この人を、好きだと感じたのは、いったいどの瞬間だったのだろう。そもそもとして、自分は同性が好きな人間だったのだろうか。時東にはよくわからない。
 とは言え、すべてをわからないで済ませるわけにはいかないと思ったから、一応考えたのだ。明確な答えは出なかったけれど。ただ、疲れたとき、苦しかったとき、心が疲弊して、どうしたらいいのかわからなかったとき。真っ先に逢いたいと願うようになった。その事実がすべてなのかもしれない、と思う。
 ――なんでなんだろうなぁ。
 自問とも諦めともつかない問いを布団の中で繰り返し、眼を閉じる。眠りたくないと思っていたはずなのに、どんどんと睡魔に呑まれそうになっていく。けれど、決して嫌な感覚ではなかった。
 不思議だなぁ、と。何度目になるのかわからないことを思う。
 この家は、ここの家主は、時東の頑なな心を落ち着かせる。揺さぶってくることも多々あるけれど、最終的には、ここにいてもいいと許してもらえた気分になるのだ。時東が思っているだけではあるけれど、人間は自分の主観で生きているわけであって。つまり、自分がそう信じることができるのなら、そういうことなのだ。
 そこまで考えて、「信じて」いるらしい自分に、時東は驚いた。もう誰も信じたくない。必要以上に親睦は深めない。そう決めて生きていたのに。
 自分を守りたかったし、これ以上、傷つきたくなかったからだ。大切だったはずの人に嫌われて、ひとりぼっちになることに耐えらないとわかっていたから。
 それなのに、何度も何度も手を伸ばしたくなった。だから、それが答えだった。
 過去を共有したいとは、やはり思わない。慰められたいわけでもない。それもまた紛れもない本心だ。だが、うれしかったのだ。その感覚も不可思議ではあったのだけれど。
 悶々と悩んでいたことが、あるいは、心の奥深くに沈めて見ないようにしていたものたちが。柔らかなものに包み直されていくようだった。
 その日、もう、悪夢は見なかった。


[25:時東悠 1月29日7時1分]


 朝の七時にセットしたスマートフォンのアラームで、眼が覚める。カーテンの隙間から届く朝の光が、天気の良さを時東に教えていた。問題なく、バイクで東京まで戻ることはできそうだ。
 カーテンを開けて、しばらく見納めとなる景色をぐるりと見渡す。山はところどころ白いが、地上の積雪はない。
「……普通に寒いし」
 苦笑とも愚痴ともつかないそれが勝手にこぼれおちる。いつもの自分の声だった。
 中途半端な時間に起きたせいで眠いし、そもそもとして、めちゃくちゃに寝覚めが良い性質でもないし。でも。変わらず朝は来るんだなぁ。そんなあたりまえのことを唐突に実感する。
 そう、あたりまえだ。誰かひとりの存在で世界が一変するなんて有り得ない。けれど、生きやすくなることはあるのかもしれない。そんなことを思った。
 たとえば、その人がいるから、もう少し前を向いてみようと思うことができること、だとか。
 身体的には眠いものの、なんだか、ひどくすっきりした気分だった。
 身支度を整え、階下に向かう。朝ご飯の匂いをおいしそうだと自然と感じた自分に、時東はほっとした。味覚が死んでいると承知していても、変わらず準備をしてくれる気持ちがありがたかった。味があろうが、なかろうが、食べないと人間は生きていけないのだから。
 夜の醜態を思い返すと気恥ずかしかったけれど、それよりも顔を見たいという欲求が強かった。
「南さん、おはよう」
 たぶん、昨日よりはずっとマシな笑顔になっていたと思う。台所に顔を出した時東に、食卓で新聞を広げていた南が顔を上げた。何事もなかったような表情のまま時東を一瞥し、新聞を閉じる。
 この年代のひとり暮らしで新聞を取っている人も少ないだろうなぁ、と見るたびに思うのだが、似合っているのもまた事実だ。
「おはよう」
「うん」
「よく寝れたか?」
「うん」
 それは本当だったので、にこりとほほえむ。その顔を見ていた瞳がふっとゆるんだ。
「朝は? どうする?」
「……いただきます」
 褒めてもらった気分で、南の前の席を引く。明かり取りから差し込む光が机の木目を照らしていて、綺麗だった。
 白米に味噌汁に青菜に焼き魚。立派な朝食を前に、時東はもう一度手を合わせた。
 味覚というものは、案外といい加減なものらしいとなにかで聞いたことがある。目隠しをした状態で食べた物の名称を当てようとしても、なかなか当たらないといった具合に。つまり、眼で見て「おいしそう」と思うことだとか、「食べたい」と思うことが、味覚を正常に戻すための第一歩なのかもしれない。
 ――そういう意味で、やっぱり、ここなんだよなぁ。
 時東はそっと正面を窺った。ここに来ると、この人といると、食べたいという気持ちになる。この場所が特別になった最初の理由は、間違いなくそれだったのだ。
「なに?」
 長く見つめ過ぎたのか、訝しげに問いかけられてしまい、慌てて首を振る。そして味噌汁に口を付けた。じんわりと広がる優しい風味に目元が自然と和らぐ。
「おいしい」
「……本当にわかってんのか、それ」
 不信を隠さない声に、時東はへらりと笑った。以前とまったく同じとは言わないものの、それでもちゃんと味はするし、おいしいと感じている。「わかってる、わかってる」
「それに、おいしいって言うと、おいしい気がしてこない? まず気分からでも。それにひとりで食べるより断然ふたりのほうがおいしいし」
「あ、そう」
「ちなみに、あの、本当に、昨日の夜よりはずっとマシだからね? あの、……なんというか、その、あのときは、俺史上最高に落ちてたというか」
 なにもあのタイミングで仕掛けてこなくてもいいのに、と。恨みがましく思っているのが正直なところではあるのだけれど。それにしても、いつからバレてたんだろうなぁ、本当に。
 隠しごとは得意だったはずなのに、この人に隠しごとをできる気がしない。
「へぇ」
「へぇ、ってなんなの。その気のない返事」
「今はちょっとは回復したんだろ? なら、それでよかったじゃねぇか」
 さした興味もなさそうに南が言う。ほっとするのはたしかだけれど、憎たらしいほど通常運転だ。
「南さんはひどいけど、ご飯はおいしい」
 歯噛みしたい心境で、焼き鮭を解す。素朴な料理なのに、なんだかすごくおいしく感じる。ここまでくると、これは味覚以外のなにかも影響しているのかもしれない。
 ……いや、料理を生業としている人が作っているのだから、おいしいのは当然なのか。
 新たなことを悶々と考えながら、再び視線を南に向ける。時東がだらだらと食べているうちに済んでしまったらしく、静かに手を合わせているところだった。
 前々から思っていたけれど、南は食事の所作が綺麗だ。「いただきます」「ごちそうさま」そういった言葉もそうだが、箸の持ち方やひとつひとつの仕草が。きちんと育てられたのだろうなぁ、と感じる空気がある。
 地に足を付けて、この土地で生きてきたのだろうなぁ、というような。この家で育って、そして、――こんなに早くひとりで切り盛りをする未来は本意ではなかったとは思うけれど――、店を継ぎ、隣人たちと関わり合いながら、生きている人。
 きちんと食事をとることは、生きることに直結している。ストレスで味を感じなくなって、時東は尚更そう思うようになった。
 この人は、自分の足で立って、自分を持って、しっかりと生きている人だ。
 自分にはないその力強さにも、惹かれたのかもしれない。
「いいなぁ。南さんの家は、ちゃんと朝ご飯が出てきて」
 東京の自分の家にもいてくれたらいいのに。なんて夢みたいなことを考えていたら、ぽろりと願望が漏れてしまった。その時東をなんとも言えない顔で見つめたあと、ぼやくように南が言った。
「あのな。おまえがいなかったら、作らねぇに決まってるだろうが」
「へ? 南さんって料理作るの好きなんじゃないの?」
 だから家でもマメに作っているのだと思い込んでいた。瞳を瞬かせた時東に南が首を振る。
「そんなわけあるか。面倒臭い。俺ひとりだったら、朝も夜も適当に店で済ませてる」
「それって……!」
「まぁ、春風が来たら作るけどな」
「ねぇ、なんでそこでわざわざ春風さんの名前を出すの」
 輝かんばかりの笑顔を見せてしまった一瞬前の自分が馬鹿みたいだ。トーンの下がった時東の声に、南が小さく肩を震わせる。揶揄われている。わかっていて乗せられる自分も悪いのかもしれないが、カチンと来るのだからしかたがないだろう。
 ――どうせ、みっともないところしか見せてませんよ、俺は。
 拗ねたい気分のまま、ふと思った。こうして自分が春風の名前に過剰反応することを、南はどうしてだと思っているのだろうか。
 嫉妬だ思われているのだろうか。仮にそうだとして、誰への、と思われているのだろうか。
 春風の才能に嫉妬していると思われていたら嫌だな、と思ったが、もうひとつの理由のほうも口に出しづらいものがある。
 悩んでいると、おもむろに南が口を開いた。
「昨日は悪かったな」
「え? なにが?」
 本気でわからなくて問いかけると、南が嫌そうに続けた。「塩」
「あぁ」
 食物に異物を混入したという一点に置いて罪悪感を抱いているらしい。そういうところは、なんとも「らしい」なぁと思う。
「いや、俺こそ、なんというか、みっともないところをお見せして」
「おまえがみっともなくないなんてことあったかよ」
 意を決して謝ったのに一蹴されてしまい、時東は口を曲げた。
「ひどい。南さんに俺がどう見えてるのか知らないけど、こう見えても、俺、結構ちゃんとしてるんだからね」
「だからだろ」
「え?」
「誰の前でも格好付けようとするから、そうなるんだろうが」
 そう、というのが味覚障害を指していることがわかって、へにゃりとした笑顔になる。みんながみんな南さんみたいだったら、俺の世界はたぶん平和なんだろうなぁ。
 そんな馬鹿みたいな想像が浮かんだからだ。そんな世界はありえないけれど、目の前にひとりいてくれるのだ。そう思えば、なんだか恵まれている気もする。
「俺の場合、原因はストレスだと思うんだけど。こう見えても繊細なんだよね、困っちゃう」
「おまえが繊細なのはよくよくわかったから。勝手に判断してねぇで、病院行け。もし違う病気だったらどうするんだ」
「そうだねぇ。南さんはどうする?」
「……俺はたまに本気でおまえの日本語がよくわからない」
「嫌だな。ジェネレーションギャップを感じるほどの年の差じゃないでしょ。俺と同じ時期に『学生』やってたくらいなんだからさ」
 さらりと口にした時東に、わずかに驚いたふうに南が動作を止めた。理由はなんとなく見当が付いたけれど、気づかないふりでにこりとほほえむ。その先で、指先がゆっくりと湯呑に伸びていく。一呼吸入れるように口を付け、南が呟いた。どこかぶっきらぼうに。
「その理屈だと、大学生も小学生もひとくくりに『学生』になってねぇか」
「そんなことないってば。それより、話を戻すけど。もし、俺が病気だったら南さんはどうするのって聞いたの、俺は」
「心配に思うから、行けって言ってるんだろうが」
「そうなんだ」
 心配してくれてるんだ。思わずにんまりと笑った時東に、南が呆れたように視線を外した。
「本当、おまえは……」
「なに?」
「なんでもない」
「嘘。言ってよ、気になるじゃん」
「昔からなんだかんだで変わらないなって思っただけだよ」
「え?」
「自信過剰でわがままで、かわいげのないところがかわいいだけが救いのクソガキ」
「ひどいなぁ」
 笑いながらも、なんだか泣きそうだった。昔の自分を覚えていてくれる人がいることが、うれしいとは知らなかった。今も変わらず受け入れてくれることが、幸せだとは知らなかった。
「ねぇ、南さん」
「なんだ?」
「東京に戻ります。逃げないで頑張ってみる」
「そうか」
「うん。ありがとう。南さんのおかげです」
「俺じゃない。おまえが決めたんだろ」
「うん。でも、ありがとう」
 そう考えることができるようになったのは、南のおかげだ。そのことに疑いの余地はない。
「春になったら、また戻ってきていい?」
「好きにしろって言ってるだろ」
「うん」
 ごちそうさまでした、と手を合わせてから、時東はもう一度、南を見た。一緒に食べるごはんも、しばらくお預けだなぁと惜しみながら。
「そのときは、好きだって言ってもいい?」
「……は?」
「俺がいないあいだに取られたら嫌だから、仮予約」
「仮予約って、おま……」
 呆れ切った顔が、諦めたように頭を振る。
「好きにしろよ」
 許されていないのだったら、許される状態まで持ち込めばいいのだ。振られたわけではないので、諦める必要もない。
 どうせ、わがままな子どもなのだから、もう少しわがままな子どもの特権を行使させてもらってもいいだろう。南だって、大人ぶって「常識」という盾を振りかざしているのだから。そこを突くことができるのも子どもの特権だ。
 受け入れてくれる人がいる。そう思うことができるだけで、生きていくこともできる気がする。そう思う自分は単純なのだろうけれど。今はたぶん、それでいいのだと思った。いつか。思い返してもいいと思える、そのときまで。
 それがどれだけ先の未来になるのかはわからないけれど、この人の近くにいれば、手が届く日が来るのではないかと思うことができる。
「うん。好きにする」
 東京に戻って、また歌を創ろう。思うようにできるかはわからないけれど、逃げずに自分と向き合ってみよう。そうして、またここに戻ってくる。そのときは、この人とも、自分の気持ちとも、逃げずに向き合おう。決めて、時東は笑顔で駄目押した。
「だから、覚悟しておいてね、南さん」
 返事を待たなかったことが、最後の譲歩のつもりだ。一気に距離を詰めるつもりはないし、ついでに言うのならば、少しくらい南に悩んでもらっても罰は当たらないだろう。勝手な子どもの気分のままに決めて、帰る準備に着手する。
 軒先まで見送りに来てくれた南は、渋い顔のままだったけれど、時東の発言の真意については特に問い質さなかった。その代わりのように、「おまえ、結局、荷物は置いていくのかよ」と諦念交じりの非難が落ちてきて。時東は地団太を踏み鳴らしたくなった。
「だから、また戻って来るって言ってるのに!」
「わかった、わかった」
 おざなりすぎる返事に、拗ねた視線を送る。沈黙後、南はわずかに空を仰いだ。その視線がゆっくりと降りてきて時東を捉える。強い意志の滲む瞳に、柔らかな光が帯びる瞬間が時東は好きだった。いつか、その瞳に自分だけが映ればいいのに、と馬鹿なことを夢想してしまう程度には。
「気を付けて行けよ」
 帰れよ、ではなく、行ってこい。その言葉に「うん」と笑顔で頷いて、細い私道をバイクを押して下る。町道に出る手前で振り返ると、変わらない場所にまだ彼がいた。最後に大きく手を振って、時東はバイクを発車させた。風は冷たい。けれど、良い天気だ。この人と一緒に過ごす世界は、いつだって良い天気だ。