もちろん、医者にも完治宣言をされた。これで受診料が取られるのは正直納得がいかない。せめて、湿布を買い叩いてやろうと思い、まだ痛い気がするとごねてみたものの、ちゃんと治ってるよとあっけなく一蹴されてしまった。
ぼんやりとスマホを眺める。偶然にも、バイトまで三時間だ。
他の場所よりも一段暗い階段に下り足をかけ、悩む。短い葛藤の後、俺は身を翻して階段を上った。
別にトイレに行きたかっただけだ。
相変わらず、そこは天井の蛍光灯がくりぬかれ、地下駐車場のような暗さに包まれていた。トイレのドアに手をかけ、後ろを一瞥する。今日はぴったりとドアが閉まっていた。
別にいいんだけどさ。
そんな訳の分からないことを胸の内で呟く。
気配はあっただろうか。物音なんかはしなかったし、よく分からない。
「――うおっ!?」
トイレを出て、俺は思わず一歩後ろに跳ね退いた。パブリックの手すりにぶつけたわき腹がずんと痛みを帯びる。
正面の病室のドアが半開きになり、そこから二つの瞳がこちらを見ていた。
「脅かすなよ……」
浮かぶ双眸がやんわりとほころぶ。ドアががらりと開き、いつかの如く彼女が半身で姿を見せる。
「こんにちは、日影くん」
そう言うと、彼女はそそくさと部屋の奥へと駆けていき、窓際のサイドランプに明かりを点した。しかし、部屋に入ろうとした瞬間、「ちょっと待ってください!」と彼女が制する。
「……なんだ勘違いかよ。じゃあな」
もやっとした感情に蓋をして踵を返す。
「あー! 違います、違いますよ!?」
背負ったテニスバックがぐいっと引っ張られる。
一体、何だってんだ。
無言で目を向けると、彼女は手に持った二つ折りのミニ財布から千円札を取り出して俺に差し出した。
「アイス、買ってきてください。ハーゲンのイチゴ味でお願いします」
あっけに取られる俺の手を彼女がつかみ、強引に千円札を握らせる。
「なんで俺が買ってこなきゃいけないんだよ」
考えも無しに、口を衝いていた。しかし、同時に彼女では買いに行けないということに気が付く。だから、彼女の返事を待たずに歩き出した。
「あっ、ちゃんと二人分買ってきてくださいね」
背後から聞こえる彼女の言葉に返事はしなかった。
売店は病院の一階に店舗を構えていた。四階の病室までの往復は億劫だ。雨に降られながら他人の試合を観戦するのに比べたら、随分とマシだけど。
彼女の要望した物は最後の一つだった。もし無かったら、代理で味を決めるセンスに悩むところだった。
「ほれ、買ってきたぞ」
お釣りと共に袋ごとベッドに座る彼女に渡す。
正直、病院内は暑くない。それに彼女の病室は個室ということもあって、クーラーが効いている。俺の家に比べたらだいぶ設定温度が低いから寒いくらいだ。
「ありがとうございます。いつぶりでしょうか。よ、よだれが垂れそうです」
心なしか息の荒い彼女を見るに、本当に久しぶりなのだろう。だからこそ、俺は慌てて彼女からコンビニ袋を奪い取った。
「な、なにするんですかー!」
必死に手を伸ばす彼女の腕を掴む。細すぎて、ほとんど触れるだけにとどめた。簡単に折れてしまいそうで怖い。
「まさか、医者に止められてたりしないよな」
だって、アイスくらいいつだって食べようと思えば、食べれるはずだ。それが久々と言われれば、食事制限を受けていると考えてしまう。
彼女にも俺の思惑が伝わったか、「なるほど、」と呟いて力を緩めた。
「食事に関しては制限は受けてませんよ。ただ、母がちょっと過敏でして。普段は買ってもらえないんですよ。わざわざ看護師さんにまで言いつけていて……。だから、日影くんが買ってきてくれて助かりました」
「……本当だろうな」
「もちろんです。私、嘘つかないので」
最後の一言は甚だ疑わしいが、観念して袋を彼女に返す。嬉しそうにアイスを取り出す様子は、まるで餌を貰った子犬みたいだ。口に出したら怒りそうだから心の内にしまっておくことにしよう。
「日影くんは私と同じものではないのですね」
彼女が青いパッケージの棒アイスを取り出して、俺に差し出す。それを受け取り、返事をするわけでも無く合掌袋の包みを開ける。
「味濃いの嫌いなんだよ」
別に嘘じゃない。濃厚を売りにするバニラ系のアイスは食べたところで、いつまでも口の中に味が残るし、喉が渇く。アイス食って、渇きを感じてたら訳が分からない。
「あれ……? いくら日影くんのアイスが安いやつだからって、お釣り多くありませんか?」
知らん顔で青いそれを一口かじる。細かな氷の粒が口の中で音を立てた。彼女の視線が痛い。
「早くしないと溶けるぞ」
彼女は手元のカップアイスと俺を交互に見比べる。どちらを優先しようか揺れ悩んでいるようだ。
わざわざ促したというのに、律義な性格だ。
「それ、日影くんのお金で買いました?」
「当たり前だろ」
「二人分と言ったのはそういう意味ではないのに……」
そして彼女は「一応、」と前置き、百円玉を俺に差し向ける。もちろん、シカトした。ややあって、彼女は観念したのか不服そうな息を吐き、その手を引っ込める。
仄暗い中で食べるアイスはちょっともったいなく感じた。真夏の陽射しを受けながら食べたら、きっともっと美味しいのに。心底、幸せそうにちまちまとアイスを口に運ぶ彼女をぼんやりと眺めて思う。
「一口どうぞ」
物思いに更ける最中、彼女が不意にこちらを見る。
「苦手だって言っただろ」
「あれ、食べたいから見てたのではないのですか。でも、私がそちらも食べたいので。シェアハピです」
それならそうと言えば、いくらでもくれてやるのに。でも、彼女の性格柄、一方的な施しは望まないのだろう。
ずいっと差し出したスプーンから溶けたアイスが零れそうになるのを見て、俺は諦めた。
「それ、死語だろ」
悪態をつきながらスプーンを噛む勢いで口に含む。やっぱり、そんなに好みじゃなかった。
彼女は空いたスプーンを暫し眺める。
「……間接キス」
思わず肩をすくめた。
「そんなの気にするような歳じゃねえから」
「ふむむ、面白くないですねぇ」
彼女が俺の腕を掴み、ぐいっと引っ張る。そして、そのまま大きく口を開けて青い塊にかぶりついた。さっきまでハムスターみたいにちょっとずつ自分のを食べていたくせに。
だんだんと彼女のお淑やかさが剥げてきている。
こっちの方が話しやすいから、別にいいんだけどさ。
「そもそも、俺は蛍琉みたいな女はタイプじゃねーよ」
「こらぁ! デリカシー!」
まあ、今みたいなむくれっ面はきっと多くの人に刺さるのではないだろうか。残念ながら、そんな機会はそう訪れないのかもしれないけれど。
ズボンの中でスマホが震える。さっきから、三度目だ。
「出たらどうですか?」
彼女が上目で俺を見ていた。そんなあざとい風にしたって無駄だ。負けず嫌い精神が透けて余計に白ける。
「いいよ、どうせ後輩からだから」
「それは尚更ではありませんか。友人関係は大事にするべきです」
彼女が言うとどうしても含みがあるように感じてしまうのは、俺が深読みし過ぎているだけだろうか。訊けるはずもなく、俺は薄暗い中を立ち上がる。
病室を出て、スマホを取り出す。案の定、笠木からの勝利報告だった。しかし、こちらが返信をするまで五分置きに送って来るのは頂けない。
ナイス! の文字が描かれたスタンプを送り、画面を消す。
戻ると、彼女は浅い暗闇から俺を見つめ、片微笑んでいた。
「……何だよ」
「いえ、なかなかどうして察しも良いし、気遣いのできる方だなと思いまして」
「はぁ? 悪いが、俺は他人の考えてることを察するのが苦手だ。そう感じたなら、きっと勘違いだよ」
それに気遣いが出来るのはそっちの方だろ。
「まあ、そういうことにしておきましょう。飾らないのは美徳ですからね」
一体、彼女の中で俺はどんな印象になっているのやら。過度に期待されると、ろくなことにならない。短い人生の経験上、俺はそう確信付けているのだから。
ぼんやりとスマホを眺める。偶然にも、バイトまで三時間だ。
他の場所よりも一段暗い階段に下り足をかけ、悩む。短い葛藤の後、俺は身を翻して階段を上った。
別にトイレに行きたかっただけだ。
相変わらず、そこは天井の蛍光灯がくりぬかれ、地下駐車場のような暗さに包まれていた。トイレのドアに手をかけ、後ろを一瞥する。今日はぴったりとドアが閉まっていた。
別にいいんだけどさ。
そんな訳の分からないことを胸の内で呟く。
気配はあっただろうか。物音なんかはしなかったし、よく分からない。
「――うおっ!?」
トイレを出て、俺は思わず一歩後ろに跳ね退いた。パブリックの手すりにぶつけたわき腹がずんと痛みを帯びる。
正面の病室のドアが半開きになり、そこから二つの瞳がこちらを見ていた。
「脅かすなよ……」
浮かぶ双眸がやんわりとほころぶ。ドアががらりと開き、いつかの如く彼女が半身で姿を見せる。
「こんにちは、日影くん」
そう言うと、彼女はそそくさと部屋の奥へと駆けていき、窓際のサイドランプに明かりを点した。しかし、部屋に入ろうとした瞬間、「ちょっと待ってください!」と彼女が制する。
「……なんだ勘違いかよ。じゃあな」
もやっとした感情に蓋をして踵を返す。
「あー! 違います、違いますよ!?」
背負ったテニスバックがぐいっと引っ張られる。
一体、何だってんだ。
無言で目を向けると、彼女は手に持った二つ折りのミニ財布から千円札を取り出して俺に差し出した。
「アイス、買ってきてください。ハーゲンのイチゴ味でお願いします」
あっけに取られる俺の手を彼女がつかみ、強引に千円札を握らせる。
「なんで俺が買ってこなきゃいけないんだよ」
考えも無しに、口を衝いていた。しかし、同時に彼女では買いに行けないということに気が付く。だから、彼女の返事を待たずに歩き出した。
「あっ、ちゃんと二人分買ってきてくださいね」
背後から聞こえる彼女の言葉に返事はしなかった。
売店は病院の一階に店舗を構えていた。四階の病室までの往復は億劫だ。雨に降られながら他人の試合を観戦するのに比べたら、随分とマシだけど。
彼女の要望した物は最後の一つだった。もし無かったら、代理で味を決めるセンスに悩むところだった。
「ほれ、買ってきたぞ」
お釣りと共に袋ごとベッドに座る彼女に渡す。
正直、病院内は暑くない。それに彼女の病室は個室ということもあって、クーラーが効いている。俺の家に比べたらだいぶ設定温度が低いから寒いくらいだ。
「ありがとうございます。いつぶりでしょうか。よ、よだれが垂れそうです」
心なしか息の荒い彼女を見るに、本当に久しぶりなのだろう。だからこそ、俺は慌てて彼女からコンビニ袋を奪い取った。
「な、なにするんですかー!」
必死に手を伸ばす彼女の腕を掴む。細すぎて、ほとんど触れるだけにとどめた。簡単に折れてしまいそうで怖い。
「まさか、医者に止められてたりしないよな」
だって、アイスくらいいつだって食べようと思えば、食べれるはずだ。それが久々と言われれば、食事制限を受けていると考えてしまう。
彼女にも俺の思惑が伝わったか、「なるほど、」と呟いて力を緩めた。
「食事に関しては制限は受けてませんよ。ただ、母がちょっと過敏でして。普段は買ってもらえないんですよ。わざわざ看護師さんにまで言いつけていて……。だから、日影くんが買ってきてくれて助かりました」
「……本当だろうな」
「もちろんです。私、嘘つかないので」
最後の一言は甚だ疑わしいが、観念して袋を彼女に返す。嬉しそうにアイスを取り出す様子は、まるで餌を貰った子犬みたいだ。口に出したら怒りそうだから心の内にしまっておくことにしよう。
「日影くんは私と同じものではないのですね」
彼女が青いパッケージの棒アイスを取り出して、俺に差し出す。それを受け取り、返事をするわけでも無く合掌袋の包みを開ける。
「味濃いの嫌いなんだよ」
別に嘘じゃない。濃厚を売りにするバニラ系のアイスは食べたところで、いつまでも口の中に味が残るし、喉が渇く。アイス食って、渇きを感じてたら訳が分からない。
「あれ……? いくら日影くんのアイスが安いやつだからって、お釣り多くありませんか?」
知らん顔で青いそれを一口かじる。細かな氷の粒が口の中で音を立てた。彼女の視線が痛い。
「早くしないと溶けるぞ」
彼女は手元のカップアイスと俺を交互に見比べる。どちらを優先しようか揺れ悩んでいるようだ。
わざわざ促したというのに、律義な性格だ。
「それ、日影くんのお金で買いました?」
「当たり前だろ」
「二人分と言ったのはそういう意味ではないのに……」
そして彼女は「一応、」と前置き、百円玉を俺に差し向ける。もちろん、シカトした。ややあって、彼女は観念したのか不服そうな息を吐き、その手を引っ込める。
仄暗い中で食べるアイスはちょっともったいなく感じた。真夏の陽射しを受けながら食べたら、きっともっと美味しいのに。心底、幸せそうにちまちまとアイスを口に運ぶ彼女をぼんやりと眺めて思う。
「一口どうぞ」
物思いに更ける最中、彼女が不意にこちらを見る。
「苦手だって言っただろ」
「あれ、食べたいから見てたのではないのですか。でも、私がそちらも食べたいので。シェアハピです」
それならそうと言えば、いくらでもくれてやるのに。でも、彼女の性格柄、一方的な施しは望まないのだろう。
ずいっと差し出したスプーンから溶けたアイスが零れそうになるのを見て、俺は諦めた。
「それ、死語だろ」
悪態をつきながらスプーンを噛む勢いで口に含む。やっぱり、そんなに好みじゃなかった。
彼女は空いたスプーンを暫し眺める。
「……間接キス」
思わず肩をすくめた。
「そんなの気にするような歳じゃねえから」
「ふむむ、面白くないですねぇ」
彼女が俺の腕を掴み、ぐいっと引っ張る。そして、そのまま大きく口を開けて青い塊にかぶりついた。さっきまでハムスターみたいにちょっとずつ自分のを食べていたくせに。
だんだんと彼女のお淑やかさが剥げてきている。
こっちの方が話しやすいから、別にいいんだけどさ。
「そもそも、俺は蛍琉みたいな女はタイプじゃねーよ」
「こらぁ! デリカシー!」
まあ、今みたいなむくれっ面はきっと多くの人に刺さるのではないだろうか。残念ながら、そんな機会はそう訪れないのかもしれないけれど。
ズボンの中でスマホが震える。さっきから、三度目だ。
「出たらどうですか?」
彼女が上目で俺を見ていた。そんなあざとい風にしたって無駄だ。負けず嫌い精神が透けて余計に白ける。
「いいよ、どうせ後輩からだから」
「それは尚更ではありませんか。友人関係は大事にするべきです」
彼女が言うとどうしても含みがあるように感じてしまうのは、俺が深読みし過ぎているだけだろうか。訊けるはずもなく、俺は薄暗い中を立ち上がる。
病室を出て、スマホを取り出す。案の定、笠木からの勝利報告だった。しかし、こちらが返信をするまで五分置きに送って来るのは頂けない。
ナイス! の文字が描かれたスタンプを送り、画面を消す。
戻ると、彼女は浅い暗闇から俺を見つめ、片微笑んでいた。
「……何だよ」
「いえ、なかなかどうして察しも良いし、気遣いのできる方だなと思いまして」
「はぁ? 悪いが、俺は他人の考えてることを察するのが苦手だ。そう感じたなら、きっと勘違いだよ」
それに気遣いが出来るのはそっちの方だろ。
「まあ、そういうことにしておきましょう。飾らないのは美徳ですからね」
一体、彼女の中で俺はどんな印象になっているのやら。過度に期待されると、ろくなことにならない。短い人生の経験上、俺はそう確信付けているのだから。