富山は馴染みやすかった。
私の人生のなかで引っ越しは二度目らしい。らしいというのは、一度目は、一歳のとき、札幌から富山に引っ越すときで、当たり前だけど、私は小さすぎて、わかっていなかった。生まれは、母親の里帰り出産で、秋田の由利本荘(ゆりほんじょう)だった。
つまり、生まれは秋田で、一瞬だけ札幌に居て、そして富山で育った。つまり、日本海側の人間で、どちらかというと、寒さに強い人間になったのかもしれない。
だけど、札幌の凍てつく寒さなんて覚えていない。
そんなこと、考えながら、なんとか学校にたどり着くと、学校のなかは、まだ、少しだけ朝の冷たさが残っていて、人もまばらだった。
転校生だけ、少し早めに登校しなくちゃならなくて、あまり来たことがない時間に、知らない学校のなかにいる。言われたとおり、階段を登り、二階まで向かう。そして、二階の真ん中くらいに職員室があるから、そこに行くように言われたと、お母さんが言っていたのを思い出した。
二月末に突然、引っ越すことが決まったって、告げられて、富山の仲間と離れたくなくて、私は泣いた。今まで、それなりに上手くいってたから、仲がいい友達と離れたくなかった。あと、一月に、たまたま男子と教室でふたりきりになって、少しだけ気持ちが揺れたから、その男子とも、離れたくなかった。
四年生も楽しくて、上手く行っていたから、このまま、富山で五年生のストーリーを楽しみたかった。だけど、神様はそれを許してくれなかった。
私のなかで、勝手に描いていた五年生は、ずっと、富山に住んだまま、一月に気になっていた男子とも、それなりに会話をして、仲良くなりたかった。そして、なにより、仲間と楽しい思い出を沢山つくってみたかった。去年の夏休み、仲間と、また来年も花火とか、お祭り、行こうねって言い合っていた。
だけど、そうならなかった。
二階にたどり着くと、職員室は簡単に見つかった。急に心臓がドキドキとし始めた。
私の新たな生活が始まるんだ――。
ドキドキを感じながら、職員室のドアの前までたどり着き、私は、すっと息を吐いたあと、ドアを軽くノックして、ドアを開けた。
まさか、その数分後、私に初恋が訪れるなんて、その時はまだ、予感すらしていなかった。
2 夏織
彼女との出会いはすごくシンプルだった。
出会いは、小学校5年生のときで、この年の春、親の転勤で国分寺に移り住んだからだった。地図で見ると、西武国分寺線と西武多摩湖線が右足の革靴のような、大きな円で囲われている場所に新しく住むマンションや小学校、そして、父親の新たな職場が全部入っていた。
どの転校生も経験する複雑な気持ち――。
つまり、引越し前のほうがよかったとか、そういう後ろ髪を引かれる思いなんて、ほとんど感じていなかった。これは、前の学校で上手くいっていなかったからかもしれない。だけど、どの転校生も経験するように、僕はものすごく、ドキドキして、転校初日を迎えた。
見慣れない街、都会で慣れない人の多さのなかを歩いている。当たり前だけど、どの街も朝は忙しそうなんだって思った。
スーツを着る仕事へ向かう人、制服を着て学校へ向かう人、そして、私服でランドセルを背負い小学校へ向かう人。
僕は転校初日で、緊張しながら、私服でランドセルを背負い小学校へ向かっている。
転校生なんて、何人かいるはずだ。だけど、なぜか僕だけがこの街で唯一の転校生なんじゃないかって、勝手に思うくらい、謎の寂しさを感じている。
だから、同じ学年、クラスで、転校生は僕ひとりかと思っていた。だけど、職員室の古臭いソファに座っていたのは、僕だけではなく、僕のとなりに、女子が座っていた。先生がちょっとそこでまってて。と言い残して、どこかへ行ったとき、
急に話しかけられた。
「ねえ」
「――どうしたの?」
「こういうこと、得意?」
「こういうことってなに?」
僕がそう聞き返し、彼女を見ると、彼女はふふっと小さく笑った。彼女の肩くらいまでの黒髪は白色の蛍光灯の、光を反射して、きれいに見えた。
「どうして笑ってるんだよ」
「ごめん。私、こういうとき、変に笑う癖があるんだと思う」
ようやく、僕は、その彼女の言葉で、彼女が緊張していることに気がついた。職員室はコーヒーの匂いがしていて、何人かの先生が忙しそうにPCに向かってキーボードを叩いている音が響いていた。誰かは、電話を取って話しているし、奥側の窓側の席で、ふたりの先生が何かを話していたのか、笑い声がした。
「――名前」
「え?」
「名前、なんて呼べばいい?」
僕は彼女の名前を聞くことにした。
「――湯浅杏依菜(ゆあさあいな)。君は?」
「川上夏織」
「夏織くんね。私たち、道に迷ったヨークシャーテリアみたいじゃない?」
「ヨークシャーテリア?」
「毛の長い犬」
「緊張しすぎじゃない?」
そう返すと、杏依菜は、またふふっと小さく笑った。さっき、自分が発したことが少しだけキツイように感じたから、僕はそんな不思議なことを言う杏依菜のことを補うことにした。
「嫌いじゃないよ」
「――えっ?」
「そういう、犬に例える感じ。確かに、俺も緊張してるし。変なこと言いたくなる」
「私、ちょっと、変なんだ。よく、なに考えてるかわからないって言われるし」
「いや、だから、そういうのを含めて――」
言葉に詰まってしまった。なんて言えばいいんだ――。
「だから――。今まで、よく頑張ってきたんだと思うよ。今日から、力抜いてやろう」
もう、自分でもよくわからなくなった。
一瞬、杏依菜と目が合い、そして、彼女はわずかに微笑んだような気がした。
――ほんのコンマ1秒。
たったそのくらいの時間だ。
「――ありがとう」
杏依菜がそう言ったあと、聞き慣れないチャイムの音が流れた。
3 杏依菜
疲れた。
今日の一日を表すと、この一言だった。
私は今、日記を書き、今日のことを振り返っている。
去年のクリスマス、イオンの中の本屋さんで買ってもらった、LAMYの黄色いボールペンで、私は書くことを進める。私が書くことを始めたのは、二年前の三年生のときだった。当時はまだ、書ける感じも少なくて、書くのすら、大変だったけど、今では、それなりに書くことができるようになった。本当はiPadで小説を書いてみたいけど、キーボードで文字を打つのが難しそうだから、まだ、やったことない。
そもそも、人付き合いなんて、あまり得意な方じゃないんだった。
今日はそれを思い出した一日だった。
どちらかというと、派手さとは、無縁の私だ。だけど、そんな私に、優しくしてくれた子もいた。紗耶香(さやか)という黒縁メガネが印象的な、女子が私の席の隣で、戸惑っている私にいろんなことを教えてくれた。
どちらかというと、この学年の女子は、活発な子が多いこと、このクラスの3割は去年も同じクラスのメンバーだったということ、多分、クラスの中心になるのは、そのグループだということを聞かされた。
紗耶香も読書が好きだってこと、どちらかというと、家でどうぶつの森をやるタイプだってことが、私たちの中で盛り上がった。
紗耶香と上手くいってよかったと思う。
だけど、クラスの中心になりそうな女子達と、話したとき、妙に噛み合ってなくて、空回りした。たぶん一軍って呼ばれるようなグループの子たちとは、あまり上手くいかなかったような気がする。
私が富山の仲間内で言っていたように、変なことを言って笑わせようとしたら、
「意外と、不思議ちゃんなんだね。そういうふうに見えないのに」と冷たく笑われた。その冷たさで、急に私は思い出してしまった。そうだった、富山では上手く行き過ぎてたんだった、と。
何が好きなの? って話しになって、いろいろ聞いたら、東京のことばかり言っていた。ママと原宿でなになにを買ったとか、可愛いリップあってさ、まあ、プチプラなんだけど。とか。
それで、メイク系でおすすめとかあるって聞かれて、わからないって言ったら、だよね、そういうタイプに見えたって言って笑われた。
だから、話を変えようと思って、こないだセブンで期間限定のスイーツ食べたんだけど、美味しかったよって言ったら、パパがこの間、東京駅の新しい桜プリン買ってきてくれたとか、返されて、私から振った話題は一瞬で終わった。
これがカルチャーショックか、って思った。
一軍女子達が、私に興味がなくなったのか、もう次の休み時間には、話しかけてこなくなった。紗耶香が心配してくれたのか、小声で、「あいつら、たかが知れてるでしょ。ただの新しいもの好きなんだよ。いつか、あいつらのプリ燃やしたいって思ってる」って言った。
紗耶香が忍ばせれていた、その黒さは意外だったけど、たぶん、このクラスで一番、仲良くなれるかもって、すぐに確信した。
だから、紗耶香のおかげで、今日が最悪な一日にならなかった。
ペンを置き、ふと、夏織くんのことを思い出した。
夏織くんとは、朝、職員室で話したあと、結局、なにも起きなかった。
――当たり前だよね。
そもそも、私が期待しすぎなんだと思う。
再び私はペンを持ち、あのとき言われたことを、ノートに書くことにした。
《よく頑張ってきたんだと思うよ。力抜いてやろう》
「――変な人」
いい女になったつもりで、そんなことをぼそっと言ってみたけど、私は全然、いい女なんかじゃない。
4 夏織
それなりに今日は上手くいったと思う。
転校前は、こんなに話せなかったし、キャラが勝手に固定されて、とっつきにくいよ。とか、よく言われた。
そういう周りが勝手に決めつけるイメージから、抜け出すことができてよかったと思う。そう考えると、やっぱり人間関係って運なんだと思う。そんなことを考えながら、とりあえず、Switchで、どうぶつの森を進めている。
ベッドでうつ伏せになりながら、Switchを持ち、ゲームを進めている。父さんはまだ帰ってこれないみたいだし、母さんは、金曜日だから、いいでしょとか、勝手なことを言って、プレミアムモルツを2缶飲んで、眠くなったのか、リビングのソファで眠ってしまった。リビングのテレビの音が微かに聞こえる。
そして、手元のSwitchの音も、それなりに部屋のなかで響いている。
今日の教室でのやりとりを思い出した。転校生って、話しかけられるから、自分を変えるチャンスだって、父さんが言っていた。そのとき、ちょうど、追越車線に入り、スバルフォレスターは、簡単に100キロを超えた。
一台の遅い軽自動車を追い抜いたあと、父さんはそそくさと、また左車線に戻った。あまり、派手な追い越しをかけない、父さんが珍しく、追い越しをしたことのほうが、印象に残っている。
だから、説得力ないなとか、おもっていたけど、たぶん父さんが言っていたことは、本当なんだと思う。
何人かが、案の定、転校生を珍しがってか、僕に話しかけてきた。だけど、悪ノリとか、そういうのはなかったから、ほっとした。
本当に僕のことを知りたいみたいだったし、サッカーとかやらない? って言われて、運動神経が悪い話しをすると、アメトークの運動神経悪い芸人の話しになり、いや、そこまでじゃないとか、言っていたら、ゲラゲラ笑って仲良くなっていた。
「いいじゃん、下手でも。最初はみんなそうでしょ」と、影山が言ってくれたから、こいつ、めっちゃいいやつじゃんって思いながら、「マジで下手だから、マネージャーやるわ」って返したら、まためっちゃ笑われた。
こんな僕のことを、仲間にしようとしてくれていることが、ただ、ただ、嬉しかった。
あと、なぜか女子の活発な軍団のほうにも話しかけられた。こんなこと、今まであまりなかったから、びっくりした。それに、好きな食べ物は? とか、ゲームは? 血液型は? 甘党? とか、本当になんでそんなこと聞くんだろう。事情聴取かよってことばかり聞かれて、面倒だった。
『私たち、道に迷ったヨークシャーテリアみたいじゃない?』
朝、緊張しているなか、職員室で、杏依菜にそう言われたことを思い出した。
なんで、道に迷ったヨークシャーテリアなんだろう――。
一旦、スタートボタンを押して、どうぶつの森を止めたあと、Switchのホームボタンを押し、ブラウザを起動した。
そして、『ヨークシャーテリア』と検索すると、黒と茶の毛がふさふさで三角耳を立てている、子犬が出てきた。
「へえ、変わってる」
ぼそっと、言ったあと、再び、どうぶつの森の穏やかな時間に戻った。
5 杏依菜
四月がもうすぐ終わろうとしている。三週間が経ったけど、未だに私はクラスに打ち解けることができていなかった。紗耶香とは、そこそこ仲良くなったと思う。だけど、ほかの女子たちは、もう私のことなんか、興味が持っていない。
夏織くんは、私と対になるように、クラスのなかでよく話かけられていた。端から見ていると、夏織くんは、タイミングによっては、クラスの中心にいるようにも見えた。
一軍女子は、夏織くんのことが気になるみたいで、結構ちょっかいをかけていた。噂では、夏織くんは、女子の間で、かっこいいって言われ始めていた。なんか、ツンデレ属性があるとか、クールで大人っぽいとか、やっぱり、この辺にいる男子と、転校生じゃ、格が違うとか、そんなことばかり、女子の間で、夏織くんは話題になっていた。
もちろん、私と夏織くんとの接点はなかった。私は私の生活を過ごし、夏織くんは夏織くんの生活を過ごしていた。
やっぱり、一軍女子から見て、私の第一印象が最悪だったんだと思う。授業のときとか、必要なときだけ、表面上、話しかけられるけど、休み時間は、ほぼ話しかけられなくなった。
一軍の彼女らが勝手に描き、求めていた転校生のタイプではなかったのか、私はすっかり陰のほうにカテゴライズされたようだった。
いじめられないだけ、マシだと思った。下手したら、いじめられていたかもしれないって、ふと思った。
もしかしたら、クラスで上手くいかなかった場合、このまま、無関心でいてくれたほうがいいのかもとも、私は思い始めていた。
その所為か、去年まで持っていたはずの、私のリズムが崩れ、私らしさってなんだろうって、たまに思うようになった。別に紗耶香と遊ぶこともなかった。
教室のなかは、帰りの会の前で、ざわざわとしていた。だから、私も隣の紗耶香に話かけた。
「紗耶香、今日、このあとなにかあるの?」
「今日も、バレエだよ」
「だよね」
本当はそんなの知っていた。木曜日もバレエだってことも。私だってバカじゃない。だけど、バカな話しかけをしたいくらい、誰かと放課後、一緒にいたいから、淡い期待を少しだけしてみただけだった。
「ゴールデンウィークに発表会近いから、ここ最近、ずっと練習ばっかりなんだよね」
「そうなんだ。忙しそうだね」
「うん、だけど、慣れちゃったよ。六月に少し大きい大会もあるから、去年もこんな感じだったから」
「そうなんだ――。大変そう」
「うん、大変だよ。だけど、楽しいからいいやって思ってる」
思わず、紗耶香を見ると、紗耶香は微笑んでいた。
「ねえ、杏依菜」
「なに?」
「だから、うちらさ、夏休みのどこかで遊びたいね」
「いや、先すぎでしょ。私は明日でも、今日でもいいんだよ。まあ、仕方ないけどさ」
明日からゴールデンウィークが始まる。やっぱり、紗耶香とは、話がそこそこ合うような気がしている。というか、紗耶香がもし、隣の席じゃなかったり、同じクラスじゃなかったら、もしかしたら、私は孤立していたかもしれない。
それくらい、四月は紗耶香の存在に助けられたし、私は、自分らしさや、似た価値観の女子を、まだ見つけられていなかった。
学校が終わり、紗耶香と、玄関まで一緒に行き、そして、玄関を出ると、手を振った。
その理由は単純で、紗耶香はバレエ教室に行くために、紗耶香のお母さんが車で迎えに来ていたからだった。
窓越しに紗耶香のお母さんが手を振ってくれた。それくらい、すでに顔見知りの関係になった。紗耶香が車に乗り込むと、車はゆっくりと出ていった。
それを見て、私は思わずため息をついてしまった。
紗耶香は、バレエの習い事をしてるから、こんな感じで、忙しそうだったし、学校のなかで私はすでに紗耶香がいないと、私は、こんな感じで、ひとりぼっちだった。
また、いつものように、学校から家へ帰り始めた。
転校してから、学校が終わり、家に帰っても、18時すぎまで、ひとりだった。お父さんは転勤してすぐで、まだ忙しいみたいだし、お母さんは、やっぱり東京だと、パートやれそうなのいっぱいあるとか言って、学校が始まって一週間でフルタイムの事務のパートをし始めた。
三週間でだいぶ、歩き慣れてきたような気がする。同じ学校から出てきた子たちの後ろを黙々と歩いている。いつものように、セブンイレブンの前を通り過ぎ、青い自販機の前を通り過ぎ、黙々と歩く。その間に何台かの車が私の右側を通り過ぎた。
歩き続けると、見慣れ始めたコインランドリーの大きな看板が見えてきた。
私は帰っても、ひとりきりで、せっかく新しい街に引っ越したばかりなのに、私には、もう、この街にはやることがないようにさえ思えた。
「あっ」
そう小さく言ったあと、私は立ち止まり、そして、来た道を戻り始めた。 だけど、ひとつだけ、興味あることはあるんだった。
お母さんと買い物に行った帰り、図書館の前に通りがかった。家と反対だけど、わりと近い場所にあるはずだから、そこに行ってみることにした。私は元々、本を読むは好きだし、富山でも、たまに図書館に行ったりしていた。
歩いているうちに図書館が見えてきた。図書館は、公民館と一緒になっていて、比較的大きい感じがする。四月なのに、今日は25℃を超えていたから、思ったより、長い時間歩くことになったから、少し汗ばみ始めていた。
自動ドアをくぐり、公民館に入ると、少しだけひんやりとしていた。公民館のロビーは、吹き抜けになっていて、向かい側には、2階の高さまでガラス張りで開放感がある。そのガラスの先には、中庭が見えていて、白いパラソル付きのテーブル席が縦に三つ並んでいるのが見えた。中庭から入る昼間の白い光が、濃い茶色のタイルを白くしていた。
左手に図書館の入口があり、私はそのまま入ろうとしたとき、急に肩を叩かれ、びくんとした。
――えっ、なに?
振り返ると、夏織くんが驚いた表情をしていた。私は状況を理解することができないまま、ただ、心拍数が急に上がり、その低重音が胸のなかで響いているのをただ、感じるだけだった。
6 夏織
自分でも、なんで、そんなことをしたのか、わからなかった。
ただ、こんなところで会うなんて思っても見なかったから、驚いてしまった。
別に声をかけるだけでよかったはずなのに、気がついたら、杏依菜の肩に手をかけていた。
「あっ」
だから、右手で、杏依菜の左肩に触れた瞬間に僕のほうが、思わず声を出してしまった。だけど、杏依菜はゆっくり振り返ってくれた。そして、杏依菜と目があった。急にドキドキし始めて、僕は、杏依菜にかけたままの手を、そっとおろした。
呼吸は少し乱れていて、まだ整っていない。だけど、それこそ、杏依菜がそんな僕の姿を見て、きっと戸惑うだろうから、僕は、すっと息を吐いた。そして、言うことなんて、なんにも考えてなかったけど、とりあえず、そのままのことを聞くことにした。
「こんなところで、出会えるなんて思わなかった」
「――わ、私も」
「――だよな」
別に杏依菜のうしろを付きまとっていたわけじゃない。駅前通りの交差点で信号待ちをしていたら、向かい側の道を杏依菜が歩いていた。杏依菜はたぶん、信号待ちをしている僕のことには、気づいていなかった。杏依菜はそのまま図書館の方へ歩いていった。信号がなかなか変わらなくて、もどかしく思えた。
ようやく、信号が青になったから、僕は小走りで、駅前通りを渡り、杏依菜を追いかけた。
どこにいくんだろう。図書館だったらいいな。って勝手に期待していたら、本当に杏依菜は図書館に入っていった。
だから、小走りから、徐々にスピードをあげ、杏依菜との距離を縮め、そして、自動ドアをくぐり、ロビーでようやっと追いつくことができた。走った勢いの所為で、思わず、杏依菜の肩に手をかけてしまった。
「もしかして、追いかけてきてくれたの?」
「最初からじゃないよ。駅前通りで信号待ってたら、杏依菜のこと見えたから、もしかしてと思って追いかけた」
「やっぱり、追いかけてくれたんだ。ごめんね、夏織くんのこと、気が付かなくて」
杏依菜は、そう言いながら、最初は戸惑っていそうな表情だったのに、途中から、一気に微笑んでくれた。その姿が、ただ可愛いく見えた。そう意識すると、胸の奥が熱くなり、むず痒い感じがした。
「違うよ。気になったから、追いかけたんだよ。そうだ、中庭で――」
「いいよ」と僕のほんの少しの勇気を出して言おうとした提案は、杏依菜の軽い返事で、あっさりと決まってしまった。
7 杏依菜
嬉しすぎて、夏織くんが言っている途中で、返事しちゃったじゃん。しかも、食い気味に。
引かれてなければ、いいけどと思いながら、せっかちすぎる私のことを悔やみながら、夏織くんの横を黙ったまま、歩き、そして、中庭に出た。夏織くんがドアを開けた瞬間に、ぶわっと風が入ってきて、私の前髪が乱れたから、それを右手で払った。真ん中に白いパラソル付きのテーブル席が三つあって、壁側に木のベンチがいくつか置いてあった。
手前のパラソル席には、おじさんが座って、スマホをいじっていた。私は夏織くんの後ろにくっついて、歩き、一番奥のパラソル席にたどり着いた。私と夏織くんは、それぞれランドセルをテーブルの上に置き、向かい合うようにして、椅子に座った。座った直後に、また風が吹き、近くの木の葉が微かに揺れていた。
――緊張する。このまま、お互いに黙ったまま、終わっちゃったらどうしよう。
そんなことを考える私は、無駄だってことを夏織くんは、あっさりと証明してくれた。
「あー、あのさ」
「――なに?」
「ヨークシャーテリア」
「えっ?」
「だから、ヨークシャーテリア、家帰って調べたんだ。Switchで」
「そうなんだ――」
最初からめちゃくちゃ、はずかしかったことを掘り返してくるじゃん。私は、恥ずかしくなって、思わず夏織くんから視線を反らした。
「黒と茶の毛がふさふさで三角耳だった」
「そう、それがヨークシャーテリア」
もう、自分でも意味がわからない返ししかしてなくて、本当に最悪だ。これじゃあ、オールスター感謝祭のクイズみたいになっちゃってるじゃん。
「マジで道に迷ってるかも、お互いに。って思ったよ。あのあと」
「――そうなんだ」
気になりすぎて、再び、視線を夏織くんに戻した。夏織くんは、クールな印象の表情をしていた。夏織くんって、いつも、少し冷めているところがあるのかな――。
「そのおかげで、前の学校のイメージから、変えることできた。だから、お礼言いたいなって思った。――ありがとう」
「――そうなんだ」
よかったね、それだったら。と思うと、私は急に気持ちが沈み始めた気がした。これをあえて例えるなら、流氷の上に取り残されて、仲間とはぐれたアザラシくらい暗い気持ちだと思う。あ、君は成功したんだ。私はデビューに失敗したんだよ、君はいいよねって、感じ。
だけど、今は自分のことより、いい感じの女子だったら、どう返してあげるんだろうって考えちゃう。
そういえば、なにかの本に共感することは大事だみたいなことが書かれていたことをふと、思い出した。
「よかったね」
私がそう返すと、夏織くんは、ふっと鼻から息を漏らし、弱く笑った。だけど、なぜかわからないけど、一瞬、悲しそうにも見えた。その夏織くんの姿がなぜか切なく感じて、私は、今、感じている感情が、自分が上手くいっていない虚しさなのか、それとも、夏織くんの悲しさに共感しているのか、よくわからなくなってきた。
「――だけど、それ、本来の俺じゃない」
「えっ?」
「本当は、本読んだり、図書館にいるタイプの人間だよ。なのに、転校してからのこの三週間、自分でも出来すぎてると思う」
「――そんなふうに見えないけどね」
「それが問題なんだよ」
そう言ったあと、夏織くんはまた、乾いた感じで笑った。なんか、その笑い方が、卑屈っぽくて、呆れ笑いのように見えた。そのあと、お互いに黙ったまま、無駄に時だけが流れていた。春の時折、冷たい風が吹くたびに、私の髪は乱れたから、そのたびに、右手で直した。夏織くんは、次の言いたいことをなにか、考えているみたいだけど、まだ、その言いたいことは見つかっていないようだ。
「――まだ、学校始まって三週間だよ。夏織くんは、上手くやってるように見えるよ。それに比べて私は、ダメだよ。もう、みんなの関心が私からなくなったもん」
「俺は、関心あるから、声かけた」
「あ、ありがとう」
関心があるんだ。こんな私に――。
「本当は、本読んでたいんだよ。学校でも、教室でも。だけど、みんな誘ってくれるんだよ。遊びに」
「それって、前の学校では、本読んでたってこと?」
「そう、ずっと本読んでた」
「そしたら、私も似たようなものだよ」
「やっぱりそうだと思った」
「だけど、私は前の学校では、教室で本は読まなかった。放課後、図書室か、図書館に行って、本読んでた。今日みたいに」
「じゃあ、前の学校では、上手くいってたんだ。杏依菜は。すごいな」
そう言って、こんな私に微笑んでくれる夏織くんは、本当に優しいと思う。だけど、夏織くんは、前の学校で、教室のなかで本、読んでたんだ。教室のなかの夏織くんには、そんなイメージなかった。男子六人くらいで固まって、なんかいろんなことを話しているイメージだった。それどころか、本すら学校に持ってきてないような気がする。
だけど、そういうタイプじゃないんだ。
だったら――。
「ねえ」
「なに?」
「放課後、私と付き合ってよ。一緒に本読みたい」
そうだった。転校する前の私って、こうやって、自然体でいろんな人に微笑むことができていたような気がする。だけど、ここ最近は、そうやって、自然体になれていなかったし、紗耶香の前でも、まだ作っているところがある気がする。
だけど、夏織くんの前では、なぜかそれができた。
どうしてだろう――。
そう思いながら、夏織くんのことを私はじっと見つめ続けた。
ふふ、夏織くんって面白いな。
顔赤くなってるじゃん、かわいい。
8 夏織
一気に、顔が熱くなる感覚がした。顔どころか、耳すら熱くなっているような気がする。
杏依菜は僕のことを覗き込むように、じっと見つめ続けている。杏依菜の瞳は、少しだけ茶色っぽくて、大きく見えた。吸い込まれそうなくらいだ。ドキドキと心臓は、また胸で早いリズムを刻み続けている。
断る理由なんてない。女子と一緒にいるとからかわれるとか、そういうのは、どうでもいい気がした。そもそも、この図書館まで来たら、同級生と会うことなんて、ほとんどないと思う。みんな、習い事か、家に帰ってゲームしている。
素直に、僕は杏依菜と一緒にいたいし、もっと杏依菜のことが知りたくなった。
だから、しっかりと言うことにした。
「――いいよ」
「やった。嬉しい」
「どれくらい、嬉しい?」
「生き別れたクジラの親子が感動の再会を果たすくらい」
「それ、すっと、答えられるの、面白すぎるんだけど」
「いつも、こんなこと、考えてるからね」
杏依菜がそう言ったから、僕は思わず、笑ってしまった。本当に、杏依菜って変な人だと思う。だけど、こんなこと話せる人と出会ったのも人生で初めてだし、素直に楽しいって思った。そして、もっと、そういう話をしたいし、もっと、杏依菜の笑顔が見たくなった。
「――こんなんだから、私、クラスであんまり、上手くいってないんだと思う」
「え、上手くいってないの?」
僕は傍目から見てて、杏依菜は大人しいだけかと思っていたから、そう自分で認識しているということが意外だった。
「私、紗耶香がいなかったら、ぼっちだったよ、きっと。誰とも話せないまま、微妙にみんなと話が合わないまま、もっと浮いてたと思う」
「だけど、話してるじゃん」
「そうだよ。紗耶香は、話してくれるよ。だけど、私、もっと、普通にクラスに馴染めると思ってたから、ちょっとショックなんだよね。前の学校では、そこそこ上手くいってたから」
「それ、さっきも言ってた。――つまり、本当は転校したくなかったってこと?」
「そう、もし、転校してなかったら、余裕でハッピーだったかも」
「そうなんだ」
としか、僕は返せなかった。だけど、それが普通だと思う。普通、上手くいってたんなら、転校なんてしたくないと思う。今のままでいたいって思うのが人間だと思う。だって、大昔の人って、そこで生まれたら一生、そこで住んでたでしょ。それなのに、今は、大人の勝手な事情で動くことになるんだから。
転校して、よかったって思っているのは、もしかしたら、僕だけかもって、ふと思うと、僕はやっぱり捻くれ者だなって思った。
「ねえ、新月にお願い事したら、叶うって知ってる?」
「ううん、知らない」
「新月のときに、お願いしたんだ。クラスで上手くいきますようにって。だけど、お願い効いてないよね。もしかしたら、Voidタイムに頼んじゃったのかな」
「ボイドタイム?」
「そう、Voidタイム。その時間に願ったことが無効になるんだって」
「つまり、そのVoidタイムにお願いしたから、今が上手くいってないかもってこと?」
「そう、そういうこと」
杏依菜が寂しそうにそう静かに言ったのが、妙に印象的だった。たぶん、本当に新月に願っていたのかもしれないって思った。だけど、願いが叶わなかったのが、本当にVoidタイムだったのかどうかなんて、今更、確かめようもないよなとも思った。
「――どうぶつの森」
「どうぶつの森?」
ぽつりと脈絡もなくいい始めた、杏依菜のそれで、僕の脳内で一瞬で、自分のセーブデータを思い出した。だけど、どういう会話の流れで、急に、どうぶつの森が出てくるのか、よくわからなかった。
「みんなでやるくらいだったし、推しの話したり、普通に楽しかったな。だけど、今はそれがない」
「だから、図書館に来てみた」
「そう、そういうこと。今までたまにしか来なかったのにね」
「じゃあ、本より、どうぶつの森のほうが、好きなんじゃない?」
「夏織くん、それは難しいよ。だって、どうぶつの森はどうぶつの森でしょ。本は本じゃん」
「俺もどうぶつの森、好きだよ。今度、やろうよ」
「え、いいの?」
いや、いいの? って聞き返される意味がわからないよ。一緒にどうぶつの森だってやったっていいじゃん。って心の中で、そう思ったけど、それは言わないことにした。前の学校で、素直に言い過ぎて、女子を泣かせたことがあった苦い思い出を、ふと思い出した。
「とりあえず、今日は本読もう。せっかく図書館来たし」
「ねえ」
「――なに?」
「うち来てよ」
「えっ。だけど、いいのかよ」
「いいよ。女子の部屋、興味あるでしょ?」
「答えづらいんだけど」
なんで、こんなに急なんだろう――。
いや、ただ、人と一緒にどうぶつの森を久々にやりたいだけなのかもしれない。
「家から、ここまで何分くらい?」
「十分くらい」
「Switch持ってきて。ここで待ってるから」
「じゃあ、一緒についてこいよ」
「えっ。――いいの?」
「そのほうが、効率いいじゃん」
僕はそう言いながら、椅子を引き立ち上がった。
「最高じゃん」
笑顔を浮かべながら、杏依菜も同じように椅子を引き立ち上がった。
9 杏依菜
公民館を出て、歩道を横並びになって、夏織くんの隣を歩いている。まさか、こんなことになるなんて思わなくて、ドキドキは止まらない。その所為か、夏織くんと私は黙ったまま、夏織くんの家まで、歩き続けた。
「ここだよ」
マンションの前にたどり着くと、マンションを指さして、そう言った。ガラス扉をスライドさせて、小さなエントランスに入った。少しだけ空気はひんやりとしていて、春の匂いが際立っているような気がした。
「ここで待ってたほうがいい?」
「いや、いいよ。一緒についてきてよ」
夏織くんは淡々とした感じで、インターフォンに暗証番号を入れて、オートロックを解除し、扉を開けた。
「番号覚えるのに、三日かかったんだ」
「はやいほうだよ。私なんか、一生覚えられないと思う」
「そんなわけないでしょ」
夏織くんは笑いながら、私にそう返した。
「そういうの簡単に覚えられる人、羨ましいな」
「別に自慢したいわけじゃなかったのに」
「いいじゃん、私なんか、パンダが空飛ぶクジラを数えて、何頭飛んでたか忘れるくらいの記憶力だもん」
「いや、状況がファンタジーすぎ」
「なんだ、わかってくれると思ったのに」
そんなくだらないやり取りをしているうちに、エレベーターの前に着き、そして、エレベーターに乗り込んだ。夏織くんが七階のボタンを押し、閉じるボタンを押すと、エレベーターの白いドアはすっと閉まり、昇り始めた。
「じゃあさ、杏依菜」
「なに?」
「無数の本が飛び出して――。えーっと。その本が、忘れてたことを教えてくれるとかは?」
夏織くんを見ると、眉間にしわを寄せて、考えながら言っていたから、それが面白くて、私は思わず笑ってしまった。
「やっぱり、変だったか。難しいな」
「一生懸命考えすぎなんだよ。こういうのはね、なにも考えないでポンポン言うものなんだよ。赤ちゃんのチンパンジーをランドセルで担いで、肩越しに指差しで、暗証番号、押してもらうとか」
「チンパンジー、すごすぎでしょ」
「でしょ? なにも考えないで、考えたらいいんだよ」
「やっぱ、負けるわ」
夏織くんは、そう言いながら、また笑ってくれた。
私は得意げにそんなことを言っているけど、こんなこと言ったら、やっぱり変な子だと思われるよねって、ふと、我に返った。冷静にそんなことを考えると、本当に私は、自分のなかで、いつも描いている理想のいい女像から、相当離れてしまっている。
富山では、みんなのことをそんな、しょうがない妄想ばかり話して、笑わせていた。仲がよかった友達は、私が変なことを言うと、めちゃくちゃ、面白がってくれた。
だから、どんどん、いつも考えていることを言いまくって、笑わせて、言いまくって、笑わせてばかりをしていた。
「――なあ」
「な、なに?」
「なんか、久しぶりにすごい笑った気がする」
「――えっ」としか、口に出すことができなかった。久々って、いつもクラスで笑ってるじゃん、夏織くん。
なのに、私のそんな些細なことだけで笑ってくれて、それをすごい笑った気がするって表現してくれたの?
そんなこと、考えているうちに、エレベーターは七階に着き、ゆっくりドアが開いた。
10 夏織
玄関で杏依菜を待たせている。家に入れてもいいけど、どうせ、持って行くものは決まっているし、こんなのすぐに準備できる。家には、母さんはいなかった。たぶん、買い物に行っているんだと思う。だから、友達と遊びに行ってくると、キッチンにあるホワイトボードに書き残した。そして、自分の部屋にランドセルを置き、トートバッグにSwitchをそのまま入れて、杏依菜がいる玄関に戻った。
「おまたせ」
「待ってないよ。このディフューザー、いい匂いする」
「あー、ラベンダーな」
これ、ディフューザーって言うんだって思った。母さんが先週、国分寺のロフトで買ってきたって言ってた。小さいフラスコみたいな瓶に、数本の棒がニョキっと出ている。それがディフューザーらしい。母さんがそれを玄関に置いた日、これ、なんの匂いって聞いたら、『ラベンダー味』って言ってたのを思い出した。
味じゃないじゃんって、母さんに返したら、母さんはプレミアモルツを飲んでいるみたいにゲラゲラ笑っていた。
「おしゃれだね」
「母さんの趣味だから」
「じゃあ、お母さん、きっとおしゃれでしょ」
「いや、都会に来て、ウキウキしてるんだって」
「じゃあ、家のお母さんと一緒だね」
杏依菜がニコッとしたから、僕は思わず、ふっと、鼻から息を抜くように笑った。そして、靴を履き、ふたりは玄関を出た。鍵を締め、下りボタンを押すと、また、お互いに黙ってしまった。その間に、エレベーターの回数表示は、一から二、三と数字を変え、七階へ向かっていた。
この沈黙の間に、僕は急に不安になってきた。
「なあ、本当に家に行っていいのかよ」
「え、いいじゃん。だって、どうぶつの森一緒にできるよ」
「そうだけどさ――。女子の家だよ」
「私がいいって言うならいいでしょ」
確かにそうかもと思った。杏依菜がいいなら、いっか。そんなこと考えているうちにエレベーターが七階に着き、ドアが開いた。だから、また僕と杏依菜はエレベーターに乗り込んだ。
ドアが閉まり、エレベーターが動き出した。また、無言になるかと思ったけど、今回はそうじゃなかった。
「ねえ」
「なに?」
「――モテてるよね」
「はい?」
僕は意味がわからずに、思わず、杏依菜に強く返してしまった。
「ほら、一軍女子にちょっかいかけられてるじゃん」
「あー、あれのことか。それってさ、モテるのうちに入らなくない?」
「入るでしょ。私から見たら、楽しそうに見えるんだけど」
目を細めて、杏依菜を見ると、杏依菜は、なぜかほっぺたを膨らませて、不服そうな表情をしていた。
「あのさ、俺が毎日、どれだけ質問攻めされてると思う?」
「骨折したキタキツネにフルマラソンを代わりにお願いされてるくらい質問されてるよね」
「なんか、その例え、あってるんだか、あってないんだか、わからないよ」
「わかる、わからないじゃないの。こういう変なことは、すっと言えることが大切なの。そうじゃなくて、いろんなこと、女子から聞かれてるよね」
そのことかと思った。だけど、杏依菜はどちらかというと、クラスの中では、目立たないほうなのに、どうして、僕が女子から、くだらない質問をされていることを知っているんだろう――。
「じゃあさ、今日聞かれたこと、答えてよ」
「嫌だ。それ、私も聞きたいことだから」
杏依菜が言い終わると、同じくらいにエレベーターが止まり、そして、ドアが開いた。なぜか、またドキドキし始めて、両手が熱くなり始めた。ぼんやりしている間に、杏依菜は、僕より先にエレベーターを出たから、僕は慌てて、杏依菜の後ろを追うようにエレベーターを出た。
11 杏依菜
「家、どっちのほうなの?」
「えっと、けやき公園の近く」
「そしたら、こっちからのほうが早いかも」
夏織くんに言われるがまま、私は夏織くんが歩くほうへ、ついて行った。
近所のはずだけど、初めて通る道で、本当に家までたどり着けるのか一瞬、不安になった。夏織くんだって、引っ越してきたばかりなのに、どうしてもう、この街のこと、把握できているんだろう――。
さっき、夏織くんに、自分から、わざと質問をしておいて、勝手にドキドキしているのは、私はそれを、恋の自爆だと思った。
もう、これ、半分くらい、夏織くんのこと、意識してるって言っているようなもんじゃん――。
だけど、夏織くんと、まともに話している時間はまだ短い。だって、さっき図書館で少しだけ話して、エレベーターで少し話してってだけなのに、私はもう、夏織くんと親しい気でいる。
それだけ、夏織くんは、話やすかったし、本当に気が合うのかもって、思った。
私たち、ふたりは夏織くんのマンションを出て、私の家の方へ歩き始めた。一瞬、この光景を誰かに見られてないか、心配になり、キョロキョロと辺りを見渡してみたけど、大丈夫そうだった。みんなだって忙しいはずだ。一軍女子だって、けっこう習い事をしているみたいだし、そうでない子は、普通どこかで遊んでいると思う。
「どうしたの? キョロキョロして」
「――ううん、大丈夫。初めて通る道だからかも。よく道わかるね」
「だって、この道通って学校行ってるから。ほら、あっちが北で、学校だよ」
「東西南北もわからないのに、あっちを北で表さないでよ」
「だよな、言ってて、自分でもそう思った」
「変なの。急に自分に冷めちゃって」
そう返して、私はまた笑った。今日、夏織くんと図書館で会ってからの時間は、今日、学校の時間のなかで、笑った回数よりも、もしかしたら、多いような気がした。
いや、それだと、紗耶香に悪いかもって思った。紗耶香とも話して、それなりに笑っている気がするけど、紗耶香の前では、まだ、自分の素を出し切れていない気がする。
そう考えると、夏織くんと、話している間は、本当の自分に戻っているような気がした。そんなことを考えているうちに、知っている場所までたどり着いた。
「あ、ここから知ってる」
「いい子だね」
「バカにしてる?」
「悪い、そういうつもりじゃなくて、褒めようと思っただけだよ」
「じゃあさ、もっと、変わった褒め方してよ」
「オッケー。じゃあ、いくよ」
「うん、私のことしっかり褒めてね」
「えーっと、ボーイングが描く飛行機雲みたい……。だね」
「全然、意味、わからないだけど」
そう返すと、やっぱムズいわって言われたけど、そうやって、考えて、私のくだらないことに付き合ってくれること自体がすごいよって思ったけど、これはまだ、胸の中にしまっておくことにした。
12 夏織
最初から、不思議な感じだなって思ってたけど、杏依菜と話すたびに、より不思議な子だって印象が強くなった。さっきのボーイングがうんたらのくだりとか、普通にスベってて、恥ずかしすぎるし、なにより、自分のセンス、なさすぎでしょって思った。
それに比べて、杏依菜は、こういうのが本当に得意なんだって思えるくらい、変なことをスラスラと言えている。
そんなことを考えているうちに、杏依菜は自分の家の鍵を使って、オートロックを解除した。
「入って」
「まだ、杏依菜の家じゃないだろ」
「違うよ。そういう細かいことはいいでしょ」
なんだか、杏依菜とこういうくだらないやり取りをするのが、だんだんサマになってきたような気がする。だけど、杏依菜とまともに話したのは、まだ一時間ちょっとくらいだと思う。なのに、こんなに話せるのが不思議に思えた。
杏依菜の家はマンションの一階で、オートロックされたドアから、十歩くらいのところがすでに杏依菜の実家の玄関ドアだった。杏依菜は手慣れたように、鍵を開け、そしてドアを開けた。
「入って」
「お邪魔します」
僕はそう言いながら、杏依菜が開けたドアを右手で抑えながら、杏依菜の家に入った。玄関に入ると、ラベンダーの香りがした。玄関ドアの向かいに小さなくぼみがあり、そこにディフューザーが置いてあった。
「あれ、ディフューザー?」
「そう、夏織くんママも置いてた、ディフューザーだよ、しかもラベンダー。こっちは北海道産のやつで、お母さんがここのチャーム使いたいって言って、ネットで買ったやつ」
「へえ、なんか、似てるね」
「私たちの親同士ね、さあ、入って、入って。左側が私の部屋」
靴を脱ぎ、杏依菜のあとについて行くことにした。右側を見るとリビングで、リビングには、午後の柔らかい日差しが差し込んでいるのが見えた。左側を見ると、すでに杏依菜は数歩先まで歩いていて、二つある部屋のうち、一つの部屋のドアを開いた。そして、振り返って僕を見てきた。
「ほら、女の子の部屋だよ」
「やめろよ、その振り方。緊張してるんだから」
「だけどさ、なんで緊張するんだろうね。漫画とか、アニメとかでさ、女の子の部屋は緊張するって、シーンあるじゃん。別に男子も、女子も変わらないと思うんだけど」
「確かに。だけど、緊張するものは緊張するでしょ」
「じゃあ、入って、思う存分緊張して。今、お茶持ってくるから、その辺座ってて」
杏依菜はそう言い残して、リビングのほうへ歩いていった。杏依菜の部屋は、白一色だった。ベッドも、デスクも白で、クローゼットの扉も白だし、カーテンも白だった。そして、床も壁紙も白だった。
「お邪魔します」とか、自分でもよそよそしいくらい、弱い声を出して、そっと部屋に入った。もっと、ピンクとか、派手な色のものが置いてあるのかと思っていたけど、杏依菜の部屋にそういうものは、あまり存在していなかった。
手前側にL字の白いデスクと、白いキャスター付きの椅子があり、そのデスクの横に白いキャビネットが置いてあった。もちろん、デスクの上に置いてあるLEDスタンドも白で、ブックエンドも白だった。透明なプラスチックでできた小物入れの中に、ようやっとピンクとか、青とか、そういう色のものが入っていた。
部屋の奥に白色のベッドがあり、ベッドの横には、正方形の白いボックスが置いてあった。色がありすぎる、僕の雑然とした部屋に比べるのが恥ずかしいくらい、杏依菜の部屋は白かった。
「どう? すごいでしょ」
「うん、すごく白い」
「なんかね、お母さんがこういう部屋、女子力高いよって言ってきてさ、それでTikTokの画面観せられて、私、一目惚れ。それで引っ越したから、こういう部屋になったんだ」
「情報量少なくて、ビビってる」
「白系統って言うんだって」
杏依菜は誇らしげにニヤニヤとしていた。それが可愛らしく見えた。
「ほら、座って」
杏依菜は、デスクの上にグラスをふたつ置いたあと、ベッドの横に置いてあったボックスを部屋の真ん中に置いた。そして、ボックスの蓋を外し、中に入っていたSwitchと充電ケーブルを取り出し、再びボックスに蓋をした。
そして、Switchと充電ケーブルを床に置いたあと、デスクに置いたままだった、二つのグラスを手に持ち、ボックスの上に置いた。
「だから、座って。はい、お座り」
「わかってるって」
僕はちょっとしたカルチャーショックを感じながら、ボックスの前に座った。すると、杏依菜は、僕の右隣に座って、僕のことを覗き込んできた。
「ねえ」
「な、なに?」
「この部屋で誰かと、どうぶつの森やりたかったんだ。まさか、夏織くんだと思わなかったけど。私、今、すごい嬉しい」
杏依菜は、本当に満足げな表情をしている。本当の、本当に、今、嬉しいんだと思う。
そんな気持ち、僕に抱いてくれるなんて、転校初日に職員室の古いソファに座って話したとき、いや、さっき図書館で話したときにも、思わなかった。
13 杏依菜
白色の中、私は今日も日記をつけることにした。
9月31日(うそ、本当は10月1日)
こんな感じで夏織くんと、どうぶつの森をやり始めて、もう、4か月近く経ちました。
なんで今日は、ですます調かというと、ショックなことがあったから、少しでも、そのショックを和らげるためにですます調で日記を書くことにします。
それに、今日は10月1日で本当は、月初めだから、今月も最高にしたいと思ってたのに、こんなことがあったので、架空の日にして、今日の暗い気持ちを永遠に忘れたいと思ったのです。
えー、一軍女子にバレました。
私は、夏織くんと遊んでいることがバレました。
というか、今までバレなかったのが不思議なくらいでした。
ゴールデンウィーク前に始まった、私と夏織くんのささやかな、交流は本当に楽しいものでした。週に一回、または、二週に一回くらいの頻度で、私は夏織くんと、どうぶつの森をしました。
これは、罪なのでしょうか。
いいえ、よくわかりません。
私には、よくわかりません。
私は、彼のことが好きなのでしょうか。付き合っているのでしょうか。
いいえ、よくわかりません。
夏織くんと、私は、ただ、どうぶつの森をやっているだけなんだから。
だけど、私は夏織くんといると、くだらないことを色々、リラックスして話すことができるのは確かです。私はそんな夏織くんのことが好きなのも確かです。
今日、クラスで、1軍女子たちに、「付き合ってるんだ。しかも、お家でふたりっきりで。あんたって変わってるよね」って言われました。
1軍男子にも言われました。「お前ら、ラブラブじゃん。なんで付き合ってるんだよ」って言われました。
夏織くんの方を見ると、夏織くんは、窓際の一番うしろの席で、頬杖をつきならが、ただ外を眺めていました。開いている窓から、風が入り、夏織くんのうしろの白いカーテンが揺れていました。それは、秋の黄色い日差しを反射して、キラキラしているように見えました。
夏織くんが、あんな表情している理由を私は知っています。
せっかく、夏織くんは、この学校に転校してから、クラスのなかで、すごく上手くいっていたのに、それが私の所為、私という存在だけで、たった一日で上手くいっていた人間関係が崩れてしまいました。最初、図書館で話してくれたとき、夏織くんはこう言ってました。
「前の学校のイメージから、変えることできた」
前の学校では、上手くいっていなかったようです。今の学校では上手くいっていたみたいで、どうぶつの森を一緒にやりながら、たまにクラスの男子の中で、面白かった話題を教えてくれました。
そのなかで、夏織くんは、こう言っていました。
「こんな学校生活になるなんて思わなかった」って言ってました。
たぶん、これをすべて、ぶち壊してしまったのは、私の所為です。
私という存在の所為で、夏織くんが楽しいと感じていたことを壊してしまいました。
これは、私が望むことじゃありません。夏織くんは前の学校で上手くいっていなかったから、自分が生まれ変わったみたいだとも、いつかの夏の日に言っていました。
10月1日の今日、本当は夏織くんが、今日もうちに来てくれる予定でした。
だけど、来ませんでした。
だから、今日は9月31日です。
こういうとき、iPhoneがあれば、夏織くんとすぐに通話できるのに、ランドセルの私たちには、まだ、その手段がありません。
ねえ、夏織くん。君が来ないと10月にならないよ。
14 夏織
久々に日記を書くことにした。
10月1日。
久々に、こんな気持ちになったなって、いうのが今日の感想だった。
そして、杏依菜を傷つけてしまった。
これは、男子だし、前の学校でも、別の人だけど、こういうことがあったのを見たことがあったから、こういうことはいつか起こるかもなって心のどこかでは思っていた。だから、今日、クラスでいろんな人から言われて、ハブられてってことも、予想はできていた。
だって、放課後、一緒にいるところを見られるだけで、たぶん、噂って成立するし、別に杏依菜とは、特別になにか、決めていたわけじゃないけど、学校で、合う日を決めるときは、昼休みの図書室でひっそりとやり取りをすることに決めていた。
まさか、図書室まで、後ろをつけてくるなんて思ってもみなかったし、僕が杏依菜の家に入るところを目撃されたり、夕方、杏依菜と一緒に歩いているところを見られているなんて思ってもみなかった。
このまま、杏依菜と、どうぶつの森をやる平和な日々が続くかと思っていた。
だけど、僕は甘かった。
いくら、仲良くたって、こういうことがあると、仲間は裏切って、僕と杏依菜を問い詰めた。
そして、1軍女子にも問い詰められた。
僕は元に戻っただけだ。
去年の僕みたいに教室の隅で、誰とも話さず、本を読んで過ごす日々に戻るだけだ。
ただ、杏依菜は違う。
去年までは上手くいっていたのに、この学校では、ずっと仲間を作れない逆境に耐えてきた。それと合わせて、こんな噂で、おもちゃにされたら、杏依菜の状況はより悪くなると思う。
僕の所為で、杏依菜を傷つけてしまったんだ。
より、噂が悪い方にいかないように、今日、杏依菜の家に行くのはやめた。
本当は会いたかった。
杏依菜の家に行くことで、今の最悪がもっと最悪になったら、僕と杏依菜はどうすることもできなくなると思うから、今日、行くのをやめた。
前の学校で、これでいじめになった男女を見た。
みんなの前で告白しろとか、男女それぞれの机の上にそれぞれの名前が大きく落書きされたりとか、そういうことがあった。僕は興味がもてなくて、本を読んでいた。
結局、そのふたりは、クラスで孤立して、そのうち、女子のほうは学校に来なくなった。残った男子は、そのまま、いじめられていた。
きっと小学生で、男女ふたりきりでいることは、変なことなんだと思う。
だけど、僕はただ、杏依菜と一緒にいたいって思っただけなんだ。
僕は、この気持ちをどうすればいいのか、わからない。
15 杏依菜
六年生になり、あれから一年が経った。紗耶香は相変わらず、私に優しくしてくれるから、なんとか学校に通うことができている。
ようやく金曜日になった今日も、学校へ向かい、いつもの路地を歩いているけど、未だに気持ちは空っぽみたいに思えた。11月になったばかりだけど、また一段と寒くなってきた。白色のセーターを着ていても、少しだけ肌寒く感じたし、街路樹は徐々に黄色く色づき始めていた。
五年生から六年生へ進級しても、もちろん、クラスは変わらないから、1軍女子たちとも一緒だし、夏織くんとも一緒のクラスのままだった。あの騒動のあと、私は誰ともどうぶつの森をやることは、なかった。
夏織くんが今、私のことをどう思っているのかも、わからない。
ただ、私の放課後は変わらず、学校から家に帰るだけだし、たまに公民館の図書館に行くくらいだ。
つまり、去年の4月に始まった私の初恋は、あの噂の所為で終わったんだと思う。だけど、その相手は同じクラスにいるままで、いつも、クールそうな表情で、ただ本を読んでいる様子を見ると、今でも、いろんな感情で胸が苦しくなる。
「おはよ」
うしろを振り向くと、紗耶香が私の隣に駆け寄ってきた。
「おはよ。寒いね」
「これくらい寒いと、逆にやる気でちゃうわ。私」
「なにそれ。私は縮こまるよ」
「北国出身のくせに」
「それな」と返すと、紗耶香はふふっと笑ってくれた。
教室に入っても、誰も私になんか、おはようなんて言ってくれない。紗耶香も私も、この小さい世界の中では、二軍だから、私たちにしたら、決していい環境ではない。だけど、私たちのくじ運は最強で、今回の席替えでも、比較的、近い位置になった。だから、ランドセルを自分の席に置いたあと、私はいつものように、紗耶香の方へ行く。そのとき、ちらっと、誰にも気づかれなさそうなくらいの横目で、夏織くんを見る。
夏織くんは自分の席で、いつものように本を読んでいた。表紙を見ると、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』だった。これは、先週の金曜日から読み始めていて、私は夏織くんが読む本の表紙を見るたびに、そのタイトルをメモしている。
いつか――。は、もうないかもしれない。
だけど、もし、また話すことがあれば、私は夏織くんが読んだ本の話をしたい。
紗耶香の席にたどり着くと、さっき話していた話題の続きをし始めた。
16 夏織
今日も横目で見てくれた。
目線は本に向けたままで、杏依菜を横目で見る。だから、お互いに目線は合わない。だけど、毎朝、僕のことを杏依菜が見てくれているのは確かだった。
友達がいないことは慣れてしまった。本が友達かのように、僕は毎日、本を読み続けている。去年の前半だけ、仲良かったヤツらは、みんな僕のことを忘れたかのように、楽しそうに過ごしている。結局、僕が懸念した最悪の事態は回避することができた。
つまり、いじめられるということは、なかったということだ。僕が黙り続けたこと、そして、杏依菜も黙り続けたことで、あのときの噂は、いっときのブームとなり、いつの間にか、話題にもならなくなった。
だけど、僕はあの日から、一気にキャラ変して、陽キャから、陰キャになった。お互いに黙り続けたおかげで、いじめられるということはなかった。
前の学校でいじめられていた男女は、変に反応したり、言い返したりしていた。だから、男子はいじめられてたし、女子は学校に来なくなった。
そんな最悪な状況になることは回避できて良かったと思っている。
これは、僕から杏依菜への少しへの償いだ。
こんなことに巻き込んでしまって、ごめんねっていう、償いだ。
結局、僕は罪な男だったんだと思う。今でも、杏依菜の声を聞くと、ぐちゃぐちゃな気持ちが溢れそうになる。もっと、僕が気をはらっていればよかったんだ。本当は、今も杏依菜とどうぶつの森がやりたい――。いや、ただ、話すだけでいいんだ。話すだけで。
だけど、それはもう、できないと思う。
中学だってここのメンバーとほとんど変わらずに、入学するはずだし、中学になっても、噂は僕と杏依菜を締め付けるだろう。こんな状況にしたのは、僕が無防備につけられた所為だし、誰かに感づかせたのが悪かったんだ。
ずっと、誰にもバレない秘密の関係を続けるには、本当にツメが甘かったんだ。
チャイムが鳴って、教室に先生が入ってきた。
今日の朝も、手に持っている本の内容なんて、入らないまま、僕は本をゆっくりと閉じた。
金曜日か――。今週も返しにいかなきゃ。
17 杏依菜
授業が終わり、クラスはうざい1軍たちでざわざわしていた。
私は紗耶香のところへ行き、またいつものようにわかりきっていることを聞くことにした。
「紗耶香、今日、このあとなにかあるの?」
「今日も、バレエだよ」
「だよね、知ってる。頑張ってね」
「ありがとう」
紗耶香が大会でいい成績を収めたことも知っている。木曜日も、金曜日も、バレエだってことも知っている。私だってバカじゃない。だけど、バカな話しかけをしたいくらい、今日は、もう少しだけ、紗耶香と話したい気分だった。
紗耶香と一緒に教室の掃除当番を終わらせ、ようやく私たちは学校から開放された。紗耶香と一緒に、玄関まで話しながら歩き、そして、靴を取り替えた。そのあとはいつもと変わらなくて、バレエに行くために車に乗る、紗耶香を玄関前で見送り、私の金曜日が終わった。
ため息を吐いた。
そのあと、息を吸うと、秋の乾燥した、いい匂いがした。見上げると、空の水色はいつもよりも高くて、天の地球の丸さがわかるくらい、気持ちいい空だった。
こんな日に帰るのも、なんかもったいないような気がした。だけど、私には紗耶香以外の友達なんていないし、家以外、どこにも行く場合なんて――。
あるんだった――。
しばらく、公民館の図書館に行っていなかった。結局、あの図書館に行ったのは、指で数えられるほどしか行っていないような気がした。この一年で、一人でいることに慣れてしまったんだと思う。
すぐに家に帰って、すぐにベッドに横になって、ずっとどうぶつの森をやったり、休日に買ってもらった本を読んだりしているだけで、十分に感じた。
もう、富山にいた頃みたいに、みんなで遊ぶっていう感覚は、自分のなかで薄れつつあって、もう二度と、誰とも夏祭りに行ったり、花火に行ったりなんて出来ないような気がした。
そんなことを考えながら、私は家と反対の方向に歩き始めた。
歩いているうちに図書館が見えてきた。やっぱり久々に見ても大きいように感じた。いつの日か、お母さんと一緒に行ったとき、利用者カードを作ったけど、結局、この図書館で、まだ本を借りたことはなかった。
そんなこと、考えている間に、私は公民館の入口にたどり着いた。入口の扉を開けて、ロビーに入ると、公民館の匂いがした。目の前のガラス越しに見える中庭には、今日も白いパラソルのテーブルが置いてあって、何人かが中庭にいた。
私はロビーで立ち止まり、その中庭をじっと見続けた。一年前のことを思い出しながら。
すっかり、この一年で私たちは、変わってしまったような気さえした。
あのとき、無邪気に中庭で笑いあったことや、私と同じように夏織くんが読書をする人間だってことや、そういうお互いに確かめあったことのすべてが、遠い過去のように感じた。
そんなことを考えている間に、一年前みたいに、うしろから、夏織くんに肩を叩かれるようなことは、起きなかった。
だから、私は左側、図書館の方へ歩き始めた。
図書館に入ると、本の匂いがした。緩やかなスロープを降り、左側のカウンターの横を通ると、職員さんに「こんにちは」って挨拶されたから、私は小さく会釈した。
返却図書の棚が目に入ったから、私はその棚のほうへ向かった。書棚には、一般小説や文庫がいくつか差してあった。隣の棚の、児童書の返却棚を見ると、棚一列分、本が並んでいた。私は、右手の人差し指で、それらの背表紙をなぞった。
今の私には、惹かれない本のタイトルばかりが並んでいる。だけど、ひとつだけ、あった。
『車輪の下』
「あっ」
小さい声が思わず出てしまった。そして、慌てて、辺りを見回した。児童書のほうや、吹き抜けのベンチのほう、図書館の出入り口のほう、その場に立ち止まったまま、見回したけど、夏織くんはいなかった。
――もしかしたら、まだいるかも。
私はとりあえず、車輪の下を手に取り、小走りで、児童書コーナーの方へ向かった。棚と棚の間を通るたびに、通路をしっかり見た。だけど、夏織くんはいなかった。
小上がりで赤いカーペットのおはなし室も見たけど、夏織くんはいなかった。
だから、反対側の大人向けの本棚のほうに向かった。
棚と棚の茶色が視界で線になる。右側に見える吹き抜けのガラスからは、秋色の西日が射していた。その眩しさや逆光なんて、どうでもよかった。小走りで通り過ぎた通路はあっという間に、図書館の端に達した。
一本、通路を変えて、もう一度、小走りで棚と棚の間を通路を見る。だけど、さっきと、大した印象は変わってなかった。
――今だったら、まだ間に合うかも。
走っている通路は、あっという間に出口につながるスロープに合流した。だから、そのまま、登坂になっているスロープを走って、図書館を出ようと、扉を抜けようとしたら、ブザーがなり、一気に周りの視線を感じた。
右手に持ったままの『車輪の下』を見たあと、私は、急に恥ずかしくなって、カウンターへ引き返した。
18 夏織
駅前通りのセブンイレブンでグミを買った。図書館の帰りに、どうしてもご褒美が欲しかったから、ランドセルの中に、二百円だけ入れて学校に行った。今日は元々、本を借りる気がなかったから、返却期限になったヘルマン・ヘッセの『車輪の下』だけを返しに行った。
結局、難しくて、途中で諦めてしまったけど、勉強しまくって、追い詰められるような、つらそうな話しだった。
駅前通りから、家へ向かう大きな通りにたどり着いた。去年、信号待ちをしていたときに、杏依菜を見つけたあの交差点だ。
また、あのときみたいに赤信号に引っかかった。
あれからも、定期的に図書館に行っているけど、杏依菜には会えなかった。そのたびに杏依菜がいないか探すのに、結局、数冊だけ本を借りて終わる。
だから、この交差点も図書館の近くだから、つい図書館のほうを見てしまう。
――どうせ会えないって。
そんなことを自分に言い聞かせているけど、結局、今、信号待ちをしている場所からみて、右斜め前をじっと見ていた。
図書館のほうから、ひとり、誰かが走ってきているのが見えた。
「――杏依菜」
僕は小さい声で君の名前を呼んだ。だけど、なんで走っているのか、わからない。
僕は会いたい気持ちを抑えながら、とりあえず辺りを見回した。
「なんでいるんだよ」
その結果は、最悪だった。僕が渡ろうとしていた通りから、見慣れた1軍女子三人が歩いてきているのが見えた。もう一度、杏依菜の方を見ると、杏依菜も三人に気がついたのか、急に走るのをやめた。そして、交差点のだいぶ手前で立ち止まった。
ダメだ、ついてなさすぎる。
僕は信号を待つのをやめて、駅前通りを引き返した。
最悪だ。だけど、もう二度と、杏依菜に迷惑はかけられないんだ。
たぶん、杏依菜は僕が信号で待っていることになんて、気がついていないと思う。一軍女子三人に気を取られているはずだ。僕は杏依菜の姿を見ずに駅方向へ歩き始めた。
19 杏依菜
「夏織くん、待ってよ」
私は乱れた息を整えながら、小さい声で願いを言ってみた。そして、夏織くんが信号待ちしていた方を見た。だけど、私のそんな願いは叶わなかった。すでに夏織くんらしき人は、駅の方に向かって歩き始めた。
――どうして、避けるの。
そう思いながら、視線を前に戻すと、見慣れた1軍女子三人が信号待ちをしているのが見えた。それで私は、気がついた。もしかしたら、1軍女子三人がいなければ、私のこと、待ってくれたんじゃ。
それだったら、本当に間が悪すぎるよ。こんなところで、立ち止まっっているほうが、不自然だと思い、私は再び、歩き始めた。そして、信号が青になったから、駅前通りを渡り始めた。道の真ん中くらいで、1軍女子三人とすれ違ったけど、別に私になんて興味を持たなかったみたいで、ただ、普通にすれ違っただけだった。
私にちょっかいをかけてこないということは、1軍女子三人は、夏織くんのことに気づいていなかったのかもしれない。
信号を渡りきったあと、再び私は立ち止まり、夏織くんが立っていた場所を見た。駅前通りは日陰になっていた。夏織くんの姿はもう見当たらなかった。このまま、夏織くんのあとを追おうかと思ったけど、私は諦めることにした。
なんで、私は一年も、図書館に行かなかったんだろう。夏織くんが私の家でどうぶつの森が出来ないら、図書館で一緒に本読めばよかったじゃん。というか、そもそも、最初は、私から一緒に本読もうって誘ったはずなのに、気がついたら、ずっと家でどうぶつの森をやる仲になっていた。
本当に私は、いろいろ間違っていたかもしれないって、今日始めて思った。
もしかしたら、夏織くんは、私のことを避けているんじゃなくて、私が夏織くんと話すきっかけを作ってなかっただけなのかもしれない――。
とりあえず、月曜日になったら、夏織くんが読んでいた『車輪の下』を学校に持っていこう。
そして、もう一度――。
両手に拳をつくり、ぎゅっと力を入れ、そして、すっとちからを緩めた。
20 夏織
月曜日がやってきた。またくだらない一日が始まる。
そんなことを考えながら、学校に着いた。今日は久々に寝坊して、ギリギリの時間で学校に着いた。クラスに入ると、すでにほとんどのクラスメイトが揃っていた。いろんな場所でなんグループかが、いつものように集まって、話していた。
まだ、チャイムは鳴っていない。だけど、何人かは自分の席に座っていて、杏依菜も座っていた。だから、僕はわざと、杏依菜の席の通路を歩き、自分の席へ向かった。
杏依菜は赤いセーターを着ていて、秋っぽい感じが、すごく似合っているように見えた。そして、珍しく杏依菜は本を読んでいた。
え、車輪の下じゃん。
気がついたとき、思わず立ち止まりそうになった。だけど、僕はなにもなかったかのように、歩き続けた。そのとき、ちょうどチャイムがなり、先生が入ってきた。だから、みんなも集まっていたのをやめて、自分の席に戻り始め、教室がいっきにごちゃごちゃし始めた。
そんな状態だから、杏依菜の隣を通るとき、ちらっと、杏依菜を見た。すると、一瞬、杏依菜と目があった。杏依菜は、若干上目遣いで、にこっと微笑んでくれた。本当に一瞬のことだ。
僕は、その反応に意外すぎて、ただ、杏依菜に目を合わせることしかできなかった。
席についたあとも、しばらく心臓がドキドキしていた。朝の会で、先生が話している間、数秒だけ目を瞑った。何秒間かの闇のあと、すっとした気持ちが自分の内側から、生まれたような気がした。
杏依菜は、金曜日、僕が返した図書館の本を今、持っている。
杏依菜は、僕が読んだ、その本を読んでいる。
杏依菜は、金曜日、図書館から横断歩道の手前まで走ってきた。
――それなら。
僕は明日、火曜日に返す予定の『悲しみよ こんにちは』を今日、明日で、ひたすら読むことにした。
21 杏依菜
火曜日になった。今日も目が合えばいいなって思いながら、学校に着いた。
いつも夏織くんは、私より先に学校にいるのに、昨日は珍しく私よりも遅く来た。だから、私の目の前を通ってくれたのかもしれない。そのイレギュラーのおかげで目があって嬉しかった。それに『車輪の下』を見て、一瞬、驚いた表情をしていたのも、私は見逃さなかった。
一年間、封印していた、いい女スマイルもできたし、昨日の私ってすごいじゃんって、昨日、お風呂に入りながら、そんなファインプレーだらけの自分を褒めまくった。
今日もいつも通り、紗耶香と一緒に教室に入ると、今日はいつものように、私より先に夏織くんが教室にいた。今日は違う本を読んでいるみたいだ。自分の席にランドセルを置いたあと、紗耶香の席に向かいながら、ちらっと、夏織くんを見た。本のタイトルは『悲しみよ こんにちは』と書いてあった。
おはよう、夏織くん。
本当はそう声を出したいくらいだった。だけど、心の中でそう言って、夏織くんを見るのをやめようとした。だけど、今日の夏織くんは違った。
本を片手で開いたまま、右手の親指を立てていた。もちろん、私はそのグットを返すことができなかった。だから、私は、お腹くらいの高さのままで、右手でピースサインを作った。夏織くんが見てくれたかどうかわからない。だけど、それだけで、もう今日は帰ってもいいような気がした。
そんな嬉しい気持ちのまま、紗耶香の席にたどり着いた。
「どうしたの?」
「えっ? なにもないよ」
「杏依菜、ニヤニヤしてるじゃん」
「ちょっとだけ、いいことあった」
「この短時間に?」
「そう、いいでしょ」
「よかったね。私は応援してるよ」
「ありがとう」
昨日の帰り道と、今朝、伝えたことを踏まえて、紗耶香はそう言ってくれたんだと思う。ようやく、私のなかで10月1日になる日が近いかもって、ふと思った。
今日も多目的室の掃除を、紗耶香と終わらせて、やっと学校が終わった。そして、車に乗る紗耶香と別れ、私は今日も図書館に行くことにした。
きっと、あのサインを出してくれたんだから、いるんだと思う。そう考えると私は単純だから、それだけでウキウキし始めた。なにも約束なんてない。だけど、ようやく、夏織くんと話すことができる日が来たんだ。
公民館の扉を開け、そして、図書館に入った。
スロープを歩きながら、周りを見渡してみたけど、夏織くんの姿は見当たらなかった。とりあえず、先週みたいに、私は返却棚に向かった。そして、また児童書の返却棚を指でなぞり始めた。
あった。
『悲しみよ こんにちは』
やっぱり、返してるじゃん。よりによって、今日も掃除当番だったから、またすれ違っちゃったのかも。そう思いながら、『悲しみよ こんにちは』を手にとり、パラパラとページをめくった。すると、一枚の紙切れが床に落ちた。
――もしかして。
ぎゅっと力を入れて、二回瞬きをしたあと、床に落ちている紙切れを拾った。紙切れはノートを破ったものだった。そこには、夏織くんの字で、
『中庭で待ってる』と書いてあった。
私は、『悲しみよ こんにちは』を持ったまま、とりあえずカウンターへ向かった。
22 夏織
中庭は少しだけ寒く感じた。
気持ちがいいくらいの秋晴れだけど、11月の風は冷たくて、風が吹くたびに身震いするくらいの寒さだ。僕はあの日と同じ白いパラソル付きのテーブルに座っている。緊張を紛らすために、さっき借りたばかりの中原中也詩集を読んでいるけど、あまり頭に入ってこない気がする。
こんなことするのなんて、今更だと思う。だけど、僕は朝、杏依菜のピースサインを見逃さなかった。だから、本にメモを忍ばせることにした。結局、『悲しみよ こんにちは』も内容が合わなくて途中でやめてしまった。
今日、杏依菜が図書館に来てくれると思った。月曜日だった昨日、僕に微笑んでくれたこと、火曜日の今日、僕のグッドサインに気づいて、ピースサインを返してくれたことを考えると、今日の放課後、図書館に来てくれると思った。
もし、来なくても、今週は毎日、図書館に寄ってから帰ろうと思った。『悲しみよ こんにちは』に気がついて、杏依菜も借りてくれる気がしたからだ。
「夏織くん」
視線を詩集から、上にすると、杏依菜が立っていた。
「よかった、気づいてくれて。遅くなってごめんね」
「遅すぎるよ」
杏依菜はすでに泣きそうな顔をしていた。それを見て、僕がこの一年取っていた行動は合っていたのかどうか、急にわからなくなった。
「座ってよ。話したいこと、たくさんあるから」
「言われなくても、座るよ」
そう言いながら、杏依菜はランドセルをテーブルに置いたあと、椅子をひき、座った。
「夏織くん、私だって、たくさんあるんだよ。話したいこと」
「例えば、どんなこと?」
「雨上がりの日、空飛ぶピンク色のクジラが虹をくぐったのを見た話とか」
「赤ちゃんのチンパンジーをランドセルで担いで、肩越しに指差しで、暗証番号、押してもらったとか?」
「それ、去年、私が言ったやつじゃん。夏織くんの家について行ったときに。――覚えててくれたの?」
「忘れるわけないじゃん。一日も」
そう返すと、杏依菜は微笑んでくれたけど、それと合わせて、一筋の涙が頬を伝った。僕に会っただけで、泣いてくれるんだ、杏依菜は。
――僕はダメな男だな。
「なあ、杏依菜」
「――な、なに?」
「勝手に守ってるつもりになってただけだったのかも」
「どういうこと?」
「前の学校で、俺らと同じ状況になった、ふたりがいじめられたの見てたんだ。そうならないようにしないとって、反射的にあのとき思っちゃったんだよ。でも、あのとき、すぐに杏依菜に会って、この問題について話すべきだった」
「違うよ。あれでよかったんだよ。悪いのは、私――」
そのあとすぐに、大粒の涙がいくつも、杏依菜の頬を伝った。そのあとも、涙は止まなかった。その涙は黄色い午後の日差しで、キラキラしていた。杏依菜はランドセルから、ティッシュを取り出し、そのキラキラを拭った。
「杏依菜は何も悪くないよ。ごめんね」
「夏織くん、違うの。私が悪いの。ごめんね。だって、私といなきゃ、あのときの夏織くん、すごくクラスで上手くいってたのに、私がそれをぶち壊したよね」
「えっ」
そんなふうに考えてくれていたことが意外で僕はおもわず驚いてしまった。確かにあのとき、クラスのヤツらと上手くいっていた。だけど、どこかで違和感を感じていた。元々の僕の性格とあまりにも離れすぎた人たちだったから、大丈夫かなって思っていた。
仲間かなって思っていた相手が、僕と杏依菜を攻撃してきたんだから、もう、そういった意味では、ヤツらには呆れてた。
「切れてよかったと思ってるよ、人間関係。しょせん、そんなヤツらと遊んでても、仕方ないってことも十分わかった。だから、そう思わないで」
「けど――」
「けどとか、そういうのもないよ。おかげで自分を強く持てるようになった気がする。――杏依菜がこれ以上、1軍女子から、目をつけられないようにしたかったし、こいつらも自動的に一緒の中学になるから、中学生活にも、このままじゃ影響でると思ったんだ」
「それは、私だって同じこと思ってたよ。――ねえ、中学生になってもこのまま、孤独になり続けるの?」
「孤独には、もう慣れてるから大丈夫だよ。それに、これからはまた、杏依菜と話せるし」
そう言って微笑んでも、杏依菜の心配そうな表情は変わらなかった。だけど、僕は杏依菜をなだめるために、そう言ったわけじゃなく、今の本心だった。友達なんてくだらない。友達だと思っていても、攻撃される。それなら、最初から、孤独になれておいて、ひとりきりでいればいいじゃんって思っていた。
だけど、まさか、また杏依菜と話せる日がくるとは思っても見なかった。
23 杏依菜
胸が熱くなって、ぎゅっと痛む。その痛みが一気に頭まで込み上げて、それが涙になっているような感覚だった。それだけ、私の涙は止まる気配がなかった。
一年ぶりに、まともに話しているのに、夏織くんは冷静なままで、本当に穏やかだった。そして、久々の夏織くんも、一年前と変わらず優しくて、それがすごいって思った。そして、一年前と決定的に違うのが、いつの間にか、夏織くんは強くなっていたことだと思う。
「強いよ、夏織くん。強すぎて、私なんかちっぽけに思えちゃう」
「そんなことないよ。結果、杏依菜を泣かせたから、俺は弱いよ」
弱いという言葉に反応して、また涙が流れてしまった。だから、右手に持っていたティッシュでそれらをまた拭った。なに考えてるの、夏織くん。弱いわけないじゃん。こんなに私のこと、守ってくれて。
「夏織くん、本当にそう思ってるの? 考えてよ、だって、私のこと思って、そうやって自分が犠牲になるような行動してくれたんでしょ。私のために――」
「――だって、今、杏依菜のこと、泣かせてるから」
「バカ! これはね、嬉し泣きっていうの。こんなに毎日、本読んでるのに、わからないの? 女の子の泣くことが、すべて受動的じゃないの。わかるでしょ、それくらい。私はさ、単純な人間だから、一年ぶりに夏織くんと話せたことが素直に嬉しいの。だから、夏織くんは弱くないの!」
途中、涙は溢れるし、声は裏返るしで、さんざんな感じだった。確かに今、内側で冷静な目で見ている私はなにやってるんだよって言いそうなことをやっている気がする。男子の前で、こんな感情むき出しにしたことなんて、なかったし、それどころか、今まで友達にも、そんな姿、見せたことがなかった。
夏織くんは、目を大きく見開いて、驚いている。
こんなに感情をぶつけてしまっている、そんな私に対して、驚いているんだと思う。
「なあ」
「――なに?」
「この一年、よく頑張ったね」
「それは夏織くんでしょ。ずっと、食いしばってきたじゃん」
「そんなことないよ。むしろこれが俺の自然体だと思うから、結果、そうさせてくれてありがとう」
「ありがとうの意味がわからないよ。これじゃあ、私だけなんか、なにもしてないみたいじゃん」
「杏依菜、違うんだよ。杏依菜は、あの荒波を冷静に乗り越えたんだ。だから、なにもしてないわけじゃない。だけど、もっと、早く、俺から話しかけるべきだった。あのときの俺は、混乱していたんだと思う。だから、杏依菜に寂しい思いさせた」
「だから、してないって。嬉しいの、私は!」
「俺も、すごく嬉しい!」
急に夏織くんが大きな声を出したから、その声があたりに響いた。今日の中庭は珍しく、人がいないから、そんな夏織くんの大きな声があたりに響いても、浮いてはいなかった。
「嬉しいんだよ! 嬉しい! 嬉しい!」
夏織くんの声がまた響く。それって、私と話していることが嬉しいって思っているってことだよね。それなら、相思相愛ってことでいいよね? 私には、まだそう聞く勇気はないけど。
「ねえ」
「なに?」
「9月31日がようやく終わった」
「9月31日?」
「そう、この世の中に存在しない9月31日。去年の10月1日に夏織くんが私の家に来なかったから、この日が生まれたの。だけど、今日で去年の9月31日は、10月1日になったね」
「ごめん。あのとき、会うべきだった」
「じゃあ、仲直りだね。喧嘩してないけど」
右手の小指を立て、夏織くんの前を出すと、夏織くんは今日一番に微笑んだあと、小指で私と繋いでくれた。
2章
1 杏依菜
あの秋の日から、また夏織くんと定期的に会うようになった。最初は図書館で本を読んだりしていたけど、冬休みになってから、また私の白系統の部屋で、一緒にどうぶつの森をするようになった。ほしかった家具を贈り合ったり、作った島を見せあいっこしたりした。
この一年、ひとりで一生懸命作った島を夏織くんに見せたら、ものすごく褒めてくれたから、この一年ひとりで頑張ったことが報われたような気がした。
そして、私たちは中学生になった。
すっかり、人付き合いが嫌になったふたりが、部活を始めるわけがなかった。すでにいろんな子が思い描くような、キラキラした青春とか、部活をガチって、熱い気持ちになりたいとか、そういう欲求は私も、夏織くんも、備わっていないようだった。
その原因は、やっぱり、小学五年生の秋に起きたことが遠因だと思う。環境が変われば、自分も変えられるかもと思ったけど、結局、そうなることはなかった。
中学に入って、夏織くんとも、紗耶香とも、クラスは別になった。だから私は、クラスでは別の小学校から来た、おとなしめの女子、つまり2軍の何人かと、過ごすようになった。だけど、それは学校だけの話で、放課後とか、休日とかで遊んだりしなかった。
中学になると、1軍女子たちは、誰のことが好きだとか、恋の話ばかりするようになった。そのなかで、早く告白してほしいとか、どうやって好きピを沼らせたらいいのとか、TikTokの動画でよくあるような話を耳にするようになった。
そういえば、私と夏織くんの関係は、そう考えると曖昧なままだった――。
夏織くんとは、相変わらず、週1~2回程度会っていて、紗耶香に言わせれば「もう、それは付き合っていることになるんじゃないの?」って、言われた。
確かにやっていることは、図書館で本を読むことと、うちでどうぶつの森をすることだ。
デートらしいデートは、まだ六月中旬の段階では、していなかった。
中学に入って、ひとつだけ変わったことがある。それは、ふたりとも、スマホを手に入れたということだ。お互いのiPhoneで、連絡を取れるようになったから、土曜日の夜とか、妙に話足りないときに、四時間くらいの長めの通話をするようになった。
こんなに夏織くんといるのに、話が尽きないのは、不思議だなって、いつも思う。しかも話したいことだらけだし、なぜか聞きたいこともたくさんある。いままで聞いてこなかった昔の話とか、そういう価値観のすり合わせみたいな話をここ最近は、ずっとしている。
だけど、私たちの関係は曖昧なままだ――。
「それ、やっぱり恋だよ。付き合っちゃえよ」
紗耶香はそう言いながら、焼きポンデをまた一口食べた。午前授業だった今日、紗耶香もバレエの練習が珍しくなかったから、学校の帰りに駅ビルにあるミスドでポン・デ・リングを持ち帰りで四つ買った。そして、私の家で、そのポンデリングをフライパンで焼きポンデにした。
私の白系統の部屋で、女ふたりが、白いボックスに向き合って、それを食べていた。
「そうだよね。だけどさ、どうすればいいんだろう」
そう言ったあと、私も焼きポンデをもう一口食べた。表面がカリカリして、やっぱりTikTokで観たとおり、美味しかった。
「私だってわからないよ。だって、そんな恋したことないし。だけど、告白されたけどね」
「えっ! あの紗耶香が! うそっ! 誰? 聞いてない、私、誰、誰、誰?」
「あの紗耶香って、うち以外の紗耶香って誰になるんだよ。まあ、バレエ関係の男子だけどね。今日はそれを報告しにきた」
「で、どうだったの?」
「このたび、お付き合いさせていただくことになりました」
「はい、おめでとうございます。ささやかですが、ポンデリングをもう一口お食べください」
「どうもありがとうございます」
紗耶香は一礼したあと、もう一口焼きポンデを食べた。
「それよりさ、確かに杏依菜のほう、気になるな」
「え、でもいいの? 先に話して」
「どうぞ、私はまだ、進展があまりないから。夏休み、デートしようって言われたくらいだし」
「そっか、まだ一ヶ月も先だね」
「そう、だから、どうぞ。杏依菜様」
「なんか、様つけられると、緊張するんだけど」
もう一口、焼きポンデを食べると、あっという間にひとつ目の焼きポンデは私の口の中に消えた。紗耶香も中学に入って、付き合い始めたのに、私は曖昧なままで、このまま曖昧な関係性が続いて、自然消滅とかしたらどうしようとか、一瞬思い、ゾッとした。
「ほら、食べてないで胸のうちを言ってごらんよ」
「そうだね――。まだ、デートとかも行ったことないんだ。ずっと、どうぶつの森してるのと、本読んでるだけ」
「でも、それって十分デートじゃないの?」
「え、どうして? だっていつもやってることだよ」
「だって、私、全然会えないもん。バレエ教室でレッスン前、ちょっと話すだけだよ。今のところ」
「――そうなんだ。だけど、私と夏織くんの場合、前からやってたことだから、なんか、よくわからなくなってるんだよね」
「いいなぁ。羨ましい」
そう言って、紗耶香もひとつ目の焼きポンデを食べ切った。
――贅沢な悩みなのかな。
「じゃあ、つぎ、紗耶香の番」と返して、私はモヤモヤする今の状況を、切り替えることにした。
2 夏織
今日も杏依菜の白色の部屋でどうぶつの森をやっている。
今日は午前授業だったから、杏依菜の家にいる。お昼は適当にセブンで買った練乳パンで済ませて、ボトルのアイスカフェラテを飲みながら、ダラダラ、どうぶつの森を杏依菜と、ふたりでやっている。
杏依菜も、中学に入って、特段変わったことはなかったみたいだ。確かにクラスの中だけで仲がいい子はできたみたいだけど、ほとんどは部活をやっていて、それも、吹奏楽部や、バレー部とか、ハードめの部活に入っている子が多いみたいだ。
僕と杏依菜が中学生になって、二か月が経った。つまり、言い換えると、杏依菜との関係が元に戻って、半年が経った。
ようやく僕も、中学校に慣れた。だけど、僕の家は、校区の右端にあるから、学校まで二十分以上かかるようになった。家からだと、本当は公民館の近くの中学校のほうが近い。だって、そこは、公民館のすぐそこにある学校だから、家から歩いて十分もかからない。だから、入学するときに、行きたい学校を選べるみたいだった。
本当は、近くの中学校に行けば、同じ小学校だったヤツらも少ないから、父さんが転校のときに言っていたみたいに、環境をリセットしてやり直すことも出来たんだと思う。
だけど、杏依菜の家は、学校を選べる区域じゃなかったから、僕は杏依菜と同じ中学校に行くことにした。
親には驚かれた。というか、合理主義みたいなところがあって、 近いほうが楽でしょとか、いろいろ言われたけど、この中学のほうが、いろんな学校から、人が来るし、大人数の学校のほうが、気楽かもとか、そういう適当な理由を言うと、これ以上のことは言われなかった。
だから、もし、あの秋の日に杏依菜と関係を戻せていなかったら、僕と杏依菜の接点はほぼなくなってしまっていたかもしれない。だから、多少遠くても、大丈夫だって思っている。それ僕が取り巻く環境は、確かにリセットされて、杏依菜とも、同じクラスじゃなくなったし、そもそも、同じ学校だったヤツ、さらには同じクラスだったヤツらとあまり被ることはなかった。
だけど、友達を作る気になんてならず、五月を過ぎ、六月になっても、ほぼひとりぼっちだった。
「ねえ」
「なに?」
Switchを床に置き、杏依菜を見ると、杏依菜も僕と同じようにSwitchを床に置いて、僕のことを見ていた。
「本当に中学生活もひとりぼっちで続ける気なの?」
「いいんだよ。深い人間関係作ったって、ろくなことないんだから」
「じゃあ、私は?」
杏依菜は僕のことを見つめ続けながら、そんなことを聞いてきた。切り揃えられた前髪と、ショートボブは本当によく似合っているように思えた。どうぶつの森を今日もやり終えたら、帰り際に言いたいことがある。もしかしたら、早すぎるかもしれないけど、僕はそのつもりで今日を迎えた。
「――特別だから、ノーカウント」
「ふーん、そうなんだ」
「それを例えると?」
「会いたいって言って、新宿行きたいのに、反対方向の高尾行きの中央線に間違って乗ったペンギンの彼氏みたい」
「なんか、棘あるな。それ」
「いいでしょ。たまには」
そう言ったあと、杏依菜は大きく息を吐いた。ここ最近、不機嫌なときがある気がする。別にやっていることはいつもと変わらない。僕と杏依菜は、中学生になったんだ。だから、不機嫌になるのもわかるような気がする。
「騙しているつもりはないけど、結果的に騙したキツネの商人みたい」
「それ、ツネキチじゃん」
僕にしては出来がよかったと思う。だけど、どうぶつの森のオマージュだってことは、杏依菜に秒でバレた。そして、ふっと息を漏らすように笑ってくれたから、よかったと思った。一瞬、ピリついた空気が柔らかくなったような気がする。
僕は、君に対して、どうやって行動すればいいんだろう――。
3 杏依菜
夏織くんのどうぶつの森のオマージュで、私が作った真剣な空気はなくなってしまった。それがいつも通りだって言われたら、それまでだと思う。ただ、昨日、紗耶香が付き合い始めたって聞いたあとから、私のなかで何かのバランスが崩れてしまったような気がする。
だから、昨日、紗耶香が帰ったあと、日記を読み返したら、こう書いてあった。
『私は、彼のことが好きなのでしょうか。付き合っているのでしょうか。
いいえ、よくわかりません。』
よく考えたら、私はあのときから夏織くんのことを意識していたんだった。あれからもう二年が経ったし、周りに邪魔されて、一年、間が空いてしまったけど、私が夏織くんのことを意識していることは変わらなかった。だけど、夏織くんが私のことをどう思っているのか、最近は、わからなくなってきた。
というより、私が中学に入って、恋に関するキラキラの情報のシャワーを一気に浴びたからなのかもしれない。
「なあ、杏依菜」
「なに?」
「俺も、杏依菜もそろそろ、大人に近づいたほうがいいのかな」
「えっ」
意味がわかるようでわからなかった。というか、どういう方向で言われているのかわからなかった。
「その――。ずっと、どうぶつの森を一緒にやったり、図書館で本読んだりとか、したいよ。それに七月になったら、テスト勉強だって一緒にすると思うんだ。――だけど、それだけじゃいつもと変わらないよな」
「そうだね、いくらインドアな私たちでも、どうぶつの森と、読書と、勉強だけじゃ、物足りない気がする」
「でしょ。それにiPhoneだってお互いに手に入れたから、メッセージを送り合うことだって、ようやっとできるようになっただろ。あのときはなかったけど」
「そうだね。ふたりだけのやりとりがようやっと、ネットに乗せてできるようになったね」
それで、どうするの? 私たちのLINEのメッセージは、いつも簡素でしょ。何日にどう森やろうとか、何日に図書館行こうとか、その程度でしょ。あとは、ついた。とか、ごめん遅れる。とか、そのくらいしかやりとりしてないじゃん。私たち。
私はじっと、夏織くんのことを見つめ続けた。夏織くんも私のことをじっと見つめてきている。
それで、どうするの? 夏織くんは。
ねえ、夏織くんは私と何がしたいの? って聞いていいのかな。
ねえ、一体、夏織くんは私のこと、どう思っているの? とも。
「――それでさ、考えたんだ。昨日の夜」
「ふーん、何を考えたの?」
そんなこと、考えながらだと、なぜか夏織くんに冷たくあたってしまう。本当は、そんなことする必要なんてないのは、自分でも十分わかっている。そんな私が嫌になる。
昨日の夜、寝る前に少しだけ夏織くんとのこれからのことを考えた。もし、私と同じ気持ちなら、私は明日からでも、恋人同士になってもいいって思った。だけど、もし、夏織くんが、私と同じ温度感で私のことを捉えていなくて、ただの友達のままを望んでいて、ただ、今までみたいに、ふたりで遊ぶことだけを望んでいたらどうすればいいんだろうとも思った。
仮に私から告白して、いや、そんなつもりで一年間遊んでなかったんだけど。って言われて、今の関係があっさり終わってしまったらどうしよう。それが一番最悪だ。そうなったら、私はしばらくショックで何もしたくなくなると思った。
無遅刻無欠席のリスの郵便屋さんが、ある日、手紙を配ることが嫌になって、ツリーハウスの中に引きこもり始めるように。
私にとって、9月31日が終わったあの日、夏織くんが私に対して、「嬉しい!」と言ってくれたことを思い出した。
あの夏織くんからの言葉が「大好き!」だったら、私と夏織くんの今の関係は恋人だったのかな。
あのとき、夏織くんが私に言ってくれた「嬉しい!」は本物だと今でも思っている。
――だけど、今の夏織くんの気持ちがわからない。
そうだ、今日は新月だったことを思い出して、私は寝る前にそっと願った。
どうか、両思いでありますように。って。
そして、Voidタイムじゃないことも願いながら。
「昨日の夜、考えたことは――」
あれ、もしかして。と思い、私はとっさに目を瞑った。私の視界は今、黒くなる。
「――杏依菜?」
名前を呼ばれて、結局、目を開いた。私は次の行動を待っていたつもりだったけど、どうやら私の間違いだったようだ。
「ごめん。目にゴミが入って」
コントとかで、ものすごくありがちなことをとっさに言って、自分でも笑いそうになった。
「――大丈夫?」
「う、うん」
そんなダメな私だけど、今、笑ってはいけないことはわかっているから、笑わずに、一度、身を引いて、白いボックスに左手で頬杖をつき、また、じっと、夏織くんを見つめ始めた。
「――それで、なに? 夏織くん」
「明日、土曜日でしょ」
「うん」
ということは――。
「デートしてよ。明日、十時にここに迎えに行くから」
「えっ」
「ダメ?」
ニヤッとした夏織くんが、急に眩しく思えた。気がつくと、9月31日が終わった日みたいに心臓がドキドキし始めた。
4 夏織
数秒間だけ、ふたりの時間が止まったように思えた。その間、バクバクと心臓はうるさいし、言ったあとに、「キモいんだけど」とか急に蛙化されて、関係性が終わってしまったらどうしようって思った。もう、今更だ。だって、言ったあとに、あ、そういう可能性もあるんだったって、思ったんだから、もう、後の祭りだ。
杏依菜は驚いた表情をしたままだった。白色のなかで止まったままの時間は急に重く感じた。だけど、僕は冷静さを装って、もう少しだけ、押して見ることにした。
「どう?」
「――嬉しい」
小さい声でそう杏依菜に返された。杏依菜の頬は、徐々に赤くなり始めていた。相変わらず、頬杖をついたままで、視線を右に反らした。
だぶんだけど、少しだけ今度は僕のほうがきっと、驚きを隠せていなかったと思う。驚きながらも、ほっとした。少なくとも僕は友達以上に大切な存在で、もしかしたら、これが親友って言える状態なのかと思ったけど、それも自分のなかでしっくりきていなかった。
ずっと、一緒にいても落ち着く関係。
ずっと、話しても飽きない関係。
ずっと、声を聞いていたい関係。
友達がいない所為で、僕は気がつくのが遅かったのかもしれない。
これは、恋だってことに。
「嬉しいな、俺も」
タジタジってこういうことを言うのかな。僕がそう言ったあと、部屋は静かになった。エアコンが冷たい風を送り込む音と、どうぶつの森ののほほんとしたBGMがそれぞれのSwitchから小さな音で流れている。僕はこの次の言葉が上手く見つけられないし、杏依菜は杏依菜で、右のL字デスクの方に視線にむけたまま、頬杖をついていた。
「――ねえ」
「なに?」
「意識していいんだよね」
「――いいよ」
そう返すと、ようやく杏依菜は頬杖をやめて、顔を上げた。そして、再び僕と目があった。これ以上はまた、明日にしたほうがいいよな――。
僕はSwitchを持ち直し、スリープにし、画面を暗くした。そして、トートバッグの中にSwitchを入れた。そうしている間に、杏依菜が僕の隣に寄ってきた。
「近いな」
「わかってる」
「今日はこれくらいにしておくよ。明日、続き話そう」
「――そうだよね。だけど、ちょっと待ってよ」
「な、なに?」
「今日も、まだ一緒にいたいから」
杏依菜に右手首を掴まれた。それは僕の脈拍を計るような腕の掴み方だった。ぎゅっと、強い力で僕の手首は杏依菜に掴まれている。その間、杏依菜はうつむいていて、黒い前髪が垂れている。そして、エアコンの弱い風の所為か、その毛先が僕の腕にかすかに当たる感触がした。
締め付けられる所為で、脈拍が強く一定のリズムを刻んでいる。自分でも手首の脈拍がドキドキと、だんだん早くなっているのがわかるくらいだ。
数秒して、杏依菜は顔を上げて、僕の手首を離した。そして、ニコッとした表情を浮かべた。
「脈拍135です」
「じゃあ、正常ですね」
「いえ、異常です」
そう言って、杏依菜は笑い始めたから、僕もふふっと弱く笑った。
5 杏依菜
悲しいと、嬉しい。
今日の一日を表すと、こういう感じだった。
私は今、日記を書き、今日のことを振り返っている。
今日の夜、お父さんから、旭川に転勤になることを告げられた。
それは突然決まったみたいだ。中途半端な時期に転勤になったのは、関連会社への出向で、技術協力をするらしくて、年度が変わったばかりなのに、急に決まったらしい。
お父さんは今月末から北海道に先乗りして、お母さんと私は、中学校が夏休みになるのを待って転校する感じになるらしい。
元々、お父さんも、お母さんも札幌に住んでいた時期があって、というか、私も小さすぎて記憶がないだけで住んでいたけど、北海道の印象がいいみたいだった。
だから、お母さんはもう、気持ちは北海道に行っていた。旭川って富山より、人口少ないし、杏依菜も、地方のほうがやりやすいかもよって言われた。
もう、それって転校確定じゃん。
せっかく、私だって、そこそこ上手くいってるのに、どうしてこうやって軌道に乗り始めると、どうして、場所を移動しなくちゃいけなくなるんだろう。
そして、私の人生は、どうして、こんなに寒いところばかり行くことになるんだろう。
お父さんが得意げに言っていた、旭川の山奥って日本一寒いんだよ。たしか、マイナス40℃くらい。街の中でもマイナス20℃らしいよ。
いや、寒すぎてでしょ。
悲しいことは夏休み中に引っ越すことが確定したこと。
嬉しいことはデートに誘われたこと。
明日は、外で夏織くんと会うことになる。
明日、夏織くんに引っ越すことを言うかどうかは、明日、決めよう。
私は夏織くんと離れたくない。
☆
インターフォンを押される前に家を出た。そして、マンションのエントランスも出て、外で夏織くんを待つことにした。急に誘われたから、大した準備はできなかった。
だけど、少しでもいつもと違う感じを出したくて、ゴールデンウィーク中にH&Mで買ってもらった黒のキャミワンピに白のTシャツを合わせてみた。中学生のわりに、大人っぽい格好かもしれない。だけど、どうしても、同年代が着てそうな明るい服より、私の場合、少しシックな感じのほうが自分でも落ち着くし、自分らしさが出せているような気がする。
お母さんにも、そのほうが見合うと思うよって言われた。まさか、デートでさっそく着ていくとはおもってもみなかったけど、ゴールデンウィークにこの服を買ってくれてよかったと思った。
白いショルダーポーチからiPhoneを取り出した。すでに時間は十時を過ぎていた。通知も届いてたから、その通知を開くと、こんなメッセージが入っていた。
『ごめん、五分遅れます』
そういえば、待ち合わせなんてしたことなかった。いつも、何日空いてる? という日にちのやり取りだけだ。平日にしか会わない私たちは、日にちさえ合わせれば、時間は自動的に決まるから、待ち合わせをしたことがなかった。
だから、夏織くんが時間に遅れるイメージがあんまりなかったから、ちょっとびっくりした。まだ、夏織くんの知らない一面があるんだって思うと、それすら、愛おしくなっちゃいそうだけど、私たちはまだ、友達以上恋人未満だったんだった。
『いいよ。その代わり、罰金10万ベルね』
どうぶつの森の通貨で罰金を言い渡すと、すぐに既読がついて、
『それはひどい笑』
って返って来たから、
『返信する前に走れ笑』
と返して、私はショルダーポーチの中にiPhoneをしまった。
大体、小学生のときの私も、夏織くんも、恋がどういうものなのかってことを、明確に理解していなかったんだと思う。
こないだ、紗耶香に言われた『いいなぁ。羨ましい』って言われたことが妙に印象に残ったままだった。確かに、私と夏織くんが家の中でふたりで、ゲームをしていることは、ほかの付き合い始めの人たちからみたら、羨ましいのかもしれない。
紗耶香は、まだ二人きりになるのすら少なくて、お互いに忙しいから、メッセージのやり取りと通話ばかりになっちゃってるって言ってた。だけど、私と夏織くんは、毎週会っている。
ふたりきりになることは、ただ遊んでいるだけだった。
それはどの小学生と同じように、ただ、友達として、その時間を楽しむためだったんだと思う。
だけど、恋だってことは、私は小学五年の転校したあの日から、自覚していた。
それなのに、私は恋をどうやって自分のなかで処理すればいいのかわからなかったし、たぶん、夏織くんも私のことを恋として、意識してくれていたなら、同じようにどうすればいいのかわからなかったのかもしれない。
だって、五年生のときに、付き合ってるって噂にされて、クラスでバカにされて、私も夏織くんも嫌でも、警戒しなくちゃいけないくらいになってしまったんだから仕方ない面もあるよ。
でも、そんな過去とも、今日で本当にお別れできるかもしれない。
もし、夏織くんに今日、告白されたら、もちろんすぐにこう返そうと思う。
「私も。だけど――」
「おまたせ」
急に声をかけられて、ビクンとした。声がしたほうを向くと、夏織くんが、胸くらいの高さで、小さく手を振っていた。水色のオーバーシャツにインナーに黒のTシャツ、そして、ネイビーのカーゴパンツをを履いていて、いつも見る印象と違って、少しびっくりした。
私は、これがデートなんだって思って、朝、想像していたより、もっと嬉しくなった。
6 夏織
「ちょっと、びっくりした」
「そんなにびっくりさせたかな」
杏依菜に声をかけると、両肩をビクンと上げて驚いていた。僕は一瞬、変なことしたかなと思ったけど、ほんのちょびっと遅刻したくらいで、大したことはしていないように思えた。
僕の方を振り返ったその姿は大人っぽくて、いつもの杏依菜と違った。その可愛くて、女の子らしい姿を見て、これから、デートしに行くんだって思った。だから、服のことを褒めてみることにした。
「服、似合ってる」
「あ、ありがとう。夏織くんも、いつもと雰囲気違うね」
「最近guで買ってもらった服で、ちょっとだけ、気合入れてみた」
「似合ってる」
杏依菜がそう言い終わると、お互いに黙ってしまった。今日は六月なのに、少しだけ寒気が張り出したみたいで、最高気温は25℃になるらしかった。晴れているのに、まだ空気が冷たくて、何日間か、暑い日が続いていたから、また春に戻ったみたいな気まぐれな気温のように思えた。
「涼しいね、今日」
「涼しくてよかったかも」
「え、なんで?」と言って、杏依菜は笑った。
guで服を買ったのは、先々週のことだった。中学生になったし、新しい夏の服がほしいって頼んだら、親が買ってくれた。あまり、無自覚だったけど、もしかしたら、こういう日が近いかもって思って、垢抜けた服がほしかった。
TikTokで調べて、紹介されていた服を一式買った。それ以外の服は今までの延長だから、今はこれしかないけど、次、もし、デートするならもう一種類のコーデもほしい。
「だって、この服、暑かったら着れなかったかもしれない」
「そう言われてみれば、私もかも」
「そしたら、俺、デートに最高の日、選んだかもね」
「自画自賛して、変なの」
「ほら、行こう」と言って、僕は歩き出した。
「待ってよ」と言って、杏依菜は僕の隣に駆け寄ってきて、そして、僕の横を歩き始めた。
その杏依菜の姿を見て、僕は気がついた。
そっか、家にばかりいても、こういうことは起きないんだって。
7 杏依菜
国分寺駅近くのセブンで炭酸水をふたつと、ソーダグミを買った。そして、JR中央線の線路を超えて、私たちの地元の外を出た。地図が苦手な私にとって、駅の反対側に行くのは初めてだった。向かっている道のアスファルトは日差しを白く反射していて、キラキラしていた。
季節外れの寒気の冷たい風さえなければ、最高の夏の始まりになったのにとも思った。だけど、暑さにうんざりして、外に出たくない日々が、また始まるんだと思ったら、それはそれで憂鬱だ。
いつもみたいに、くだらないことを言い合って、あっという間に私たちは武蔵国分寺公園の前にたどり着いた。信号を渡り、公園に入っていく。タイルがひかれた二本の道があって、その道と道の間は背が低い植物が植えられていた。
「どう? デートっぽくない?」
「デートっぽさもなにも、デートでしょ」
「そうだよね。野暮なこと聞いたかも」
夏織くんは私にでもわかるくらいぎこちない返しをしてきた。それで、ちょっとだけいつもと違う夏織くんのわずかな緊張に私も飲み込まれて、私もなんだか、自分の会話に自信が持てなくて、ぎこちなくなっているような気がする。
そんなやり取りをしながら、私たちは左側の道を歩いていく。道の先は開けていて、少し先に、六月らしい明るい緑の芝と木々が見えた。冷たい風で、それらは時折揺れていた。さらに歩いていくと、左側の青空の手前に白いビルが何棟も見えてきた。
「緑の先に白いビルがいくつも見えるの、不思議だね」
「あれ、西国分寺駅のビルじゃないかな」
「そ、そうなんだ。へえ」
やっぱり、私もぎこちなくなってきている。いつもはこんなんじゃないのに。
「普通、プリとかとったり、原宿とか、渋谷とかにいくよね。この辺住んでたら」
「普通はね」
急にそんなこと言われたから、自分が意図しないで、角が立つような言い方になってしまったかもと思い、左側の夏織くんを見ると、夏織くんは苦笑いをしていた。 その夏織くんの表情を見ながら、私は話を続けることにした。
「――まだ、私たちには早いんじゃないかな」
「本当にそう思う?」
「うん、本当だよ」
「ありがとう、大事なことってさ、騒がしいところじゃ出来ないかなって思って、ここにしたからよかった」
――大事なこと?
「夏織くんにそんな、含みあるような言い方されたら、私、期待しちゃうよ」
「いいよ。期待してて」
自信満々にそう言われたから、あー、これは本当に起きるんだって思うと、いつの間にか心臓が派手にドキドキいい始めた。ドキドキしながら、私たちは、真ん中の芝の広場を丸く囲うようにできている道を右に進み始めた。
先に見えるのは、青空で、今日の青空は若干、白さも混じった薄い水色に見えた。
結局、私たちは、黙ったまま、三角屋根がついたベンチにたどり着いた。お互いに黙ったまま座り、左に夏織くん、右に私が座った。目の前には、風で揺れる木々と、芝の広場が広がっている。芝の広場では、ボールで遊んでいる親子や、何組かのカップルが歩いている。芝の広場の先には、さっき見た、白いビル群も、木々の間から時折見えていた。
私たちが歩いてきた道を二匹のトイプードルと女の人がすたすたと私たちの前を通り過ぎていった。
こんなに穏やかそうな土曜日なのに、私の心臓はさっきから、ずっとうるさい。昨日、慌てて見たTikTokの恋愛テクニックでは、こういうとき、待っていたほうがいいって、解説していた人の動画を思い出した。
――だけど、待てない。私から、切り出してみよう。
両膝に乗せた両手をぎゅっと握ったあと、すっと息を吐いた。
「ねえ」「なあ」
ほぼ同時に私と、夏織くんは、お互いのことを呼びあったみたいだ。左側の夏織くんと見合ったままの状態になっている。
――どうしよう。いいよ、ここは私のほうから譲ろう。
「いいよ」
「いや、杏依菜のほうがわずかに先だった」
「そういう細かいところはいいよ。ねえ、聞かせてよ」
いい女風に言ったあと、再び前を見た。そして、久々にこのいい女な感じを出すことしたなって思って、急に自分が恥ずかしくなって、思わず、右手で口を触った。そして、また右手を元あった膝の上に乗せ、再び、夏織くんを見た。
「なあ、杏依菜」
「なに?」
「今、緊張してる?」
「――うん、してる」
「例えてみてよ」
「星の洪水で、黄色くてキラキラした川を渡りたくても渡れない織姫みたい」
「うーん、じゃあ、サボるために流氷に乗った一匹のペンギンが、ニーチェの哲学書を読んで、恋がしたくなったみたい……、かも」
「あれ、今日は私より上手いね」
「めっちゃ考えてきた」
ふふっと夏織くんが笑ったから、私も同じようにふふっと笑った。それでも私の緊張はとけないし、夏織くんの緊張もとけていないような気がする。
だけど、言わなくちゃ。
やっぱり、言わないとフェアじゃないよね。
離れ離れになるんだから、そもそも、付き合うとか、そういうのって無理だよね。私と夏織くんは、このまま、どうぶつの森をやる仲で終わってもいいのかもって、楽しいはずのセブンでの買い物しているとき、ふと思ったんだ。
夏織くんは、ようやく私を外に連れ出してくれたけどさ、もしかして、このことを言わなきゃ、ダメだよね。
――夏織くんから、告白される前に。
「杏依菜」
夏織くんの顔はもう、真っ赤になっていた。それも耳まで真っ赤で、いきなり夏織くんの周りだけ、真冬になったんじゃないかってくらい、赤くなっていた。きっと私も、赤いと思う。顔に熱を感じるし、胸のなかで、今までのつらかったこととか、会いたかった気持ちとか、図書館のテラス席で一年ぶりに夏織くんと話した日のこととか、とにかく、胸のなかでぐちゃぐちゃと重たいものが混ざっているような変な感覚がした。
「――やめたほうがいいよ」
「え、それ、どういう意味?」
「そのままの意味――」
私はすっと、息をついた。そして、言うことにした。
「夏織くん」
「――なに?」
「私ね、この夏で引っ越すことになったの」
あー、言っちゃったよ、私。
また自然と涙が溢れそうなくらい、つらさが混ざって、その胸のぐちゃぐちゃを頭で処理できないくらい、恋が自爆しそうだった。
だけど、その自爆はいつもの痛い自爆とは、もう違う。
これは虚しい恋の自爆だ。
8 夏織
引っ越すんだ――。
さっきまで、杏依菜の頬は赤かったのに『やめたほうがいいよ』って言われたあとから、一気にその赤さがひいたような気がした。そして、すでに涙が溢れそうなくらい、悲しそうな顔になっていた。
やめたほうがいいよって、言われると思ってなかったし、引っ越しのことも言われると思ってなかったから、僕の頭の中は一気によくわからなくなってしまった。
「この夏って、あと二ヶ月くらいってこと?」
そう聞くと、杏依菜は小さく頷いた。また季節外れの冷たい風が吹いた。この風の所為で夏なんて、永遠に来なければいいのにって思ったけど、時間は平等に流れている。
「一ヶ月。たぶん、夏休み入ってすぐに引っ越すと思う」
「そうなんだ。――信じられない」
いや、信じられないのは、杏依菜のほうだろって思った。言った直後に、思ったことをそのまま言ってしまったことを僕は後悔した。
「私も、最初は信じられなかった。でも、すぐに言ったよ。夏織くんに」
「すぐってどういうこと?」
「――だって、昨日の夜、聞かされたんだよ。初デートの前日に。こんなの信じられないでしょ」
「――そうなんだ」としか、言いようがなかった。強制的に止められたみたいに、次の言葉が見つからない。聞くことはあるはずなのに、ショックでそれが見つけられない。
「――願ったの、またVoidタイムだったのかな」
「たまたまだよ。たまたま、神様がいたずらして――」
「これがたまたまなの? いたずらだったら教えてよ!」
あたりに杏依菜の声をが響いた。一瞬、周りからの視線を感じたけど、そのあとすぐに木々が、やや大きく揺れる程度の風が吹いて、僕たちは注目からとウザかったように思えた。
「――ごめん、無神経すぎたね」
そんなことを、小さい声で言ってしまったから余計に情けなさが増した気がした。杏依菜はすでに何粒かの涙を流していた。
また僕は杏依菜を泣かせてしまった――。
どうして何度、杏依菜を泣かせるんだろう、僕は。
「もうさ、少しは行動範囲広がったから、関東だったら、電車で会いに行くよ」
「北海道」
「――遠いな」
「行きたくないよ。旭川に」
「また、寒そうだね」
「今度は、日本一寒いところだよ」
ぼつりと、杏依菜はそう言ったあと、白いバッグからティッシュを取り出して、涙を拭った。去年の秋、図書館で再会したときのことを思い出した。東京から旭川に行くには、きっと羽田空港から、飛行機しかないだろう。どれだけ離れているのか、わからない。ただ、ものすごく遠いのはわかる。
僕も残酷な情報のシャワーでまだ、頭が追いついていない。状況が飲み込めないし、事実を飲み込みたくない。
この街から杏依菜がいなくなったら、一体、僕はなにをすればいいんだろう。
「って、お父さんが言ってた。お父さんの転勤で勝手にそうなったのに。お父さんも、お母さんも北海道、好きみたいで、すごい喜んでたよ。私だけ、家族のなかで喜んでない。どうして喜んでないないかわかる?」
杏依菜は、僕を見て、口角を上げた。それに合わせて、涙が流れた。
「離れ離れになるから」
「そう、そうだよ。――せっかくまた、一緒になれたのにね」
「――いつになるかわからないけど、会いに行く」
「私も。また、約束が増えたね」
そう言われたから、僕は、右手の小指を杏依菜のほうに出すと、杏依菜はあのときみたいに、小指を僕の小指に結んだ。
☆
今日、久々に日記を書く。
僕と杏依菜は、あと何度、どうすることもできない壁に立ち向かわなければならいんだろう。初デートは楽しいまま終わるはずだったのに、杏依菜と別れ際、虚しさで苦しかった。
「じゃあね。今日も楽しかった。ありがとう」
夕暮れの中、そう言って、笑顔で手を振ってくれた杏依菜の姿が目に焼き付いた。やっぱり大人っぽい格好はすごく似合っていて、もっと一緒にいたいと思った。
今日、本当は手紙を渡すつもりだった。
だけど、やめた。
『やめたほうがいいよ』という杏依菜の言葉が気になったから、渡すことをやめてしまった。今、こうして振り返ると正解だったのかもしれない。杏依菜は急に決まった引っ越しで動揺していたし、そんな中なのに、僕に会ってくれた。
杏依菜の気持ちをこれ以上、混乱させたくないから、僕からの一方的な思いをただ綴っただけの手紙を渡すのは、良くないと思った。
本当は告白するつもりだった。
杏依菜が引っ越しのことを告げる直前までは。
帰って、旭川と東京の距離をググったら、1280キロだった。
1000キロ以上離れるなんて、どうすればいいんだろう。
今は、杏依菜が引っ越すまで、たくさん杏依菜と話したい。
9 杏依菜
楽しいと、虚しい。
今日の一日を表すと、こういう感じだった。
私は今、日記を書き、今日のことを振り返っている。
今日は、夏織くんと初デート。夏織くんは私のためにかっこいい感じで来てくれたし、服は最高に似合ってた。大きい公園に行って、ふたりで炭酸水飲みながら、ソーダグミ食べる感じがすごい楽しかった。あと、駅ビルのセレオ国分寺に寄って、紀伊國屋書店で、文庫コーナー見たのが楽しかった。
そして、駅前のタイトーステーションに寄って、初プリも撮った。
やってることは、恋人だよね。
だけど、私は、一ヶ月後に遥か遠くに行ってしまうし、いつ会えるかわからないのに、夏織くんを縛り付けるような、遠距離恋愛をするのはよくないと思う。
もしかすると、私たちが高校生だったら、遠距離でも大丈夫だったのかもとも思う。高校生なら、今よりももっと、自由になれるはずだから、遠距離でも定期的に会える手段を作れる気がする。
だけど、中学一年生のふたりには、そうする手段がほとんどない。
だから、今まで私のこと支えてくれてありがとうって、笑顔で身を引くのがいいきがするんだ。
残念だけど、これが運命だから、私も強くなるしかないよね。
夏織くんみたいに。
小学校六年生の秋に、また夏織くんと遊び始めてから、夏織くんには、私のことを必要としてくれているんだって思ってたし、昨日の夕方までそう思っていた。
でも、それは違うんだと思う。
私がただ、夏織くんに甘えていただけなのかもしれないって、夏織くんに手を振ったときに思った。
だから、夏織くんがいなくても、私ひとりで強く、頑張っていかなくちゃ。
夏織くん、ごめんね。
夏織くんが告白してくれようとしていたのは、わかったんだ。
なのに、私から断っちゃった。だって、私は遥か遠くに行ってしまって、夏織くんにふさわしくない女の子になっちゃうから。
だけど、引っ越すまでの一ヶ月の間だけは、夏織くんの恋人のつもりで接するね。
私はやっぱり、夏織くんのことが大好きだから。
10 夏織
あっという間に夏休みに入った。
初デート日の冷たい風が嘘だったみたいに、ここ最近はものすごく暑くて、溶けそうな日ばっかりだった。
今日も白い部屋でどうぶつの森をやっている。ただ、ベッドの横には、引っ越し用の段ボールが二つ置いてあった。
ただ、 それ以外はいつも通りで白いボックスの上にSwitchを置いて、やっているのは変わらないけど、いつもと違うのは、ふたりで壁に寄りかかって、横並びに座って、動物の森をやっている。
「結局、引越し業者、上手く見つからなくて、引っ越しが一週間ずれたんだけど、結果的にこうして、夏織くんといれるから、嬉しい」
「俺もだよ。それのおかげで、ニンテンドーオンラインの設定もできたから、これからもどうぶつの森、できるね。それを例えると?」
「冴えないうさぎが金の人参を掘り当てて、いきなりテラスハウスを買って、プールサイドでシャンパン飲んでるくらい最高」
「めっちゃQOL爆上がりしてるじゃん」
笑いながらそう返すと、杏依菜も一緒に笑った。
杏依菜と話し合い、ニンテンドーオンラインに入って、LINEで通話をしながら、オンラインでどうぶつの森をやることにした。今日は、それの設定もできた。
杏依菜は、大きく息をついたあと、Switchから手を離し、両手を真上に上げて、身体を伸ばした。
だから、僕もSwitchから手を話して、杏依菜のほうを見た。
「ねえ」
ほら、話しかけられると思った。
「なに?」
「元気でいてね」
「まだ、気が早いよ」
「たしかにそうだけどさ。ただ、言っておきたかったの。これから、引っ越しで忙しくなると思うし」
「そうだね」
「それに旭川からお母さん、帰ってきたら、振り回されるだろうし」
杏依菜のお母さんは今日、日帰りで旭川に行ったらしい。物件の引き渡しと、会社で借りてたお父さんのマンスリーマンションも引き上げるのを手伝うみたいだ。
だから、その間を使って、僕は朝から杏依菜と会っている。
「そうだね。引っ越しって面倒だからね」
「夏織くんも転勤族だから、さんざん振り回されてるもんね。なんか、そういうところで私、夏織くんに救われたような気がする」
「俺もだよ。杏依菜がいなかったら、ここでの毎日、楽しくなかった」
「私もだよ」
お互いに見つめ合ったまま、しばらくの間、黙ってしまった。どうぶつの森ののんびりとしたBGMと、エアコンが風を送る音が響いている。
「ねえ」
「なに?」
「きっと、夏織くんなら上手くやれるよ」
「ありがとう。杏依菜も上手くやれるはずだよ。頑張らなくても」
「うん。――今まで、ありがとう」
本当にこれが最後かもしれないんだ。杏依菜とこうやって、話すことが。
そう思うと、急に虚しくなってきた。
11 杏依菜
ありがとうと夏織くんに伝えられてよかった。
それさえ伝えられたら十分だと思った。
空っぽになった部屋を眺めて、意外とこの部屋に住んだのは、短かったなって思った。三年もしないでこの部屋を去ると思っても見なかった。空になった部屋に朝の日差しが入り込んでいる。今日、短かった私の東京暮らしが終わる。
羽田からの午後の飛行機で、北海道へ向かう。
デスクが置いてあったところに機内持ち込みサイズのキャリーバッグが置いてある。そのなかに日記とSwitchと数日分の服を適当に入れた。
結局、引っ越しの準備とか、そういうので忙しくて、あのあと、夏織くんに会えなかった。
だから、あのとき、言いたかった気持ちを言ってよかった。
引っ越すまでの一ヶ月間、夏織くんのことを勝手に恋人だと思って過ごしてよかったと思った。一ヶ月限定の恋人。それも、夏織くんに許可なんてもらっていない私が思い込んだ関係。
できるだけ、夏織くんに近づけるときは近づくことにした。ゲームするときだって、いつもは白いボックス越しに向かい合っていたのに、この一ヶ月は夏織くんの隣に座った。そして、たまに事故でお互いの手が触れたり、お互いの足が触れたりすることもあった。そのたびに、手を繋ぎたくなった。
だけど、本当の恋人じゃないから、手は繋がなかった。本当は、その場で抱きしめてほしかった。それくらい、寂しさを感じていたし、今日になっても、ノリノリのお母さんと対をなすように、私は旭川になんか行きたくなかった。
結局、夏織くんとは、手も繋がなかったし、抱きしめられなかった。
もし、初デートのあの日、本当に夏織くんが告白しようとしていたとして、あのとき、私が『やめたほうがいいよ』って伝えなかったら、私たちは本物の恋人になっていたかもしれない。
それを止めたのは、私だ。
遠距離なんて無理だもん。
週一で会ってたから、すぐに会いたくなると思うから。
もし、突然の引っ越しがなければ、私と夏織くんは、この夏、たくさんの思い出を作ろうとしていたかもしれない。
でも、もう、 すべては絵空事だ。
握ったままのiPhoneがバイブレーションした。iPhoneを見ると、夏織くんからメッセージが来ていた。
『今から、外に来て』
――来てくれたんだ。
『いいよ』とメッセージを打ち込むとすぐに既読がついたから、私は慌てて、家を出た。
マンションのエントランスを出ると、夏織くんが立っていた。
夏織くんはいつもみたいに胸くらいの高さで、小さく右手を振ってくれた。だから、私も小さく手を振り返し、夏織くんの目の前にたどり着いた。
「来てくれたんだ」
「急に会いたくなったし、こうしたかった」
夏織くんがそう言っている間に、私は思いっきり夏織くんに抱きしめられた。夏の日差しの所為で、暑いのか、抱きしめられている今、夏織くんの熱を感じて、暑いのかわからなくなった。突然のことだったけど、私はゆっくりと、両手を夏織くんの背中に回して、ぎゅっと力を入れた。
「もう、噂なんて、気にしなくていいんだ。だって、杏依菜はこの街を出るから」
夏織くんは私の耳元で静かにそう言った。
「そうだね。すごい男らしいと思う。万葉集で『ますらを』って言うんだよ」
「そんな返し、今、求めてない。だけど、しばらく聞けないと思うから、覚えておく。――いつか、また会おうね」
お互いに力を抜き、そして、離れた。
「絶対だよ」
そう返して、私が右手の小指を出すと、夏織くんは図書館の中庭で約束したときと同じように、私の小指を結んでくれた。
この日の夜、到着した旭川空港の気温は17℃だった。
3章
1 夏織
久々に日記を書く。
ようやく中学校を卒業して、来月からは、高校生だ。
今日、合格発表があって、自己採点したとおり、合格していた。そのことを杏依菜にメッセージを送ると、『私も合格した』って返ってきたから、お互いに『おめでとう』のスタンプを連打しまくった。
杏依菜がいなくなったこの二年半は、日々に色がなく、無意味なものに変わったように思えた。杏依菜と一緒に通うために、選んだ中学も杏依菜がいなくなったあとでは、ただ、遠くて、面倒なだけになった。たまにずる休みして、ベッドのなかで一日中ゴロゴロしたりしたけど、そんなことをしても、気持ちは埋まらなかった。
結局、この埋まらなさを補うには、勉強しかないと思い、ひたすら勉強をするようになった。
あとは、どうぶつの森。
月に1~4回、iPhoneにイヤホンを接続して、LINEの音声通話をつなげたまま、オンラインで杏依菜とどうぶつの森をやっていた。たまにビデオ通話にして、お互いの顔見て、話すこともあった。画面越しで観る杏依菜の部屋は相変わらず白くて、真冬に見せてもらった旭川の外の景色も白かった。
杏依菜は僕が思ったとおり、旭川の学校でも、それなりに上手くやれてるみたいだった。
遠くにいるのに、杏依菜はこの二年半変わらずに、僕のことを気にかけてくれた。
『いい加減、友達つくりなよ』といつも笑いながら言われた。
そう言う杏依菜も結局、旭川でもあまり友達は作らなかったようだ。
杏依菜が北海道に行く日、悩んだ末に突然、会いに行って、杏依菜のことを抱きしめた。そうしてよかったと今でも思っている。だけど、そのときも僕は告白しなかった。
ただ、杏依菜を抱きしめたいと強く思ったから、あの日の朝、慌てて家を出て、走って、会いに行った。
もう、僕は杏依菜のことは友達以上だと思っている。
友達以上恋人未満ってこういう感じでなるんだって、妙に納得したけど、北に向かって1280キロの距離を中学生では、克服することは、難しそうだったから、結果、意図的にこの関係を選んだ。
あの日の杏依菜も、たぶん、同じことを考えくれてたんだと思う。
だから、『また会おう』って言ったら、『絶対だよ』と言って、小指を差し出してくれたんだと思う。
とにかく、僕はこの二年半で孤独にも慣れた。そして、杏依菜と過ごしていたときよりも、ずっと強くなったと思う。
なにも身動きができなかった中学生時代が終わった。だから、高校では杏依菜に会うために、すぐにバイトを始めるつもりだ。そこで北海道への往復運賃と、宿泊費を早く稼いで、早く、杏依菜に会いに行くんだ――。
ようやっと、自由を手に入れたんだ、僕は。
2 杏依菜
私は今、日記を書き、今日のことを振り返っている。
LAMYの黄色いボールペンで、私は書き進める。何度もインクを変えたボールペンに愛着を抱くほど、もう、だいぶ長くこのボールペンを使っている。
ようやっと、ふわふわした中学生時代が終わった。
その気持ちを今、書き進めている。
最初、旭川に引っ越したときは、夏で涼しくて最高じゃん。こんなの余裕だよって思いながら、8月19日に夏休みが終わることにいきなり面食らった。これまでで一番短い夏休みじゃんって思ってたら、冬休みが1月21日まであって、ラッキーだった。
二学期に転校した私は、やっぱり珍しい人として、迎え入れられた。
また、やり直しかって思いながら、
『よく頑張ってきたんだと思うよ。力抜いてやろう』と小学五年生のとき、夏織くんに言われたことを、ふと思い出して、はいはい、転校ルーティンと思いながら、緊張せずになんとかやり過ごすことが出来た。
環境が変わっても、私は2軍の地味なほうを選んだ。今回は、転校した虚しさが拭えなくて、気持ちは毎日、沈んだままだった。今更、1軍のキラキラした世界に合わせる気にもならず、紗耶香みたいなちょうどいい温度感の友達を探したけど、上手くいかなかった。
そのことを通話で紗耶香に言ったら、ゲラゲラ笑われたあと、『いつでも通話していいよ。私も杏依菜以上に気が合う人いないから』って、優しく言ってくれた。
夏織くんが、友達を意図的に作らないでいることが、いかに強いことか思い知った。
そう、夏織くんとは、この二年半、ほぼ毎週、どうぶつの森をしていた。夏織くんはこの二年半、私のことを忘れずにいてくれた。その事実だけで嬉しかった。凍てついて、ダイヤモンダストがキラキラして、凛としすぎな憂鬱な朝にも、立ち向かうことができたし、学校であまり上手くいかなくても、立ち向かうことができたのは、夏織くんと、オンラインで繋がっていたからだと思う。
それに、私たちは「会いに行く」って約束を二度もしたんだから、お互いに離れている今は、とにかく強くいなくちゃいけないんだって思っていた。
人間関係を犠牲にした特典なのか、私もしっかりと勉強して、家から近い、第一希望の高校に合格した。
お父さんは、最初、出向だったのに、旭川が気に入ったみたいで、出向先の会社にそのまま転籍になった。つまり、私はもう、転勤族ではなくなり、残り数年は、道民として生きることになった。
高校に入ったら、まずバイトして、使えるお金増やして、会いに行きたいな。
3 夏織
今日も記録を書く。
高校が始まり、桜も散り、そして、もうゴールデンウィーク前だ。
中学と違って、高校では似たような人種が集まるから、それなりに気が合う人を四年ぶりに見つけたような気がする。別に群れても仕方ないような気もするから、適度に距離を置きながらも、それなり程度に友達と呼べそうな数人とつるんでいる。
ファミレスのバイトが決まった。ゴールデンウィーク前に決まってよかった。上手く行けば、夏休みに杏依菜に会えるかもと思った。ただ、初めての仕事だし、どうなるかわからない。
シフトは希望シフト制で一応、融通が利くらしいけど、それもどうなのかわからない。
わからないことだらけだけど、店長が電話越しで、四月から同い年の高校生の女の子が一人いるから、一緒にゆっくりやってくれたらいいよって言っていた。僕の出勤はゴールデンウィークを過ぎてからになった。
杏依菜もローソンのバイトが決まったらしい。それを報告しあったとき、
『お互いに部活とか、そういう青春しないで何やってるんだろうね』って、言われたから、
『俺らは中学校で青春を殺したんだよ』って返すと、
『例え、下手すぎ。こういのはね、水族館の二匹のアシカが広い海で芸を見せたくなって、脱走するようなものだよ。とか言うんだよ』って言われた。
そんないつものくだらないやり取りをして、笑いあったあと、
『通話だけじゃ、物足りないよね』って、杏依菜がポツリと急に言った。
それが僕の頭のなかで、今週、ずっと残っている。
4 杏依菜
陰キャfjkの4月20日
さっき、紗耶香と久々に通話した。紗耶香は高校に入って、クラスガチャを当てたらしい。おめでとうって伝えると、こんなの初めてかもって、いたって冷静にその幸運を受け止めていた。
そして、夏織くんのことを聞かれたから、
『まだ、どうぶつの森やってるよ。それに、バイト始めてお金貯めたら、今年中に絶対会うんだ』って言ったら、
『ようやっとだね。あともう少しじゃん。頑張れ』って、笑いながら言われた。
紗耶香は中1のときに付き合い始めた彼と、上手くいっているらしかった。私は、友達以上恋人未満のままだ。
私は高校生になって、またしてもクラスガチャを外したみたいだ。
fjkになったって、みんなバカ騒ぎして、 浮かれている感じで少しがっかりした。もう少し、大人しい感じの人が多いのかと思ってたけど、どうやら、クラスガチャを外したみたいだった。1軍な感じの女子に拒否反応しかなくて、絡まれても、あははとか言って、毎日、適当に誤魔化している。
てか、教室でTikTok撮るなよ。踊るなよ。爆音で音楽かけるなよ。比較的自由な学校だとそうなるの?
それに、Be Realもパシャパシャ撮るな。
そういうノリに私って、ついて行けないんだなって思った。
夏織くんに、セコマのバイト決まったって言ったら、『セコマってなに?』って言われて、オレンジ色のコンビニって言ったら、『おめでとう』って言われて嬉しかった。
夏織くんも、ファミレスで働くことになったらしくて、私もおめでとうって言った。春休み、どうぶつの森をしているときに、『バイトやるわ』って話してたけど、こんなに早く見つけてくれてるのが嬉しかった。
だから、こないだの通話の最後にこう伝えてみた。
『私たち、本当に会える日、近いかもね』
『前は一年空いて、今回は三年か』
そうだね、私たち、いつも離れ離れだね。
5 夏織
学校が終わり、自転車でバイト先に向かっている。もう、バイト先の看板が見えてきた。
5月8日にこの店で働きだして、もう一ヶ月が経とうとしている。ホールの仕事には慣れた。配膳ロボットと一緒に仕事したり、ドリンクバーの補充をしたり、レジで会計したり、仕事ってこういう感じなんだって思った。
店に着き、自転車を降りた。裏の従業員口前で、暗証番号を入力して、いつものように店舗に入った。
更衣室で着替え、事務所に行き、店長に適当に挨拶して、タイムカードを押した。
キッチンに行き、適当に挨拶すると、あの女がいた。
「――おはようございます」
「おはようございます」
小さく、不機嫌そうな声で返された。同級生の新山葵(にいやまあおい)はいつもこんな感じだ。
初めて会ったときも感じが悪かった。
「私のほうが、先輩だから」
「え、一ヶ月も変わらないのに? しかも、同級生なのに?」
「同級生とか、それ、関係ある?」と冷たい感じで、新山葵は僕に返した。
「いや、関係ないだろうけどさ。よろしく」
「てかさ、名前なに?」
「佐伯夏織(さえきかおる)」
「ふーん、なんのために入ったの?」
「遊ぶためだよ」
「へえ、私、そういうヤツ嫌いだわ」
新山葵がそう言ったあと、ちょうどレジのベルが鳴ったから、新山葵はレジのほうへ行った。
そんなヤツだ。だから、ものすごくとっつきにくい。
勝手に一方的に嫌われる意味もわからないし、職場で唯一の同級生なんだから、少しは仲良くすればいいのにとも思った。だけど、そもそも、僕がそんなこと言えるような良好な人間関係を築ける人間じゃないし、そんなこと言える人間じゃないことも自分で十分わかっている。
レジの呼び出しが鳴ったから、僕は新山葵をおいて、レジへ向かった。
バイトが終わり、店を出て、自転車のチェーンロックを開けていると、うしろから声をかけられた。
「佐伯くん」
その声で振り返ると、新山葵が立っていた。
「――お先に失礼します、お疲れ様です」
「いや、一緒に上がりなんだけど」
いつもの冷たそうな感じで新山葵はそう答えた。僕は自転車のチェーンロックをあけ、それをかごのなかに入れた。そして、自転車を押して、歩き始めた。なんか、僕に用事あるのかもしれないと思って、すぐに自転車には乗らなかった。
「あ、ちょっと待ってよ」
ほら、やっぱりだ。新山葵は僕の左隣に駆け寄ってきた。
「なに? なんか忘れ物でもした? 俺」
「いや、そうじゃないけど」
「じゃあ、なに?」
「一緒に帰ってくれない?」
なんで、嫌いって言われたヤツと一緒に帰らなくちゃいけないんだよ――。そう思って、新山葵を見たら、新山葵は夜の薄暗い中でも、切実そうな表情をしているように思えた。だから理由を聞くことにした。
「ナンパ断ったけど、しつこかった」
そう小声で言ったあと、視線を客用の出入り口の方を見た。そこには、怪しそうな大学生くらいの男が立っていた。
「わかった。家どっち?」
「上水本町(じょうすいほんちょう)」
「近いじゃん。そっちは小平市(こだいらし)だけど」
「いいから、早くしてよ。めっちゃ見られてて怖い」
僕はもう一度、大学生の男を見て、わざと睨むと、彼は諦めたのか、ようやっと店から離れ、僕と新山葵と反対方向に歩き始めた。
お互いに無言のまま、数分くらい、黙々と歩いた。道を通る車の音と、六月の夏の始まりの匂いに意識がいく。白色LEDの街灯は点々としていて、22時を過ぎた今、心細かった。今日は金曜日で明日は土曜日。学校は休みだけど、僕は明日もシフトに入っている。左側にいる新山葵をちらっと見ると、新山葵は黙々と、僕の隣を歩き続けている。
「なあ、お礼くらい言ったら?」
「嫌だって言ったら?」
「なんで嫌なんだよ」
「本当は今日、コンビニでご褒美買おうと思ってたのに、これじゃあ、怖くて買えないじゃん。最悪なんだけど」
僕はすっと息をつき、歩きながら、念の為に後ろを見た。車のヘッドライトの白が目立つ、薄暗い世界にあの大学生の男はいなかった。
「ぱっと見、いないよ。そこまでの執念を感じない。その程度の女だって思われたことだよ。どんまい」
「意外と毒舌なんだね。傷つくわー」
棒読みで新山葵は僕にそう返した。僕は思わず、新山葵を見て、睨んでしまった。せっかく心配してやってるのに、なんだよ。って意味をこめて。微温い夜風が吹き、新山葵のボブの毛先が揺れた。風の所為でかすかに耳元が見えた。その瞬間、耳についているシルバーのピアスが対向車のヘッドライトの光でキラッとした。
「なあ」
……。
「なあって」
……。新山葵は、ろくに返事もしないで、ただ、黙々と歩き続けていた。
「ガン無視かよ。ったく。てかさ、どうして俺のこと嫌いなの? 今日、こうして護衛についてるんだから、教えてよ」
「――遊ぶためにバイトしてるんだって思って」
「ひがみかよ。それだったら、余計ムカつくわ」
「いや、ひがみじゃない。私は、親の条件として、働かなくちゃいけなくなって、嫌々バイトしてるから」
「――そうなんだ」
第一印象は最悪だったけど、そういう事情があって、僕にあたってしまったのかもと思った。新山葵が嫌々バイトしてるのに、僕が新山葵にとってムカつくことを言ったから、嫌われたのか。
「通信制の高校に行ってるんだ。人間関係、嫌だから。ただ、うちの親、厳しいから、通信制の学校に行く条件として、週三日でいいから、バイトするのが条件になったの。それも、人と触れる仕事じゃないとダメだって」
「厳しいね。俺だったら、親にブチギレるかも」としか、僕は言いようがなかった。
いきなりそんなこと言われも、っていうのが正直なところだった。そもそも、僕だって人間関係は嫌だ。だけど、高校生可のバイトで、高校が終わって、すぐに行けるバイト先で条件を絞ると、選択肢がなかった。ネットで調べて、そのわずかな選択肢のなかで、どれが一番楽そうか考えた結果、ファミレスのホールが一番いいんじゃないかって思えた。
「でしょ。悩みの九割は人間関係って、よく言うじゃん。一般的には、普通校に入って、JKらしいキラキラした人間関係のなかで楽しいことしたいって思うのが、JKじゃん。だけど、私はその中に入りたくない。どうしてかわかる?」
「悩みの九割は人間関係だから。小論文みたいな、問題の出し方」
「そういう細かいところはいいでしょ。てか、ちょいちょい、細かいところでインテリぶるなよ」
「気にしすぎなんだよ。新山葵が」
そう言い返すと、目を細めて、睨んてきた。だから、僕も目を細めて、眉間に力をいれ、新山葵を睨んだ。すると、なぜかわからないけど、新山葵はふっと、乾いた声で笑った。
「いや、笑うの意味わかんねーだけど」
「だって、眉間にめっちゃシワ溜まってたから。佐伯くん、そんな表情するんだって思って」
「悪いけどさ、からかうなら、ひとりで帰ってよ」
「嫌だ。あそこのセブンでコーラ買うから、護衛して。私、怖いなぁ」
「言いたいこと、言いたい放題して、ずるいな」
新山葵にそう返すと、新山葵は、今度は声を出しながら、僕のことを笑った。
結局、新山葵と一緒にセブンに入った。新山葵はコーラを二つ買った。新山葵の動きは、目的買いそのものの動きで、セブンイレブンの滞在時間は3分もなかった。
店の外に出た。そして、僕はまた自転車のチェーンロックを外し、かごのなかに入れた。
「はいこれ。防衛費」
そう言いながら、新山葵は500ミリリットルのペットボトルコーラを渡してきた。
「なんだ、ひとりで土日楽しむために二本なのかと思ってた」
「そんなわけないでしょ。佐伯くんって、頭いいのか、バカなのかよくわからないわ」
「ありがとう。ちょうど喉乾いてた」
僕は新山葵の戯言を聞かないで、とりあえずお礼だけ言った。
「――ねえ」
「今度はなに?」
「もう少し、ついてきてほしい」
なんだ、素直なところあるじゃん。本当はあの男にしつこく声かけられたのが怖かったんだな。
「いいよ。家まで送るよ」
「じゃあ、公園行こう」
勝手にそんなことを言って、新山葵は歩き始めたから、僕は慌てて、自転車を押した。
杏依菜の前の家の近くの路地を通り、県道の横断歩道を渡り、国分寺市を抜けて、小平市に入った。ここは僕と杏依菜が通っていた小学校から5分もかからない場所だ。このエリアだけ、小平が国分寺に食い込んでいる形をしている。だから、僕にとっても近所の場所だ。
新山葵は話だと、このあたりに住んでいるみたいだけど、行政区分が違うから、こんなに近所に住んでいるのに、小学校も中学校も別だった。
つまり、新山葵は小平市立の学校に行っていたことになる。
そして、小さな公園に着いた。その公園は、長方形の形した小さな公園で、その角、四辺にLEDの街灯があり、公園を照らしていた。ターザンロープと、赤いネットで作られたピラミッド型の遊具があった。それ以外の遊具はなく、不思議な公園だと思った。
新山葵がベンチに座ったから、僕は自転車を停めて、新山葵の右隣に座った。
そのあと、新山葵は、なにも言わずにコーラのキャップをあけて、飲み始めたから、僕も同じようにキャップを開けてコーラを一口飲んだ。
「仕事終わりのこの公園、最近、ハマってるんだ。雰囲気よくない?」
「たしかに、ちょっとだけいいかも」
「なにその『ちょっと』って言い方」
「だって、まだここに来て、5分も経ってない」
「口答えするの、マジでダサい」
「はいはい、新山葵様」
僕はもう一口コーラを飲んだあと、息をついた。ふと、空を見上げると、一等星だけが微かに光っているのが見えた。
そっか。今日、新月なんだ――。
「Voidタイムって知ってる?」
「なにそれ?」
「その時間にお願い事すると無効になるんだって。3日に一回の頻度で」
「へえ、ほぼ無効になるじゃん。そんな頻度だったら」
新山葵ももう一口、コーラを飲んだ。そして、あーあ。と言って、大きく息をついた。
「なんかさ、めんどいよね。人生」
「いや、知らないし」とか、僕は適当に返事したけど、たしかに面倒だと思う。新月に願い事をするには、Voidタイムに気をつけなくちゃいけないし、遠距離で想ってる人のところへ会いに行くためにバイトしなくちゃいけないし、二年半もその人に会うことができないし。
「撤回するわ。面倒だと思う」
「佐伯くんもそう思うでしょ。なんかさ、話してるうちに、あたしと一緒の属性な気がした」
「どのへんの話で、どうしてそう思ったの? それ」
「そんな理由なんてどうでもいいでしょ。ただ、あたしがそう思ったってだけでいいじゃん。そんなの」
「ふーん」
別に納得なんかしていない。新山葵に共感だってしていない。ただ、気分の振り幅が大きくて、キツイ言葉ばかり言うし、人間関係が面倒だって言う、彼女のことがどういう人間なのか、少しだけ気になっただけだ。
「今日、店であの男に言い寄られて、待ち伏せされたのだって、最悪だった」
「悲劇のヒロイン気取りだな――。ただ、災難だったとは思うよ。怖がるのだってわかるし、頑張って行ってるバイトで、人間関係が嫌いな新山葵は、今日一日、頑張ったと思うよ」
「最初の言葉、余計だったけど、ありがとう」
新山葵は大きなため息をついた。夏の始まりで少しだけ肌寒い公園のなかは、僕と新山葵のふたりだけだった。
「葵って呼んで」
「えっ?」
「フルネームで言われるのなんか嫌だ。私は佐伯くんって呼ぶけどね」
「なんだよそれ。じゃあ、俺だって新山さんでいいじゃん」
「ダメ。私のことは名前で呼んで。葵。ほら、言ってみてよ」
「あおい」
「意外といい人間だってこと、わかったから名前で呼んでね」
「いや、葵の基準がわからないわ」
「やっぱり、すぐ呼んでくれる。佐伯くんって優しいね」
僕は息をついたあと、もう一口コーラを飲んで、少しの間、炭酸と甘さに集中することにした。
6 杏依菜
『バイトって疲れるね』
「そうだね。私もへとへと」
そうイヤホン越しに夏織くんに返した。ベッドにうつ伏せになって、枕にSwitch、iPhoneを置いて、夏織くんと通話しながら、どうぶつの森をやっている。
土曜日の20時に始めた私たちの通話はあっという間に3時間経った。
『1280キロ離れてるけど、癒やされる』
「最近、ずっとキロ数を言うよね」
『だって、俺ら頑張ってるし』
「そうだね。私たち、それなりに頑張ってると思う」
そう言いながら、私の島の雑草を一本抜いた。お互いの共通認識としては、早ければ、あと1ヶ月後の夏休みに会えるかもって、考えているんだと思う。だけど、ここまで具体的なことは話してなかった。そもそも、私たちがアルバイトを始めたのは、五月からで、まだ、両方とも給料も入っていない状態だった。私は、自分でシフトを手打ちして管理するシフトアプリを入れた。そのアプリのなかに、時給の自動計算できる機能があるから、それを使って、5月分の給与の大体の金額はわかっていた。
2万3000円くらいだった。1日5時間、週2日のシフトで、5月の中頃から入ってるから、そのくらいの金額だ。
そのお金が入るのは、6月25日。
その次が7月25日。つまり、6月働いた分の給与になる。だけど、六月はテストもあるから、二週休みをとる予定でシフトを出した。だから、6月もあまり働けないから、1万9000円くらいだと思う。
つまり、夏休みが始まる頃の、私が自由に使えるお金は4万2000円くらいだ。
往復の飛行機代くらいにはなった。だけど、ホテル代が足りない。
だから、この夏、私が夏織くんに会いに行くのは、無理そうだ。
そう考えると、入学当初はようやく自由になれたと思った高校生生活も、思ったより自由さがない気がする。
たぶん、これは距離があまりにも遠すぎるのも問題があると思う。私が住んでいる場所が富山だったら、高速バスで安く東京に行けるから、もっとハードルが低かったかも。
なんで、こんなに遠いんだろう――。
『――えると?』
「え、なに? 聞こえないんだけど」
一瞬、ラグで会話が途切れた。最初の頃は、それがもどかしく感じたけど、今では慣れてしまった。
『それを例えると?』
「白鳥のアメリが、せっかく遠くに行くなら、ドレッシングとレタス買ってきてって、余計なおつかいさせられる感じ」
『それって、どういうこと?』
「夏休みに会うことが、ドレッシングとレタス。余計なおつかいが、バイト。白鳥が目指す場所は1280キロ先」
『おー、わかりやすい。例えとして適切かどうかはわからないけど』
「正確さなんて、どうでもいいの」と言ったあと、私はSwitchを枕から、枕元に移し、仰向けになった。
「夏織くん、疲れちゃった。今日、これでギブかも」
『そっか、残念』
「だけど、話せる」
『もう少し話したいけど、無理しないでね』
「優しいね。けど、話したいから、大丈夫」
右に寝返りをうち、枕元に置いたSwitchを手に取り、電源を切った。そして、またSwitchを枕元に置いた。
『――なあ、杏依菜』
「なに?」
『夏休み、お金大丈夫そうだったら、北海道行くね』
急にそう言われて、びっくりした。私はギリギリのお金なのに、夏織くんはもう、そんなに働いてるのって。
「え、お金足りるの?」
『まだ、わからない』
「だよね――」
夏織くんのイヤホンのマイクが拾う、夏織くんの部屋の空気の音が、少しの間、私の耳のなかで流れて続けていた。
『気持ちとしては、夏休み、北海道に行きたい』
「――それって夏織くんが、私のところに来てくれるってこと?」
『そう、そういうこと。行くよ、北海道に』
また、同じようにしばらくの間、空気の音が私の耳のなかで流れ続けている。まだ、夏織くんが北海道に来てくれること自体、決まってもいないのに、嬉しくて、泣きそうになった。
「ねえ」
『なに?』
「早く会いたい」
私がそう言うと、またしばらくの間、お互いに黙ったままになってしまった。
夏休み、本当に会えたら、いいな。夏織くんに。
☆
陰キャfjkの6月13日
最近、疲れが尋常じゃないくらいに感じる。バイトし始めた所為かもしれない。
でも、そんなこと言ってられない。夏織くんに会うために、もう少し私も頑張らないと。
最近、夏織くんと私は妙にすれ違っているように思う。私が土曜日バイト休みだった日は、夏織くんがシフトに入ってるし、夏織くんが日曜日バイト休みだった日は、私がシフトに入っている。それが二週くらい続いて、ようやく昨日、どうぶつの森をしながら、通話することができた。
夏織くんは私のために頑張ってくれているみたいで嬉しかった。
そして、なにより夏休みに会いに来てくれると言ってくれたことが嬉したかった。
私はこれ以上、バイトに入ることができない。それは親に止められているからで、高校生で沢山働くのはよくないって言われた。それは、高校生は人生の中の通過点でしかないし、これから先、嫌でも働くことになるから、無理しないでほしいって言われた。それに、週2日でも雇ってくれるところなんて、今、いっぱいあるでしょ。って、お母さんに言われて、本当にそんなところあるのかなって思ったら、本当にそういうバイト先があった。
夏休みまで、とにかく、私も夏織くん無事で無難に過ごせたら、それでいいと思う。
たとえば、今、何かのせいで、意識を失ったり、そういう命の危機的状況(たぶんないけど)になったら、私はものすごく後悔すると思うんだ。
だって、二年半ぶりに会えるんだよ。ビデオ通話で、たまにお互いの顔を見てたけど、やっぱり、二年半ぶりにリアルであったら、ものすごく嬉しいと思うんだ。
だから、今はなにも起きないでほしい。
そんな、妄想をしていると本当になんだか、怖くなってきたよ。
もしものために、ここに書いておこう。
私はやっぱり、夏織くんのことが大好きです。
7 夏織
バイトが終わり、自転車のチェーンロックをとっていると、また話しかけられた。
「佐伯くん」
「なに?」
「どうして7月、一週間も休み希望だしたの?」
「なんで、知ってるの?」
「社内のポータルで見た。ねえ、なにするの?」
「北海道に行く予定」
「それって夏休み使ってってこと?」
「そう。いいでしょ」
「いや、知らんし」
相変わらず、葵は僕に冷たい返しをよくする。ここ最近、と言っても、シフトが被ったときだけだけど、家の方向も一緒だから、葵と一緒に帰るようになった。僕が自転車を押し、歩き始めると、ここ最近のお決まりのように葵は僕の左側歩き始める。
「ねえ」
「なに?」
「女に会いに行くの?」
「なんでわかるんだよ」
「は? マジなのそれ。ひくわ」
「どの要素で、引くところがあるんだよ」と返すと、あーあ。と葵はそう言って、両手で伸びをした。葵は黒い五分丈のオーバーサイズのTシャツに、スキニーの青いジーンズを履いていた。そして、首にはシルバーの星のネックレスをつけていた。
「ねえ、どんな男なの?」
その瞬間、僕はあたりに響き渡る声で笑ってしまった。
「男じゃねーよ。なんで、男に会いに行くんだよ」
「あー、違うって。女、女」と言って、同じように葵も大きな声で笑った。ただ、その大きな笑い声も、通り過ぎたトラックの走行音ですぐにかき消された。
「絶対、葵には教えないから」
「えー、なんで。ドケチ」
そう言って、葵は当たり前みたいに僕の左肩をばしんと叩いた。
「いてぇよ。バカ。」
「あー、いけないんだ。女の子にバカっていうのは」
「こういうときだけ、都合よく使うなよ」
ここ最近は、なぜか葵といるときは、こんなノリになってしまった。いつの日だったか忘れたけど、小五から今まで、一人も男友達がいないことを言ったら、『だろうね』とか、軽くあしらわれた。葵とのコミュニケーションは、最初からお互いを貶すことばかりしていた。最初は嫌悪感があったけど、いつの間にか、その嫌悪感はなくなり、あー、こういう子なんだって思ったら、そういうコミュニケーションに慣れてしまった。
それに葵は中学校のときに、いじめられてから、すべての人間関係が嫌になったらしい。
そういう面には、共感できる部分があったし、中学校で孤独だった僕は、そんな葵のことを同士みたいに思えた。でも、これは恋ではない。
僕のなかでは、葵は、気が合う友達に過ぎない。
「聞きたいな。女のこと。私も北海道行っちゃおうかな。新しい彼女ですって」
「バカ、やめろ」
そう返すと、葵はまたゲラゲラと笑った。
8 杏依菜
『休み取れた』ってメッセージが来て、嬉しくなった。それは学校のお昼休みに来た。
『学校の休み時間でiPhoneから、休み希望だすのってなんか不思議な気持ちだった』とも来たから、
『現代って怖いね』って返すと、『だよね笑』ってすぐに返事が返ってきた。
私はそのメッセージのやり取りを見ながら、学校から家に向かって歩いて帰っている。今日はバイトもないから、そのまま、歩いて家に帰ろうとしている。駅前のイオンに寄って、LOFTとか見て、ぶらぶらしようかなとも思ったけど、無駄遣いしたくなっちゃいそうだから、やめた。
あと、20日もしないうちに夏織くんに会うことができる。それも二年半ぶりに。
旭川空港であった瞬間に、なんて言おう。きっと、あのときの私だったら、いい女みたいなこといったほうがいいかなって思って、いろいろ、あれこれ考えていたかもしれない。
今はどうだろう。高校生になった私は、二年半前よりも孤独に強くなったし、それなりに大人っぽくなってる自信もある。だけど、夏織くんは私よりも遥かに強くなっていんだと思う。もう、最初に知り合ったときみたいな、あどけなさは、なくなっているんだと思う。
だって、もう、2年もしたら大人扱いされるような年齢になったんだから。
そんなことを考えながら、歩いていると大きな通りとぶつかる交差点にたどり着いた。そして、赤信号が変わるのを待つことになった。バッグのファスナーを開き、ポーチのなかにiPhoneをしまって、ポーチをバッグの底にしまい込んだ。
北海道に来て、驚いたことは、歩道が異様に広いということだった。それは、ちょっとした住宅街の路地に入っても、ちゃんと歩道があるし、普通の道の歩道なんか、人が3人横並びになって歩けるくらいの広さがある。
ただ、冬になるとその歩道も雪に埋もれて、一気に一本道になる。
そんなことを夏織くんに話せば、喜んでくれるかな――。
いや、そうじゃないでしょ。
結局、私たちは嬉しくて、たぶん抱きあうと思う。そして、二年半前にできなかった、手を繋ぐこともすると思うし、スタバでフラペチーノを飲んだり。そういうことをまずやるんだと思う。
夏織くんと、やったことないことはたくさんありすぎる。
唯一できたことは、公園デートと、その帰りにプリを撮ったくらいだ。
そして、この二年半の間、いいたくても言えなかった最上級の言葉を私は夏織くんに伝えたい――。
遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。
その方を見ると、一台の車が結構な速さでこちらに向かってきているのが見えた。
別に私にとって、外の世界はどうでもいい。
私はようやく、好きな人の隣を歩けるようになるし、好きなと一緒にもっといろんなことを経験したい。そして、一緒に大人になって、ただ、一緒に居続けたい――。
あと、少しでその第一歩が始まる――。
サイレンが近くなり、もう一度、サイレンの方を見る。さっきの追われている車は、赤信号なのに、交差点に入った。パトカーからの拡声器から、何かの注意がされている。
あ――。
青信号で入ってきた黒い普通車が見えたかと思ったら、すごい音がした。その弾みでこっちに黒い車が横倒しになって、こっちに向かってきている。
黒い屋根、黒い屋根、黒い屋根。
夏織くん、いつも会えなくなってごめんね。
身体が宙に浮き、そのあと、経験したことない大きな衝撃で世界も時間も黒くなった。
9 夏織
『杏依菜の母の加奈(かな)です。
取り急ぎ、夏織くんに連絡したほうがいいと思い、今、娘のアカウントで連絡しています。
杏依菜は交通事故に遭いました。一命をとりとめましたが、意識が戻っていません。
杏依菜から夏織くんがこっちに来てくれることを聞いていたので知っています。
今、言うのも変かもしれないけど、いつも杏依菜と仲良くしてくれてありがとう。
また、進捗あったら、連絡します。
夏織くんも、取り乱すかもしれません。私たち家族もまだ受け入れられません』
iPhoneを持つ右手が震え続けている。今日、バイトのシフトに入ってなくてよかったと思った。20時過ぎに杏依菜のアカウントのLINEでもらったメッセージは、胸の中に焦りの渦で埋め尽くされそうなくらいのものだった。ベッドに寝転んでいたのに、そのメッセージで、ソワソワしてしまい、さっきから自分の部屋をウロウロとしてしまっている。
さらに言えば、今日も通話をしながら、どうぶつの森を20時からやる予定だったから、その連絡が来たと思い込んで、メッセージを見たから、受け入れられないのかもしれない。
メッセージの文面を何度も読み返す。
『交通事故』
『一命をとりとめましたが、』
『意識が戻っていません』
『進捗あったら』
『受け入れられません』
iPhoneをベッドに置いたあと、両手で頭をワシャワシャと、雑にかき回したけど、気持ちは何も晴れなかった。あと、20日で会いに行くところだったのに――。
何度か、深呼吸をしたあと、iPhoneを再び手に取り、そして、返信をうち始めた。
『杏依菜さんのお母さんの加奈さん。ご連絡ありがとうございました。
杏依菜さんのことで、今は大変だと思います。
動揺しています。ただ、今は信じています。
落ち着いたら、また一報がほしいです。お願いします。』
メッセージを送信すると、すぐに既読がついた。心臓はドキドキとしたままだし、息は意識していないと、すぐに浅い呼吸になってしまう。
もし、杏依菜の命がこのまま消えてしまったらどうしよう――。
いや、違う。一命はとりとめたって、言ってたから、たぶん、もう、大丈夫なんだと思う。
だけど、意識戻らないってなに? 一命はとりとめたのに、どうして、意識が戻らないんだよ。杏依菜。
……ダメだ。とにかく落ち着こう。
僕はとりあえず、机に置きっぱなしだったグラスに入った水を飲んだ。
☆
2時間経っても、全然、落ち着かなかった。気がつくと僕は外に出ていて、無意識のうちに、前に杏依菜が住んでいたマンションの前にいた。薄暗いなかのマンションを数秒見たあと、結局、僕はなにも思いつかず、また歩き始めた。
そして、気がつくと、僕は国分寺から小平に入っていた。そして、歩いて、葵と話した公園にたどり着いた。
前、葵と来たときのように、長方形の四角は白色のLEDの街灯で照らされていた。グレーのグラウンドがその光を微かに反射していた。前に葵と座ったベンチに腰掛け、息をついた。そして、見上げて、夜の空を見た。東京の夜空を見渡しても、一等星しか見えないのはいつものことだった。今日も、新月なのか、辺りを見回したけど、月の姿は見当たらなかった。
『ねえ、新月にお願い事したら、叶うって知ってる?』
小学校五年生だった、まだあどけなかった杏依菜が、僕にそう言ったことを思い出した。
『新月のときに、お願いしたんだ。クラスで上手くいきますようにって。だけど、お願い効いてないよね。もしかしたら、Voidタイムに頼んじゃったのかな』
あのときの杏依菜は寂しそうな表情をしていた。本当にあのときの杏依菜は、新月に願い事をすることと、お願いしちゃいけない時間のVoidタイムのことを信じていた。
Void――。
あ、無効って意味か。
なんで今まで、繋がってなかったんだろう。高校生になるまでにいろんな知識を知った。杏依菜のことだって、深く知ったと思う。だけど、中1の夏から、僕と杏依菜はリアルで過ごすことができていない。二年半重ねた通話で、あんなにいろんな話をしたのに。
そして、ようやく会えると思ったら、意識不明になるなんて――。
僕はもう、新月で隠れた月にお願いするしかなかった。
僕は両手を合わせ、目を瞑った。
どうか、また元気な姿の杏依菜とただ、一緒に過ごしたいです。
「お願いです」
小さい声でそう言うと、いきなり笑い声が聞こえた。聞き慣れた笑い声――。
「なにやってるの? 佐伯くん」
慌てて、目を開くと、僕の目の前に葵が立っていた。
「そっか、もうそんな時間なんだ」
「いや、意味わからないんだけど。それに、泣いてるじゃん」
「あっ」
そんな間抜けな声を出しながら、右の目尻に触れると湿っていた。
「仕方ない。バイト終わったばかりでヘトヘトだけど、話、聞いてあげるよ。どうしたの、女々しい坊や」
「――女々しい坊やってなんだよ」
「お、いつもの感じ戻ってきたじゃん。でも、悲しさは消えてなさそうだけど」
葵は僕の右隣に座った。そして、手に持っていたペットボトルのコーラのキャップを開けた。それに合わせて、ガスが抜ける音があたりに響いた。
「北海道の女に振られた?」
「違う。交通事故に遭って、意識不明」
「え、マジなの。それ」
葵の聞いたことない深刻そうなトーンでそう聞かれた。だから、僕はゆっくり頷いた。数秒間、沈黙があったあと、葵はコーラを一口飲んだ。
「とりあえず飲むんだな」
「ストレスかかったときの日課だから。佐伯くんの分、なくてごめんね」
「謝られた。今日の葵、出会ったなかで一番優しい日だね」
「なんか、ムカつくんですけど。あたしはいつだって、優しい女子だよ」
そう言い終わると、葵はもう一口、コーラを飲んだ。
「今月、会いに行くんでしょ」
「もう、無理だろうけどな」
「え、無理って、どういうこと?」
「だって、会いに行っても、俺は何もすることなんてできない。むしろ相手の家族に迷惑かけるし」
「は?」
「え?」
僕は驚いて、思わず葵を見た。葵は、鋭い目つきで僕のことを睨んでいた。もう、内心、半分くらいキレてるんじゃないかってくらい、目がすでにキレていた。だから僕は、慌てて話を続けた。
「いや、本当は今すぐにでも行きたいよ。ただ、俺が言いたいのは――」
「言い訳するのだっさ。元々、北海道に行く予定だから、飛行機だって、もう取ってあるんでしょ」
「――そうだよ」
「だったら、どんな状況でも会いに行こうとするのが、男じゃないの? 行かない選択肢とか、ないでしょ。マジで。本当にあんたって、自分のことしか考えてないんだね。女々しいやつ」
葵は息をついたあと、またコーラを一口飲んだ。七月の夜風はすでに微温かった。太陽が沈んでも、熱は残ったままで、空気は重く湿っていた。
「ますらを」
「はい?」
「勇ましい男って言うんだって、万葉集で」
「じゃあ、女々しいは」
「手に弱い女で、たおやめ」
「佐伯くんって変なこと、知ってるときあるよね」
「そうだね。少し変わった人と話してるからかな」
「ふーん」
葵はそんなことに興味はなさそうだった。本当に意図したわけじゃなかったけど、葵と話せて、胸のなかでソワソワして仕方ない感覚が少し落ち着いたことに気がついた。
「ありがとう、葵。動揺してた気持ちが少しだけ、落ち着いた。いつもの感じのおかげでバファリンみたいに鎮痛してる」
「普通さ、ここでバファリンなんて使わないよね。本当に落ち着いてるの? 頭、大丈夫?」
「普通、傷ついてる人に、頭、大丈夫って聞かないと思うけど」
「だって、さっきあったとき、絶望そのものって感じの雰囲気だったから、それはそう思うよね。それにさ、たしかに、そういうことがあって、可愛そうだと思ったよ。だけど、私だって、他の女の話のことなんて聞きたくなんかないよ」
「えっ」
思わず、もう一度、葵を見た。すると、葵は前を向いたまま、なぜか左手で口を覆っていた。僕の視線に気がついたのか、すぐにそれをやめて、またコーラを飲んだけど、僕はそれらで感づいてしまった。
「もしかして――」
「佐伯くんって、バカで、最悪で、草食で、陰キャで、ナチュラルにもてあそんで、罪深い男だよね。こんなこと、2ヶ月もしてたらね、普通の女は気が狂いそうになるんだよ。そんなのも、わからないでいたんでしょ。バカだよね。だけど、今は、仕方ないと思う。だって、その子、意識戻らないって、よっぽどのことだから」
待ってくれよ。なんでそうなるんだよ。僕はただ、杏依菜と会うために頑張ってきて、ようやっと会える状態にしたんだ。葵とは、ただ、友達として楽しいから、いただけなのに――。
いや、これが近くにいるってことの意味なのかな。
「ダメのオンパレードじゃん、俺」
「そうだよ。クズ中のクズ。スカしたところもあるし」
「はは、たしかにクズだと思うよ、俺。ごめん、ただ、今日はいろんなことが重なりすぎて、考えられないや。だけどさ、たしかに、会いに行くべきだよなって思った。動揺してたんだよ。これ聞いたの2時間ちょっと前のことだったし」
「ねえ、佐伯くん」
「なに?」
「バカで、最悪で、草食で、陰キャで、ナチュラルにもてあそんで、罪深い男って言ったことと、クズ中のクズは撤回するね。さすがのあたしでも、言い過ぎたと思った。ごめんなさい」
「いいよ。ただ、今は考えられないだけだから」
「ただ、スカしたところは、好きなところだけど、それを間違った感じで使わないで。じゃあね」
葵はすっと立ち上がり、そのまま、スタスタと歩いていってしまった。その姿は凛としているように見えて、僕の心は麻痺していて、その後ろ姿が、なぜか綺麗に見えた。
10 杏依菜
追いかけても、追いかけても、夏織くんの背中に追いつくことができない。白い空間のなかで、そんな寂しさとおいかけっこしているようだったし、一生終わらない夏休みの宿題をやらされているようでもあった。
たまに振り返る夏織くんは、中学1年生のときの夏織くんで、いつもクールな夏織くんが、振り向くたびに笑顔で私のことを見てくれたから、それがただ、嬉しかった。
息をするたびに、脇腹が痛む気がする。
だけど、その痛みに勝るくらい、夏織くんの笑顔をずっと見ていたいと思い、私はまた夏織くんのことを追いかけている。
もし、この世界に夜があるとしたら、新月の夜、Voidタイムを避けて、こうお願いすると思う。
『夏織くんが、早く私のところに来てくれますように』
そう願うと思う。次の瞬間、急に白さから、黒さになる。黒い長方形が私に向かって飛んでくる。それを見た瞬間から、私は恐怖で立ちすくむ感覚に襲われる。黒が近づくたびに、怖くて、これから先、起こりそうな幸せなことを考えようとした。
だけど、その幸せって、そもそも、なんだっけ? ってなり、追いかけていたはずの男子の名前が思い出せなくなる。黒い長方形はあっという間に私を取り込み、私の身体が急に軽くなる。ふわふわと宇宙にいるような軽さになり、その感覚が急に楽しくなる。
ふと、周りを見ると、たくさんの星が瞬いていて、今、いる場所が銀河なんだって、すぐにわかった。私はそれが嬉しくて、すごいなって思いながら、宇宙を飛ぶザトウクジラに会わないかなとか、思ったり、いろんな空想が一気に広がった。
そして、いつの間にか、図書館の中庭になった。
私の向かいには、夏織くんが座っていた。あ、夏織くんだ。なんで、さっき、一瞬でも夏織くんのことを忘れてしまったんだろう。
私たち、ふたりは、白いパラソルがついたあのテーブルで、向かい合って座っていた。
「あー、あのさ」
「――なに?」
「ヨークシャーテリア」
「えっ?」
「だから、ヨークシャーテリア、家帰って調べたんだ。Switchで」
「そうなんだ――」
あのとき、五年生のときに話したあの瞬間と全く一緒じゃん。てか、転校初日に言った、ヨークシャーテリア、調べてくれたんだね。私、すごくそれが嬉しいし、びっくりしたよ。
「黒と茶の毛がふさふさで三角耳だった」
「そう、それがヨークシャーテリア」
「マジで道に迷ってるかも、お互いに。って思ったよ。あのあと」
「――そうなんだ」
「そのおかげで、前の学校のイメージから、変えることできた。だから、お礼言いたいなって思った。――ありがとう」
「――そうなんだ。よかったね」
そうだった。順調に行っていたはずの、夏織くんの学校生活をぶち壊したのは、私だった。夏織くんがせっかく、孤独から開放されて、毎日、仲間と居て楽しいって言っていた、あのときをぶち壊したのは私だった。
「夏織くん」
「なに?」
「――ごめんね。いつも私が夏織くんが順調に行ってることをぶち壊して」
私は気がつくと、もう、自分でも制御できないんじゃないかってくらい、大泣きしていた。だけど、涙の感触とか、そういうのはなくて、ただ、悲しさで胸の奥から常に爆発しているみたいな感覚だった。
「『壊してないよ。――俺はただ、杏依菜と一緒にいたい』とでも言うと思ったか?」
「えっ」
「ぶち壊されたよ。なんで突然、遠距離になるんだよ。なんで、告白しようと思ったのに、避けたんだよ。なんでそもそも、俺を選んだんだよ」
通話で聞く、すっかり低くなった声で、夏織くんは私を責め続ける。
「ごめんなさい。だけど、『悲しみよ こんにちは』に『中庭で待ってる』ってメモ書いてくれたじゃん」
「あのときから、俺は変わったんだ。すべて、杏依菜のために動くようになったのは、その頃からだったろ。だけど君は裏切った」
「ごめん――。許して」
「ふ、あの日みたいに、お前なんか、中庭に閉じこもってればいいんだよ。閉じこもっちまえ」
「ごめんね。夏織くん」
そう言った瞬間、また、私は白い空間に戻され、夏織くんが笑顔で私のことをただ、見ていた。
11 夏織
朝、あまりにつらすぎて、学校を休んだ。そして、シフトも入ってたけど、バイト先にも朝から休むことを連絡した。ベッドで仰向きになって、ぼんやり、白い天井を眺めていた。
杏依菜は高校に入っても白系統を続けているようだった。もしかしたら、意識を失っている間、大好きな白系統の夢でも見てたらいいなってふと思った。
平和的な金曜日だと思う。仮眠して、少し冷静になれたのか、昨日のようなソワソワする感じは弱まった気がする。昨日のことが夢でだったらいいなと思って、iPhoneを手に取り、LINEを見たけど、変わっているはずなかった。
『杏依菜は交通事故に遭いました。一命をとりとめましたが、意識が戻っていません』
この一文だけ見ると、端的にまとめてるニュースの見出しのように思えた。
あれから、杏依菜のお母さんから、続報はなかった。それにしても、なんでiPhoneは無事だったんだろう――。
ニュースになったのかな――。
昨日思いつかなかったことをGoogleに聞いてみた。
『旭川 事故』
ニュースのタブを押すと、
『信号無視の乗用車衝突 女子高生も巻き込まれ意識不明の重体』
『パトカー追跡中に事故 1人重体』
『旭川事故 警察「あってはならないこと」』
その中のひとつを、タップするとテレビニュースの動画付きの記事だった。
だから、僕は再生ボタンを押し、全画面表示をし、iPhoneを横持ちした。
《事故があったのは旭川駅近くの交差点で、パトカーが追跡中の車と普通乗用車が衝突しました。信号待ちをしていた近くの女子高生も巻き込まれ、意識不明の重体です》
映像は四車線道路同士が接続する交差点が映っていた。衝突されたほうであろう黒い車は横倒しになっていて、衝突したであろう車は、反対車線の歩道に乗り上げていた。あたりはガラスが散乱していて、本当にこの場所に杏依菜は立っていたんだろう――。
《衝突された運転手、逃走車の運転手も重軽傷をおいました。警察は逃走車の運転手25歳男を逮捕し、なぜパトカーの指示に従わず、逃走したかなどを調べています。これを受けて警察は「追跡中の事故。あってはならないことが起きてしまった。追跡には問題なかった」と発表しています》
へえ、問題はなかったんだ――。
もう、すべてが嫌になり、僕は仰向けのまま、動画を見るために上げていた両腕をバンと雑にベッドに戻した。そして、右手に持っていたiPhoneを離して、ベッドから起き上がった。
とりあえず、シャワーに入ろう。
この部屋に居てもどうしようもない――。
☆
結局、あのニュース映像を見てしまった所為で、またソワソワは元に戻ってしまった。
だから、五分丈のオーバーサイズのTシャツに、黒のカーゴパンツを履いて、外に出た。だけど、どこにも行くなんてなかった。9時を過ぎたばかりなのに、もう、今日はジリジリとした日差しで暑かった。
見慣れた街をゆっくり歩いている。最初は近くのスーパーでジンジャエールでも買おうと思って出たから、いつも歩いている道と反対側の歩道を歩いている。いつもは目がいかない、葉の緑がより深くなった街路樹を眺めてしまう。何本の街路樹とすれ違うたび、木陰になったアスファルトにスポットライトみたいに木漏れ日が、微かに揺れているのも目に入ってしまう。
季節が巡って、ようやく夏にも慣れてきた。だけど、日々、バイトと学校でそこそこ忙しくして、こういう些細な風景に目がいってなかったんだなって思った。
今の気持ちを言い表すことができない気がした。
――意識が戻らないって。
僕はこの宙ぶらりんにされたような、この状況をどう、受け止めたらいいのかわからない。
仮に骨が折れたけど、意識があって『もう、最悪だったよ』って通話でいつものトーンで言ってくれたら、『無事でよかった。本当に』って心の底からそう思って言える気がする。
それを例えると?
『会いたいって言って、新宿行きたいのに、反対方向の高尾行きの中央線に間違って乗ったペンギンの彼氏みたい』
いや、なんでだよ――。
杏依菜がいつか言ったよくわからない例えを思い出した。もし、逆の立場になってたら、杏依菜はどう思ってたかな。そして、どうやって、この一向に明るくならない沈んだ気持ちを例えたんだろう。
宙ぶらりんな思いなのは、変わらない。今は確証がほしいんだ、僕は。例えば、あと16時間後に彼女は目覚めますとか、タイムスリップして事故を回避できるとか。
あるいは、最悪の最悪で杏依菜の命が――。
やめよう。
君は今、生きているだけで、すごいんだよ。
そんなこと、考えているうちに、駅前通りにぶつかった。そして、信号が点滅し始めたから、僕はその場に止まった。その場所は、杏依菜がよく言っている『9月31日』のきっかけになった場所だった。あの日、この場所から、図書館から走ってくる杏依菜の姿を見たんだった。
あの日から考えると、僕の身長も大人になった。見る高さは六年生だったあの日とは、もう違う。ふたりとも、あのときは幼かったんだ。今、考えると――。
僕はあのとき、幼くて、杏依菜が僕のことを追いかけてきてくれていることをわかっていたのに、その場から去ってしまった。杏依菜のことを置き去りにしたようなものだ――。
今だったら、そのまま杏依菜のいる方へ、横断歩道を二つ渡って、抱きしめると思う。
そんなことを考えながら、4年前、杏依菜が立ち止まっていた方を見ていると、図書館の方へ、ランドセルを持った女の子が歩いてゆくのが見えた。なんで、こんな時間に小学生がいるんだよ――。
その姿をよく見ると、あり得ないけど、後ろ姿があの日の杏依菜に似ていた。あの日とは、五年生で転校して、図書館に通っていた頃、杏依菜が図書館に向かう姿に見えた。
というか、僕の今の状態がボロボロだから、もう、まともじゃないのかもしれない。勝手に都合よく、そう解釈してるだけなんじゃないか――。
いや、それを差し引いても、杏依菜に似てる。
青信号になった途端、大人に近くなったはずの高校生のクセに僕は小学生のときのように、杏依菜の後ろ姿を追うように、図書館の方へ走り始めた。
12 杏依菜
実際の私はどうなっているんだろう。ずっと寝ているだけなのかな。
そんなことを繰り返し考えていた。
この長い夢はいろんな場面に変わっている。私が富山に住んでいたときに見ていた、青白い壁みたいに見えた立山連峰の景色とか、旭川駅前のイオンの青白い大きなクリスマスツリーをスタバの窓越しにぼんやり眺めていたり、とにかく、青と白の景色が私のなかでよく渦巻いていた。
そして、国分寺。
図書館から出て、走りって、駅前通りの方まで走っている。そして、夏織くんの姿を交差点で見つけたけど、結局、会えないまま、その瞬間は終わり、気がつくとまた、小学校低学年の私が富山の住んでいたところを歩いたり、中学生の私が旭川を歩いていた。
そして、また国分寺に戻ると、今度は五年生だった私が図書館まで歩いている。そう、気がつくと、場所を点々としながら、歩いたり、座ったりを繰り返しているように思う。
夏織くんと初めてデートした、武蔵国分寺公園のベンチに座ったりもした。だけど、いつか、私が夏織くんに「ごめんね」って伝えたあとから、夏織くんはこの世界で会ってくれない。
というか、結局、この世界では、どの場所に行っても、ひとりきりだ。
夏織くんのおかげで私も孤独には慣れたけど、この世界の孤独はつらすぎる。知っている風景を見るたびに、その風景に紐づいた記憶が呼び起こされる。この世界での国分寺は残酷で、好きな人を探しているのに、会わせてなんてくれない。
まただ。
私の意識は国分寺になった。だけど感じが違った。
季節はなぜか夏で、ジリジリして暑く感じた。いや、正確には暑さなんて本当は感じていないのかもしれない。珍しく、歩いている人とか、走ってる車とか、とにかくいろんなものが生きている世界だった。
微温い風で揺れる街路樹や、アスファルトの木漏れ日がリアルで、それだけを見ているだけで、なぜか泣きそうになった。
そういえば、生きてるってこんな感じだったっけと、自分でもなんだかよくわからない感じがした。
私は、そうするしかないから、とりあえず図書館へ向かい歩き始める。
そうだ、こんな感じだったな。
ふと、小学生のとき、こうやって図書館に行ったことを思い出した。あのときは、夏織くんの断片を探すために図書館に行ったんだった。『車輪の下』を借り、走って図書館を出たんだった。そして、夏織くんが近くにいないか、あのとき、探したんだ。
そして、交差点で夏織くんの姿を見つけて、
「夏織くん、待ってよ」って、息を切らしながら小さな声で言って、私は無力さを感じたんだった。
それで次の日、学校で夏織くんに借りた『車輪の下』を見せて、私は、夏織くんに『悲しみよ こんにちは』を魅せられて、また図書館に行って、夏織くんが読んでいた『悲しみよ こんにちは』が返されていないか見て、そして、メモを見つけた。
《中庭で待ってる》
ひらひらと床に落ちたメモを見て、私は一年ぶりに話すことになる夏織くんにドキドキしながら、中庭に行ったんだった。
そんなことを考えながら歩いていたら、見覚えのある公民館が見えてきた。左に曲がり、公民館の敷地に入る。入口に向かって歩くたびに、なぜか、小学生の背から、数歩で、今の高校生の背になり、目線がいつも通りに戻った。ガラス扉に反射して映る私は、制服を纏っていた。
扉をあけると、少しだけひんやりとした空気を感じた。左手には、図書館の入口があり、右手には、公民館のロビー。そして、目の前の空間は吹き抜けで、2階くらいの高さまである大きなガラス窓が見える。そのガラスの先には、見られた中庭が見えている。
私はすっと息をついたあと、中庭の出入り口に向かった。
中庭に入ると、誰もいなかった。また、ずっと繰り返している誰もいない世界に入ったのかと思ったけど、奥にある木々を見ると、弱い風で揺れていたし、日陰だけど、夏の蒸し暑さを感じた。
白いパラソル付きのテーブルは、国分寺に住んでいたときと同じく、三つ並んでいる。だから、私は一番右奥のテーブルに向かい、そして、椅子を引き座った。
そのあとすぐ、ぶわっと強い風が吹いた。夏の強い風は珍しいと思った。その風は微温くて、孤独で凍えきった私の心を温めてくれているみたいにさえ思えた。
夏織くんと、遊ぶ約束をしたのに夏織くんに会えなかった、あの『9月31日』を一年以上ぶりに、消した場所だ。
「夏織くんと、ただ、一緒にいたいだけなのに、どうして、会いたいのにこんなことになってるんだろう」
ぼそっとした声でそう言ってみたけど、会えない呪いは解けなかった。
寂しいままで、このまま一生いるのは、嫌だ。
また、白の世界で夏織くんを追いかけるだけの世界は、もう嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
もう、光が射さない物理的に遠い関係はもう嫌だ。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ!」
私の大きめな声があたりに響き渡った。公民館の外壁に私の声が反射し、キンとするくらい、叫んだ。
そして、そのまま、私はテーブルに突っ伏した。テーブルが吸収した熱を感じる。貧血のときみたいに頭がくらっとした。またよくわからない世界に飛ばされてしまうのかなって、感じが一瞬した。
だけど、それは幻想だったみたいで、リアルで生きているときみたいに、その闇は眠る前となんら変わりはなかった。
「杏依菜!」
聞き覚えのある声がして、嘘でしょと思いながら、私はゆっくり顔を上げた。
13 夏織
中庭へ繋がるドアを開けると、一気に蒸し暑さを感じた。走ってきて、僕の息は上がったままだった。
だけど、そんなのどうでもよかった。六年生のとき、一年ぶりに杏依菜と話したテーブルの方を見ると、そこには、見慣れない制服を着た杏依菜が座っていて、テーブルに突っ伏していた。
――こんなことあるのかよ。
「杏依菜!」
君の名前を叫んだ。僕の声は中庭いっぱいに響き渡った。
僕の声で、突っ伏していた状態から、顔を上げ、こっちを見た人物はやっぱり杏依菜だった。杏依菜の髪は、肩くらいにかかっていた。ちょっと前にビデオ通話して、見せてくれた髪型と一緒だった。
ということは、今、高校一年生になった杏依菜と会っていることになる。
「夏織くん」
杏依菜の声だった。僕は未だに信じられなかったけど、ゆっくりと歩き出し、杏依菜のほうへ向かった。そして、一番奥の白いパラソルのテーブルにたどり着いた。
杏依菜は今にも泣きそうな顔をしていた。泣きたいの僕のほうだよ。だって、こんなこと本当にあるのかよ――。
動揺して、いろんな感情をぶつけたくなる衝動を抑えることにした。
ありえないことが起きているんだから、平常心でいたほうがいいと思う。だって、本物の世界で生きている杏依菜は、意識が戻ってないんだから。
「久しぶり」
そう言って、微笑むと、杏依菜の右目から一筋の涙が流れた。
「本当に、久しぶりだね。夏織くん」
「座るよ」
「どうぞ、座ってください」
「面接かよ。失礼します」
そう言いながら、僕は四つある席のうち、杏依菜の右隣の席に座った。そして、椅子を左側に向け、杏依菜のほうを見た。
「高校の制服?」
「そうだよ、旭川の。なのに、ここにいるの不思議なんだけど。しかも夏織くん、私服なのに。なんかコスプレみたいで恥ずかしいよね。この街で着るには」
「そんなの関係ないよ。ただ、一緒にいれるだけで嬉しいよ」
「ありがとう。私も嬉しいよ」
そう言われて、思わずまた微笑んでしまった。すると、杏依菜も微笑んでくれた。口角が上がるのと合わせて、涙が数滴、杏依菜の頬を流れた。
「ねえ」
「なに?」
「私たちってさ、けっこう頑張ったと思うんだ」
「結果的にそうなったかも。会うためにここまで頑張ってきたからね」
「だけどさ、こうやって簡単に会えちゃったらさ、その努力が否定されたみたいだよね」
「神様って、意地悪なのか、優しいのかわからなくなっちゃったな」
「そうだね。あーあ、いつでもこうやって簡単に会えたら、苦労しなかったんだろうな」
ようやっと、いつものような調子をお互いに取り戻したような気がした。まるで昨日の事故がなかったみたいにお互い、穏やかに話している気がする。僕は、告白しようと思って、あの日、渡そうと思っていた手紙のことを思い出した。
細かい文面はもう、あまり覚えていないけど、こう書いたのだけは覚えている。
『ずっと、一緒にようね』
その日に、まさか遠くへ行くなんて告げられると思ってもみなかったから、結局、あの日、告白もできなかったし、その手紙も渡すことができなかった。もし、今の大人に近づいた感覚をあのとき、もし、持ち合わせていたら、遠距離でもいいからって言って、告白して、あの手紙を渡していたかもしれない。
だけど、あのときの僕は無力だった。
「その気持ち例えると?」
「泳ぎが上手いホッキョクグマが、流氷が分厚い所為で、自身ワーストの不漁に悩んでるみたい」
「報われないな。たしかに」
杏依菜にしては、珍しく、当たってるような表現なような気がした。
「――夏織くん」
「なに?」
「私、夏織くんに頑張らせすぎたよね。自分はさ『よく頑張ってきたんだと思うよ。力抜いてやろう』って、最初に夏織くんに言われた言葉に甘えて、頑張りが足りなかったのかもしれないって思ったんだ」
「なに言ってるんだよ。今も、十分、杏依菜は頑張ってるよ」
「ううん、そうじゃないの。それに夏織くんと出会ってから、私、ずっと夏織くんのこと縛り続けているよね。叶わない願いは呪いに変わるみたいに」
杏依菜はそう言って、うつむいてしまった。さっきまでの微笑みは消えて、急に暗い顔になってしまった。
「――杏依菜」
「なに?」
「それを愛って言うんだと思う」
「愛――」
風にかき消されそうな声で杏依菜はぼつりと言った。僕はもう、逃げないことにした。今まで、中途半端にしていたのは僕のほうだ。だから、明確に。しっかり、思いを伝えよう。
「杏依菜しかいないんだよ。縛られているわけじゃない。もし、そのことを杏依菜が縛ってると思うなら、縛られたままでもいい。杏依菜の願いに、ずっと気がついていたのに、今まで中途半端でごめん。願いを叶えるよ」
僕がそう言い終わると、杏依菜は再び顔を上げて、僕をじっと見つめてきた。
14 杏依菜
「叶ってるよ、今」
そう返すと、夏織くんは、急に泣きそうな顔になった。高校生になって大人っぽくなった夏織くんのそんな表情なんて私、見たくないよ。ねえ、もっと、微笑んでよ。
そんなことを考えながら、私はじっと、夏織くんのことを見つめ続けている。三年近くやりたかったことを私は今、やっている。そう、ただ、一緒にいたいんだよ、夏織くんと。
それがようやっと、叶ってるんだ。だから、さっき、願いを叶えるよって夏織くんが言ったけど、実はもう、叶ってるんだよ。
「違う。こういう結果で叶えたくなかった」
「――そうだよね。言われてみれば私もそう思うかも」
そうだった。黒い車が横倒しになって、私のほうに来たんだった。そして、私は宙に舞ったんだった。じゃあ、なんで今、夏織くんに会えてるんだろう。
「なあ」
「――なに?」
「あと20日もしないで会うことできるだろ。戻ってくれよ、本当のほうに」
夏織くんはすっと息をついた。そして、静かに夏織くんの頬に涙が流れた。
「――そう言われても、戻り方、私にだってわからないよ。それに私、どうなってるのか、よくわかってないし」
私がそう言ってる途中で、夏織くんはiPhoneを取り出し、テーブルの上に置いた。そして、なにかを表示して、それを私に見せてくれた。
Googleの検索バーには、『旭川 事故』と書かれていた。
『信号無視の乗用車衝突 女子高生も巻き込まれ意識不明の重体』
『パトカー追跡中に事故 1人重体』
『旭川事故 警察「あってはならないこと」』
画面には、そんな見出しばかり書かれていた。それが私のことだってことは、すぐにわかった。場面がコロコロかわるような、奇妙な世界のなかに私はいるはずなのに、なんで私は、こんなにリアリティがある情報を見ることができているんだろう――。
「俺、こうみえても、今、すごく混乱してるんだよ」
「――ごめんね。こんなことになって」
「杏依菜は悪くないよ。――ただ、杏依菜の意識がまだ、戻ってないんだ」
「じゃあ、死んではいないんだ、よかった。また夏織くんと一緒にいれるね」
私はそう言って、夏織くんに微笑んだ。すると夏織くんは、いくつも涙を流し始めた。だから、私は右手で夏織くんの左の頬に触れた。たしかに、夏織くんの頬は濡れていた。だから、人差し指にありったけの優しさを込めて、夏織くんの涙を拭った。
「ねえ、これがリアルだったら、優しい神様だね。もしかしたら、新月にお願いしたことが叶ったのかも」
生死とか、関係なく、私はすっとそう思った。ずっと会いたい相手に会えたんだから、それって最高じゃん。
「杏依菜、そうじゃないんだよ。俺は、杏依菜と今の一瞬を思い出としていたいんじゃなくて、ずっと一緒にいたいんだよ」
私もだよ、私も。ようやく言ってくれたね。ものすごく私は今、嬉しいよ。
「――私だって、この三年で孤独に強くなったと思うけど、もう、寂しいよ」
「同じだよ。もう、杏依菜抜きじゃ考えられない。予定通り会いに行くから」
「――ねえ、言いたいことあるんだけど、言ってもいいかな」
「いいよ」
夏織くんは泣いたままの顔で微笑んでくれた。そのあとすぐ、強い風がぶわっと吹いた。木々が揺れ、葉がこすれる音を聞きながら、私は急に眠らされたみたいに、ふわっとした感覚のまま視界が闇に包まれた。
15 夏織
風が吹いたあと、杏依菜が消えた。この白いパラソルのテーブルには、最初から僕一人しか存在していないようにさえ見えた。ただ、杏依菜が座っていた席は、しっかりと椅子が引いてあって、そこに杏依菜が座っていた唯一の形跡に思えた。
そして、僕の涙を拭ってくれた感触も本物だった。
どうなったのか、わからない。ただ、僕は泣いたままだ。次の涙を流したら、もう、泣くのをやめよう。
僕はそれなりに強くなったんだ。今日、ありえないことが起こったから、こうやって取り乱されてるんだ。
右手の甲でしっかりと涙を拭ったあと、立ち上がった。そして、テーブルに置いていたiPhoneをカーゴパンツのポケットにしまい、僕が座っていた椅子を押し、元に戻した。
そして、杏依菜が座っていた椅子も押し、元に戻した。
すっと、息をついたあと、僕は中庭を出て、公民館へ戻った。
☆
この二週間は、淡々とこなした。あの日、家に帰ったあと、LINEの杏依菜のアカウントにメッセージを送った。
『迷惑かかるかもしれませんが、やっぱり会いたい気持ちが強いです
なので、予定通り旭川に行きたいと思います
杏依菜さんに会わせてください』
すると、杏依菜のお母さんから、一日後にメッセージが返ってきた。
『杏依菜の母です。娘に会ってください。
まだ、意識が戻らないままです。ただ、脳波には、反応があるから、脳死ではないとのことです。
夏織くんに会うの楽しみにしてたからきっと喜びます。
近くなったら、また予定決めましょう。』
そのあと一週間経っても、メッセージが来なかったから、杏依菜の意識はまだ戻ってないんだと思った。その間も、学校に行き、テストを受けた。葵とは、シフトが合わなくて、それ以来会っていなかった。
だから、あの夜以来、葵とは、まだ話せていなかった。
そして、杏依菜が事故に遭ってから、二週間が経ち、旭川へ行く3日前になった。ようやく、杏依菜のお母さんからメッセージが来た。その内容は、旭川空港に迎えに来てくれることや、そのまま病院に行くこと、杏依菜の病状も変わらないと書かれていた。
学校が終わり、旅行前、最後のバイトに行くと、葵がいた。
「お疲れ」
「――お疲れ様です」
数秒、僕のことを睨んだあと、葵はそう言った。そして、ベルが鳴ったから、「私、13番いきまーす」と言い残して、僕の前を去った。
バイトが終わり、自転車のチェーンロックを解除していると、後ろから話しかけられた。
「ねえ」
チェーンロックを自転車のかごに入れたあと、振り向くと、葵が立っていた。
「お疲れさま。なに?」
「また、あの男に言い寄られたから、一緒に帰ってくれない?」
そう言われて、店舗の入口を見ると、前に見たことある、大学生くらいの男が立っていた。僕が男を睨むと、男はそそくさと、歩いていった。
「またあいつか。いいよ」
そう返し、自転車を押し、歩き始めるといつものように、葵は僕の横を歩き始めた。
結局、いつもと同じパターンで、セブンイレブンでコーラを買って、いつもの小平の公園に来てしまった。その間、葵とは、あまり話さないままだった。なのに、「公園行こう」って誘われたのが、不思議だった。
公園に着いて、自転車を停めて、いつものベンチに座った。そして、ペットボトルのコーラを開けた。
「乾杯」
「かんぱーい」
僕から先にそう言って、葵のほうにペットボトルを差し出すと、葵は棒読みでそう返して、僕のコーラにゴツンと持っているコーラを当てた。一口飲むと、いつもの甘さと、爽やかさが口いっぱいに広がった。
「会いに行くことにした。あのとき言ってくれて、目醒めた。ありがとう」
「――そうなんだ。それが男だと思うよ、あたしも。意識戻ったの?」
「まだだよ」
「そうなんだ――」
葵はポツリとそう言って、コーラを一口飲んだから、僕も同じようにコーラを飲んだ。
「ねえ、佐伯くん。謝りたいことがあるの」
「なに?」
「やっぱり、あの日、大変なことに遭った人に自分の気持ちぶつけて、最低なことしなって思ったんだ。ごめんね」
「もういいよ。大丈夫だから」
「大丈夫じゃないでしょ」
「いや、本当にもう大丈夫なんだ。相手にしっかり気持ち伝えたから」
「意識戻ってないのに?」
葵は僕の顔をじっと見て、首を軽くかしげた。思わず、あの日の不思議なことを言いたくなったけど、それを言うのはやめた。
「――佐伯くんって、相変わらず変な人だよね。よくわらないや」
「それ、俺だっていいたいよ。葵のこと、よくわからなくなってる」
「そのよくわからないは、あたしとの関係性ってことでしょ。こないだあんなこと言われたから」
「それはそうかも」
結局、その話題に触れることになったから、少しの動揺を隠すために、僕はコーラをもう一口飲んだ。
「ねえ、あたしのこと、振ってよ」
「え?」
「だから、あたしのこと、最低な女だって、ちゃんと振って。そしたら、また今まで通り、友達でいれると思うから」
「――わかった。ごめんなさい、友達としか見れません」
「はい、ありがとう。これで、あたしも割り切れるわ。ありがとう」
「変なの」
「佐伯くんに言われたくない」と言って、葵はいつもみたいにゲラゲラと笑い始めたから、僕もふっと息を漏らすように弱く笑った。
「ねえ、佐伯くん」
「なに?」
「きっと、大丈夫だよ」
「――ありがとう」
夜空を見ると、今日は満月だった。今日の月は白くて、遠い月だった。3日後に僕はボーイングに乗り、白鳥のように北へ向かう。そんなことを考えながら、もう一口コーラを飲んだあと、すっと息をついた。
☆
北海道の翼、AIR DO、ボーイング737を降りて、接続されたボーディングブリッジを歩き始めた。窓の外は小雨が降っていた。東京に比べて、空気は一気に軽く、そして7月下旬なのに、空気は冷たかった。さっき、アナウンスで気温は21℃と言っていた。あれは、嘘かと思ったけど、本当にそうなんだって思った。
歩きながら、バッグの中を確認する。
中学一年の、告白しようと思ってた、あのとき、渡しそびれた手紙が入っているのも確認した。
昨日、手紙の中身をもう一度確認した。
やっぱり、記憶通りで『ずっと、一緒にようね』と書かれていた。
今、その気持ちに偽りはない。
半周しないで周り終えたターンテーブルで、キャリーバッグを受け取り、出口に向かうと、手を振る女性が見えた。その女性の雰囲気は、杏依菜にそっくりだ。
「夏織くん、久しぶりだね。大きくなって」
「お久しぶりです。ありがとうございます」
頭を軽く下げ、そして、すぐに上げた。
「いいの。寒いでしょ。半袖で大丈夫?」
「はい、こう見ても強いんで大丈夫です」
杏依菜のお母さん、加奈さんは、そんなくだらない僕の返しに、昔会ったときみたいに、ふふっと上品に笑ってくれた。空港の出入り口を出て、小雨の駐車場まで行き、白色のホンダN-BOXに乗った。車に乗り込むと、ラベンダーの匂いがした。
車は加奈さんの運転で、駐車場を出て、左折し、丘を下り始めた。
「田舎でびっくりすると思うよ。病院までも距離あるから」
「北海道に来たって感じの景色でいい感じですよね。話、聞いてたら、冬は大変そうですけど」
「そうだね。冬は、たしかに大変」
加奈さんは、シフトレバーを下げた。すると、エンジンブレーキがかかり、エンジンが唸り始めた。
「それでね、杏依菜のことなんだけど」
「はい――」
加奈さんのトーンが一気に静かになった。エンジンブレーキとは対照的に。
「このまま、意識が戻らない可能性もあるんだって」
「――そうですか」
「事故の場所がね、旭川の街の中だったんだけど、近くに病院があって、事故があってすぐにそこの人たちが対処してくれたから、なんとか助かったみたいなの。それが一つ目の奇跡」
「じゃあ、それがなかったら」
「杏依菜は死んでた」
加奈さんがシフトレバーをドライブに戻すと、また車の中は静かになった。そして、信号を左に曲がった。その交差点を曲がるとき、気になって、右側をちらっと見ると、神社の赤い鳥居が見えた。
車が曲がり切ると、等間隔に針葉樹が植えられている真っ直ぐな道路に入った。空は相変わらず、灰色だけど、左右に広がる畑の緑色はきれいに見える。
「二つ目の奇跡は、杏依菜が車に飛ばされて、着地した場所が草の生えた土の上だったの。たまたま。ただ、土だけど、頭を強く打ったことは変わらない。だから、骨は左の肋骨を折ったくらいで済んだ。つまり、外傷は大したことはなかった」
「じゃあ、どうして意識が」
「そう、もちろん、着地したところは土だった。だけど、地面に頭を打ったのは変わらない。それが原因じゃないかって言われてる。一応、CTとかとったら、脳に出血とかは起きてないみたいなんだけどね。ただ、このまま起きなかったら、植物人間になるかもとは言われた」
「――植物人間」
あの事故の次の日、杏依菜に会ったとは、とても言えない。あの日、杏依菜が最後になにを言おうとしていた。だけど、その前にそんなありえない時間は終わってしまった。
「そうだね。ただ、私はそんな二つの奇跡が起きて、杏依菜は生き続けてるんだから、信じるよ。あの子、絶対起きると思う」
「僕もそう思います」
「さすが、夏織くん。杏依菜のこと、わかってるね」
加奈さんはそうやって、冷静かつ、優しく振る舞ってくれていた。だけど、あたりまえだけど、僕以上につらいはずだから、気丈に振る舞っているんだと思う。そんな加奈さんが強く見えた。
だから、本当は言いたかった。杏依菜は三つ目の奇跡も起こしてたということを。
16 杏依菜
今、私は雪の旭川を歩いている。寒さとかそういうのは感じない。
あの日から、何日経ったのかわからない。ただ、夏織くんが最後に『杏依菜抜きじゃ考えられない。予定通り会いに行くから』と言っていたことだけを私は信じ続けた。
何度も、富山や、旭川、そして国分寺、いろんなところをグルグルとしていた。もう、何度それをやらされているのかわからない。
たまに、新月の日みたいな、夜の場所を歩いていることがある。そのときには、必ず、『私の意識をもどしてくだっさい』って、お願いしている。
もう、Voidタイムとか、関係なく。
そんなことを考えながら、歩いていると、
「杏依菜」って、誰かが、私を呼ぶ声がした。
私は雪の中、立ち止まる。どうして、こんなところを歩いているんだろう――。
「杏依菜」
――夏織くん?
振り返る前に、私は夏織くんに伝えたいことを思い出した。そして、振り向くと、世界が一気に明るくなった。
私は仰向けになっていた。天井は白くて、さっきまで歩いていた雪みたいに思えた。
「杏依菜?」
また、同じ声がした。聞き覚えのある、世界中で一番、聞きたい声が。その声がする方をゆっくり向くと、夏織くんとお母さんが見えた。
「杏依菜が起きました」
「うん、私、人呼んでくるね。夏織くん、杏依菜のこと見ててあげて」
お母さんが、ちらっと見えた。慌てて、部屋を出ていくのも見えた。
「――夏織くん」
「旭川って寒いな」
「会いに来てくれてありがとう。――ごめんね」
「といっても、こないだ中庭で会ったばかりだけどね」
そう言って、微笑んでくれた。
――こないだってことは、あの瞬間だけは、本当だったんだ。
「ねえ、夏織くん」
「なに?」
「言い忘れたことがあるんだ」
「ずっと、気になってたから、教えてよ」
夏織くんはまた、優しく微笑んでくれている。中庭で会ったときは、泣いていたのに。
「ねえ、大好きだよ」
私は、初めて夏織くんに自分の気持ちを伝えられた。私はゆっくりと、左手を夏織くんのほうに出すと、夏織くんは両手で私の左手を力強く、ぎゅっと握ってくれた。
「大好きだよ」
小さい声だったけど、夏織くんは、初めて私に好きって言ってくれた。そのあと、バタバタといろんな人が入ってくる音がしたから、
「続きは、またあとでね」って言うと、夏織くんはふふっと、いつものように笑ってくれた。