他人の言動の裏に潜む感情を、敏感に想像するようになったのは、「絶対」などというものはないと思い知ったからだった。
 馬鹿らしくなったのだ。自分ばかりが相手を信じ、好意を向けても意味がないと知って。相手が笑っているからといって、自分を許し受け入れてくれているわけではないと知って。怖くなったのだ。深い関係を築くための一歩を踏み出すことが。

 さて、なにをどう送ったものか。
 メッセージアプリを立ち上げた状態で、時東は長く思案に耽っていた。べつに、あの家を飛び出したつもりはない。まぁ、「飛び出したつもりはないと見えるように」飛び出しはしたけれど。
 東京で仕事があったことも本当で、あの家に帰るという意思表示で荷物を置きっぱなしにしたことも本当だ。
 だから、「ごめんなさい」では、きっとない。けれど、「ひさしぶり」というのも、少し違う気がする。
 そもそもとして、ひとつ屋根の下という――今思えば、なんでそうなった――、な状況に陥る前であれば、二週間に一度ふらりと自分が訪れることで生じる交流しかなかったのだ。そう考えると、なおさら「ひさしぶり」ではないだろう。
 けれど。そこまで考えたところで、時東は自宅の天井を仰いだ。
「距離取られたってことなんだろうな、あれ」
 突き放されたわけでも、嫌いだと言われたわけでもない。ただ、時東なりに勇気を出して踏み込もうとした瞬間、きれいに線を引かれたと思った。
 おまえがいる場所はここではないだろう、と。
 南にとっては優しさであったのかもしれないし、彼が言ったとおりのあたりまえの感情だったのかもしれない。必要以上にダメージを受けたのは、ひとえに踏み込もうと決意した直後だったせいだ。
 ――だから嫌なんだよなぁ、本当。
 ぐしゃりと頬にかかった髪を掻きやり、眉を寄せる。誰かと親密になろうと思うと、そういったことが気になってしまう。軽い付き合いで済ませているうちは、「べつにいい」で流すことができるのに。
 ぐるぐるとした思考を止め、時東はスマートフォンに視線を戻した。
「逢いたい」
 フリック入力で打ち込んで、そっと息を吐く。
 消そうか、どうしようか。迷いながらも、時東は送信ボタンを押した。送ってしまったと自覚した途端、後悔の念が疼いたものの、たぶん、これが一番本心に近いのだ。
 逢いたい。ごはんを食べに行きたい、というだけでなく、あの人の傍に行きたい、というだけでも、きっとなく。ただ、逢いに行きたいと、自分の全身が求めている。
 たとえ、傷ついたとしても。……まぁ、できることであれば、傷つきたくないと思っているけれど。


[20:時東悠 1月25日21時50分]


 今日は、雪が降っていなくてよかった。
 ひさしぶりに目にした南食堂の明かりを眺め、時東はふうと息を吐いた。
 事故を起こすつもりは毛頭ないけれど、ここに来る道中でそんなことがあれば、南は気に病むに違いない。
 新調されたというのれんは、店内に引っ込められいる。閉店している証で、入ってもいいという時東にとっての誘い水。
 そういえば、お雑煮食べ損ねちゃったな。もう一月も終わるけど、頼んだら作ってくれるかな。以前と変わらないことを夢想して、肩に入った力を抜く。
 よし、これで心置きなく「ただいま」と足を踏み入れることができる。そう言い聞かせ、時東は軽く笑みを浮かべた。
 できれば、この場所で作り笑いはしたくなかったのだけれど。自嘲気味な思考に蓋をして、三週間以上ぶりに南食堂の戸に指をかけた。
「こんばんは、南さん」
 努めていつもどおりに声をかけると、南の顔が上がる。
「なんだ、おまえか」
 カウンターの内側から返ってきた、あいかわらずのぶっきらぼうな言い方にほっとして、「そう、俺です」と時東はほほえんだ。
「なんか、ちょっとひさしぶり?」
「おまえはそうかもな」
「なんなの、おまえはって」
「つい昨日テレビで見た顔」
 見ないと言っていたくせに、そんなことを言う。それとも芸能人扱いをするなと言ったことに対する当てこすりだろうか。
 思ったものの、小さなことに反応を示して、この場所の空気を悪くしたくはない。へらりと笑い、カウンター席に勝手に腰を下ろす。
 作業をしている南が一番よく見える、とっておきの指定席。
「そんなこと言われると、ちょっと気になるな。どれ見てたの? あれかな、クイズかな」
「いや、なんだったか忘れたけど。なんか見た気がする。CM?」
「あー、そっちの可能性もあったか。まぁ、でも、あと二ヵ月もすれば、俺、めちゃくちゃテレビ出るよ?」
 マフラーを外して上着も隣の席に置く。顔を上げて改めてほほえめば、どこか気まずそうな顔の南と目が合った。
「なに? 南さん」
「いや、……おまえ、今日、どうすんの?」
「どうするって」
「だから、泊まってくの。帰るの」
「泊めていただくつもりですけど。そのつもりで荷物も置きっぱなしだし」
 首を傾げると、目の前に酒が現れた。珍しい。いや、まぁ、泊まるので飲酒自体はかまわないというか、むしろ大歓迎ではあるのだが。この店で呑んだことはなかった気がしたのだ。酒を飲むときは、いつも南の家だったので。
「南さん?」
「あー、……その、悪かったな。アルバム、というか、春風」
「え? あー、うん、まぁ」
 尋ねるよりも先に謝られてしまい、「そうだけど」と時東は曖昧に頷いた。
 先手を打たれると拗ねることもできないし、知らないふりで情報を引き出すこともできない。
 やられたなぁ、と思うのに、苛立たないのは、計算ではないと思うからだろうか。
「でも、知らなかったんでしょ? 南さん」
 彼の幼馴染みから聞いた情報を口にすれば、ますますなんとも言えない顔になる。
「いや、まぁ、おまえがここにいたあいだは本当に知らなかったんだけど。おまえがあいつと会う前には知ってたから。その、なんというか、まぁ」
「なんというか?」
「連絡してやろうと思えば、できたというか。無駄にびっくりしただろ」
 びっくりという言い方に、時東は少し笑った。驚いたかと問われると、まぁ、そうだと答える。驚いた。ついでに、自分に対する南の態度に得心がいって、勝手に落胆もした。
 この人が営業時間外に芸能人の自分を受け入れてくれたことも、自分への接し方があくまで「ふつう」だったことも、慣れていたことが理由だと思い知ったからだ。
 みっともない感情はおくびにも出さず、時東はほほえんだ。
「でも、言われてみると、案外、納得っていうか。南さんの家ではじめて春風さんに会ったときも思ったもん。オーラがある人だなって」
 ついでに言うと、「本当にただの幼馴染みなの?」と。やたらと近い距離感について勘繰りたくもなったのだけれど。もちろん、後半は口に出さない。
 いつもの調子で軽口を叩いた時東に、南が「いや」と言い淀むように首を傾げた。
「おまえが変なライン寄こすから、なんかあったんじゃないかと思って」
「嫌だな、南さん。変なラインじゃなくて、俺の本心」
 逢いたい、と送信した夜のことを思い出しながら、なんでもない声で応じる。
 逢いたかった。この顔を見たかった。ここに来たかった。声を聴きたかった。それが叶ったから、もういいのだ。
「南さんだって、時間が空いたら、いつでも来ていいって言ったでしょ。だから、来たの。前と同じ」
「まぁ、そうか」
 時東と同じあっさりとした調子だった。以前の南と同じ、ここに来るあいだは、と期間限定で受け入れてくれる声。
 安堵して、けれど、どうしてもひとつ聞いてみたくなった。
「ねぇ、南さん」
 出してもらったアルコールに口も付けないまま、静かに問いかける。
「ずるいこと聞いてもいい?」
「ずるいこと? なんだよ」
 呆れた声音だったものの、拒絶の色はない。そのことにまたほっとして、この感情はなんなのだろうと時東は思った。
 しばらくして思い当たった名称に、失笑がこぼれそうになる。
 男はみんなマザコンとはよく言ったものだ。
 自分の良いところも、悪いところも、すべてを受け入れてくれる存在に甘えたいだけなのだ。そうして、独占したいと願っている。そうだとすれば、なんと幼い「好き」なのだろう。
「俺ってさ。まだここに来ること許されてた?」
「客を拒むわけねぇだろ」
 かつて何度も聞いた返事だった。だが、あのころと今は同じではない。そう思ったから、時東は問い重ねた。
「でも、俺、客じゃないじゃん。お金を受け取ってくれないのは南さんだし、時間外にお邪魔してるのは俺だし」
「俺の飯を食いたいって言ってるやつを追い出す道理もないからな」
「じゃあ、南さんに逢いに来てるって言ったら?」
 仕込みをするでもなく、カウンターに肘をついてこちらを見下ろしていた南が、ほんのわずか驚いた表情を見せた。けれど、すぐに呆れたものに変わる。
「だから、さっきも言っただろ。時間があるなら好きにしたらいいって」
 これは、許容ではないんだよな。重々わかっていたものの、それ以上を踏み込んで追い出されることは嫌だった。
 逆に言えば、ここで踏み留まるうちは追い出されることはない。
 だから、笑う。
「うん、ありがとう」
 それ以外の言葉を言うことはできなかった。甘やかされることを望み、拒まれることを恐れている。この現状を維持する限りは、なにかが変わることはない。
 それとも、と。コップの水面に映る曖昧な自分の笑顔を眺め、時東は思った。
 俺は、このままでいたいのだろうか。それとも、もっと近しい友人のような関係になりたいのだろうか。あるいは、春風と南のような、なにも言わなくともわかり合えるような存在に。
 それとも、もっと違う方向に舵を切りたいのだろうか。だが、切った結果、すべてを失うかもしれない。この居心地の良い、暖かな場所を。いや。
 みっともない笑顔を消すために、コップの中身をぐいと呷る。
 そうしてから、時東はもう一度笑みを浮かべた。曖昧なものではない、今までどおりの笑顔になっていると信じて。
「南さん。なんかちょうだい。今日はなにがあるの?」
 失うくらいなら、このままでいいのかもしれない。今の関係に、自分はなんの不満があるというのだろう。傷ついてもいいと思ったけれど、やはり、ここを失うことは嫌だった。
 ようやく見つけた落ち着くことのできる場所なのだ。それを自分の間違った選択で、失いたくはない。
 言い聞かせ、時東は我儘な子どもを演じてみせた。そうであるうちは、この人は自分を放り出さないだろうから。
 うまいはずの酒の味は、なんだかもうよくわからなかった。