人は案外、壊れやすい。
そのことを知ったのは、小学校の卒業を控えた三月のことだった。
全国小学生テニス選手権と書かれた大きな垂れ幕が、遠くの方で見えていたのを覚えている。
俺は緊張に肩を強張らせて後部座席に座っていた。水筒の中身はもう半分になっている。そのせいでトイレに行きたいそわそわとした思いが、余計にプレッシャーを増幅させた。
「いいか、一回戦の対戦相手は関西大会のベスト4らしい。いつも通り、丁寧に粘り強くラリーを続ければ、勝てるからな。ネットプレイだけは慎重に行けよ。あと、ファーストサーブは出来るだけ左右に振っていくんだ。分かったな?」
運転席に座る父親がやけに熱を持って語る。
テニススクールではもちろんコーチがいるけれど、父親も俺にとってはそのコーチの一人だった。幼い頃から熱心になってくれていたし、テニスの経験は無いのに何冊も参考書を買っては読み込んで、俺にアウトプットしてくれる。
だから、俺は父親の言葉に確かな自信が湧いたし、いくらか貧乏ゆすりが和らいだ。
小学生最後にして、ようやく掴んだ全国大会への切符だ。惜しくも東海大会で敗退した笠木の分も、俺が頑張らないといけない。
幼いながらにそんな使命感も勝手に抱えていた。
「怪我だけはしちゃ駄目よ?」
助手席の母親が、俺よりも落ち着きのない様子で振り向く。
「大丈夫だって。今まで怪我したことねーじゃん」
「そんなこと言ったって、心配なものは心配なのよ」
「もー、うるさいな。そんなことより、ちゃんと応援してよね」
口うるさい母親から目を離すように窓の外を見る。
あれ、おかしいな。
咄嗟に感じた。
刹那、横殴りの衝撃に身体がドアに叩きつけられる。シートベルトをしていなかったせいで、カーマットに転がり落ちた。
何が起きたのか分からなかった。ただ、ドアに打ち付けた左肩が燃えるように悲鳴を上げている。声も出ずに、ただ涙を浮かべてえずくことしか出来ない。
やがて、無音だった世界に喧騒が浮かび上がった。誰かの悲鳴と、うるさいクラクション。雑踏がノイズとなって頭の中を駆け巡る。
痛みに染まりそうな思考の片隅で、大会はどうなるんだろうと考えている自分がいた。その思いも、病院に運ばれて検査を受けている時に消えることになった。だって、もうどう考えても間に合わない。それどころか、自分の試合時間なんてとっくに過ぎているかもしれない。
痛み止めを打たれ、眠りについた。
夢の中でも、テニスをしていた。だって、今日試合に出られなかったんだから、仕方がない。
目が覚めて、現実を知った。
大会はもちろん不戦敗になったこと。
父親は軽傷だったこと。
まるで物語のような居眠り事故だったこと。
そして、母親が亡くなったこと。
テニスを辞めるには十分な理由だった。
だって、俺が全国大会なんかに出なければ、母親が死ぬことは無かった。
父親が鬱病になって、仕事を失うこともなかった。
それでも中学でテニス部に入ったのは、部活が強制だったし、何より俺が今までテニス以外に何もやってこなかったからだ。
もちろん、最初は他の運動部を試した。でも、やっぱり気が付けばラケットの上で蛍光色のボールを転がしていた。
それまで学業以外のほぼ全てを注いで来てしまった弊害だ。
母親を奪った根源なのに、止められない。俺はとても薄情な人間だ。自分を貶めることで、テニスをすることを正当化した。
そんな裏切りにも近いことをしてまでテニスを続けたというのに、熱意だけはあの日に置き去りにしてきてしまったらしい。続けるほどに、つまらなくなっていく。試合に勝つのが、怖くなった。
なんで好きだったのか、もうやめてくれと懇願する父親を振り切ってまで続けているのか、分からない。
同時に才能という越えられない壁に直面した。
俺は上手い。そこら辺の奴らとは違う。そう思い描いていた鼻っ面は、あの事故によってへし折られたのだ。
冷静になって俯瞰的に見れるようになった。俺に才能なんてものはない。
でも、それで良かった。もし、また勝ち進んでしまったら、同じことが起こり得るかもしれない。また、大事な人を失ってしまうかもしれない。
練習を度々サボるようになった。努力するのが怖かったから。もし自分の中に知らない才能が眠っていたら、それを呼び起こすのは至極恐ろしいことだ。
一度、父親に殴られた。痛みよりも驚きが勝った。
そして、呆然と倒れ込む俺に猟奇じみた面を向けて、言い放ったのだ。
「父さんが、お前が、母さんを殺したんだ! ――この人殺し……!」
傷つきはしなかった。だって、父親は明らかに病気だったし、第一そんなことをわざわざ言われなくても十分に理解していたのだから。
一度狂った歯車は元には戻らない。
後日、泣いて謝る父親を俺は突き放した。
今思えば、俺も少しどうかしていたんだと思う。
そのことを知ったのは、小学校の卒業を控えた三月のことだった。
全国小学生テニス選手権と書かれた大きな垂れ幕が、遠くの方で見えていたのを覚えている。
俺は緊張に肩を強張らせて後部座席に座っていた。水筒の中身はもう半分になっている。そのせいでトイレに行きたいそわそわとした思いが、余計にプレッシャーを増幅させた。
「いいか、一回戦の対戦相手は関西大会のベスト4らしい。いつも通り、丁寧に粘り強くラリーを続ければ、勝てるからな。ネットプレイだけは慎重に行けよ。あと、ファーストサーブは出来るだけ左右に振っていくんだ。分かったな?」
運転席に座る父親がやけに熱を持って語る。
テニススクールではもちろんコーチがいるけれど、父親も俺にとってはそのコーチの一人だった。幼い頃から熱心になってくれていたし、テニスの経験は無いのに何冊も参考書を買っては読み込んで、俺にアウトプットしてくれる。
だから、俺は父親の言葉に確かな自信が湧いたし、いくらか貧乏ゆすりが和らいだ。
小学生最後にして、ようやく掴んだ全国大会への切符だ。惜しくも東海大会で敗退した笠木の分も、俺が頑張らないといけない。
幼いながらにそんな使命感も勝手に抱えていた。
「怪我だけはしちゃ駄目よ?」
助手席の母親が、俺よりも落ち着きのない様子で振り向く。
「大丈夫だって。今まで怪我したことねーじゃん」
「そんなこと言ったって、心配なものは心配なのよ」
「もー、うるさいな。そんなことより、ちゃんと応援してよね」
口うるさい母親から目を離すように窓の外を見る。
あれ、おかしいな。
咄嗟に感じた。
刹那、横殴りの衝撃に身体がドアに叩きつけられる。シートベルトをしていなかったせいで、カーマットに転がり落ちた。
何が起きたのか分からなかった。ただ、ドアに打ち付けた左肩が燃えるように悲鳴を上げている。声も出ずに、ただ涙を浮かべてえずくことしか出来ない。
やがて、無音だった世界に喧騒が浮かび上がった。誰かの悲鳴と、うるさいクラクション。雑踏がノイズとなって頭の中を駆け巡る。
痛みに染まりそうな思考の片隅で、大会はどうなるんだろうと考えている自分がいた。その思いも、病院に運ばれて検査を受けている時に消えることになった。だって、もうどう考えても間に合わない。それどころか、自分の試合時間なんてとっくに過ぎているかもしれない。
痛み止めを打たれ、眠りについた。
夢の中でも、テニスをしていた。だって、今日試合に出られなかったんだから、仕方がない。
目が覚めて、現実を知った。
大会はもちろん不戦敗になったこと。
父親は軽傷だったこと。
まるで物語のような居眠り事故だったこと。
そして、母親が亡くなったこと。
テニスを辞めるには十分な理由だった。
だって、俺が全国大会なんかに出なければ、母親が死ぬことは無かった。
父親が鬱病になって、仕事を失うこともなかった。
それでも中学でテニス部に入ったのは、部活が強制だったし、何より俺が今までテニス以外に何もやってこなかったからだ。
もちろん、最初は他の運動部を試した。でも、やっぱり気が付けばラケットの上で蛍光色のボールを転がしていた。
それまで学業以外のほぼ全てを注いで来てしまった弊害だ。
母親を奪った根源なのに、止められない。俺はとても薄情な人間だ。自分を貶めることで、テニスをすることを正当化した。
そんな裏切りにも近いことをしてまでテニスを続けたというのに、熱意だけはあの日に置き去りにしてきてしまったらしい。続けるほどに、つまらなくなっていく。試合に勝つのが、怖くなった。
なんで好きだったのか、もうやめてくれと懇願する父親を振り切ってまで続けているのか、分からない。
同時に才能という越えられない壁に直面した。
俺は上手い。そこら辺の奴らとは違う。そう思い描いていた鼻っ面は、あの事故によってへし折られたのだ。
冷静になって俯瞰的に見れるようになった。俺に才能なんてものはない。
でも、それで良かった。もし、また勝ち進んでしまったら、同じことが起こり得るかもしれない。また、大事な人を失ってしまうかもしれない。
練習を度々サボるようになった。努力するのが怖かったから。もし自分の中に知らない才能が眠っていたら、それを呼び起こすのは至極恐ろしいことだ。
一度、父親に殴られた。痛みよりも驚きが勝った。
そして、呆然と倒れ込む俺に猟奇じみた面を向けて、言い放ったのだ。
「父さんが、お前が、母さんを殺したんだ! ――この人殺し……!」
傷つきはしなかった。だって、父親は明らかに病気だったし、第一そんなことをわざわざ言われなくても十分に理解していたのだから。
一度狂った歯車は元には戻らない。
後日、泣いて謝る父親を俺は突き放した。
今思えば、俺も少しどうかしていたんだと思う。