新しい環境というのはどうしても緊張する。
 進学した学校での入学式やクラス替え、部活の新入生挨拶、バイトの初出勤日とか何度経験しても慣れるものではない。特に今はゴールデンウイーク明けという中途半端な時期だ。四月の始業式ではなくその一か月も遅い。しかも高校二年生で、ネットワークもできているところへ入って行かなくてはいけないプレッシャーが俺の足を重くさせる。
 そもそもの始まりは始業式の日。
 俺の元々通っている三崎学園と、これから通う弥奈咲学園は国内の姉妹校的な関係で、年に一回二年生が数人ずつお互いの学校へ編入する『交換交流』というものをやっている。正直あんまり意味のわからないイベントで生徒からも煙たがられるのが実情だ。期間は三か月ほどとそこまで長くはないが、その間知らない環境に放り出される上に新しい環境で新しいコミュニティを作らなければならないため、どんなに陽気な人でも敬遠する。そんな人気のないイベントだ。
 そしてあの日も長ったるい式が終わった後のホームルームで交換交流の参加者の募集があった。先生の「誰かやりたい人いないか?」の声に誰も手を挙げる人がいるはずもなく、シーンと静まり返る。毎年のことだから先生も慣れていて、特に言われることはなかった。俺も交換交流はゴメンだった。だけどプリントに書かれていることを見て、俺は行くことを決めた。
 まず現れることのない立候補者にクラスの奴らはもちろん先生も驚いていた。けど、プリントに書かれていることは俺には魅力的に映り、未知へ行くには十分すぎる内容だった。
 そしてゴールデンウイーク明けから夏休み前までの期間俺は地元を離れてまで慣れない環境へ足を踏み入れた。
 だけど、どんなに緊張していても一歩ずつ進めば目的地にはつく。学校が用意してくれたアパートから徒歩10分にある学校の門を潜った。出発前に登校初日は職員室へ行くようにと言われていたので、案内図を見てから向かった。
 校舎は比較的新しい感じを受ける。新築特有の匂いがまだわずかに漂っていた。
 職員室のドアの前で長い深呼吸をして、ゆっくりドアを開けた。
「失礼します。三崎学園から交換交流できました。明石星夜です」
 もうすぐ朝のホームルームが始まるギリギリの時間だったから、室内は少し慌ただしかった。一旦は俺の方を一度見たあと自分の作業に戻るが、一人だけ、若い女性の先生が俺の方に来た。
「明石星夜君ね。遠いところからありがとう。私は明石君の編入するクラスの担任の金谷みずほです。弥奈咲学園へようこそ」
 見た目のイメージとは違った、包み込むような優しい声が頭に響いてきた。茶色に近い赤い髪をポニーテールにで結び、同じ学生として出会ってたら躊躇なく男子と野球とかしてそうな元気っ娘って印象だったからギャップが大きくて少し混乱しそうになった。
「もう少しで準備が終わるから、外で待っててくれるかな?」
「でしたらトイレを済ませておきますね」
「わかったわ。場所はわかる?」
「はい」
 この後は自己紹介というコミュニティ形成のための重要なイベントを控えている。ほんの一瞬だけど、その一瞬でたった三か月といえどこれからの学校生活が決まると言ってもいい。そんな時にトイレに行きたくなるなんてアウトだ。そうならないために事前に済ませ、決戦に備えた。
『やっぱりお前かー!!』
 手を洗っているときに低くてドスの効いた怒鳴り声が聞こえてきた。ハンカチで手を拭いてドアを恐る恐る開けるけど、階段には誰もいなかった。結局なんなのかわからなかったがちょうどチャイムがなったから急いで出て職員室に戻るために廊下に入った。
 はずなのに俺は足ではなく背中を地面につけた。そして背中には痛みが走る。さらに背中の何か所かに柔らかいものが当たり、それが勢いよく押しつぶされたから、その部分に激痛が走った。
「痛ってー!!」
 思わず大声を上げてしまった。起き上がろうと地面に手を置くとスーパーボールらしき球体があちこちに廊下一面に散らばっていた。
「明石君、大丈夫!?」
 俺の声を聞いたのか金谷先生が職員室から飛び出してきた。倒れている俺を見ると慌ててこっちに駆け寄ろうとしたが、下に散らばっている球体を見落としていたのか、それを思いっきり踏み抜いて先生は宙を舞った。
「キャー!?」
 先生の悲鳴がした直後にドシンという衝撃音が廊下に響いた。少し間があったが俺も慌てて起き上がり、球体に気をつけながら先生に駆け寄ったが、目の前の光景に逆に動けなくなった。
 先生のスカートが思いっきりめくれてしまい、可愛い刺繍の入った水色の三角形の布が1ミリも隠れることなく顔を出していた。
 我に戻った俺は見ないように後ろを向いたけど、その様子に先生も気づいたようでバサっという音が後ろから聞こえた。
「見、見た……わよね?」
 後ろから恐る恐るといった感じのトーンで聞かれた。
「……ごめんなさい」
 流石にこの状況はどうあがいても誤魔化せないので素直に謝った。
「……フフフフフフフフ」
「せ、先生!!」
 急に笑いだしたから思わず振り返ってしまった。ちゃんとスカートは直って目のやり場に困らなかったけど、うつむきながら美人が魔女のような笑いをしているのはすごく不気味だ。
 そしてゆらっと顔をあげた。
「大丈夫よ、明石君は何も悪くないわ。それに素直に認めて謝ってくれたじゃない。だから許すから、安心して」
「は、はい」
 と、顔の半分に黒い影がありそうなすごくいい笑顔で俺を諭した。けど瞳の奥にオレンジではなく青い炎を灯っている幻影が見えたのは気のせいであると思いたい。
「こんなことする子に心当たりがあるわ。誰にせよ、人を転ばせる危ないことする子には”お話”しなくちゃね。さ、教室に行きましょう」
 先生の怒りのオーラにただ頷くことしかできなかった。一旦保健室に向かい、軽く診察を受けてから教室へ向かった。