――なぁんか、また、煮詰まってんなぁ。
隠さずに溜息を押し出し、時東は弦から指先を離した。「缶詰に来てもいい?」とやってきた直後。まったくなにも浮かばなかった自宅よりは、いくらかメロディラインが浮かぶようになった、と。ほっとしたころが懐かしい。
「煙草」
吸いたいなぁ、と探そうとして、持ち込まなかったことを思い出した。
自宅の防音室に籠っていたころの時東は、岩見に心配されるレベルで消費していたものの、普段はヘビースモーカーではない。まして、ここは人さまの家のわけで。いくら良いと言われても、吸うつもりはなかったのだ。
「……まぁ、南さんは、なにも言わないだろうけど」
吸いもしないのに窓辺に寄って、窓を開ける。凛とした冬の風が肌を射ったけれど、煮詰まっていた頭にはちょうど良かった。
この家、禁煙じゃないから。吸いたかったら吸っていいよ。春風もよく縁側で吹かしてるから。
缶詰に来た当初に、南に言われた台詞だ。ありがとうございます。ついでに、そんな些細なことでも当たり前のように春風さんの名前が出てくるんですね。なんて思ったものだった。もちろん言わなかったけど。そんなみっともない上に、意味の分からない嫉妬のようなことは。
ふぅと切り替えるように息を吐き、時東は眼下を見下ろした。雪は降り止んでいるが、ところどころ白が残っている。いつだったか南が手を入れていた田畑に、その奥に見える南食堂の屋根。
午前中に出ていったきり、南はまだ帰ってきていない。自分しかいない家は、ひどく静かだった。
――なんで、ここだったら、曲がつくれるような気がしたんだっけ。
あのとき見えた気がした答えの片鱗は、またどこか遠くに行ってしまったようだ。それでも、かたちだけでも音を鳴らしたほうがいい。
そう決めて窓を閉めようとした、正にそのとき。細い私道を上る軽トラックが視界に入った。珍しいなと思っているうちに、家の前に止まる。
「あれ」
降りてきた人影に、思わず声が漏れた。春風だ。彼の家がどこなのかは知らないが、南の家に徒歩以外の手段で来たところを見たことははじめてだった。そうして助手席からもうひとり。
なにが楽しいのか、軒先にたどり着くまでの短い距離をじゃれるように並んで歩いている。自分には絶対に見せてくれない顔。
――幼馴染み、ねぇ。
二十云年一緒に育って、信頼し合って。それは、時東にはまったく想像のつかない絆だった。あるいは、想像さえもしたくない関係性。今度こそ窓を閉めて、ギターの前に戻る。
春風の顔を見たのは、東京で話したあの日以来だった。
[22:時東悠 1月26日12時25分]
――そんなこと聞いて、どうするの?
馬鹿にしているふうでもなく、悠然と春風がほほえむ。それが、意を決して尋ねた時東への、自分にはないすべてを持つ男の返事だった。
――逆に考えてみてよ、時東くん。もし、俺があいつを、きみの言うところの「好き」だったとしたらさ、今のきみを許してると思う?
それって結局、自分が本気になったら、きみの出る幕なんでございませんよ、ってことなんだろうな。悶々とした気分のまま、時東はまたひとつ溜息をこぼした。ほかに人がいれば鬱陶しいと顔をしかめられるだろうが、誰もいないのでかまわないだろう。
でも、べつに、とも思う。「このまま」を維持するつもりがあるのなら、そんなことはどうでもいいことだ。
そもそもとして、過ごした時間の長さも密度もなにもかもが異なる相手なのだ。同じ土俵で張り合えるとも思えない。それで――。
「幼馴染みか」
ぽつりとひとりごちた瞬間、ふたつの顔が浮かびそうになった。必死になって押し戻す。笑い合っていた期間のほうがずっと長いはずなのに、過るのはそうでない顔ばかりだ。どうせ蘇るなら、笑えよ。それもできないなら、一生出てくるな。
呪詛のように心の内で吐き捨て、「駄目だ」と頭を振る。
「あー……、なんなんだろうな、これ」
なんで、ずっと考えないようにしていたことまで、ふつふつと湧き上がるのだろう。
抱えるだけになっていたギターを脇に置いて、前髪をかきやる。曲ができあがる気はいっさいしなかったし、仮にできたとしてもろくなものではないに違いない。
ときおり階下から聞こえてくる声が、いやに胸を突いた。
「それにしても、おまえは本当にじっとできないね。ちょっとは大人しく座ってられないの。見てるこっちが気になるんだけど」
「俺はおまえの運転する軽トラの助手席に座ってるほうが怖かった」
「うわ、かわいくない。もしかして、まだ根に持ってんの? 俺がおまえの車、擦ったこと」
「違う。おまえの運転が雑だって言ってんだ」
どうにもこうにも身が入らず一階に下りると、話し声がはっきりと耳に入った。春風がいることは想定内だったものの、会話の発生源とトーンは少し想定外だ。
きまりが悪そうな、というか、どこか不貞腐れたような調子。
――というか、なんで、台所?
いつもなら、炬燵のある居間にいるはずなのに。そう踏んで台所の前を通るルートを選択したのだが、間違ったみたいだ。
とは言え、いるとわかって素通りをすることも感じが悪いだろう。
「お帰りなさい、お疲れさま……って、どうかしたの? 南さん」
そう思い切って、台所の暖簾を愛想良く捲った時東だったが、目に入った光景に首を傾げることになった。朝と同じように椅子に座っているものの、南の右足にはなぜか包帯が巻かれている。
反応を示した時東に、もう片方の椅子に座っていた春風が楽しそうな笑みを浮かべた。
「こんにちは、時東くん。さすが目敏いね」
「目敏……、はぁ」
褒められている気はいっさいしないし、春風に聞いたわけではなかったのだが。
時東の微妙な返事をものともせず、「まぁ、聞いてよ」と春風が話を進める。
自分もマイペースだと評されることはあるけれど、この人ほどではないだろうな、と時東は思った。
「見てのとおりなんだけど、右足、捻っちゃったらしくて」
「あれ。俺、フラグ立てちゃった?」
「そんなわけあるか」
嫌そうに南に一蹴され、「冗談だってば」と慌てて苦笑を返す。
「それはそうとして、大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫」
請け負ったのは、南ではなく春風だった。
「そこまでひどくないらしいから。まぁ、この人、じっとできないからね。歩き回ったら治りが遅くなるとは脅されてたけど」
「なら、まぁ、よかったですけど」
それは、まぁ、本当にそう思うのだけど。雪道で怪我なんて誰がするかと豪語したあとだからか、どことなく不機嫌そうな顔をしている。
だが、しかし。春風にとっては、その不機嫌顔もさした問題ではないらしい。説明半分の茶々を入れながら、けたけたと笑っている。
「榊のばあちゃんが転びかけたの支えようとして巻き込まれたんだって。馬鹿だねー、本当。自分は若くて運動神経も良いって過信してるから、そういうことになるんだよ」
「おまえよりマシだ。というか、違う。榊のばあちゃんは関係ない。反対側から春香が突っ込んできたから、こうなったんだ」
「かわいいじゃない。春香ちゃんなりに助けてあげようと思ったんでしょ。あの子、凛のこと大好きだもんね」
「危うく踏みつぶしかけたけどな」
「もっと妙な転び方して、手首捻ったりするよりよかったじゃん。まぁ、踏みつぶしたほうが怪我は少なかったと思うけど」
なんとなく状況が察せられ、時東もお愛想で笑った。その春香ちゃんとやらは、「遊ぼう」と強請っていた相手に違いない。
関わり合いの深い田舎ではあたりまえなのかもしれないが、今の自分の周囲とは人付き合いの濃密さがまったく異なっている。
ずっと面倒だと思っていたはずの濃密な場所に、なんで自分はいるんだろう。ぼんやりと考えていると、「ちなみにね」と春風が時東に水を向けた。
「その春香ちゃんって、ちょっと先のご近所さんなんだけど。御年六歳。将来の夢は凛ちゃんのお嫁さんらしいよ?」
「おまえじゃなくて俺を選ぶあたり、将来安泰だって言われてたけどな」
笑うに笑えないまま、曖昧に頷く。
まぁ、見た目だけなら、女の子は春風さんを選ぶだろうなぁ。王子様的美形ってやつだし。見た目だけなら。
内心で毒づいて憂さを晴らしていただけだったのだが、含みのある笑みを向けられ、時東はドキッとした。
「それにしても、凛はモテるね。はるかちゃんに」
「え? あぁ、時東も『はるか』なんだっけ」
「そうだけど」
なんで、そこで自分の名前に思考が直結するのか。幼い子どもの好きと完全に同一視されている現状に、苦笑いで補足する。
「本名は漢字なんだけどね。デビューするときに字面が硬いって話になって、ひらがなにしたの」
特にこだわりはなかったので、時東に否はなかった。もともと自分を下の名前で呼ぶ人間はほとんどいない。今となっては、家族とマネージャーくらいのものだ。
「なんて書くの?」
「え?」
「漢字」
予想外に興味を示され、時東は瞳を瞬かせた。
「えーと、悠久の歴史とかの悠で『はるか』。小さいころは女の子みたいとか言われたけど」
「きれいな名前なのにな」
話の流れで褒められただけだというのに、なんだか妙に落ち着かない。誤魔化すように「そうかな」と笑ったタイミングで、春風が立ち上がった。
「じゃ、俺、帰るわ」
「あれ。もう帰られるんですか」
「時東くんもいるし、問題ないでしょ。とりあえず、今日一日くらい大人しくしときな。榊のばあちゃん、こともあろうか俺の家に血相変えて飛び込んできたんだから」
あぁ、それで。一緒に戻ってきた理由に時東は納得した。たまたま場所が近かっただけかもしれないけれど、いいな、と思う。ほんの少し、羨ましい。
「いくつになってもセット扱いが抜けないから嫌なんだ、ばあちゃんたちの認識は」
「そんなこと言って。遠い孫よりなんとやらでかわいがってもらってるくせに」
呆れたふうに言うくせに、春風の声は優しかった。幼馴染みねぇ。今日だけで幾度になるのか知れないことを、また考えてしまった。
幼馴染みというものは、そんなに特別に大事で、優しくしたい存在なのだろうか。
時東にはわからない。先ほど羨ましく感じたのは、あくまで物理的な距離の近さに関してだ。この場所で南になにかあれば春風に連絡が行き、春風になにかあれば南もあたりまえに知ることになる。
時東になにかあったとしても、南が知るのはテレビを通してになるだろうし、南になにかあったとして、時東が知ることはない。あるいは、知るころにはすべて終わっている。あの一件が良い例だった。
――でも、変わる気がないなら、それで納得しなきゃ。
内心で言い聞かせ、愛想笑いを張り付ける。
「じゃあ、安心して、南さん。いつもやってもらってるけど、こう見えて、俺もひとり暮らし長いから。家事全般一応できるし」
「それだったら、ここにいる意味ないだろ、おまえ」
「え?」
呆れたように言われてしまい、時東は間の抜けた声を出した。その反応をどう取ったのか、言い聞かせる調子で、南が続ける。
「むしろ東京戻っても大丈夫というか。町道のほうも除雪終わってたから。変な裏道選ばなかったら、道路も問題ないだろ」
「俺、要らない?」
悶々としそうになった感情を呑み込んで、笑いかける。この手の年下の子どもらしい言動に、南が甘いと知っていたからだ。案の定、少しひるんだような顔になる。
「そういう問題じゃ」
「こら、凜」
渋る言葉尻に被せて、春風の声が割り込んだ。苦笑としか言いようのない表情で、南の肩にぽんと手を置く。
「かわいげのないことばっかり言ってないで。普段面倒見てあげてるんだから、こういうときくらい返してもらいな」
「返してもらうもなにも、誰もそういうつもりで見てねぇよ」
「凜がそうなのは知ってるけど、してもらってばっかりっていうのも案外落ち着かないもんだよ。ねぇ、時東くん」
「それはそうですね。――だから、お願い。面倒見させて」
茶化すように手を合わせると、諦めたふうに南が息を吐いた。
「まぁ、おまえがいいなら、それはいいけど」
物言いたげな雰囲気は残っていたものの、気にしないことにして、うん、と頷く。
それに、どうせ、ひとりで籠ろうが、家事をしようが、曲作りが進まないことに変わりはないのだ。ある意味で、ちょうどいい気分転換かもしれない。
「おまえがいいならって、助かるでしょ、実際ちょっとは。まぁ、本当は、俺が頼まれたんだけどね、拓海くんから。時東くん代わりにお願いね」
「はぁ」
「あぁ、拓海くんって、このあたりのお医者さんなんだけどね。俺らより五才上の昔なじみでもあるんだけど。捻挫の程度がどうのこうの以前に、この人、じっとできないからさ、悪化させないように見張っとけって仰せつかっちゃって」
「だから。子どもじゃないんだから、大丈夫って言ってるだろうが」
いかにもうんざりといった調子で切り捨てて、「時東」と南が言う。その呼びかけに、時東は慌てて笑顔をつくった。
「こいつの言うことは話半分で流しといてくれていいからな。本当に大丈夫だし」
大丈夫なことはわかってるけど、それでも、こんなときくらい役に立ちたいものなの。それに、べつに、俺、南さんにお世話してもらいたくて、ここに来てるわけじゃないんだしさ。
と、言うことができたら、よかったのだろうか。それとも言わないでいる今が正解なのだろか。わからない。わからないまま、うん、と時東はもう一度頷いた。
きっとこのふたりは、こんなふうに正解不正解を考えながらの会話なんてしないのだろう。
けれど、ずっと昔は、自分もそうだったのだ。まっすぐに感情をぶつければ、同じだけの感情が返ってくると信じていた。愚鈍なまでに、素直に。傍迷惑にそう思い込んでいた。親友だから大丈夫なのだと、そんなふうに。
その親友は、自分のそばにはもういない。
「だから。本当にいいって。いいから、大丈夫」
玄関からこの台詞が聞こえるのは、たぶん、これで三度目だ。
回数を重ねるごとにうんざりとしていくさまがおもしろく、時東はそっと眦を下げた。聞き耳を立てるものではないとわかっていても、つい耳を澄ましてしまう。
まぁ、居間にいる以上、ある程度はしかたがないということにしておく。
少しでも役に立ちたいという健気な決心で、作業場を二階から移したはいいものの、来客対応を代わることは、いろんな意味で難しい。
そんなわけで、呼び鈴が鳴るたびに、結局、南が重い腰を上げているのだった。
春風が帰ってすぐに訪ねてきたのが、そもそもの原因だったらしい榊のおばあちゃんで、煮物の入った鍋を抱えてのご来訪だった。
ありがたいけど、帰るときに転ぶなよ、なんて。心配して外まで見送りに行く様子は、春風の言ではないけれど、本当に祖母と孫という感じだった。
そうしてふたり目が、「どうせ怪我するなら、凜ちゃんじゃなくて、うちのろくでなしならよかったのにねぇ」と笑いながら現れた春風の母親で。
増えたタッパーを抱えた南に「おまえがいてよかった」と言われたわけだが、どうせなら違う意味で聞きたかったな、と思う。
「そんなこと言ったって、その足、半分は春香のせいなんでしょ? それを聞いたらさすがに放っておくのも悪いじゃない」
それで今回の三人目が、件の少女の母親であるらしい。
姉弟のやりとりのようでほほえましいものの、遠慮ではなく本当に要らないと言っていることもわかるので、ほんの少し気の毒だ。
――なんていうか、南さんって押しに弱いんだよな。
なんだかんだと言ったところで、人が良くできているに違いない。
なにせ、さした交流のなかった人間を、家にぽんと何日も泊めるくらいだ。自分だったら絶対にできない。
「だから、本当に大丈夫だって。春香のせいじゃないし、ひとりで問題ないし。仮に問題が起きても春風呼んだらいいんだし」
「そんなこと言って。あんた、いざってときに誰も頼らないじゃない。いいから、ちょっと甘えておきなさい」
「だから、ひとり暮らしの男の家に入り込むな。おい、麻美!」
「なによ、昔は麻美お姉ちゃんって智春と一緒にあたしの後を付いて回ってたくせに……って、え?」
近づいてくる声の勢いのまま、がらりと居間の障子戸が開く。
あ、この人も春風さんと同類だ。こう、なんというか、躊躇なく人の家に入ってくるタイプ。そんなことを考えながら、時東はにこりとほほえんだ。笑う以外にどうするべきか、ちょっとわからなかったので。
「え? え? 時東はるか!?」
思いきり指を指されてしまったものの、愛想笑いのまま曖昧に首を傾げる。
追いついた南が時東よりもよほど頭の痛い顔をしていたが、これはもう南のせいだとか、そういう話ではないだろう。
むしろ、今まで誰にもバレなかったことが奇跡なのだ。そういったわけだったので、「べつになにも気にしていませんよ」を体現する調子で、時東は愛想の良い声を出した。
「あ、どうも。こんにちは」
それに、まぁ、南の知人と思えば、愛想を振ることくらい、まったくわけはなかったので。
にこりと向けた笑顔の奥。珍しく苦い顔で、南は溜息を吐いていた。
[23:時東悠 1月26日17時05分]
「なに、なに。なんなの? あんたの友達? 信じられないんだけど!」
ここまでまっすぐに驚く反応も、正直ひさしぶりだなぁ、と思いつつ、時東はにこにこと愛想良くほほえんだ。
東京の街中だと、気がつかれたとしても隠し撮りがせいぜいなので。
――まぁ、知人の家にいるっていう状況とは、びっくり度は違うだろうけど。
「すみません、お邪魔してました」
という申し訳なさ込みで笑いかければ、驚いていた顔がぱっと赤くなった。「やだ、あたし、すっぴんだった」なんて言いつつ。手櫛で髪を整え始めた彼女に、南が呆れた声をかけた。
「だから、勝手に人の家に入るなって言っただろうが。おまえ、もう三十だろ。落ち着きねぇな」
「ちょっと、まだ二十九なんだけど。というか、なんでここでそういうこと言うわけ? 本当そういうとこ!」
デリカシーもなにもないんだから、と言い捨てたところで、長々とした溜息。ようやく興奮が治まったらしい。
「なんでって思ったけど、そういや、テレビのロケであんたのとこに来てたんだっけ。え? もしかして、そこからの付き合いなの?」
「……まぁ、そう」
「なによ、だったら教えてくれてもいいのに」
「やだよ。煩そうだもん、おまえ。実際、今、煩いし」
にべもなく切り捨てる調子に、時東はそっと苦笑した。自惚れではなく、自分のことを配慮してくれていたのだと知っている。その時東を視線で示し、だから、と南が言う。
「こいつもいるし、麻美が手伝ってくれなくても問題ないから。春香、待ってるだろ」
「まぁ、それならいいんだけど」
「あと、それと、怒ってないっておまえからも言っといて。またすぐに遊べるから気にすんなって」
その言葉に、彼女は悩ましそうに眉を寄せた。そうして、芝居がかったふうに、ひとつ溜息を吐く。
「あんたがそうやって甘やかすから、うちの娘の報われない初恋が終わらないのよね。この調子であの子が思春期に差し掛かったころに、あんたが結婚でもしてみなさい。ぐれるわよ」
「誰が」
「春香が、に決まってるでしょうが」
「そんなわけないだろ。そのうち、同級生を好きになるに決まって……」
「その台詞、去年も一昨年も聞いたんだけど?」
姉弟のような会話は変わらずほほえましいはずなのに、なぜだか苦笑をすることができなかった。
――結婚。結婚、か。
「ねぇ、ちょっと。時東さん。この愛想のない男のなにがそんなによかったの」
その声に、はっとして時東は表情を取り繕った。なんでもないふうに、ほほえむ。いつもどおりの、らしい顔で。
「落ち着くんです、ここ。それで、俺も南さんについつい甘えちゃってて」
「ここが?」
信じられないと跳ね上がった声に、同意を示して頷く。この町が、というよりは、南の傍が、ではあるのだけれど。それは言う必要のないことだ。
「あたしからしたら、なにもないところですけどねぇ。東京の人から見たら、そんなものなのかなぁ」
「麻美」
「わかった、わかった。わかりました。帰るし、誰にも言わないわよ。安心しなさい」
おざなりに南に言い放った彼女が、時東に向かい軽く頭を下げた。
「それじゃ、時東さん。面倒かけますけど、よろしくお願いしますね、それ」
「あ……、いや、その、俺で役に立つことであれば」
「やせ我慢ばかりする意地っ張りなんで、適当に手を貸してやってください」
騒々しさの薄れた母親然とした態度に、曖昧に時東は頷いた。そうする以外できなかったのだ。
ここは、この人の世界なんだな。そんなことを思ってしまった。
この人が生まれ育って、生活する世界。本来だったら、自分が存在しない世界で、自分がいなくても、なにも問題はなく回っていく世界。
ふたりになるとすぐ、「悪かったな」と南が言った。バツの悪そうな調子に、思わず「え?」と南を見上げる。
「うちの親が死んでから、気ぃ使うやつが増えて。煩かっただろ」
言いにくそうに付け加えられた台詞に、時東はへらりと笑った。
「南さんが大事にしてる分だけ、大事が循環して返ってきてるってことでしょ」
この町を。そうしてこの町に住む人tたちを。南が大切に思っていることは、日常の一端を覗き見ているだけの時東にだってわかる。
どういうかたちであれ自分も組み込まれたらいいなぁ、と思ったこともあったけれど。
「すごいいいことじゃん」
なんでもないように笑い、手元に視線を落とす。ペンを握りしめたままだったことに、時東はようやく気がついた。
開けたページは、ずっと白いまま。
苛立ちなのか、やるせなさなのか。自分でもわからない感情をどうにか飲み下す。感情の赴くままに詩を書くことができたのは、本当に子どもだったころのことだ。
心から楽しいと思うことも、誰かに伝えたいと思うことも、いつしかなくなって。けれど、必死に絞り出して誤魔化していた。時東はるかの歌詞は心に刺さらない。そう評されていることも知っている。
恋だとか愛だとか。友愛だとか、信頼だとか。そういったものを、時東自身が信じていないからなのだろうか。
かつて持っていたはずのあたたかななにかが抜け落ちてしまったからなのだろうか。だから、心に響くものを書くことができないのだろうか。
悩んでいたものの、曲を作ることができるうちは、それでもどうにかなっていたのだ。どうにもならなくなったのは、曲を作ることができなくなったからだ。
挙句に味覚までおかしくなって、なにもかもがいっぱいいっぱいで。でも、相談する誰かもいなくて、真っ暗な底にいたとき。
この人に出逢った。出逢うことができた。出逢うことができて、そして。
――ここに来て、少しずつ書けるような気がしたのは、この人の近くだったから、だ。
それなのに、また書くことができなくなった。歌詞も曲も、なにひとつ生み出すことができない。その理由を深掘りしたくなくて、時東は笑って繰り返した。
「うん。いいことだと思うな、俺は」
「時東」
呆れた声が思いのほか近くで聞こえ、顔を上げる。時東の正面に腰を下ろした南は、声同様の渋い顔をしていた。だが、怒っているわけでも、機嫌が悪いわけでもないらしいことはわかった。そのくらいはわかる。
「おまえさぁ」
「なに? というか、座ってから言うのもなんだけど、椅子のほうが楽じゃない? 持ってこようか」
「いや、べつに。そこは本当に気を使わなくていいから。気にするな。というか、そうじゃなくて」
「でも、今も正に頼まれた直後だし」
「あのな」
へらりと笑った時東に、南の眉間の皺が増えた。余計な世話を焼き過ぎただろうか。小首を傾げると、今度は溜息。どうしたものかと思っていると、南が口を開いた。
「笑えてない」
「……え?」
「おまえ、ぜんぜん笑えてない」
その指摘に、時東は瞳を瞬かせた。ずっと笑っているつもりだったからだ。愛想笑いは得意中の得意で、それなのに、なんで。
意識すると途端に失敗している気がしてしまった。ぎこちなく笑みを浮かべる。
「やだな、南さん。そんなことないでしょ、ほら」
いつもの笑顔の作り方を、時東は知っている。テレビのカメラが回っているときに、不機嫌な表情なんてできないから。この五年で、ますますうまくなったのだ。機嫌の取り繕い方も、体調が悪くてもそう見せない方法も。
そのはずなのに、南の渋い表情は変わらなかった。
「いや、笑えてないから。変な顔しなくていい」
「変な顔って。だから、そういうこと言わないでってば。でも、どうしよう。さっきの……麻美さんにも? 俺、笑えてなかったのかな。どうしたんだろ、疲れてたのかな」
時東はるかのイメージが悪くなっちゃう。茶化した時東の言葉尻に乗る気配は見せないまま、「あいつは気づいてなかったと思うけど」と南が応じる。
その言葉に、時東はほんの少しほっとした。なんだ。ということは、できてるんじゃないか。
「ただ、なんだ。テレビで見る顔してるっていう話」
「テレビで、って……」
「おまえ、去年はそんな顔してなかっただろ」
淡々と告げられ、時東はぎゅっとペンを握りしめた。身体の中のどこかがたまらなく痛かった。あんたがそれを言うのか、と言いたい衝動が渦巻いている。
あんたが距離を置こうとしたから、これ以上は踏み込むなと言ったから、だから――。
「だから戻っていいって言ったんだよ。そんな顔してるやつ、引き留められないだろ」
「なにそれ」
ぽろりと非難がこぼれた。一度こぼれたら、もう駄目だった。次から次へと際限なくあふれ出していく。
「それで帰れって言ったの? なに、それ。そんな顔してるんだったら、むしろ置いてやってよ」
「なんでだよ」
「なんでだよって。南さんにはないの、こう、俺がふつうに笑わせてやるとか」
そういうのさぁ、と言いかけたところで、時東は我に返った。
自分の口から飛び出した言葉の恐ろしさに気がついたからである。
おまえが笑わせろ? どんな期待を、俺は他人に押しつけようとしているんだ。そんなものはこりごりだと思っていたはずなのに。
「時東?」
気遣う呼びかけに、「なんでもない」と必死に笑顔を取り繕う。
「ごめん。南さんには、南さんが大事にしてる世界があるんだなぁって。それだけ」
へらりとした笑みで、へらりとしたことを時東は言った。笑っていることにしてほしかった。踏み込んだあとに拒絶されることは怖い。捨てられることは怖い。
だから、時東も線を引き直したのだ。この場所がなくなるよりはいいと、そう思い切って。だから、だから。そちらもそのつもりだったのであれば、世界を広げるつもりがないのであれば、急に踏み込まないでほしかった。
そうでないと、どうしていいのか、わからなくなってしまう。
「そんなセンチメンタルなことを、ちょっと考えてました。今、絶賛、制作活動中だったので」
だから、この話はこれで終わり。そう告げるように、時東は視線をノートに向け直した。なんでもいい。適当に文字を書けばいい。わかっているのに、指先は笑えるくらい固まってしまっていた。
――嘘も、適当にやり過ごすことも、得意だったはずなんだけどな。
悩んでいるていで溜息を吐くと、また声がかかった。
「おまえにだって、おまえの世界はあるだろ」
「どうだろう。まぁ、あるのかな」
なんで、そんな慰めるようなことを言うかな。思ったものの、八つ当たりに近い感情の気がして、精いっぱい愛想の良い相槌を打つ。
「同じ場所で生活してるうちにできあがっていくもんだろ。そういうものは」
「うん、でも、そうだなぁ」
みんながみんな、南さんみたいには生きていけないんだよ。拗ねた子どもの台詞に、ひっそりと蓋をする。俺が大切にしていたつもりの世界はどこに消えたんだろう。過ったそれに、時東は愕然とした。
これは、駄目だ。自分で言うのもなんだとは思うけれど、精神的にかなり落ちている。
「この家にも」
「え?」
「いや、だから、この家もそうだって言ってんの。おまえがしばらく居座ってただけでも、おまえの場所はできただろ。そういうもんなんだよ」
視線を上げて後悔した。顔を見るつもりなんて、なかったのに。
「悪かったな。説教臭くて」
自分はいったいどんな表情をしていたのだろうか。謝られてしまい、時東は慌てて言葉を継いだ。笑うことは、今度こそできていなかっただろうけれど。
「いや、べつに。そういうわけではなくて」
本当に、そういうわけではなくて。でも、だとしたら、どういうわけなのだろう。自分で自分の感情をコントロールできないことは、時東は嫌だ。だから、いつだって、「時東はるか」の仮面を被って生きていた。それが最善と思っていたかったからだ。
そうすることは、楽だった。仮面を被っていれば、生身の自分が傷つくことはない。ぐっとペンを握りしめる。
「なんというか」
誤魔化すつもりだった台詞の続きが、急かすでもなく話を聞く瞳を認識した瞬間、消え失せてしまった。心の奥底に閉じ込めていた破片が、ぽろりとこぼれおちる。
「俺もここの一部になれてたのかな」
それは、ずっと。この家にはじめて招かれたときから、心のどこかにあった時東の願望だった。
この場所は、この家は、この人の隣は、いつのまにか、時東にとって、心の安らぐ唯一になっていたから。
「まぁ、現に今、助かってるしな。おまえがいるおかげで」
「……そっか」
あいかわらず、甘いなぁ。そんなふうに思ったら、なんだか泣きそうになってしまった。けれど、べつに、自分が特別というわけではないのだろう。
たとえば、この人の幼馴染みである人にも。この人はあたりまえに同じようなことを言うのだ。どろりとあふれたのは、少し前の記憶だった。
――俺がなにを言ったところで、時東くんの眼には、そういうふうに映っちゃってるんでしょ。
余裕たっぷりの顔に微笑が浮かぶ。計算され尽くした、自分の魅せ方をよく知っている人間のそれ。時東と同じようで、少し違うもの。
――でも、まぁ、いいんじゃないの。そんなに深読みしなくても。だって、あいつにかわいがってもらってるでしょ、時東くん。少なくとも、今は。だったら、それでいいじゃない。
それだけで満足していたら、問題はなにもないだろう、と牽制するように。言葉の意味を理解した時東の胸に沸いたのは、怒りとも嫉妬とも羞恥とも言い切れない、どろどろとした感情だった。
なにもかも持っているくせに。他人と比較して自分を卑下したところで、時間の無駄だ。わかっていても、そう思わずにいられなかった。
なんでも持っているくせに。特別な才能も。優れた容姿も。気心の知れた特別も。
「時東?」
「なんでもない。ちょっとトリップしてた」
それはある意味で、嘘ではなかったので。苦笑して、今度こそと時東はノートに向き合った。
「やばい。なんかすごく暗い歌ができそうな気がする」
「なんでだよ。おまえの曲、基本的に明るいだろうが。似非臭いくらいに」
――もう、本当に嫌だ、この人。
俺の歌を知らないっていう設定なら、最後まで順守してよ。なんて、言えるわけもなく、「そんなことないよ」とペンの先を見つめたまま時東は応えた。
深い暗闇に、時東はひとり立っていた。
泥沼に沈んだように、足はぴくりとも動かない。いや、だが、仮に動いたとしても、右に行けばいいのか、左に行けばいいのか。なにかもわからなかった。
途方に暮れていると、少し先にぼんやりとした灯りが浮かび上がった。長方形のかたちにうっすらと光っている。ああ、扉だ。時東は思った。
では、扉だとすれば、どこに繋がるものなのだろう。
悩んでいるうちに、今度は扉の前に小さな影が浮かぶ。その影を認識し、時東ははっと息を呑んだ。
――ごめん。ごめんね、悠。でも、だって、寂しかったんだもん。
甘えを含んだ舌足らずな声。
幼い顔は泣いているのか、それとも、笑っているのか。皆目見当がつかなかった。
はじめてしっかりと付き合った相手だった。バンド活動が第一になっていたかもしれない。けれど、同じバンドに所属していた相手もそれは同じだったはずで、だから、その範疇で大事にしていたつもりだった。好きだったつもりだった。
言葉もなにも出なかった。立ち尽くしていると、今度は背の高い少年が現れた。うつむく少女の肩をそっと抱き寄せる。
何年も親友だと思っていた彼の瞳が、自分を糾弾する色に染まっていく。
――俺は、おまえがずっと嫌いだった。嫌いだったよ。おまえはなんでもできるもんな。なんでもひとりでできるもんな。でも、なぁ、おまえ、わかってたか? おまえがメインに立つその後ろで、俺がどれだけ苦労してたか。なにを思ってたか。おまえ、少しでもわかってたか?
だって、と心の中で叫ぶ。だって、おまえはそれが楽しいって言ってたじゃないか。それを信用した俺が駄目だったのか。おまえの表面を丸呑みして、本音に気が付かなかったから駄目だったのか。
固まったままの時東に、彼は繰り返す。
――わかろうと思ったか?
――思わなかっただろう。想像もしなかっただろう。おまえの陰に隠れる俺の気持ちなんて。
――おまえがかわいいのは自分だけなんだよ。自分がかわいいだけで、自分が一番で、俺たちはおまけの引き立て役だ。
そんなことはない。大事だった。大事だったから、『親友』だったんだろう。一緒にバンド名を決めたとき、自分たちは笑っていたはずだ。それさえも時東の思い込みだったのだろうか。ふたりは時東と対峙している。身を寄せ合ったまま。
――おまえの傍にいると疲れる。残る人間なんていねぇよ。
――ねぇ、だから。だから、その人も離れていこうとしてるんじゃないの。
少女の指が時東の背後を指す。心臓がドクンと大きく波打つ。少女は笑っている。ぎこちなく振り返ろうとした瞬間、眼が覚めた。
恐ろしいほどに、心臓がバクバクと音を立てている。まだ、夜の最中だ。けれど、前も後ろもわからないような、あの漆黒ではない。
自身の指先も、そこから伝わる布団の冷たい感触も、きちんとわかっている。闇に慣れた目が、畳の目や障子といった見慣れた部屋の光景をたどったところで、時東は小さく息を吐いた。
壁時計の時を刻む音が静かな空間に響いている。過去に停滞することも、戻ることもなく。ただ、一定のリズムで先に進んでいく。
「夢だ」
言い聞かせるために発した声は、喉にへばりついたなにかを無理やり吐き出すような、みっともないものだった。
枕元に置いていたスマートフォンで確認した時間は、午前一時。東京にいたころは、あたりまえに起きていた時間だった。
この家にいると、不思議と健康的な時間に寝起きをしてしまう。時間を華やかに消化するあの街と違い、ここの夜が静かだからだろうか。
ゆったりとした流れに身を置くうち、自分もその流れの一部だと信じてしまいそうになった。
そうやってぬるま湯に浸かろうとしていたから、あんな夢を見たのだろうか。もう二度といらないと思ったはずの感情に、手を伸ばしそうになったから。過去が罰しにきたのだろうか。
溜息を呑み込んで、時東は起き上がった。カーディガンを羽織って、襖に手を掛ける。薄暗い階段をゆっくりと降りて、一階に着いた瞬間。廊下の奥から見えた灯りに、緊張で張りつめていた力が抜けた気がした。
[24:時東悠 1月29日1時14分]
灯りに誘われるように居間に近づいた時東だったが、襖に手をかける寸前でためらってしまった。
けれど、どうせ足音でバレているに違いない。そう言い聞かせて、息を吐く。隙間から漏れる光は、正しく誘蛾灯だった。
「南さん」
小さく声をかけて、襖を引く。やはり気がついていたのだろう。さして驚いたふうでもなく、南がノートパソコンから顔を上げた。珍しいなと思いながら、勝手に正面に座る。そのことに南はなにも言わなかった。静かに時東の存在を容認し、手元に視線を戻す。カチカチという文字を打つ音。
南さんもパソコンなんてするんだなぁ、なんて言えば、おまえは俺をなんだと思っているのかと渋い顔をされるのだろう。そんなことを想像しながら、ぼんやりと口を開く。
「起きてたんだ」
「明日、店は休みにしたし。月末だからいろいろとやっておこうかと」
「帳簿?」
「そう。親父がやってたころは基本的に母親が付けてたらしいんだけど。いざ再開するってなったときに、ぜんぜんわかんねぇし、はじめて確定申告するときは本当に困った」
「南さんにもできないこと、あるんだ」
ぽつりと呟けば、断続的に響いていた音が止まった。
「あたりまえだろうが。今だって面倒だから嫌いだよ。でも、そうも言ってられねぇし。外の先生に頼むとそれはそれで金もかかるし。まぁ、でも、俺が生きて生活していくために必要なことだから」
パソコンを閉じて、南が時東に視線を向けた。邪魔をしていることはわかっていたけれど離れがたくて、「そうなんだ」と相槌を打つ。
生きていくために必要なこと。俺にとって必要なことは、譲れないことは、なんだったのだろう。夢の続きのように、そんなことを考える。だから、南がどんな顔で自分を見ていたのかわかっていなかった。
「時東」
呼ばれて、黙考から覚める。
「なに?」
長年の癖で張り付けた笑顔にか、物言いたそうな雰囲気は感じ取ったものの、気がつかない振りを押し通す。しばらくのあと、南が口にしたのは、取り繕った表情への指摘ではない、だが、予想外のものだった。
「おまえ、夜にギター弾きたかったら弾いてもいいからな」
「え? でも、迷惑でしょ」
「べつに。隣の家までも距離あるし。あそこのばあちゃん、耳遠いし」
「そういう問題なの」
「春風も昔はよくここで弾いてたけど」
なんで、また、その名前が出てくるかなぁ。苛立ちを呑み込んで、「そうなんだ」と同じ相槌を繰り返す。今はとりわけ聞きたくなかった。
「中学かそれくらいのころの話だけどな」
だから聞きたくないんだってば、そんな話。駄々をこねたい衝動を誤魔化して、笑う。
「今も昔も仲良いんだね、想像できる気もするけど」
「うちの親父に明日の朝も早いのに煩いって怒鳴られて、ふたりで河原に移動したら補導されそうになった」
「もっと怒られたんじゃないの、それ。お父さんに」
「その警官も近所のおっちゃんだったからな。次はないからなでお目こぼし貰ったけど」
時東がギターにはじめて触れたのは、中学校に入学したときだ。時東が夢中になった魔法をはじめて見せてくれたのは、「親友」だった。
楽しくて、楽しくて、ずっとそれが続くのだと漠然と信じていた。そんな、馬鹿みたいなことを、ずっと。ずっと。あの日まで。あの瞬間まで。
「もし南さんは春風さんがいなくなったらどうする?」
ぽろりと零れた問いかけが失言だったと悟ったのは、空気が変わった気がしたからだった。
「あぁ、その、死んじゃうとかそういうことじゃなくて。そういうことじゃなくても、人の縁が切れることはあるでしょう」
「想像できねぇな」
慌てて補足した時東の顔をじっと見つめ、南は答えた。いつもどおりの声。
「あいつとはずっと一緒にいる気がする」
「ずっとって」
曖昧なそれに、時東は失笑した。子どもじゃあるまいし。いつまでも一緒だなんて言える年じゃ、もうないくせに。
「あいつも前に半ば冗談で言ってたんだけどな。俺の店でも手伝いながら、一緒に暮らすかって」
「え……?」
「それはないだろって言ったんだけど。まぁ、つまり、そういう感覚なんだろうな。家族というか、なんというか」
失笑すらできなかった。黙り込んだ時東の反応をどう取ったのか、南が小さく息を吐いた。
「水でも飲むか?」
「あ……」
「座ってろ。淹れてやるから」
「でも、南さん」
「いい。立つついでだ」
至って普通の足取りに見えたものの、右足に少し重心がかかっていない気がした。廊下に出て行った背中を見送り、時東はそっと表情を消した。
南食堂は、今日は春風が手伝って営業したのだと聞いた。常連客に明日は休みにする旨を伝えることができたから、明日は休業日にしたのだ、とも。
自分にできることは、本当になにもないのだな、と思い知った。けれど、毎回同じようなショックを受ける自分がおかしいのだ。
――なにしてるんだろうな、本当。
夢見に引きずられ、人肌が恋しくなって、そうして、勝手に苛立っている。
どうかしているとわかっているのに、どうにもできなくなってしまいそうだった。でも、それは、いつからなのだろう。
廊下からかすかに聞こえた咳き込む声に、そういえば、まだ冬だったのだな、と時東は思った。
今年はどうなりたいのだろう、と。年末にどこか呑気に考えていたことが、なぜかひどく遠い。
変わっていく。そのことを、たぶん、時東は望んでいなかった。戻って来る足音に、意識して表情を作り替える。いつからこれが習慣になったのかも、もうわからなかった。だが、それでいいと思っていた。
「一気に飲むなよ、腹冷えるぞ」
「うん」
子ども扱いに笑って、目の前に置かれたコップに手を伸ばす。
「ありがとう」
立ったまま、じっと見られている気がして、時東は内心で首を傾げた。また変な笑顔だと思われたのだろうか。悩んだ末、話題の矛先を変える。南が右手に持っているものに気がついたからだ。
「煙草、吸うんだ」
「たまにな」
思い出したように南の視線が手元に動き、そのまま時東の傍に腰を下ろす。
「最近は、あんまり吸わねぇけど」
一緒に持ってきたらしい灰皿を机上に置いて、煙草に火を点ける。最近は吸わないと言ったわりには使いさしなんだな、と不思議に思ったことが伝わったのか、南が口を開いた。
「あぁ、これは、春風の」
「……そうなんだ」
「あいつ、適当に物を置いてくから」
そういえば、前にも似た話を聞いた気がした。くゆる紫煙を追いながら思い出す。あの日だ。この家の縁側で、この人に「曲が創れなくなった」と、誰にも言うつもりのなかったことを告白した、あの日。
「おかげで、あいつの物ばっかりなんだよな、この家。昔からだけど」
マーキングみたいだな、と思ったものの、さすがに言葉にすることはできなかった。小さく笑う。ちらりと動いた南の視線に、また笑えていなかったのかと不安になった。だが、確認することはできなかった。代わりに「らしい」ことを口にする。
「いいの? 勝手に」
「べつに一本くらいで、どうとも言わねぇだろ。あいつの貯蓄額やべぇらしいぞ」
「……だろうね」
「使い道もないって本人は言ってたけどな」
だろうな、と思った。堅実に生きていくためだけだったらば、大金なんて必要はないからだ。時東自身、それなり以上の金額を貰うようになってからも、生活は変わらなかった。派手な生活を夢見て芸能界に入ったわけでもない。ただ。ただ、俺は。
「なぁ、時東」
「なに?」
「うまい?」
問われて首を傾げる。
「お水? ありがとう。冷たくて眼が覚める」
良いのか悪いのかはわからないけれど、どうせこのあとも眠れないだろうし、いいのかもしれない。にこ、とほほえんだ時東の顔を見つめ、南が小さく息を吐いた。吸いさしを灰皿に押し付けて、一言。
「それ、結構な量の塩、入ってたんだけど」
唐突に告げられたそれに、時東は思い切り咽た。それでか。それで、南も咳いていたのか。
「お、俺の、南さんに対する信用を利用してなにするの」
「だから一気に飲むなって言っただろうが」
そういう問題じゃないと思いたい。自覚すると、なんだか喉が塩辛い気がしてきた。気分の問題ではあるけれど。
「おまえ、また味覚死んでるのか」
淡々と事実を問いただす調子に、コップを掴んだままだった指先に力が入る。応とも否とも言えない。いつから気づかれていたのだろう。それが、答えになった。
「ここに来たら味が戻る。それも、もうないんだったら、ちゃんと病院なり行って治せ」
正論だとわかっていた。わかっていて、それでも、どうしようもなくささくれ立つ。あんな夢を見たせいだろうか。それとも、この人だからだろうか。
わからない。わからないけれど、時東の心を動かすのは、いつもこの場所だ。この場所だけだ。
「南さんも俺を捨てるの」
「誰もそんなこと言ってないだろ」
自分の声は切羽詰まっていたのだろうか。応じる南の声が和らぐ。子どもを宥めるように。
「時東。なにか聞いてほしいなら、話くらい聞くから」
「聞いてほしいことなんてない」
言葉尻に被せ、時東は吐き捨てた。
「聞いてほしいことなんてなにもない。南さんに俺の過去を知ってほしいなんて思わないし、俺のどうでもいい後悔を聞いてほしいとも思わない。ただ、今の俺を見て。今の俺の隣にいて。それだけで」
なにを言っているのだろう。頭のどこかに残る冷静な部分はたしかにそう言っているのに、言葉が止まることはなかった。
「本当にそれだけでいいのに」
「時東」
「俺は過去の救済なんて、求めてない」
止まることのない言葉があふれ続ける。みっともないことは自覚していて、とてもではないが顔を上げることはできなかった。握りしめたままの手の甲が白い。
ここで距離を取り直されたのは、そう遠い日の話ではない。この人がそれを求めるのなら、と。その距離に従おうと決めたのも、遠い日の話ではない。それなのに。
「南さんとは違う」
そうだ。この人とは違う。この人は、俺とまったく違う。なのに、なんで、こんなにも惹かれるのだろう。自分のものにしたいと思うのだろう。諦めることはできなかった。蓋をしたつもりで、こうして勝手に顔を出す。
沈黙を何時間にも感じた。けれど、なにをどう取り繕えばいいのかも、わからなかった。
「寝ろ」
呆れたような、それでいて優しい声だった。
「明日には東京に戻るんだろ。早く寝ろ」
呪縛が解けたように、ぱっと顔を上げる。いつもと変わらない顔のまま、南は時東を見ていた。
はじめて逢ったころから変わらない、どこか不機嫌そうで、気難しそうで、それなのにたまらなく優しくて、いつだって時東を受け入れてくれる瞳。
そのことにほっとして、同時に勝手に傷ついた。この人は変わらない。俺くらいがなにかを言ったところで、伝えたところで、変わらない。
その「変わらない」ことに安堵していたことも事実のはずなのに、なぜか今は苦しかった。
「寝て、全部忘れろ」
「全部って」
「嫌な夢も、怖い夢も、朝起きたら全部なくなる」
笑おうとした時東を無視し、淡々と声が続く。
「覚えていても、段々、薄らいでいく」
それは、なんの話なのだろうとふと思った。まるで、時東がどんな夢を見たのか承知しているみたいだった。そんなこと、あるわけがないのに。
「しょうもないこと話して、笑って、飯食って、そうこうしてるあいだに、また生きていける」
あぁ、と一拍遅れて気づく。これは、南自身の話だったのか。
「南さんも、そうやって生きてきたの」
「そうだ。誰だって、そうだ」
でも、と思った。でも、あんたの隣にはあの人がいたんだろう。あんたが立ち直るまでのあいだ、ずっといたんだろう。あんたのことを大事に思っていて、あんたも大事に思っている人が。
俺にはいなかった。
俺には、誰もいなかった。
「じゃあ、俺の傍にいて」
情緒不安定なガキだと思われてもいい。そう思っているあいだは、きっとこの人は俺を捨てない。時東はそう思った。情の深い人だから、絶対にこの人は、俺が縋っているうちは、俺を捨てられない。
「そのあいだ、ずっと、俺の傍にいて」
だが、本心だった。ずっと、ずっと。時東が隠し続けていた、本音。
驚いた顔で南が自分を見つめていることに気がついて、はっとする。時東はようやく我に返った。なにを言い募っていたのだろう、自分は。なにをこんなに必死に。
「嘘。嘘、ごめんなさい」
きっと笑えていない。確信はあったものの、そう言うことしかできなかった。もう嫌だ。この人の前で自分を保つことができない。この五年、ずっと保っていたはずの「時東はるか」が死んでいく。解放なんて綺麗なものじゃない。それは恐ろしいことだった。赦しがたいことだった。
「南さんこそ、忘れて。明日も早いんでしょう」
明日は休むという話を聞いたことは、口にしてから思い出した。けれど、もうなんでもいい。とりあえず、受け流してくれたら、それでもいい。
「忘れねぇよ」
それなのに、なんで、そんなことを言うんだ。舌打ちをしたくなった。忘れろと言ったばかりの声で、そんなことを。
「忘れない」
矛盾を感じさせることのない声が言い切る。
「おまえが捨てたことも、俺が知ってることは覚えてる。だから、安心しておまえは忘れたらいい」
取り繕いきれないまま、時東はただその声を聞いた。
「それで、もし、いつか。……いつか、思い出してもいいと思えるものがあったら、そこだけを大事にしろ」
いつか。いつか、そんな日が来るのだろうか。来るはずはないと思っていたし、来なくていいと諦めていた。今もそれは変わらないのに、なんで。
なんで。その先の感情の答えを出すことはできなかった。静かな声が、かつて自分が言ったのだろう言葉を紡ぐ。
「おまえの歌で、おまえは食っていくんだろう」
そうだけど、違う。俺は、三人で食っていきたかったんだ。あのふたりと、俺で。でも。
「……うん」
「おまえはそうやって、五年間、踏ん張って来たんじゃないのか」
俺の五年なんて、なにも知らないくせに。そうも思うのに、たまらなかった。感情が、流れ落ちていく。
「うん」
子どものような声で頷く。どうしたらいいのかわからなかった。言葉もない。ただ、その体温に触れたかった。触れることを許されたかった。けれど、そうではないから必死に拳を握り込んで、もう一度、頷く。
「うん」
好きだと思い知った。好きだ。好きだ。好きだ、あなたが。もう、なにも誤魔化せないほどに。そのすべてを込めて、囁く。それが精一杯だった。
「ありがとう」
この人を、好きだと感じたのは、いったいどの瞬間だったのだろう。そもそもとして、自分は同性が好きな人間だったのだろうか。時東にはよくわからない。
とは言え、すべてをわからないで済ませるわけにはいかないと思ったから、一応考えたのだ。明確な答えは出なかったけれど。ただ、疲れたとき、苦しかったとき、心が疲弊して、どうしたらいいのかわからなかったとき。真っ先に逢いたいと願うようになった。その事実がすべてなのかもしれない、と思う。
――なんでなんだろうなぁ。
自問とも諦めともつかない問いを布団の中で繰り返し、眼を閉じる。眠りたくないと思っていたはずなのに、どんどんと睡魔に呑まれそうになっていく。けれど、決して嫌な感覚ではなかった。
不思議だなぁ、と。何度目になるのかわからないことを思う。
この家は、ここの家主は、時東の頑なな心を落ち着かせる。揺さぶってくることも多々あるけれど、最終的には、ここにいてもいいと許してもらえた気分になるのだ。時東が思っているだけではあるけれど、人間は自分の主観で生きているわけであって。つまり、自分がそう信じることができるのなら、そういうことなのだ。
そこまで考えて、「信じて」いるらしい自分に、時東は驚いた。もう誰も信じたくない。必要以上に親睦は深めない。そう決めて生きていたのに。
自分を守りたかったし、これ以上、傷つきたくなかったからだ。大切だったはずの人に嫌われて、ひとりぼっちになることに耐えらないとわかっていたから。
それなのに、何度も何度も手を伸ばしたくなった。だから、それが答えだった。
過去を共有したいとは、やはり思わない。慰められたいわけでもない。それもまた紛れもない本心だ。だが、うれしかったのだ。その感覚も不可思議ではあったのだけれど。
悶々と悩んでいたことが、あるいは、心の奥深くに沈めて見ないようにしていたものたちが。柔らかなものに包み直されていくようだった。
その日、もう、悪夢は見なかった。
[25:時東悠 1月29日7時1分]
朝の七時にセットしたスマートフォンのアラームで、眼が覚める。カーテンの隙間から届く朝の光が、天気の良さを時東に教えていた。問題なく、バイクで東京まで戻ることはできそうだ。
カーテンを開けて、しばらく見納めとなる景色をぐるりと見渡す。山はところどころ白いが、地上の積雪はない。
「……普通に寒いし」
苦笑とも愚痴ともつかないそれが勝手にこぼれおちる。いつもの自分の声だった。
中途半端な時間に起きたせいで眠いし、そもそもとして、めちゃくちゃに寝覚めが良い性質でもないし。でも。変わらず朝は来るんだなぁ。そんなあたりまえのことを唐突に実感する。
そう、あたりまえだ。誰かひとりの存在で世界が一変するなんて有り得ない。けれど、生きやすくなることはあるのかもしれない。そんなことを思った。
たとえば、その人がいるから、もう少し前を向いてみようと思うことができること、だとか。
身体的には眠いものの、なんだか、ひどくすっきりした気分だった。
身支度を整え、階下に向かう。朝ご飯の匂いをおいしそうだと自然と感じた自分に、時東はほっとした。味覚が死んでいると承知していても、変わらず準備をしてくれる気持ちがありがたかった。味があろうが、なかろうが、食べないと人間は生きていけないのだから。
夜の醜態を思い返すと気恥ずかしかったけれど、それよりも顔を見たいという欲求が強かった。
「南さん、おはよう」
たぶん、昨日よりはずっとマシな笑顔になっていたと思う。台所に顔を出した時東に、食卓で新聞を広げていた南が顔を上げた。何事もなかったような表情のまま時東を一瞥し、新聞を閉じる。
この年代のひとり暮らしで新聞を取っている人も少ないだろうなぁ、と見るたびに思うのだが、似合っているのもまた事実だ。
「おはよう」
「うん」
「よく寝れたか?」
「うん」
それは本当だったので、にこりとほほえむ。その顔を見ていた瞳がふっとゆるんだ。
「朝は? どうする?」
「……いただきます」
褒めてもらった気分で、南の前の席を引く。明かり取りから差し込む光が机の木目を照らしていて、綺麗だった。
白米に味噌汁に青菜に焼き魚。立派な朝食を前に、時東はもう一度手を合わせた。
味覚というものは、案外といい加減なものらしいとなにかで聞いたことがある。目隠しをした状態で食べた物の名称を当てようとしても、なかなか当たらないといった具合に。つまり、眼で見て「おいしそう」と思うことだとか、「食べたい」と思うことが、味覚を正常に戻すための第一歩なのかもしれない。
――そういう意味で、やっぱり、ここなんだよなぁ。
時東はそっと正面を窺った。ここに来ると、この人といると、食べたいという気持ちになる。この場所が特別になった最初の理由は、間違いなくそれだったのだ。
「なに?」
長く見つめ過ぎたのか、訝しげに問いかけられてしまい、慌てて首を振る。そして味噌汁に口を付けた。じんわりと広がる優しい風味に目元が自然と和らぐ。
「おいしい」
「……本当にわかってんのか、それ」
不信を隠さない声に、時東はへらりと笑った。以前とまったく同じとは言わないものの、それでもちゃんと味はするし、おいしいと感じている。「わかってる、わかってる」
「それに、おいしいって言うと、おいしい気がしてこない? まず気分からでも。それにひとりで食べるより断然ふたりのほうがおいしいし」
「あ、そう」
「ちなみに、あの、本当に、昨日の夜よりはずっとマシだからね? あの、……なんというか、その、あのときは、俺史上最高に落ちてたというか」
なにもあのタイミングで仕掛けてこなくてもいいのに、と。恨みがましく思っているのが正直なところではあるのだけれど。それにしても、いつからバレてたんだろうなぁ、本当に。
隠しごとは得意だったはずなのに、この人に隠しごとをできる気がしない。
「へぇ」
「へぇ、ってなんなの。その気のない返事」
「今はちょっとは回復したんだろ? なら、それでよかったじゃねぇか」
さした興味もなさそうに南が言う。ほっとするのはたしかだけれど、憎たらしいほど通常運転だ。
「南さんはひどいけど、ご飯はおいしい」
歯噛みしたい心境で、焼き鮭を解す。素朴な料理なのに、なんだかすごくおいしく感じる。ここまでくると、これは味覚以外のなにかも影響しているのかもしれない。
……いや、料理を生業としている人が作っているのだから、おいしいのは当然なのか。
新たなことを悶々と考えながら、再び視線を南に向ける。時東がだらだらと食べているうちに済んでしまったらしく、静かに手を合わせているところだった。
前々から思っていたけれど、南は食事の所作が綺麗だ。「いただきます」「ごちそうさま」そういった言葉もそうだが、箸の持ち方やひとつひとつの仕草が。きちんと育てられたのだろうなぁ、と感じる空気がある。
地に足を付けて、この土地で生きてきたのだろうなぁ、というような。この家で育って、そして、――こんなに早くひとりで切り盛りをする未来は本意ではなかったとは思うけれど――、店を継ぎ、隣人たちと関わり合いながら、生きている人。
きちんと食事をとることは、生きることに直結している。ストレスで味を感じなくなって、時東は尚更そう思うようになった。
この人は、自分の足で立って、自分を持って、しっかりと生きている人だ。
自分にはないその力強さにも、惹かれたのかもしれない。
「いいなぁ。南さんの家は、ちゃんと朝ご飯が出てきて」
東京の自分の家にもいてくれたらいいのに。なんて夢みたいなことを考えていたら、ぽろりと願望が漏れてしまった。その時東をなんとも言えない顔で見つめたあと、ぼやくように南が言った。
「あのな。おまえがいなかったら、作らねぇに決まってるだろうが」
「へ? 南さんって料理作るの好きなんじゃないの?」
だから家でもマメに作っているのだと思い込んでいた。瞳を瞬かせた時東に南が首を振る。
「そんなわけあるか。面倒臭い。俺ひとりだったら、朝も夜も適当に店で済ませてる」
「それって……!」
「まぁ、春風が来たら作るけどな」
「ねぇ、なんでそこでわざわざ春風さんの名前を出すの」
輝かんばかりの笑顔を見せてしまった一瞬前の自分が馬鹿みたいだ。トーンの下がった時東の声に、南が小さく肩を震わせる。揶揄われている。わかっていて乗せられる自分も悪いのかもしれないが、カチンと来るのだからしかたがないだろう。
――どうせ、みっともないところしか見せてませんよ、俺は。
拗ねたい気分のまま、ふと思った。こうして自分が春風の名前に過剰反応することを、南はどうしてだと思っているのだろうか。
嫉妬だ思われているのだろうか。仮にそうだとして、誰への、と思われているのだろうか。
春風の才能に嫉妬していると思われていたら嫌だな、と思ったが、もうひとつの理由のほうも口に出しづらいものがある。
悩んでいると、おもむろに南が口を開いた。
「昨日は悪かったな」
「え? なにが?」
本気でわからなくて問いかけると、南が嫌そうに続けた。「塩」
「あぁ」
食物に異物を混入したという一点に置いて罪悪感を抱いているらしい。そういうところは、なんとも「らしい」なぁと思う。
「いや、俺こそ、なんというか、みっともないところをお見せして」
「おまえがみっともなくないなんてことあったかよ」
意を決して謝ったのに一蹴されてしまい、時東は口を曲げた。
「ひどい。南さんに俺がどう見えてるのか知らないけど、こう見えても、俺、結構ちゃんとしてるんだからね」
「だからだろ」
「え?」
「誰の前でも格好付けようとするから、そうなるんだろうが」
そう、というのが味覚障害を指していることがわかって、へにゃりとした笑顔になる。みんながみんな南さんみたいだったら、俺の世界はたぶん平和なんだろうなぁ。
そんな馬鹿みたいな想像が浮かんだからだ。そんな世界はありえないけれど、目の前にひとりいてくれるのだ。そう思えば、なんだか恵まれている気もする。
「俺の場合、原因はストレスだと思うんだけど。こう見えても繊細なんだよね、困っちゃう」
「おまえが繊細なのはよくよくわかったから。勝手に判断してねぇで、病院行け。もし違う病気だったらどうするんだ」
「そうだねぇ。南さんはどうする?」
「……俺はたまに本気でおまえの日本語がよくわからない」
「嫌だな。ジェネレーションギャップを感じるほどの年の差じゃないでしょ。俺と同じ時期に『学生』やってたくらいなんだからさ」
さらりと口にした時東に、わずかに驚いたふうに南が動作を止めた。理由はなんとなく見当が付いたけれど、気づかないふりでにこりとほほえむ。その先で、指先がゆっくりと湯呑に伸びていく。一呼吸入れるように口を付け、南が呟いた。どこかぶっきらぼうに。
「その理屈だと、大学生も小学生もひとくくりに『学生』になってねぇか」
「そんなことないってば。それより、話を戻すけど。もし、俺が病気だったら南さんはどうするのって聞いたの、俺は」
「心配に思うから、行けって言ってるんだろうが」
「そうなんだ」
心配してくれてるんだ。思わずにんまりと笑った時東に、南が呆れたように視線を外した。
「本当、おまえは……」
「なに?」
「なんでもない」
「嘘。言ってよ、気になるじゃん」
「昔からなんだかんだで変わらないなって思っただけだよ」
「え?」
「自信過剰でわがままで、かわいげのないところがかわいいだけが救いのクソガキ」
「ひどいなぁ」
笑いながらも、なんだか泣きそうだった。昔の自分を覚えていてくれる人がいることが、うれしいとは知らなかった。今も変わらず受け入れてくれることが、幸せだとは知らなかった。
「ねぇ、南さん」
「なんだ?」
「東京に戻ります。逃げないで頑張ってみる」
「そうか」
「うん。ありがとう。南さんのおかげです」
「俺じゃない。おまえが決めたんだろ」
「うん。でも、ありがとう」
そう考えることができるようになったのは、南のおかげだ。そのことに疑いの余地はない。
「春になったら、また戻ってきていい?」
「好きにしろって言ってるだろ」
「うん」
ごちそうさまでした、と手を合わせてから、時東はもう一度、南を見た。一緒に食べるごはんも、しばらくお預けだなぁと惜しみながら。
「そのときは、好きだって言ってもいい?」
「……は?」
「俺がいないあいだに取られたら嫌だから、仮予約」
「仮予約って、おま……」
呆れ切った顔が、諦めたように頭を振る。
「好きにしろよ」
許されていないのだったら、許される状態まで持ち込めばいいのだ。振られたわけではないので、諦める必要もない。
どうせ、わがままな子どもなのだから、もう少しわがままな子どもの特権を行使させてもらってもいいだろう。南だって、大人ぶって「常識」という盾を振りかざしているのだから。そこを突くことができるのも子どもの特権だ。
受け入れてくれる人がいる。そう思うことができるだけで、生きていくこともできる気がする。そう思う自分は単純なのだろうけれど。今はたぶん、それでいいのだと思った。いつか。思い返してもいいと思える、そのときまで。
それがどれだけ先の未来になるのかはわからないけれど、この人の近くにいれば、手が届く日が来るのではないかと思うことができる。
「うん。好きにする」
東京に戻って、また歌を創ろう。思うようにできるかはわからないけれど、逃げずに自分と向き合ってみよう。そうして、またここに戻ってくる。そのときは、この人とも、自分の気持ちとも、逃げずに向き合おう。決めて、時東は笑顔で駄目押した。
「だから、覚悟しておいてね、南さん」
返事を待たなかったことが、最後の譲歩のつもりだ。一気に距離を詰めるつもりはないし、ついでに言うのならば、少しくらい南に悩んでもらっても罰は当たらないだろう。勝手な子どもの気分のままに決めて、帰る準備に着手する。
軒先まで見送りに来てくれた南は、渋い顔のままだったけれど、時東の発言の真意については特に問い質さなかった。その代わりのように、「おまえ、結局、荷物は置いていくのかよ」と諦念交じりの非難が落ちてきて。時東は地団太を踏み鳴らしたくなった。
「だから、また戻って来るって言ってるのに!」
「わかった、わかった」
おざなりすぎる返事に、拗ねた視線を送る。沈黙後、南はわずかに空を仰いだ。その視線がゆっくりと降りてきて時東を捉える。強い意志の滲む瞳に、柔らかな光が帯びる瞬間が時東は好きだった。いつか、その瞳に自分だけが映ればいいのに、と馬鹿なことを夢想してしまう程度には。
「気を付けて行けよ」
帰れよ、ではなく、行ってこい。その言葉に「うん」と笑顔で頷いて、細い私道をバイクを押して下る。町道に出る手前で振り返ると、変わらない場所にまだ彼がいた。最後に大きく手を振って、時東はバイクを発車させた。風は冷たい。けれど、良い天気だ。この人と一緒に過ごす世界は、いつだって良い天気だ。