まるで張り詰めていた糸が音もなく千切れたように、余命を俺に告げた彼女はみるみるうちに体調を崩していった。
 今まで、明かりにさえ気を付けていれば大丈夫。そう思っていたどこまでも楽観的な思いに、今さら後悔が募る。俺が悔いたところで、何も変わったりしないのに。

 桜の花びらが散り、新緑が山々に見え始めた頃、彼女はずっと点滴管を刺し、ベッドで寝たきりになった。目を開けるのもしんどいような高熱に一日中苦しめられ続けていた。

 それでも、彼女は俺が来ると嬉しそうに笑顔を零す。辛い顔一つしないで、明かる気に話す様を見るのはこっちが辛かった。

「無理に喋らなくてもいいんだぞ……?」

「そんなんじゃありません。私が日影くんとお話がしたいんです! 今日だって、独りの間にずっと何話そうかなって楽しみに待っていたんですから」

 額にじんわりと汗を滲ませ、彼女がふくれっ面で俺を見上げる。

「悪い……」

 タオルで彼女の汗を拭う。そんな些細なことですら、彼女は嬉しそうにしてくれる。
 無意識に自分の後頭部を掻いていた。やっぱり、この癖は治らない。

「そうですよ。私の今一番の楽しみを日影くんが奪わないでください」

 そう言われてしまうと、俺は弱い。だけど、俺から口を開けば情けないことを言ってしまいそうで、自分からは話せなかった。
 ふとした瞬間に崩れそうになる。ぐらついた地面が今にも崩壊して、落ちてしまいそうだ。母親の死を経験していなかったら、当の昔に俺も彼女の母親のようになってしまっていたのかもしれない。

 彼女が俺のことをじっと見つめる。

「最近、制服のネクタイしてますね」

「あ、あぁ……。何となく、な……」

「日影くんにネクタイはあんまり似合いませんね」

 にこにこと意地悪そうに彼女が言う。

「うるせーな、自分でも分かってんだよ」

 急に恥ずかしくなって、ネクタイの首を緩める。

「やっぱり、私は日影くんのユニフォーム姿が一番好きですよ」

 ずくんと胸に鈍痛が走る。
 俺が言葉に詰まったせいで訪れたわずかな沈黙に、自分で落ちてしまった。
 あっ、駄目だ……。そう思った時には、もう言葉が口を衝いて出てしまっていた。

「いや、おかしいだろ……」

 震える自分の声に喉が余計狭まる。唾を飲み込もうにも上手くできなくて、舌が口内をもがいていた。

「何がです?」

「俺だって、もっと蛍琉に見せてやりてえよ。今はすっげぇ下手くそになったけど、それでもテニスしてる姿が好きだって言うのなら、いくらでも見せるのに……」

 でも、それを彼女の身体は許さない。病が、全力で阻んでいる。まるでこうなる運命だと、悪魔が微笑んでいるみたいだ。
 彼女はふと俺から目を離し、暗い天井を見つめた。手を伸ばし、足をぱたぱたと動かす。

「私は恵まれていますよ」

「どこがだよ……。何も悪くないのにこんな目にあっているのに……」

 彼女が重たそうに身体を起こす。ぐらりと傾く身体をとっさに支える。軽い、吹けば飛んでしまいそうな身体だ。

「お、おい、無理すんなよ」

「私と似たような病気に日光に当たれない難病があります」

 やっぱり、彼女は手足をせわしなく動かし続けていた。

「その病気は紫外線を浴びれないんです。だから、室内であれば明るいところも平気なんですよ。ただ、私と同じように大人になることは難しいそうです」

「なら、蛍琉の方が辛いだろ……」

「そうでもないんです。私は未だにこうして日影くんと会話をしていますし、身体だって動かせます。しかし、その病気は若いうちに難聴になり、十五歳頃には言語障害を起こしてしまうそうです。つまり、こうして日影くんと話すことも出来なくなってしまうんです」

「でも……」

 それでも、やっぱり健常者と比べると彼女を襲う運命は悲劇だ。そもそも、何かと比べるのが間違っている。
 誰がどう見たって、彼女は可哀そうなんだ。こんな暗い場所に閉じ込められて、ゆっくりと死の気配を感じ続けるなんてどうかしている。間違っているとするなら、彼女をこんな境遇に陥れた運命の方だ。

「私はちゃんと日影くんの声が聞こえますよ。だから、笑ってください。大きな声で、私の鼓膜を存分に揺らしてください」

「……出来っこねえよ」

「それは残念ですね」

 代わりに彼女がけらけらと声を立てて笑う。何も面白いことなんて無いのに、すごく楽しそうだった。暗闇の中で、彼女の笑みが輝いていた。

「そうだ、今が難しいのなら、私のお葬式で笑ってください。絶対、泣いたりしちゃ駄目ですよ? 日影くんってば、こんな見た目で随分打たれ弱いですからね」

 ずっと、胸が痛い。ずたずたに切り裂かれ続けている気分だ。鈍く覚える頭痛も、やけに鐘の音を響かせている。

「縁起でもないこと言うなよ……」

「では、もう言わないので約束してください。私のお葬式で悲しい空気をぶち壊す程の大声での笑顔を」

 言葉に出来なかった。したら、現実になってしまいそうで。だから、彼女が差し出した小指に、恐る恐る指を絡めた。

「針千本飲まないでくださいね」

 彼女の想いが、小指を伝って俺の中に流れ込んでくる。

「練習しとかねえとな……。なんせ、大声を上げて笑ったことなんてねえからよ」

 彼女は満足そうに再び横になった。気丈に振る舞っているのか、自分の身体の事を分かっていないのか、どちらにせよ彼女の身体が悲鳴を上げていることは確かだ。
 息が上がる彼女の手を、俺はずっと握りしめた。

「次は……いつ来てくれますか?」

「毎日来るよ。ちょうど、学校とバイトで一日埋まる日がねえんだ」

 嘘だ。バイトは辞めてしまった。
 そんなことをしている場合じゃない。出来る限り、彼女と一緒にいたかった。彼女が少しでも笑顔になってくれるのなら、俺は何を投げ出したって傍にいたい。
 じゃないと、後悔することは目に見えていた。

「では、明日少し大事なお話をしましょう」

 きゅっと胸が軋んだ音を立てる。
 彼女が話したいことは、まるで予想が付かなかった。ただ、俺と彼女にとって良い話だとは到底思えない。
 乾く唇を軽く噛みしめる。自分の鼓動が、やけに全身に響いている気がした。気を抜けば遠ざかってしまいそうな視界に、一度強く瞬いた。
 現実から目を逸らしては駄目だ。
 そんなこと、分かっている。分かっちゃいるんだ。
 ただ、どうしても頭が付いて行かない。考えることを拒絶している。

 俺がそんなんでどうするんだ……。

「今じゃ駄目なのか……?」

 口にした言葉がわずかに震えていた。
 彼女はゆっくりと目を閉じ、深く呼吸をする。

「私も、覚悟が必要ですから。でも、大丈夫です。明日、絶対にお話しします」

 帰り道、花びらが散った桜の木がやけに憎くて、拳を突き立てた。手の皮が剥け、血がじんわりと滲んだ。
 すごく、すごく痛かった。